晴れのち平安

源氏物語を中心に平安な日々♪
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【PICK UP】三条右大臣 藤原定方(ふじわらのさだかた)とは?

2018年10月06日 | 「PICK UP」から移動
※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2009年)
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藤原高藤と宮道列子のロマンス勧修寺宮道神社ゆかりの人々



 『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
 藤原高藤と宮道列子のロマンスの地


藤原定方 (ふじわらのさだかた)

873年(貞観15年)~932年(承平2年)

平安時代中期の官人。歌人。管弦の名手。
邸宅が三条坊門小路の北面にあったため、三条右大臣と呼ばれる。
歌集『三条右大臣集』を遺す。

父は、藤原高藤
母は、宮道列子。(宮道弥益の娘)


姉または妹である胤子(たねこ・いんし)は宇多天皇の女御で醍醐天皇の生母となる。

定方は子宝に恵まれ、5人の男子と13人の女子が確認されている。

娘のひとり・能子を醍醐天皇の後宮に入内させる。(能子は醍醐天皇崩御後、天皇の同母弟・敦慶親王と交際を経て、藤原実頼の妻となる。)

政治家としてよりも文化人としての功績を遺す。
宇多上皇や醍醐天皇主催の歌合で活躍し、醍醐朝の宮廷歌壇活動に寄与した。

従兄弟で娘婿でもある藤原兼輔、紀貫之や凡河内躬恒とも歌人同士として交流があった。


山科に勧修寺を建立したことから、子孫は「勧修寺流」と呼ばれる。
祖父の宮道弥益と両親、兄弟たちとともに勧修寺の南にある宮道神社に祀られている。



紫式部とその夫・藤原宣孝はともに藤原定方の曾孫にあたる。
また、紫式部が仕えた一条天皇中宮彰子は定方の玄孫である。







三条右大臣の名で歌人として知られる藤原定方。
『百人一首』には以下の歌が撰ばれています。


 名にしおはば 逢坂山の さねかづら
  人に知られで くるよしもがな


    三条右大臣


三条右大臣の歌碑は、宮道神社や逢坂関記念公園<滋賀県大津市>、嵯峨野に建立されています。




定方の子孫にも、『百人一首』に撰ばれた歌人が多いので系図にしてみました。
系図と歌をご覧くださいませ。





 定方の五男・藤原朝忠

 あふことの たえてしなくは なかなかに
  人をも身をも 恨みざらまし


    中納言朝忠



 定方の曾孫世代:紫式部・藤原公任・藤原実方

 めぐりあひて 見しやそれとも 分かぬまに
  雲がくれにし 夜半の月かな


    紫式部


 滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
   名こそ流れて なほ聞こえけれ


    大納言公任


 かくとだに えやはいぶきの さしも草
  さしも知らじな もゆる思ひを


    藤原実方朝臣






 定方の玄孫世代 :藤原賢子(大弐三位)・藤原定頼・藤原道雅

 ありま山 ゐなの笹原 風吹けば
  いでそよ人を 忘れやはする


    大弐三位



 朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに
  あらはれわたる 瀬々の網代木


    権中納言定頼



 今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを
  人づてならで 言ふよしもがな


    左京大夫道雅




【参考】
「平安時代史事典CD-ROM版」 監修:角田文衞/編:(財)古代学協会・古代学研究所/ 発行:角川学芸出版
「今昔物語集 本朝部(中)」編:池上洵一/発行:岩波書店
「カラー 小倉百人一首」  編著:島津忠夫・櫟原聰/発行:京都書店



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【PICK UP】藤原胤子(ふじわらのたねこ・いんし)とは?

2018年10月06日 | 「PICK UP」から移動
※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2009年)
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藤原高藤と宮道列子のロマンス勧修寺宮道神社ゆかりの人々



 『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
 藤原高藤と宮道列子のロマンスの地

藤原胤子 (ふじわらのたねこ・いんし)
876年(貞観18年)~896年(寛平8年)6月30日

贈皇太后藤原胤子。
宇多天皇女御。醍醐天皇の生母。

父は、藤原高藤
母は、宮道列子・・・宮道弥益の娘

同母兄弟に、定国(大納言兼右近衛大将)・定方(右大臣)・満子(尚侍)がいる。

光孝天皇の第七皇子として生まれた源定省(さだみ)と結婚。
長男・源維城(これざね)<のちに親王宣下→敦仁親王→醍醐天皇>を産む。

夫の源定省が皇族に復帰し宇多天皇となり、第一皇子・敦仁親王が皇太子となる。
しかし敦仁親王の即位を見ないまま若くして亡くなる。

宇多天皇との間に、敦仁親王<醍醐天皇>・敦慶親王・敦固親王・敦実親王・柔子内親王をもうけた。
(早世した胤子に代わって、宇多天皇女御藤原温子が養母となる。)


※醍醐天皇・敦慶親王・敦固親王は、父・宇多天皇より先に亡くなった。




『今昔物語集』高藤の内大臣の語において、藤原高藤が山科の宮道弥益の邸宅で一夜の宿をかりた時に宮道列子と結ばれ、胤子を授かったエピソードが記されている。

胤子の祖父・宮道弥益の邸宅を寺に改めたのが現在の勧修寺である。
祖父の宮道弥益と両親、兄弟たちとともに勧修寺の南にある宮道神社に祀られている。






≪胤子の子どもたち≫

 醍醐天皇 (だいごてんのう)
885年(元慶9年)~930年(延長8年)9月29日

宇多天皇の第一皇子。
源維城(これざね)→敦仁親王(あつぎみしんのう)





 敦慶親王 (あつよししんのう)

888年(仁和3年)~930年(延長8年)2月28日

宇多天皇の第四皇子。
中務卿、式部卿 などを歴任。二品に叙される。
管弦詩歌に秀でており、醍醐朝の文化興隆に貢献した。

『源氏物語』の光源氏のモデルの一人。





 敦固親王 (あつかたしんのう)

生年不明~926年(延長4年)12月28日?

宇多天皇の第五皇子。
902年(延喜2年)に元服。
兵部卿。二品に叙される。




 柔子内親王 (よしこないしんのう)

892年(寛平4年)?~959年(天徳3年)正月二日

宇多天皇の第二皇女。
六条斎宮と号する。

897年(寛平9年)、兄の敦仁親王の即位<醍醐天皇>によって、伊勢の斎宮に卜定される。
899年(昌泰2年)9月、伊勢に下る。

兄・醍醐天皇の崩御により、930年(延長8年)斎宮退下。
平安時代の斎宮としては最長の在任期間だった。





 敦実親王 (あつざねしんのう) 

893年(寛平5年)~967年(康保4年)3月2日

宇多天皇の第八皇子。
八条宮、仁和寺宮、六条式部卿宮と呼ばれる。
中務卿、式部卿 などを歴任。一品に叙される。

950年(天暦4年)、出家し仁和寺に住んだ。
法名 覚真。

藤原時平女との間に、源雅信(贈正一位左大臣)・源重信(正二位左大臣)・大僧正寛朝をもうける。

勧修寺大僧正と呼ばれた雅慶も敦実親王の子という。

宇多源氏の祖としては最も子孫が栄えた。

有職に詳しく、音楽の道にも秀でていた。
舞楽「胡蝶」や「延喜楽」の舞の振り付けをしたと伝わる。






【参考】

「平安時代史事典CD-ROM版」 監修:角田文衞/編:(財)古代学協会・古代学研究所/ 発行:角川学芸出版
「今昔物語集 本朝部(中)」編:池上洵一/発行:岩波書店




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