晴れのち平安

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【PICK UP】 水城と大宰府 <福岡県太宰府市> その2

2018年10月11日 | 「PICK UP」から移動
※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2004年)
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現況と異なる部分も含まれていることと思います。ご了承くださいませ。



 水城と大宰府

水城と大宰府その1の続きです。


 大宰府政庁跡
 <都府楼跡(とふろうあと)>



●所在地:福岡県太宰府市観世音寺4丁目
●交通 :太宰府市コミュニティバスまほろば号「大宰府政庁跡」下車
    :西鉄電車「都府楼前」駅下車 徒歩15分



≪「筑紫万葉のふるさと 観光と史跡散策 太宰府」のパンフレットより≫

“都府楼跡(とふろうあと)”の名前で親しまれている大宰府政庁跡は九州全体を治める役所大宰府があった所である。
7世紀の後半から奈良・平安時代を通じて九州を治め、わが国の西の守りとして防衛を、また外国との交渉の窓口として重要な役割を果たしてきた。
現在も大宰府政庁跡の中心にはその大きさをしのばせる立派な礎石が残り、そこを中心に門や回廊、そして周辺の役所跡が復元され、公園となっている。




*大宰府政庁図


注)上の図は、『大宰府史跡発掘調査30周年記念特別展 「大宰府復元」』(九州歴史資料館・平成10年10月23日発行)に掲載されていた政庁第Ⅲ期 の図とパンフレット等に掲載されている政庁模型の写真を参考にして、なぎ が書いたものです。正確なものではございませんので、学術的な資料を求められる方は専門書をご覧下さいませ。<(_ _)>



 大宰府政庁跡 入り口

「史蹟太宰府阯」と「都府樓趾」の石碑があります。

 大宰府政庁のことを「都府楼(とふろう)」ともよばれるのは、菅原道真が詠んだ漢詩の一部
 都府樓纔看瓦色
(都府の楼にはわづかに瓦の色を看る)

 が由来といわれています。




 大宰府政庁入り口
 北に大野城があった大野山がそびえたっています。
 階段の上には、南門跡があります。



 南門跡に立って北を見たところ。
 中門跡と奥に正殿が見えます。



 中門跡に立って北を見たところ。
 正殿にだいぶ近づいてきました♪






 大宰府政庁 正殿跡


≪看板より≫

正殿跡とは

大宰府の長官である帥(そち)が政務を執り、これと関わる儀礼や儀式で最も重要な役割を果した場が正殿である。
大宰府は中央政府の縮小版として西海道(九州)の管内諸国を統轄していた。
宮都での元旦拝賀を参考にすれば、大宰府でも元旦には管内諸国から国司たちが集い、正殿に座した帥に拝賀する儀礼が行われたと思われる。
このように正殿はその政治的秩序を保つための威厳に満ちた建物だったことだろう。






 正殿から南を見てみました。
 この白砂の部分に役人たちが集まったと考えられます。

 大宰府の南には、基肄城(きいじょう)がありました。



 正殿から南西を見たところ。
 西側の脇殿跡が見えます。

 大宰府の西側には、水城があり、さらに丘陵があります。




 正殿から南東を見たところ。
 東側の脇殿跡が見えます。

 大宰府政庁の東にある月山には漏刻(水時計)があったと伝えられています。



 正殿から北門を見たところ。
 築地塀に見立てた植え込みが途切れた部分が北門部分です。




 大宰府政庁跡の東にある「大宰府展示館」では、大宰府や周辺史跡の歴史がわかりやすく紹介されています。


 大宰府展示館においてあったスタンプ。
 大宰府史跡出土の鬼瓦は朝鮮半島の影響を受けているそうです。

 なぜか「漢倭奴国王」のスタンプもありました。



 復元模型 奈良時代
  大宰府式鬼瓦

 大宰府政庁跡で出土した鬼瓦を長さ・幅ともに2倍の大きさで復元されたものです。
 大宰府政庁正殿の魔よけとして用いられていました。<「太宰府館」にて撮影>



 大宰府政庁跡出土 軒丸瓦(のきまるかわら)<『太宰府館』にて撮影>






 大宰府政庁南門模型<九州国立博物館で撮影>

 門前には、役人や僧、壺装束姿の女性、遊ぶ子どもなどの賑わいが再現されています。






【本文引用・参考】
「新編日本古典文学全集4 日本書紀3
 巻第二十三舒明天皇~巻第三十持統天皇」 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守 /校注・訳者 小学館 発行

【参考】
「目で見る太宰府市の文化財1 特別史跡 水城跡」  財団法人古都大宰府保存協会 発行
「大宰府史跡発掘調査3030周年記念特別展 大宰府復元」九州歴史資料館 編集・発行
「太宰府紀行」 森弘子 監修 (財)古都大宰府保存協会 編
 太宰府市 公式HP
 筑紫野市 公式HP




 大宰府と『源氏物語』の関係にご興味をお持ちの方は、webサイト『花橘亭~源氏物語を楽しむ~』「源氏物語ゆかりの地をめぐる 遥かなる筑紫 太宰府」もご覧くださいませ。



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【PICK UP】 水城と大宰府 <福岡県太宰府市> その1

2018年10月11日 | 「PICK UP」から移動
※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2004年)
ホームページサービス終了により当ブログへ移動しました。
現況と異なる部分も含まれていることと思います。ご了承くださいませ。



 水城と大宰府



 福岡市(博多)方面から太宰府へ向かう途中、東西に連なる小高い丘を目にします。この木々が生い茂った丘は、途中、旧国道3号線・国道3号線・九州自動車道・JR鹿児島本線・西鉄電車の線路などに分断されながらも長く横たわっています。


 これが『日本書紀』巻第二十七 天智天皇条 に

 筑紫に、大堤を築き水を貯へ、名けて水城と曰ふ。

と記された大堤「水城(みずき)」跡です。


 水城が築かれたのは、天智天皇3年(664年)のことでした。この時、同時に対馬・壱岐・筑紫国などに防人(さきもり)と烽火(のろし)とを備えています。
 水城の規模は全長1,2km、基底部の幅約80m、高さ約10mの人工の土塁<土の堤防>です。土塁には2ヶ所に門が作られ、奈良時代には官道が通っていました。西門は鴻臚館(こうろかん)に通じ、東門は博多に通じていたと推定されています。
 そして、かつては水城の名の通り、博多側<海側>に幅60m、深さ4mの外濠が造られ水が貯えられていました。最近の調査結果では、棚田状に並んだ2本の濠(ほり)が並行して掘られていたことがわかっています。<毎日新聞 平成18年10月21日(土)朝刊より>


 さらに、現在の春日市(大土居、天神山)・大野城市(上大利)にも小規模な水城<小水城>跡が残っています。



 秋、八月に、達率答春初を遣はして、城を長門国に築かしむ。
達率憶礼福留・達率四比福夫を筑紫国に遣はして、大野と椽、二城を築かしむ。



 また天智天皇4年(665年)の秋、8月には百済の貴族を遣わせて、長門国(山口県)・筑紫国に城を築きます。
 同じく百済の貴族を筑紫国に遣わせて、大宰府の北2~3キロメートルにある大野山<四王寺山>に大野城(おおのじょう)を、大宰府の南約10キロメートルにある基山基肄城(きいじょう)が築かれました。



 大野城(おおのじょう)

 大野山頂にある朝鮮式山城。土塁や石垣で山頂全体を囲むように造られており、北と南のみ二重に防御されている。その中に建物が建てられていた。城内の各地域には70棟以上の倉庫を主とする建物跡が発見されている。
 大野山は、のちに四天王像を安置する四王院が創建されたため、この山を「四王寺山」ともいう。
 大野城は、太宰府市・大野城市・宇美町にまたがっている。 


 基肄城(きいじょう)

 最高峰415mの基山に築かれた朝鮮式山城。
 福岡県筑紫野市と佐賀県三養基郡基山町にまたがる基山を含む谷を大きく延長約5kmの土塁で囲み、要所は石垣で固め、その中に倉庫と考えられる建物が40棟ほど建てられていた。城門が北の筑紫野市側に2ヶ所、南の基山町側に2ヶ所確認されている。






 水城の東側は、大野城のある大野山<四王寺山ともいう>に接しており、水城の西側も丘陵と繋がっています。
 つまり、大宰府の北西側は、塞がれているような形となっています。

 大野城と同時期に築かれた基肄城もまた大宰府の南を護る意図を感じられます。

 これらは、唐と新羅の攻撃に備えた防衛施設でした。
・・・というのも、唐・新羅に滅ぼされた百済復興のため、日本は661年から救援軍を朝鮮半島へ派遣していました。しかし、天智天皇2年(663年)8月、白村江の戦いで日本軍は壊滅。このため、日本は防衛に力を入れなくてはならなくなったのです。






*水城の西側を訪ねてみました。<2004年>



 JR水城駅の構内にあった案内地図です。(現在地と示された所が水城駅です)
 ご覧の通り、「水城」は、JR鹿児島本線や西鉄電車、国道3号線、九州自動車道、旧国道3号線などに分断されつつも、現在まで姿を遺しています。




 看板がある辺りから水城を見上げてみました。
 とても高いです!!
 上に石碑があるので、登ってみました。




 史蹟 水城阯の石碑




 石碑の位置から西を見た「水城」の様子。
 木々がこんもりと繁っています。




 水城跡(博多側)です。
 博多側にはかつて水を貯めた濠があったのですね。




 JRの線路沿いから見た「水城」の断面です。
 このさらに西側に、水城の西門がありました。(未チェックです(^^;)礎石を見ることができるそうです。)

 西門からは鴻臚館へと通じる官道があったと考えられています。




*水城の東側を訪ねてみました。<2004年>



 旧国道3号線沿い、“水城3丁目”の信号近くに「水城大堤之碑」があります。
 太宰府市コミュニティバスまほろば号 バス停「水城」隣りです。




 史蹟 水城阯の碑
 石碑の横に東門の礎石があります。




 水城の東門礎石

 江戸時代には「鬼の硯石」といわれたそうです。巨大な石です。

 東門からは、博多遺跡群に向かって官道が伸びていました。




 手前に写っている道路は、旧国道3号線で、小高い丘が水城です。



 『目でみる太宰府市の文化財1 特別史跡 水城跡』(財団法人 古都大宰府保存協会 発行・1994年)によりますと、

 東門を通過する道は近世の街道と重複しており、その道は昭和の始め頃に国道3号線となり、現在も博多と直線で結んでいる。

と記されています。


 旧国道3号線は昔の官道の名残なのですね♪



 現在まで「水城」の跡が残っているのは、水城の築造過程によるものです。
 水城の土塁は粘土や砂などを交互に5~30cmほどの厚さに平たく均され、突き固めて積み上げられています。
 また、水城の下の方は、地盤が軟弱であったため、樹木の枝葉を敷き詰めて基礎の滑りを押さえる工法が採用されていました。

 長い年月のために土塁も部分的に削れ、かつて博多側にあった大きな外濠も埋もれてしまいました。

 しかし、水城はたんなる堤ではなく、頑強な堤防として高い土木技術で築造されていたため、現在でも崩れにくいとのことです。




 水城の築造過程 <九州国立博物館で撮影>




JR水城駅近くの“西側の水城”と太宰府市コミュニティバスまほろば号 バス停「水城」近くの“東側の水城(東門跡)”をそれぞれご紹介しました。




 上記の絵地図(下手な絵ですみません)のように大宰府政庁の北側には、大野城があった大野山<四王寺山とも>があり、西側を塞ぐように水城がありました。そして南には基肄城(きいじょう)がありました。

 大宰府は、大野城・水城・基肄城と自然の山々(※)に取り囲まれ防衛されていました。

※平成15年に大宰府の東を護る阿志岐山城(あしきさんじょう=筑紫野市)が発見されました。平成23年に国指定史跡となっています。


 さらに大宰府の北東には、鬼門を護る宝満山(ほうまんざん)があります。標高829,6メートル、修験道の山として有名です。
 古くは御笠山(みかさやま)または竈門山(かまどやま)とよばれており、山頂や9合目の竈門岩、3号目の辛野などにおいて、7世紀後半~近世にいたるまで様々な祭祀遺物が発見されています。
 奈良・平安時代には、遣唐使船に乗る僧侶が航海の安全を祈願し、天台宗延暦寺を開いた最澄も参詣した「竈門山寺」もありました。



 大宰府の起こりは、もともとは博多湾(福岡市)の近くに「那津官家(なのつのみやけ)」という施設がおかれていましたが、白村江の戦い後、現在地(太宰府市)に移されたといわれています。



次回は大宰府政庁跡をご紹介します。

 大宰府政庁跡へ続きます。




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