晴れのち平安

源氏物語を中心に平安な日々♪
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【PICK UP】 斉明女帝の朝倉橘広庭宮と木の丸殿 <福岡県朝倉市> その2

2018年10月08日 | 「PICK UP」から移動
※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2004年)
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現況と異なる部分も含まれていることと思います。ご了承くださいませ。



 斉明女帝の朝倉橘広庭宮と木の丸殿

その1の続きです。


 木の丸殿跡
 恵蘇八幡宮




●所在地:福岡県朝倉市山田字恵蘇宿166


斉明天皇の喪に服す中大兄皇子(のちの天智天皇)が過ごした宮殿『木の丸殿』跡に建つと伝わる恵蘇八幡宮を参拝しました。
恵蘇八幡宮は国道386号線<朝倉街道>沿いにあります。



「朝倉木丸殿舊蹟」の碑
大きな樟の木の下にあります。

≪恵蘇八幡宮・木の丸公園説明より≫

木の丸御殿跡

皇太子中大兄皇子は、御母斉明天皇がお亡くなりになって7日後の8月1日、御遺骸を朝倉橘広庭宮からこの地にお移しになり、その夕御陵山に仮に葬られた。そして、陵下の山腹に丸木の殿を作られ、1日を1ヵ月にかえて12日間、母君の喪に服されたといわれ、この地を「木の丸殿」「黒木の御所」と呼ぶようになった。







「木の丸殿」は現社殿付近に営まれたのだとか。


≪恵蘇八幡宮・木の丸公園説明より≫

恵蘇八幡宮の由来

昔、郡中33ヵ所(上座郡)の総社として栄え、現在は朝倉町の総社となっている。応神天皇、斉明天皇、天智天皇を祭神として祀り、毎年10月15日に御神幸が行われている。
由諸によると、斉明天皇は661年、百済国救援のため筑紫の朝倉橘広庭宮(朝倉町大字須川)に下られた。この時随行の中大兄皇子(後の天智天皇)は国家安泰と戦勝祈願のため、宇佐神宮(大分県)に奉幣使を遣わされた。使の一行が恵蘇山麓に達した時、天上から白幡が降り、幡に八幡大神の文字が浮かび出たことから、天孫八幡なる宮社が創建された。その後、天武天皇白凰元年(673)に斉明天皇・天智天皇を合祀し、この頃社名を恵蘇八幡宮に定めたといわれている。
現在の本殿は安永元年秋9月(1772)の改築である。






≪由緒書より≫

郷社 恵蘇八幡宮 木の丸殿


祭神
 斉明天皇(第35代皇極天皇、第37代)
 応神天皇(第10代)
 天智天皇(第39代)


由緒
 斉明天皇7年(西暦661年)建立
 斉明天皇は百済救援のため朝倉町長安寺の橘広庭宮に皇居と大本営を遷されました 中大兄皇子(後の天智天皇)は国家安泰と武運長久を御祈願のため宇佐神宮の祭神応神天皇の御霊を奉り朝倉山天降八幡と崇められました その後 天武天皇の御代白凰元年壬申(673年)斉明・天智天皇の二神霊を勅命により合わせ祀り恵蘇八幡三柱大神と称しました 昔は上座郡中三十三村の総社でしたが現在朝倉町の総社氏神です


斉明天皇●葬地(御殯斂地)<●=“蒿”の下に“木”>
 山上には斉明天皇の御陵といわれる前方後円墳があります 斉明天皇は661年5月9日(新暦6月14日)橘広庭宮にお着きになり7月24日(8月27日)病のため崩御されました(御年68歳) 中大兄皇子は御遺骸を一時山上に御殯葬され軍を進め後に奈良県高市郡越知岡村へ移されると記されています。

木の丸殿遺蹟
 天智天皇は斉明天皇御殯葬のあと御陵山下に木皮のついた丸木で忌み殿を建て12日間喪に服されました 後世人々が「木の丸殿」と呼びました

 天智天皇御製

秋の田の刈穂の庵のとまをあらみ
  我が衣手は露にぬれつつ (小倉百人一首)

朝倉や木の丸殿に我居れば
  名のりをしつつ行くは誰が子ぞ (新古今集)





※注意:日本書紀・説明看板・由緒書に矛盾がある部分がいくつかありますがそのままを記載しています。






≪教育委員会による看板より≫

 このまるでんあと
 木の丸殿跡 

所在地 福岡県朝倉町大字山田字恵蘇宿166

由来
 西暦661年5月9日、百済救済のために朝倉橘広庭宮に遷られた斉明天皇は、病気と長旅の疲労のため同年7月24日、御年68歳で崩御された。7日後の8月1日、皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)は、母の御遺骸を一時朝倉山(御陵山)に御殯葬になり、御陵山の山腹(現在の八幡宮境内)に、木皮のついたままの丸木の柱を立て、板を敷き、芦の簾を掛け、苫をふき、あばらやなる屋に、塊を枕にし、1日を1ヶ月に代えて12日間喪に服されたといわれ、この地は「木の丸殿」「黒木の御所」と呼ばれるようになった。
 喪に服された皇太子は
 「朝倉や 木の丸殿に我居れば
  名乗りをしつつ 行くは誰が子ぞ」
という歌を詠まれた。また筑後川のほとりで名月を鑑賞され、心の痛みを癒されたと伝えられている。(月見の岩)








恵蘇八幡宮のそばには、筑後川が流れています。
中大兄皇子(のちの天智天皇)もこの川を眺めたことでしょう。
筑後川は有明海へと注ぐ大河です。



*木の丸殿公園(駐車場側入口)には、「史跡 秋の田」と記された天智天皇の歌碑が立っています。



 天智天皇御製 百人一首

 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ
  我が衣手は露にぬれつつ







御陵山(ごりょうざん)



恵蘇八幡宮境内にある御陵山(ごりょうざん)は朝倉橘広庭宮で崩御した斉明天皇を一時的に葬ったと伝わります。



≪教育委員会による看板より≫

町指定史跡 御陵山(恵蘇八幡宮1・2号墳)

所在地 福岡県朝倉町大字山田字恵蘇宿169
指定日 昭和45年8月1日

日本書紀によれば、「西暦661年5月、斉明天皇は百済救援のため朝倉橘広庭宮に遷られたが、病のため7月24日に崩御された。皇太子中大兄皇子は母斉明天皇崩御7日後の8月1日に御遺骸を橘広庭宮からこの地に移し、一時的に葬り…」と記されており、地元では御陵山と呼んでいる。
陵上には方二間(1,8メートル)の石柵が巡り、中央の塔石には「斉明帝●葬地」(●=“蒿”の下に“木”)と刻されている。
形態は前方後円墳ではないかという説もあるが、町では円墳二基とみて指定している。



私が日本書紀を確認してみたところ、上記の「 」内に書かれているような記述(一時的に葬ったこと)は記載されていないのですが・・・。



宮内庁に指定されている第35・37代皇極・斉明天皇陵は、奈良県高市郡高取町大字車木にある「越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)」です。
その他、陵墓の候補として、橿原市小谷古墳、明日香村牽牛塚古墳、同越岩屋山古墳があげられています。


『日本書紀』によりますと、661年10月7日に斉明天皇の柩は帰途の海路につきます。(それまでは筑紫の磐瀬宮<長津宮>に柩が置かれていたと考えられます。)
そして、10月23日に天皇の柩は難波に帰還し停泊。11月7日に天皇の柩を飛鳥川原<飛鳥川原宮?>に運び、殯(もがり)を行いました。



中大兄皇子は、難波まで斉明天皇の柩を運ぶ途中、ある場所に船を停泊し、歌を詠んでいます。<日本書紀より>

 君が目の 恋しきからに 泊てて居て 
  かくや恋ひむも 君が目を欲り


(生きている母君にお目にかかりたい。船で港に停泊して母君と共にいるのに、どうしてこれほど恋しさが募るのでしょうか。生きている母君にお目にかかりたくて・・・。)

中大兄皇子の慟哭が聞こえてきそうな哀しい歌です。


中大兄皇子<天智天皇>は、斉明天皇の菩提をともらうために大宰府に観世音寺(太宰府市)を発願するのでした。





宝皇女<のちの皇極天皇・重祚して斉明天皇>についてまとめてみました。

宝皇女<皇極天皇・斉明天皇>へ続きます。


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【PICK UP】 斉明女帝の朝倉橘広庭宮と木の丸殿 <福岡県朝倉市> その1

2018年10月08日 | 「PICK UP」から移動
※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2004年)
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 斉明女帝の朝倉橘広庭宮と木の丸殿



“三連水車”のある街として知られる福岡県朝倉市は、福岡県の中央部にあるのどかな田園地帯です。
この朝倉の地に短い期間ですが、かつて天皇が住まわれたことがあったと伝わります。



660年(斉明6年)、東アジアでは唐・新羅軍が百済を攻略しました。朝廷は朝鮮半島へ百済救援軍を派遣することになり、指揮のため斉明天皇とともに筑紫へ赴いたのです。
斉明天皇こと宝皇女は、第35代皇極天皇として即位したのち、弟である軽皇子<孝徳天皇>に譲位します。そして孝徳天皇の崩御後、再び天皇の位に即いた女性です。後の天智天皇・天武天皇の母でもあります。
 
斉明天皇以下、朝廷の人々は、661年(斉明7年)3月、娜大津<なのおおつ=現在の福岡市>に至り磐瀬行宮(いわせのかりみや)に坐し、5月9日に朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)に遷ったのでした。



『日本書紀』によると、この朝倉橘広庭宮には、すでに百済での敗戦〔白村江の戦い:663年〕を暗示させるかのような記事がうかがえます。
<原文は漢文>


 五月の乙未の朔の癸卯に、天皇、朝倉橘広庭宮に遷り居します。
 是の時に、朝倉社の木を斬り除ひて、此の宮を作りし故に、神忿りて殿を壊つ。亦、宮中に鬼火を見る。是に由りて、大舎人と諸の近侍、病みて死ぬる者衆し。



朝倉橘広庭宮を作る際、朝倉社の木を切ったため神が怒り、宮殿を壊したといいます。
朝倉社は、恵蘇八幡宮もしくは「延喜式」神名の麻●良布(まてらふ)神社に比定されていますが、詳細は不明です。
(●=“氏”の下に“一”のある字)
また、宮中には鬼火が出たため、病気になって死亡者が多く出たとあります。そして・・・


 六月に、伊勢王、薨せぬ。
 秋七月の甲午の朔にして、丁巳に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。



同年6月には皇族の伊勢王が薨じられ、7月24日には斉明天皇までが崩御されたのでした。
8月1日に、皇太子である中大兄皇子<のちの天智天皇>は、母である斉明天皇の柩に付き添い、磐瀬行宮<長津宮>へ戻ります。そこでもまた怪異が起こります。


 是の夕に、朝倉山の上に、鬼有りて大笠を著て、喪の儀を臨み視る。衆、皆嗟怪ぶ。


この夕方、朝倉山<麻●良布(まてらふ)神社の背後にある東西に連なる山々>の上に鬼が現れ、大笠を着て喪の儀式を見守っていたのです!衆人はみな、アアッと不思議に思ったのでした。


5月~7月までのごく短期間の宮殿でありながら、『日本書紀』には怪異の多い宮として記されている朝倉橘広庭宮…。
その宮跡は明確にはわかっていませんが、福岡県朝倉市内と考えられています。



今回は福岡県朝倉市にある「橘の広庭公園」(朝倉橘広庭宮跡・伝承地)をご紹介いたします。



 朝倉橘広庭宮跡?
 橘の広庭公園


「橘の広庭公園」にある『橘廣庭宮之蹟』と書かれた石碑。

公園そのものは日本書紀に書かれているような、おどろおどろしい感じはしませんでした。



≪教育委員会による看板より≫

あさくらのたちばなのひろにわのみやあと
   朝倉橘広庭宮跡

所在地 福岡県朝倉町大字須川


歴史・背景

4世紀末、朝鮮半島は百済・高句麗・新羅の三国に分割され、7世紀に至るまで和戦を繰り返していたが、660年7月、百済はついに新羅・唐の連合軍に亡ぼされ、同年10月、かつてから親交関係にあった日本へ使者を遣わし救済の要請をしてきた。斉明天皇と中大兄皇子らは、その要請を受け入れ、救済軍を派遣することを決定した。

翌661年1月6日、天皇は、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)、中臣鎌足らと共に難波の港から海路筑紫に向かい、1月14日四国の石湯行宮に到着し、3月25日那大津(博多)に至り、磐瀬宮(三宅)をへて5月に朝倉橘広庭宮に遷られた。しかし天皇は滞在75日(7月24日)御年68歳で病の為崩御された。

現在、朝倉橘広庭宮の所在は分かっていないが、地元の伝承では、「天子の森」付近だといわれており、本町恵蘇宿の恵蘇八幡宮の境内付近には、中大兄皇子が喪に服したといわれている「木の丸殿跡」や斉明天皇の御遺骸を仮安置したといわれる「御陵山」が存在する。





公園内には「橘(タチバナ)」が植えられていす。ちょうど実がなっていました♪




朝倉橘広庭宮跡<伝承地>の確認のため、長安寺を手がかりに1933年から数年にわたって遺跡の調査が行われたそうです。

≪「橘の広庭公園」内にある長安寺廃寺跡の案内看板より≫

ちょうあんじはいじあと
県指定史跡 長安寺廃寺跡 

所在地 福岡県朝倉町大字須川字鐘突1271~1306
指定日 昭和38年1月9日


奈良~平安時代の古代寺院跡で、古くは朝鞍寺、朝闇寺と呼ばれていた。1933年の発掘調査から多量の須恵器、土師器、瓦などが発見された。また「大寺」「知識」「寺家」などの墨書土器が発見され、更にその後の調査から、建物の礎石が発見されたことにより、古代寺院の存在が確認されている。出土瓦は、老司式と鴻臚館式のものであり、8世紀前半のものと推測されている。
また筑前国続風土記の恵蘇八幡宮の条に「社僧の寺を朝倉山長安寺という……」と記されていることから、長安寺は恵蘇八幡宮と深い関係があったことが推測される。またこのことは続日本書紀に天智天皇が、斉明天皇の冥福を祈って観世音寺と筑紫尼寺を創建した、とあることから長安寺とは朝倉橘広庭宮の跡に営まれた筑紫尼寺のことではないかといわれている。



調査の結果、奈良~平安時代にかけてこの地に大寺院があったことが明らかになりましたが、朝倉橘広庭宮跡の確証は得られなかったそうです。





橘の広庭公園には「朝闇(ちょうあん)神社」があります。

≪教育委員会による看板より≫

ちょうあんじんじゃ
  朝闇神社

 所在地 福岡県朝倉町大字須川字鐘突1269


祭神 高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)

別名を大行事社(だいぎょうじしゃ)ともいい、祭礼は毎年9月14日に行われる。
近くには「朝倉橘広庭宮」「天子の森」「長安寺廃寺跡」があり、これらと関係があるのではないかといわれており、「朝倉」の地名は、この神社からきたものではないかとも考えられている。
また、この神社の境内に祀られた「毘沙門天堂」は現在も残っている。







さて。
中大兄皇子が母・斉明天皇の喪に服したという宮殿「木の丸殿(このまるどの・きのまろどの・このまろどの)」もまたかつて朝倉にありました。


『十訓抄』 上  可施人恵事  一ノ二 より≫

 天智天皇、世につつみ給ふことありて、筑前の国上座の郡朝倉といふ所の山中に、黒木の屋を造りておはしけるを、木の丸殿といふ。円木にて造るゆゑなり。

   ~(略)~

 さて、かの木の丸殿には用心をし給ひければ、入来の人、必ず名のりをしけり。

  朝倉や木の丸殿にわかをれば
  名のりをしつつ行くは誰が子ぞ

 これ、天智天皇の御歌なり。これ、民ども聞きとどめて、うたひそめたりけるなり。その国々の風俗ども、えらび給ひける時、筑前の国の風俗の曲にうたひけるを、延喜の帝、神楽の歌ども加へられけるに、うたひそへられたりけるなり。~(略)~


 「朝倉」にとりては、めでたき曲なり。昔よりかたみにゆづりて、上手にうたはせむとするなり。ことかき・すががきを掻くに、拍子ばかりをうちて、上下、臈をいはず、堪能のものにゆづりて、かれがうたふを待つなり。清暑堂の御神楽に、斉信、公任、本末の拍子をとられける時も付歌にて、定頼ぞ「朝倉」をばうたはれける。




『十訓抄(じっくんしょう・じっきんしょう)』は鎌倉時代に作られた年少者向けの説話集です。
 
この『十訓抄』には、天智天皇が母親である斉明天皇の喪に服していた様子と朝倉で詠んだ歌、そしてその歌が後世に素晴らしい・めでたい曲として伝えられた様子が描かれています。


(なぎ訳)
 天智天皇が斉明天皇の喪に服していた時、朝倉の山中に黒木で建物を造っていらっしゃったのを「木の丸殿(このまるどの・きのまろどの)」といいます。刈りだしたままの丸太でつくっていたからです。
 
 さて、その木の丸殿では用心をしていらっしゃったので、宮殿に入ってくる人は必ず名のりをしていました。

   朝倉の木の丸殿に私がいると
   名のりをあげていく人がいるが、あれは誰であろうか。


 これは、天智天皇の御歌です。これを人々が耳にとどめて、歌い始めました。それぞれの国々の風俗歌を選ばれた時、筑前の国の風俗歌として歌われていたのを、延喜(えんぎ)の帝とよばれた醍醐天皇が神楽歌にお加えになり、歌われるようになったといいます。

 「朝倉」という曲は、めでたい曲です。昔から互いに譲り合って、上手に歌わせようとするのです。「ことかき」や「すががき」などとよばれる和琴の出だしを演奏しながら、拍子だけを打って、身分の上下・年齢を問わず、堪能な者に譲って、その人が歌うのを待つのです。大内裏の豊楽院(ぶがくいん)にある清暑堂(せいしょどう)の御神楽で、藤原斉信・藤原公任が前半の拍子・後半の拍子をとられた時も「付歌(つけうた=神楽に添えて歌う歌)」として、藤原定頼がこの「朝倉」を歌われたということです。



・醍醐天皇<885~930>:平安初期の天皇。「延喜の帝」とよばれた。
・藤原斉信(ただのぶ)<967~1035>:平安中期の公卿。
・藤原公任(きんとう)<966~1041>:平安中期の公卿。
・藤原定頼(さだより)<995~1045>:藤原公任の子。




天智天皇の歌は、『新古今和歌集』第巻十七 雑歌中 にも収められています。

 朝倉や木の丸殿にわれをれば
  名のりをしつつゆくはたが子ぞ







福岡県朝倉市山田にある恵蘇(えそ)八幡宮は、「木の丸殿」跡といわれています。
次は、恵蘇八幡宮をご紹介いたします。

 恵蘇八幡宮へ続きます。



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【PICK UP】 「金印」出土の志賀島と志賀海神社<福岡市東区> その2 

2018年10月08日 | 「PICK UP」から移動
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「金印」出土の志賀島と志賀海神社

その1の続きです。


 われは忘れじ志賀の皇神
 志賀海神社




●所在地:福岡市東区志賀島877
●交通 :西鉄バス「志賀島」下車 徒歩10分


志賀島の東南にあり、万葉集にも詠まれている古い神社です。
「龍の都」・「海神の総本社」とも呼ばれ、海上安全の神として崇敬されています。




≪福岡市教育委員会による看板より≫

志賀海神社と文化財

 志賀海神社は綿津海(わたつみ)三神を祀り、古来より海の守護神として信仰されてきました。海上交通の要所である玄界灘を臨む博多湾の入り口に鎮座し、海人部(あまべ)の伴造(とものみやつこ)として著名な阿曇(あずみ)族に奉祀されました。大同元年(806)には阿曇神に神封八戸が与えられ、貞観元年(859)には志賀海神に従五位上、また元慶4年(880)には賀津万神(志賀島勝馬の祭神)に従五位下の神階が授けられています。平安時代の『小右記』には志賀海神社社司の対宋交通が記され、中・近世には大内氏、小早川氏、黒田氏の加護を受けていたことが当社に伝えられた文書(福岡市指定文化財)によってわかります。

 社蔵の鍍金鐘(国指定重要文化財)は高麗時代後期の特色がよく表れ、境内の完存する石造宝篋印塔(福岡県指定文化財)は銘文から貞和三年(北朝年号1347年)に造立の時期が考えられます。

 この神社の神事のうち、1月下旬に厄疫退散と五穀豊穣、豊漁の意味を兼ねて行われる「歩射祭」、4月15日と11月15日の春秋に神功皇后伝説にちなんで狩漁を演じる「山ほめ祭」、10月初旬の夜間に遷幸・遷御と芸能が奉納される「神幸行事」はいずれも福岡県の無形民俗文化財に指定されています。




*参道沿いには万葉集に収められている「ちはやぶる鐘の岬を過ぎぬとも・・・」の歌碑があります。



 ちはやぶる鐘の
   岬を過ぎぬとも
 われは忘れじ
   志賀の皇神


※志賀の皇神(すめがみ)=志賀海神社の御祭神です。


≪看板より≫

 万葉歌碑(志賀島第一号歌碑)

ちはやぶる鐘(かね)の岬を過ぎぬとも
 われは忘れじ志賀の皇神(すめがみ)


   (巻七・一二三〇)


「航海の難所である鐘の岬を過ぎたとしても、わたしは海路の無事をお願いしたこの志賀の神様を忘れません。」という意味の歌です。

ちはやぶるとは狂暴なとか勢いが強い意味とされ、鐘の岬は現在の宗像市鐘崎(かねざき)の織幡(おりはた)神社が鎮座する岬で、対峙する地島(じのしま)との間の瀬戸は航海の難所でした。志賀島から船出して奈良の都へ向かう官人が詠んだものです。




(この地図は私が作成しました)


私が上記の歌のことを知ったのは『源氏物語』がきっかけでした。


この歌は、『源氏物語』<玉鬘>巻において、玉鬘と乳母(めのと)一家が筑紫へ向かう船旅の場面にて、乳母の「口癖となった言葉」のもととなった歌なんです。


 金の御崎過ぎて、「われは忘れず」など、世とともの言種になりて

船旅で鐘の岬(福岡県宗像市鐘崎にある岬)を過ぎてから乳母は万葉集の「ちはやぶる金の岬を過ぎぬとも われは忘れじ志賀の皇神」という歌を思い出して、『われは(都から離れようとも玉鬘の母である夕顔のことを)忘れず』などと、明けても暮れても口ぐせになって” 


と作中に書かれているんですよ~。
この歌を知ってから、志賀の皇神を祀る志賀海神社を訪ねてみたいと思っていたんです♪



志賀海神社 楼門



境内には雌雄の鹿の像があります。


鹿角庫(ろくかくこ)
鹿角庫の中は、鹿のツノがぎっしり収められていました。


≪看板より≫
その昔、神功皇后が対馬にて鹿狩りをされその角を多数奉納されたことが起源とされる。
鹿の角は、祈願成就の御礼に奉納され、中にはウキを付けて海に流されてきたものを漁師が拾い上げ奉納したものなどがある。現在では約一万本以上を数える。

※志賀島の地名は「鹿の島」ではなく「近い島」が「チカシマ→シカシマ→シカノシマ」と訛ったものである





拝殿にて参拝。


裏手には摂社がたくさんありました。
木々に囲まれていながら潮騒の聞こえる厳かでとても心地よい神社でした。




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【PICK UP】「金印」出土の志賀島と志賀海神社<福岡市東区> その1

2018年10月08日 | 「PICK UP」から移動
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「金印」出土の志賀島と志賀海神社



(『ご当地ピンズ』シリーズ、“福岡ピンズ”のひとつ。「金印」)


2004年7月、福岡市東区にある志賀島(しかのしま)に行ってきました。
志賀島といえば、金印で有名ですよね♪
というわけで・・・金印公園へ。


金印公園



「漢委奴国王金印発光之処」の石碑。
志賀島の南側にある金印公園です。
天明4年(1784年)に金印が発見されました。


<福岡市による看板より>

金印公園

この地は後漢(現在の中国)の光武帝が奴国(現在の福岡市を中心とする地)の使者に授けたといわれる金印(国宝)が発見された場所としてわが国の歴史上、重要な地とされています。
印綬伝来から1900余年を経過したいま、この地に立って博多湾、玄界灘を望みながら遠く中国大陸と交流があった当時をしのべば、私たちの心に新たな感銘を呼びおこすでしょう。





公園には「金印」の拡大バージョンの碑があります。
志賀島の対岸に見えるのは博多湾に浮かぶ能古島(のこのしま)です。



『漢委奴国王(かんのわのなのこくおう』

金印の実物は 一辺2,3cm、重さ108,7g の金塊です。
福岡市博物館の常設展で見ることができます。とても綺麗ですよ~!
金印については、所蔵先の福岡市博物館のホームページが大変詳しいです。

『漢委奴国王』は「漢の倭(わ)の奴(な)の国王」とよむという説と「漢の委奴(いと)の国王」とよむという説がありますが、奴(な)も委奴(いと=伊都)も博多付近の小国でした。



 『後漢書』東夷伝 より (原漢文)

 建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。
 光武、賜ふに印綬を以ってす。


(↑ 私が高校時代に使った日本史の教科書より抜粋。)


建武中元二年は西暦57年(弥生時代)のこと。
この時、光武帝から賜った印綬が志賀島でみつかった金印といわれています。



*福岡市博物館で販売されている金印スタンプ。



≪スタンプに付いていた解説書より≫
つまみ<鈕(ちゅう)>は蛇がとぐろを巻いた姿で、ひもを通す孔(あな)<鈕孔(ちゅうこう)>には紫色のひも<綬(じゅ)>が結ばれていたものと考えられます。

金印は、大切な公文書や手紙の封印に使われました。封印の方法は、文書や手紙を入れた箱を紐で縛りその結び目に付けた粘土に押して封をしたもので、文書の秘密を守る鍵の役目を果たしています。






次回の記事では、志賀島にある志賀海神社をご紹介します。

 志賀海神社へ続きます。



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