親父がメモ代わりに使うだって、一寸貸してあげることにしました。
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時折、テレビや新聞に、里山を守る人々、そしてその活動が話題となる。
皆さんは里山にどんなイメージを持っていますか。
里山って何?と問われて、即座にこれと答えられる人は少ないだろう。
♪ 兎(うさぎ)追いし かの山
小鮒(こぶな)釣りし かの川
夢は今も めぐりて、
忘れがたき 故郷(ふるさと)
如何(いか)に在(い)ます 父母
恙(つつが)なしや 友がき
雨に風に つけても
思い出(い)ずる 故郷
志(こころざし)を はたして
いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷 ♪
*故郷(高野辰之作詞・岡野貞一作曲/文部省唱歌)
ここに唱われている山が、私の里山である。
穏やかな田園風景が浮かぶであろうか。
これが浮かぶのは、??歳以上の人である。
子ども達はここで、
夏はクワガタやカブトムシを掴まえ、秋はキノコを採り、栗を拾った。
瞼を閉じて、自分が子どもだった頃を思い出して欲しい。
学校帰りの道草。
郊外に遠足に行った時のこと。
父母に連れられて田舎に帰った時のこと。
そこには、畑や田んぼがあったことでしょう。
その向こうに里山がみえた筈である。
里山?
都市近郊にある山、農村を取り巻く山。
杉や檜が植えられている人工林とは全く逆の
人の手が加わっていない自然林をイメージする人も多いのではなかろうか。
実はそれが大きな誤りなのである。
子ども達にとって遊びの場であった里山も、
大人達にとっては日々の生活の糧を得る場であった。
枯れ枝を拾い、灌木(かんぼく)を切り、夕餉(ゆうげ)の竈(かまど)の燃料とした。
秋になれば、落ち葉を掻き集め、堆肥(たいひ)の材料とした。
楢(なら)や椚(くぬぎ)は定期的(約20年位)に伐られ、
薪(まき)や炭の原料となり、後には椎茸栽培(しいたけさいばい)の原木となり、
農家の貴重な現金収入源となった。
伐られた楢・椚の根株から新らしい命が芽吹けば、
人はその芽の成長を助けるため、周囲の笹や灌木(かんぼく)を取り除いた。
里山はそこに生活する人によって、自分達の生活に合うように管理されてきたのである。
里山は人々の生活の隣りにあって、人々が足繁く入り込む山であったのである。
*閑話休題
関東地方の里山がそのままに放置されれば、
植生遷移によりその極相である樫に代表される常緑広葉樹林になるといわれている。
現実の里山は蔓(つる)や笹に覆われた藪山(やぶやま)になっている。
手入の行き届いた里山は、楢、椚に代表される落葉広葉樹林の明るい山である。
十分な陽の光が地表に届くから、そこに生育する植物は多種多様である。
春は、たろっぺやワラビが、秋には、キノコ、クリ等の山の幸が採れる。
百合、蘭等の山野草も豊富である。
木々に巻き付き、生長の妨げになるヤマブドウも、子ども達のために残されたであろう。
里山は田や畑の延長であったのである。
時代は移り、人々の生活は変わった。農村の生活は大きく様変わりした。
里山は薪炭林(しんたんりん)としての役目を終えた。
その後、椎茸(しいたけ)原木林としても利用されたが、それも次第に少なくなってきている。
化学肥料の普及に伴い、落ち葉掻きは行われなくなった。
人々は、里山に入る必然性を失ったのである。
里山は、農地とは異なり、開発の法的制約も少なく、土地代も安い。
高度成長期には、都市近郊の里山は、住宅用地、工業用地となった。
バブル期には、農村近郊の里山は、恰好のゴルフ場用地となった。
里山の荒廃はこれらの当然の帰結である。
残された里山は次第次第に竹、笹、灌木が生い茂り、木々には蔓が巻き付いた。
この荒れ果てた里山をどうするのか。
人々の目の前に突きつけられた現実に、
誰がどう対処しているのだろうか。
時折、その取り組みがマスコミに取り上げられるのである。
里山の中には、
ジョギング、散策のコース等、主としてレクレーションの場として、
行政の管理下にあるものもある。
荒れ果てた里山を昔の姿に戻すことは可能であろうか。
生い茂った藪を切り払い、不要木を伐り、山を綺麗にする。
それで直ぐに、昔の里山が蘇る訳ではない。
第一歩を踏み出したに過ぎない。
その後の弛まない地道な活動が大切なのである。
地道なその役を誰が担うのか。
行政が行うべきであると言う考えもあろう。
里山にも所有者はいる。管理しなければならない人がいる。
里山はその近くに住む人々の共有財産的な側面を色濃く持っていたのである。
その里山を利用する人々がその役を担うのがもっとも自然に思える。
里山を守ろう! 里山を再生しよう!
と大上段に振りかぶる必要はない。
周囲を見渡せば、
自分以外にも、
PTAが通学路の下草刈りをしているかもしれない。
ジョギング仲間は、コース案内板を作っているかもしれない。
自然保護団体は、野鳥や植物の保護活動をしているかもしれない。
・・・・・・・・・
里山への思いはそれぞれ違うかもしれないが、今の姿で良いと思う人は少ない筈である。
この指泊まれ方式で、仲間を集めよう。
地権者にも仲間に加わって貰おう。
取りあえず走り始めよう。
行政には一寸と後押しして貰らおう。
人々が集まって、
目の前にある里山をどうするかを考えよう。
里山のイメージを語ろう。
里山にこれと言うハッキリした定義があるわけではない。
また、その定義に拘る必要性もない。
ジョギングコースを整備するにはどうするか。
子ども達を安全に遊ばせるにはどうするか。
野鳥の楽園にするにはどうするか等。
里山ってこんなところだったんだよと言う後世代に残す
と言う意見も出るかもしれない。
けんけんがくがく、議論百出。
それぞれの思い描く里山のビジョンを語りあおう。
その内に朧気ながらでも、互いの里山のイメージを浮かんでくるのではないだろうか。
(未定稿)
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時折、テレビや新聞に、里山を守る人々、そしてその活動が話題となる。
皆さんは里山にどんなイメージを持っていますか。
里山って何?と問われて、即座にこれと答えられる人は少ないだろう。
♪ 兎(うさぎ)追いし かの山
小鮒(こぶな)釣りし かの川
夢は今も めぐりて、
忘れがたき 故郷(ふるさと)
如何(いか)に在(い)ます 父母
恙(つつが)なしや 友がき
雨に風に つけても
思い出(い)ずる 故郷
志(こころざし)を はたして
いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷 ♪
*故郷(高野辰之作詞・岡野貞一作曲/文部省唱歌)
ここに唱われている山が、私の里山である。
穏やかな田園風景が浮かぶであろうか。
これが浮かぶのは、??歳以上の人である。
子ども達はここで、
夏はクワガタやカブトムシを掴まえ、秋はキノコを採り、栗を拾った。
瞼を閉じて、自分が子どもだった頃を思い出して欲しい。
学校帰りの道草。
郊外に遠足に行った時のこと。
父母に連れられて田舎に帰った時のこと。
そこには、畑や田んぼがあったことでしょう。
その向こうに里山がみえた筈である。
里山?
都市近郊にある山、農村を取り巻く山。
杉や檜が植えられている人工林とは全く逆の
人の手が加わっていない自然林をイメージする人も多いのではなかろうか。
実はそれが大きな誤りなのである。
子ども達にとって遊びの場であった里山も、
大人達にとっては日々の生活の糧を得る場であった。
枯れ枝を拾い、灌木(かんぼく)を切り、夕餉(ゆうげ)の竈(かまど)の燃料とした。
秋になれば、落ち葉を掻き集め、堆肥(たいひ)の材料とした。
楢(なら)や椚(くぬぎ)は定期的(約20年位)に伐られ、
薪(まき)や炭の原料となり、後には椎茸栽培(しいたけさいばい)の原木となり、
農家の貴重な現金収入源となった。
伐られた楢・椚の根株から新らしい命が芽吹けば、
人はその芽の成長を助けるため、周囲の笹や灌木(かんぼく)を取り除いた。
里山はそこに生活する人によって、自分達の生活に合うように管理されてきたのである。
里山は人々の生活の隣りにあって、人々が足繁く入り込む山であったのである。
*閑話休題
関東地方の里山がそのままに放置されれば、
植生遷移によりその極相である樫に代表される常緑広葉樹林になるといわれている。
現実の里山は蔓(つる)や笹に覆われた藪山(やぶやま)になっている。
手入の行き届いた里山は、楢、椚に代表される落葉広葉樹林の明るい山である。
十分な陽の光が地表に届くから、そこに生育する植物は多種多様である。
春は、たろっぺやワラビが、秋には、キノコ、クリ等の山の幸が採れる。
百合、蘭等の山野草も豊富である。
木々に巻き付き、生長の妨げになるヤマブドウも、子ども達のために残されたであろう。
里山は田や畑の延長であったのである。
時代は移り、人々の生活は変わった。農村の生活は大きく様変わりした。
里山は薪炭林(しんたんりん)としての役目を終えた。
その後、椎茸(しいたけ)原木林としても利用されたが、それも次第に少なくなってきている。
化学肥料の普及に伴い、落ち葉掻きは行われなくなった。
人々は、里山に入る必然性を失ったのである。
里山は、農地とは異なり、開発の法的制約も少なく、土地代も安い。
高度成長期には、都市近郊の里山は、住宅用地、工業用地となった。
バブル期には、農村近郊の里山は、恰好のゴルフ場用地となった。
里山の荒廃はこれらの当然の帰結である。
残された里山は次第次第に竹、笹、灌木が生い茂り、木々には蔓が巻き付いた。
この荒れ果てた里山をどうするのか。
人々の目の前に突きつけられた現実に、
誰がどう対処しているのだろうか。
時折、その取り組みがマスコミに取り上げられるのである。
里山の中には、
ジョギング、散策のコース等、主としてレクレーションの場として、
行政の管理下にあるものもある。
荒れ果てた里山を昔の姿に戻すことは可能であろうか。
生い茂った藪を切り払い、不要木を伐り、山を綺麗にする。
それで直ぐに、昔の里山が蘇る訳ではない。
第一歩を踏み出したに過ぎない。
その後の弛まない地道な活動が大切なのである。
地道なその役を誰が担うのか。
行政が行うべきであると言う考えもあろう。
里山にも所有者はいる。管理しなければならない人がいる。
里山はその近くに住む人々の共有財産的な側面を色濃く持っていたのである。
その里山を利用する人々がその役を担うのがもっとも自然に思える。
里山を守ろう! 里山を再生しよう!
と大上段に振りかぶる必要はない。
周囲を見渡せば、
自分以外にも、
PTAが通学路の下草刈りをしているかもしれない。
ジョギング仲間は、コース案内板を作っているかもしれない。
自然保護団体は、野鳥や植物の保護活動をしているかもしれない。
・・・・・・・・・
里山への思いはそれぞれ違うかもしれないが、今の姿で良いと思う人は少ない筈である。
この指泊まれ方式で、仲間を集めよう。
地権者にも仲間に加わって貰おう。
取りあえず走り始めよう。
行政には一寸と後押しして貰らおう。
人々が集まって、
目の前にある里山をどうするかを考えよう。
里山のイメージを語ろう。
里山にこれと言うハッキリした定義があるわけではない。
また、その定義に拘る必要性もない。
ジョギングコースを整備するにはどうするか。
子ども達を安全に遊ばせるにはどうするか。
野鳥の楽園にするにはどうするか等。
里山ってこんなところだったんだよと言う後世代に残す
と言う意見も出るかもしれない。
けんけんがくがく、議論百出。
それぞれの思い描く里山のビジョンを語りあおう。
その内に朧気ながらでも、互いの里山のイメージを浮かんでくるのではないだろうか。
(未定稿)