鹿屋市の広告塔になったサンシャイン池崎が10月27日から11月13日にかけて東京の東急田園都市線の一部車両を借り切って行った「電車ジャック」という鹿屋市の知名度アップのためのイベントの再現が、鹿屋市鉄道記念館で昨日から始まった。
鹿屋市鉄道記念館はシルバー人材センターが管理を委任されており、その関係で1か月置きに8日くらい勤務しているのだが、ちょうど29日は勤務日に当たっていた。
サンシャイン池崎はお笑い芸人だが、保護猫活動でも知られており、今やむしろそっちの方がテレビ番組ではメインの仕事になっているようだ。
そのサンシャインが得意なのが一発芸としての奇声「イエ――イ」の叫びで、これがどう受けたのかよく分からないのだが、評判を得て全国区の芸人、というか、タレントになった。
そもそも電車ジャックというものを知らなかったので興味があったが、今度の「鹿屋市版電車ジャック展」の展示を見て了解した。
「キハ20 441」というディーゼル客車の中の網棚の上の細長い壁にはすべて「巨匠池崎」の顔写真と「イエ―イ」をコンセプトにした宣伝文句が書き連ねてあり、これでもかこれでもかのジャックぶりである。
ディーゼル車の進行方向の反対側には鹿屋女子高の美術部とコラボした油絵と小品が飾ってあり、こちらはちょっとした美術展の雰囲気だ。
12月20日まで展示するそうであるから、街なかに用事のある際は立ち寄るのも一興だろう。鉄道記念館を含めて観覧は無料である。
ところで鹿屋市鉄道記念館だが、この建物は大隅線が廃線となった昭和62(1987)年の翌年に建てられいる。
かつては大隅線各駅(有人駅)でも廃線後には何らかの記念物の展示施設があったのだが、37年後の現在では常時施設管理者がいるのはここだけになってしまった。
無人駅だったところは今はちょっとした公園になっているところが多い。当時をしのぶのよすがは、ホームだったり線路だったり踏切の警報器だったりといろいろだ。
歴史的な視点で見ると廃線からこのかた、たかだか37年でしかないのだが、日常的にかけがえのなかったにもかかわらず消えてしまった鉄道への哀惜は今でも根強い。
ここで大隅線の簡単な歴史を箇条書きに記しておきたい。
大正4年(1915) 鹿屋ー高須開通(南隅軽便鉄道)
同 9年(1920) 鹿屋ー高山開通(大隅鉄道=軽便)
同 10年(1921)鹿屋ー串良開通(軽便仕様)
同 12年(1923)高須ー古江開通(軽便仕様)
※古江から鹿屋経由で串良まで31キロ余。線路の幅は軽便仕様の762ミリ
昭和10年(1935)古江から串良までが国有化され「古江線」となる。
同 11年(1936)志布志からの鉄路が串良まで伸びる。
※古江から串良まで31キロが古江西線、志布志から串良まで17キロが古江
西線と改称される。
同 13年(1938)古江西線が古江東線と同じ軌間の1067ミリになり、志布志
と古江を結ぶ線路幅が統一され全体が「国鉄古江線」と呼ばれる。
同 36年(1961)古江から垂水市の海潟まで17キロが延伸される。
同 47年(1972)海潟(温泉駅)から国分まで33.5キロが延伸され、志布志
から国分までの98.3キロ(33駅)が「国鉄大隅線」と改称される。
同 62年(1987)特定地方交通線(赤字廃止対象路線)として廃止され、国
鉄民営化の犠牲となった。
大隅半島に鉄道があったのは大正5年(1915)から昭和62年(1987)の72年間であったが、垂水から国分まで伸びた鉄路はわずか15年で消えたことになる。ああ、惜しむべし。
こんな過去を持つ大隅線を偲んで私は「思い出の大隅線」という曲を作った。
※Youtubeにアップしてあるので聴いて下さい。
『思い出の大隅線』(詞曲唄:松下高明)(https://youtu.be/yVUBSUZWA4g?si=xZ29lzjMWu8s5lK7)・・・URLをペーストして右クリックし、さらに「移動」を左クリックしてアップする。