鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

初霜(2024.12.09)

2024-12-09 09:31:20 | おおすみの風景
昨日は日中寒く、風もそこそこに吹いていたが、夕方以降はほとんど無風になった。

天気が良ければ降ると思っていたが、案の定、今朝は氷点下まで気温が下がり、霜の朝となった。

7時に玄関前の気温は1℃、おそらく日の出直前の最低気温はマイナスだったろう(後の地元の天気予報ではマイナス1度だったそうである)。

南側の畑地帯を見ると、朝焼けの中、畑土一面を薄い霜が覆い尽くしている。風は全くないが、デジカメを持つ手がかじかんで来る。

菜園のブロッコリーの大きな葉にもうっすらと霜が降りた。

今年は10月に入ってから苗を植えたのだが、その10月の気温がとても高く、高温障害で葉に茶色の枯れが見えたのでダメかと思ったのだが、何とか持ち直して、今ようやく株の中心に花芽が育って来た。

どうやら年末には収穫できそうだ。

この寒さで一番喜んでいる(?)のがアブラナ科のダイコンとハクサイだろう。

ダイコンは太くなるというよりは、寒さで中身が緻密になり、その分甘みが増すし、ハクサイも寒さで緑の葉よりも芯の方がしまってきて、煮るとうまみが出る。

どちらも種からだが、やはり10月の暑さには相当へばっていた。ハクサイはとくに葉を虫にやられ穴だらけになっている。

畑から目を垣根に転じたら、さざんかが一輪、濃い葉っぱの中に満開だった。

イルミネーションもいいが、自然界の電飾も乙なものだ。



快適トイレ!?

2024-12-04 10:50:30 | おおすみの風景
我が家の隣りの地区の農道の整備事業が始まったらしく、いつもの愛犬ウメの散歩コースから少し離れた場所の畑を整地して工事現場事務所が建てられた。

珍しいというか、自動販売機が広い道路に向かって置かれている。
普通は現場事務所の建つ敷地内に置かれ、作業に当たる人たちの喉を潤すためのものだ。

それが敷地内から出て、道路に面した置かれ方をしている。ということは道路の通行人の利用を見込んでいるわけで、ある意味で、商魂たくましい。

しかし道路に沿ったフェンスの敷地の入り口に近いところまで行くと、思わず吹き出しそうな看板が立っていた。
「快適トイレ」というタイトルの看板だ。

しかも「一般の方もご自由にご利用ください。」とあるではないか。

左側の看板の内容はよくある事業所の勤務体制をうたったものだが、右のは初めて目にする看板である。

勤務体制云々の看板はおそらく建設現場等の勤務に関する法律が定められ、そのために一般人にもわかりやすくするためのものに違いないが、「快適トイレ」云々はどうなんだろう。

そのような法令があったとは寡聞にして知らない。

それともこの工事現場を任された建設業者独自のサービスなのか。

後者なら事業者の懐の広さを感じざるを得ないが、はて、実際に通行人でこの「快適トイレ」を利用しようとする者がいるのか。

工事期間中の期間限定の「快適トイレ」だが、ユーモアがあり、かつ勇気があり、かつ必要に迫られた通行人は何人いるのだろうか。

何にしても面白い看板だ。



電車ジャック「池崎イエエエエーイ!!展」始まる

2024-11-30 10:56:56 | おおすみの風景
 鹿屋市の広告塔になったサンシャイン池崎が10月27日から11月13日にかけて東京の東急田園都市線の一部車両を借り切って行った「電車ジャック」という鹿屋市の知名度アップのためのイベントの再現が、鹿屋市鉄道記念館で昨日から始まった。


鹿屋市鉄道記念館はシルバー人材センターが管理を委任されており、その関係で1か月置きに8日くらい勤務しているのだが、ちょうど29日は勤務日に当たっていた。

サンシャイン池崎はお笑い芸人だが、保護猫活動でも知られており、今やむしろそっちの方がテレビ番組ではメインの仕事になっているようだ。

そのサンシャインが得意なのが一発芸としての奇声「イエ――イ」の叫びで、これがどう受けたのかよく分からないのだが、評判を得て全国区の芸人、というか、タレントになった。

そもそも電車ジャックというものを知らなかったので興味があったが、今度の「鹿屋市版電車ジャック展」の展示を見て了解した。

「キハ20 441」というディーゼル客車の中の網棚の上の細長い壁にはすべて「巨匠池崎」の顔写真と「イエ―イ」をコンセプトにした宣伝文句が書き連ねてあり、これでもかこれでもかのジャックぶりである。

ディーゼル車の進行方向の反対側には鹿屋女子高の美術部とコラボした油絵と小品が飾ってあり、こちらはちょっとした美術展の雰囲気だ。

12月20日まで展示するそうであるから、街なかに用事のある際は立ち寄るのも一興だろう。鉄道記念館を含めて観覧は無料である。

ところで鹿屋市鉄道記念館だが、この建物は大隅線が廃線となった昭和62(1987)年の翌年に建てられいる。

かつては大隅線各駅(有人駅)でも廃線後には何らかの記念物の展示施設があったのだが、37年後の現在では常時施設管理者がいるのはここだけになってしまった。

無人駅だったところは今はちょっとした公園になっているところが多い。当時をしのぶのよすがは、ホームだったり線路だったり踏切の警報器だったりといろいろだ。

歴史的な視点で見ると廃線からこのかた、たかだか37年でしかないのだが、日常的にかけがえのなかったにもかかわらず消えてしまった鉄道への哀惜は今でも根強い。

ここで大隅線の簡単な歴史を箇条書きに記しておきたい。

大正4年(1915) 鹿屋ー高須開通(南隅軽便鉄道)
同 9年(1920) 鹿屋ー高山開通(大隅鉄道=軽便)
同 10年(1921)鹿屋ー串良開通(軽便仕様)
同 12年(1923)高須ー古江開通(軽便仕様)
 ※古江から鹿屋経由で串良まで31キロ余。線路の幅は軽便仕様の762ミリ
  昭和10年(1935)古江から串良までが国有化され「古江線」となる。
同 11年(1936)志布志からの鉄路が串良まで伸びる。
 ※古江から串良まで31キロが古江西線、志布志から串良まで17キロが古江
  西線と改称される。
同 13年(1938)古江西線が古江東線と同じ軌間の1067ミリになり、志布志
 と古江を結ぶ線路幅が統一され全体が「国鉄古江線」と呼ばれる。
同 36年(1961)古江から垂水市の海潟まで17キロが延伸される。
同 47年(1972)海潟(温泉駅)から国分まで33.5キロが延伸され、志布志
 から国分までの98.3キロ(33駅)が「国鉄大隅線」と改称される。
同 62年(1987)特定地方交通線(赤字廃止対象路線)として廃止され、国 
 鉄民営化の犠牲となった。

大隅半島に鉄道があったのは大正5年(1915)から昭和62年(1987)の72年間であったが、垂水から国分まで伸びた鉄路はわずか15年で消えたことになる。ああ、惜しむべし。

こんな過去を持つ大隅線を偲んで私は「思い出の大隅線」という曲を作った。

※Youtubeにアップしてあるので聴いて下さい。
『思い出の大隅線』(詞曲唄:松下高明)(https://youtu.be/yVUBSUZWA4g?si=xZ29lzjMWu8s5lK7)・・・URLをペーストして右クリックし、さらに「移動」を左クリックしてアップする。


夏日がさらに更新

2024-11-15 09:54:52 | おおすみの風景
今朝の新聞によれば、県都鹿児島市ではこれまでに夏日(最高気温25度以上)が189日になったとあり、年間の夏日が一年のうちの半分をはるかに超えてしまった。

大隅の鹿屋地区でもそこまではないが、おそらく100日くらいにはなったと思われる。

11月に入ってから夏日は2日くらいで、10日以降は最高気温25℃を下回る日が続く。

それでもこの頃は湿度の多い曇り空で、ときおり日が差すとかなり暑苦しい。

今月は鹿屋市の鉄道記念館でシルバーの仕事があり、来館者の中に大阪や千葉県などからの遠出組がいて、話を聞くと「やはり、暑いですね」と言われる。

大隅半島から大隅線98キロと志布志線38キロの鉄路と39の駅が消えて37年になるが、記念館として管理人がいるのはもうここだけになった。

昨日はたまたま長崎県でかつて鉄道マンだった人と、地元大隅で鉄道マンだった人が来館したが、館内を案内するこちらの方が勉強になった。

どちらも国鉄が民営化される前に勤めていた人で、その後の身の振り方は明かさなかったが、それぞれに苦労があったに違いない。


昨夜からの小雨は菜園をほど良く湿らせてくれた。

9月一杯続いたうだるような暑さは、その前に蒔いたダイコンにしろハクサイにしろ高温によるダメージを与え続け、ひょっとしたら育たないのではと思っていたのだが、10月の中旬以降は持ち直し、ようやく一息ついた感がする。

巻き始めたハクサイ。葉っぱに虫食いが多いがめげずに育っている。ダイコンも太さ2寸くらいのが地上に立ち上がって来た。

虫食いの全くないのがサニーレタスで、サラダ用に重宝している。

花の方も暑さの影響だろう、真夏日の下で咲き誇っていた鳳仙花のこぼれ種が芽を出し、十分な大きさになってまた咲いている。

向こうに見えるのはポーチュランカだが、これもこぼれ種からの二番手だ。だが太陽光をめっぽう好むタイプだから、花が哀れなくらい小さくなっている。

どちらも高温性の花だが、いつまで咲き続けるだろうか。

115回目の吾平町敬老会

2024-11-04 09:34:43 | おおすみの風景
毎年11月の第1日曜日、鹿屋市吾平町では合併前の旧町時代から文化祭が行われていて本年で46回目、今年も「美(うまし)里うたごえ同好会」の一員として参加した。

去年からは、毎年10月の最終日曜日に開催されていた敬老会がこの文化祭と合同で行われるようになった。

吾平町単独での敬老会は今年で何と115回を数えるそうだ。単純に引き算すると最初の開催は1909年、明治32年ということになる。途中、戦時中で開催不可能の年もあったろうから、もう少し前から行われていたに違いない。

とにかく古い。明治の30年というと吾平町がまだ姶良村だった時代だ。

もしかしたら敬老会はまだ現在の吾平町域全体で催されていたのではなかったかもしれない。今の大字で言うと麓、上名、下名・・・という小村単位だったのではないか。

その小村単位が合併して「姶良村」になり、「敬老こそが村是」という指導者の下、各大字単位で行われていた敬老会が合同で催されることになった。それも明治の「大合併」の余波だったのだろう。

敬老の理念がこれほど長く自治体で続いた例は寡聞にして知らないが、戦後になって、たしか兵庫県の某町で長く続く「老人の日」が毎年9月15日に行われていたのを参考に政府が採用して「敬老の日」が制定されたと聞くが、その某町の敬老会はいつから始まっていたのだろうか。

おそらく明治からではあるまい。吾平町(姶良村)こそが先駆者だったと思われる。

その穿鑿は置くとして、吾平町がなぜ姶良町ではないのか。吾平町を流れる母なる川は「姶良川」であり、明治20年代はまだ姶良郷であり、確実に江戸時代から続いている地名である。

(※もっと古いことを言えば、「あいら」を「姶﨟郷(姶羅郡)」と書いているのが『倭名類聚抄』の郡郷一覧中の大隅国の地名に登場する。この類聚抄が著されたのは平安時代前半で、約1100年前のこと。)

それを「吾平町」に改めたのは戦後の昭和22年のことだった。

というのも現在の姶良市の前身が「姶良郡姶良町」だったからである。向こうにも「姶良」こっちも「姶良」では紛らわしいとのことで、こちらには同じ「あいら」でも日本書紀に「吾平津媛」という女性の故事があり、「吾平」を名乗ることにしたのである。

37年前の昭和62年(1987年)に廃線になった国鉄大隅線の駅に「姶良駅」があったのだが、この駅名も同じ理由で「吾平駅」に変更されている。

幾多の郷村、市町村の合併等の変遷を経ても、吾平町の旧村時代に開始された敬老会が115年以上も続いているというのは奇跡に近い。

大ホールでは午前9時から10時までが「敬老会式典」で、そのあと吾平の小中学校生徒の合唱や吹奏楽演奏があり、引き続いて各サークルによる文化祭の舞台発表が行われた(会場を半分に仕切った片方は作品展示)。

発表するサークルではとにかく舞踊が多い。その参加者はほとんどが女性である。長生きする理由の一つがここにある。