景行天皇の時代には大きな存在として「英雄時代の寵児」とも言うべきヤマトタケルが西に東に大活躍した。
ヤマトタケルが征伐したのは西は「クマソ(熊曽)」、東は「エミシ(蝦夷)」で、4世紀に入って日本列島という大きな舞台が認識されつつあった時代を反映している。
しかし西の「クマソ征伐」については「記紀点描⑭ヤマトタケル」で述べたように、極めて抽象的な(おとぎ話的な)描写が多く、実際に征伐しに行ったのか疑問の起こるところである。
それに対して東国のエミシ征伐では、日本書紀によれば(景行天皇紀25年及び27年条)、北陸と東国へ武内宿祢が巡見(下見)に行っているのである。帰京した武内宿祢は景行天皇に「東に日高見国があり、そこに住むのは勇猛な蝦夷と言います。撃つべきでしょう」と進言している(27年2月条)。
ならばすぐにでも蝦夷を撃つかと思えば、その8月に「クマソが背き、辺境を侵略している」という理由だけでヤマトタケルをクマソ征討に向かわせている。
つまり武内宿祢は東国の蝦夷を撃つべきだと言っているのに、クマソを先に撃っているのだ。なぜ武内宿祢を東国ではなく、それより前に南九州巡見に派遣しなかったのであろうか。
景行天皇の28年にはヤマトタケルがクマソ征伐から帰還し、復命するが、その後の40年条の記述で初めて「東の夷(ひな=蝦夷)、 多く叛き、辺境に騒動が起きている」と記し、ヤマトタケルを征伐に派遣する段取りとなる。
(※この時の「征討の大義」が 長々と500字にもわたって述べられている――とは「記紀点描⑭ヤマトタケル」において指摘した。それに比べると南九州のクマソ征伐については「朝貢しない。背いた」だけの「大義」しかなく、クマソ征伐は造作だろうとも指摘した。)
ところで、ヤマトタケルの東国(エミシ)征伐を進言した武内宿祢とはどんな人物なのだろうか。
武内宿祢は本来「タケシウチノスクネ」と「シ」が入るのだが、一般には「タケウチノスクネ」と呼んで怪しまない。「タケウチ」というと熟語「武内」とひと固まりなので見過ごしてしまうのだが、「タケシウチ」だと「武の内」となり、「武=南九州」の「内=ウツ」の出身であることを示している。
つまり武内宿祢とは「南九州(武)のウツ」の出身であるということである。「ウツ」は南九州では「宇都」と書き、「ウト」と呼んでいるのだが、本来は「ウツ」である。古語で「ウツ」は「全剥ぎ」という時の「全」に相当し、「全部、全き」の意味で、「何事も揃っている、完結している」を意味する。
要するに「生活に必要なものがすべて揃っている状態(の地)」だということである。そのような土地の候補地として、南九州では川内平野(薩摩川内市)、肝属平野(鹿屋市から肝付町)、宮崎平野などが挙げられる。いずれも大河の流域であり、海にも近く、「海幸・山幸」に恵まれたところである。
武内宿祢の出自が南九州であれば、「南九州のクマソを巡見した結果、背いているから撃つべし」と武内自身がそう言うことは文脈上不可能であろう。
景行28年のヤマトタケルのクマソ征伐の前年に、「エミシの国を撃つべし」と武内が進言しながら、実際にはヤマトタケルがクマソを撃ちに行っているという記述は、武内自身が南九州を征伐するよう命ぜられることを回避するためのものであろう。
早い話が、武内宿祢こそが南九州クマソ出身だったのである。
武内宿祢は古事記の景行天皇紀には全く姿を見せないのだが、書紀では景行天皇の3年条に誕生記事が載せられ、その後は上述の25年と27年に「北緯および東国巡見をして、蝦夷を征伐すべき」との進言をしたという事績がある。
奇妙なのは「東国(蝦夷)征伐」を進言した武内宿祢と、それを受けて実際に派遣されたヤマトタケルとの交流が全く無いことである。同時代に同じ天皇に仕え、あるいは皇子として天皇の傍にいたはずの両者に何の交渉も交流もないのである。
仮に両者とも造作であるにしても、「ヤマトタケルが出陣する時に武内宿祢が前途の無事を祈った」などという文脈上の設定を施せば、造作なりに相応の効果はあっただろうに、それらは一切見えないのだ。
ここは首を傾げざるを得ないところである。
ここで整合性を得るには、ヤマトタケルとは武内宿祢の分身ではなかったという視点が必要かもしれない。
景行天皇の時代、同時代的にに極めて大きな働きをした二人の人物が「互いに素」(クロスしない)の関係にある、ということはつまるところ同一人物であった可能性が高い。
そう考えると、ヤマトタケルのクマソ征伐のおとぎ話的要素、すなわちクマソタケルから「タケル」名を賜名されたという下位の者からの有り得ないプレゼントも了解される。
(※武内宿祢の出自については古事記の「(第8代)孝元天皇記」に詳しい。それによると孝元天皇の皇子の一人「比古布都押之信(ヒコフツオシマコト)」が紀ノ国造の先祖である「宇豆比古(うずひこ)」の妹・山下影ヒメを娶って生まれたのが武内宿祢だとしている。武内宿祢は第8代孝元天皇の男系の孫であった。また、子孫についても子が9人あり、その一人一人を紹介しているのは皇孫の一員であるとしても異例である。)
ヤマトタケルが征伐したのは西は「クマソ(熊曽)」、東は「エミシ(蝦夷)」で、4世紀に入って日本列島という大きな舞台が認識されつつあった時代を反映している。
しかし西の「クマソ征伐」については「記紀点描⑭ヤマトタケル」で述べたように、極めて抽象的な(おとぎ話的な)描写が多く、実際に征伐しに行ったのか疑問の起こるところである。
それに対して東国のエミシ征伐では、日本書紀によれば(景行天皇紀25年及び27年条)、北陸と東国へ武内宿祢が巡見(下見)に行っているのである。帰京した武内宿祢は景行天皇に「東に日高見国があり、そこに住むのは勇猛な蝦夷と言います。撃つべきでしょう」と進言している(27年2月条)。
ならばすぐにでも蝦夷を撃つかと思えば、その8月に「クマソが背き、辺境を侵略している」という理由だけでヤマトタケルをクマソ征討に向かわせている。
つまり武内宿祢は東国の蝦夷を撃つべきだと言っているのに、クマソを先に撃っているのだ。なぜ武内宿祢を東国ではなく、それより前に南九州巡見に派遣しなかったのであろうか。
景行天皇の28年にはヤマトタケルがクマソ征伐から帰還し、復命するが、その後の40年条の記述で初めて「東の夷(ひな=蝦夷)、 多く叛き、辺境に騒動が起きている」と記し、ヤマトタケルを征伐に派遣する段取りとなる。
(※この時の「征討の大義」が 長々と500字にもわたって述べられている――とは「記紀点描⑭ヤマトタケル」において指摘した。それに比べると南九州のクマソ征伐については「朝貢しない。背いた」だけの「大義」しかなく、クマソ征伐は造作だろうとも指摘した。)
ところで、ヤマトタケルの東国(エミシ)征伐を進言した武内宿祢とはどんな人物なのだろうか。
武内宿祢は本来「タケシウチノスクネ」と「シ」が入るのだが、一般には「タケウチノスクネ」と呼んで怪しまない。「タケウチ」というと熟語「武内」とひと固まりなので見過ごしてしまうのだが、「タケシウチ」だと「武の内」となり、「武=南九州」の「内=ウツ」の出身であることを示している。
つまり武内宿祢とは「南九州(武)のウツ」の出身であるということである。「ウツ」は南九州では「宇都」と書き、「ウト」と呼んでいるのだが、本来は「ウツ」である。古語で「ウツ」は「全剥ぎ」という時の「全」に相当し、「全部、全き」の意味で、「何事も揃っている、完結している」を意味する。
要するに「生活に必要なものがすべて揃っている状態(の地)」だということである。そのような土地の候補地として、南九州では川内平野(薩摩川内市)、肝属平野(鹿屋市から肝付町)、宮崎平野などが挙げられる。いずれも大河の流域であり、海にも近く、「海幸・山幸」に恵まれたところである。
武内宿祢の出自が南九州であれば、「南九州のクマソを巡見した結果、背いているから撃つべし」と武内自身がそう言うことは文脈上不可能であろう。
景行28年のヤマトタケルのクマソ征伐の前年に、「エミシの国を撃つべし」と武内が進言しながら、実際にはヤマトタケルがクマソを撃ちに行っているという記述は、武内自身が南九州を征伐するよう命ぜられることを回避するためのものであろう。
早い話が、武内宿祢こそが南九州クマソ出身だったのである。
武内宿祢は古事記の景行天皇紀には全く姿を見せないのだが、書紀では景行天皇の3年条に誕生記事が載せられ、その後は上述の25年と27年に「北緯および東国巡見をして、蝦夷を征伐すべき」との進言をしたという事績がある。
奇妙なのは「東国(蝦夷)征伐」を進言した武内宿祢と、それを受けて実際に派遣されたヤマトタケルとの交流が全く無いことである。同時代に同じ天皇に仕え、あるいは皇子として天皇の傍にいたはずの両者に何の交渉も交流もないのである。
仮に両者とも造作であるにしても、「ヤマトタケルが出陣する時に武内宿祢が前途の無事を祈った」などという文脈上の設定を施せば、造作なりに相応の効果はあっただろうに、それらは一切見えないのだ。
ここは首を傾げざるを得ないところである。
ここで整合性を得るには、ヤマトタケルとは武内宿祢の分身ではなかったという視点が必要かもしれない。
景行天皇の時代、同時代的にに極めて大きな働きをした二人の人物が「互いに素」(クロスしない)の関係にある、ということはつまるところ同一人物であった可能性が高い。
そう考えると、ヤマトタケルのクマソ征伐のおとぎ話的要素、すなわちクマソタケルから「タケル」名を賜名されたという下位の者からの有り得ないプレゼントも了解される。
(※武内宿祢の出自については古事記の「(第8代)孝元天皇記」に詳しい。それによると孝元天皇の皇子の一人「比古布都押之信(ヒコフツオシマコト)」が紀ノ国造の先祖である「宇豆比古(うずひこ)」の妹・山下影ヒメを娶って生まれたのが武内宿祢だとしている。武内宿祢は第8代孝元天皇の男系の孫であった。また、子孫についても子が9人あり、その一人一人を紹介しているのは皇孫の一員であるとしても異例である。)