【伽耶王・仲哀天皇に嫁した神功皇后】
武内宿祢は腹違いのウマシウチノスクネに「筑紫を倭国から分離し、さらに三韓(馬韓・弁韓・辰韓)を味方に引き入れ、ついには天下を取るつもりのようです」と応神天皇に讒言される(応神天皇9年条)ほど、筑紫では大きな勢力であった。
この讒言により誅殺されかけた武内は、「壱岐直の祖・真根子」が身代わりになって自死した間に、「船で南海を巡って」紀国に到って難を逃れている。
武内宿祢の身代わりになった「壱岐直の祖・真根子」とは「壱岐の根子」すなわち壱岐国の土着の王という意味であるから、これは神功皇后の父・気長宿禰王と重なる人物である。(※この真根子は武内宿祢と瓜二つであったという。武内とは母系のつながりであろうか。)
さて、ウマシウチノスクネの讒言にあったように、武内宿祢は筑紫はもとより、海峡を越えた三韓にも通じていた。武内宿祢も海を越えて任那(弁韓)に行っていた可能性もある。そして現地のフタジノイリヒメに子を産ませたのかもしれない。それがタラシナカツヒコこと仲哀天皇ではなかったか。
「足仲彦(タラシナカツヒコ)」は「仲(なか)を統治した王」と解釈できる。この「仲」とは、三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の中に位置する弁韓、すなわち伽耶のことで、仲哀はそこの王であったのではないか。
この仲哀に壱岐の島から嫁いだのが「イキナガタラシヒメ」こと神功皇后だったのだろう。
仲哀天皇の崩御年は書紀によると「壬戌(ジンジュツ)の年」で、西暦362年が該当する。この時代の三韓では、馬韓が百済に統一され、辰韓が新羅に統一されるというまさに一大混乱期であった。
その混乱状態の中で馬韓と辰韓の中間にあった弁韓も、おおいに揺れ動いていたはずである。
この百済と新羅の間にあった弁韓は「任那」(伽耶国)となるわけだが、特に新羅とは不仲に成りつつあった。その新羅と筑紫(九州島)のクマソが連携したら、伽耶国にとっては大きな脅威になるのは明らかであった。
【仲哀天皇の筑紫への渡来】
そこで仲哀天皇は海峡を渡ってクマソを征伐しようとした。
仲哀天皇の8年条に、
「春正月、筑紫に出でます。時に岡の県主の祖・熊鰐(くまわに)、天皇の車駕を聞きて、・・・(中略)、周芳(すおう)の沙麼(さば=佐波)の浦に参上せり。」
とあるが、福岡県の遠賀川河口の岡地方の県主の熊鰐が、周防(山口県南部)の佐波に出迎えの船を出したとある。
ところが仲哀天皇は前年の9月、すでに瀬戸内海を通って長門(山口県西部)に豊浦宮を造営していたと、仲哀紀には記されている。
ここは首をかしげるところで、時系列から言うと、熊鰐は仲哀天皇が大和方面から長門豊浦宮に到達する前に、より大和に近い周防の佐波に出迎えていなければつじつまが合わないのである。
ところが仲哀天皇が半島南部からやって来たのであれば話は合う。長門に渡来した仲哀天皇一行に対して岡の県主熊鰐が、もうそれ以上大和へ(東へ)は行かせないと行く手を阻んだのだろう。
では、仲哀天皇は半島南部のどこの港から船出をしたのだろうか?
話は前後するが、その答えは仲哀3年条にある。
仲哀天皇の3年条は臣下である武内宿祢の誕生記事である。臣下の誕生を載せるのは他にない稀な記事なのだが、その中で仲哀天皇が紀伊国から船出をしたのが「徳勒津(トクロツ)」であった。
この徳勒津は岩波本の注釈では和歌山市の「得津・薢津(とくつ)」ではないかと比定しているが、それでは「勒(ろ)」が抜けてしまう。
これに対して、私は弁韓の一国「弁辰瀆盧国」の港ではないかと考えたい。「弁辰」は弁韓が辰韓から分離したことを表す書き方で、これは無視してかまわない。残りの「瀆盧国(とくろこく)」を俎上に載せると、「徳勒津」とは「瀆盧津」すなわち瀆盧国の港のことではないかと思い至るのである。
書紀は仲哀天皇が即位したときの王宮名は記さず、いきなり2年2月に角鹿(敦賀)に行幸して「笥飯(けひ)宮」を建て、3月にはこれも理由は示さず、皇后一行を角鹿に置いたまま、紀伊国に行き、「徳勒津宮」を造営している。
そしてまさにこの時に「クマソが叛(そむ)いた」と書かれ、天皇自ら船出して穴門に到り、そこでようやく皇后たちを角鹿(敦賀)から呼び寄せている。
ところでこの角鹿こそ、垂仁天皇紀によると「大加羅国(弁韓=任那)の王子ツヌカアラシト」が漂着したことに因む地名であった。
ここに「笥飯(けひ)宮」を造営したということは、仲哀天皇自身が大加羅国すなわち弁韓の出身であったことを示唆している。そして神功皇后をその角鹿から呼び寄せたということは、皇后を弁韓から呼び寄せたという含意だろう。
要するに仲哀天皇と神功皇后は半島南部の弁韓の支配者であり、そこから九州島に渡来したことを表明しているのである。
【北部九州の詳細な描写と大和周辺の空疎な描写】
仲哀天皇の即位に当たっては、前々代の景行天皇が最期を迎えた志賀(大津市)の高穴穂宮も、崇神王建以降の大和纏向(磯機)の宮も登場せず、2年になっていきなり登場するのが、大加羅国(弁韓=任那)から渡来したツヌカアラシト王子が漂着したことに因む「角鹿」の笥飯(けひ)宮であった。
3年条では、これもいきなり「南国に巡狩して、紀伊国に至り、そこに徳勒津(トクロツ)の宮を建てた」とあり、その時にクマソが反したので征伐に行くーーというストーリーになっている。しかもこの時は天皇のほぼ単独行で穴門(長門)の豊浦宮に到り、その後、角鹿に置いたままだった皇后や百官を豊浦宮に呼び寄せている。
天皇が角鹿(敦賀)から紀伊に行く途中には、志賀(大津)があり、大和がある。せめてそこまで皇后たちを一緒に連れてきて、大和の纏向宮などにとどめおいてから紀伊に行くのであればまだしも、皇后たちを角鹿に置いたままというのは全く解せない。
天皇にしても皇后にしても大和周辺における存在感は、書紀の描写からは微塵も感じられないのである。
仲哀天皇は、即位時に大和存在を思わせるものは何もなく、角鹿(敦賀)と紀伊のみ。そして、死して後に皇后が新羅から凱旋後に大和に入った時、亡骸を河内の長野御陵に葬ったことだけが見えるだけで、あとはすべて長門(山口県西部)と橿日宮(福岡市)においてクマソ征伐の準備をする場面だけである。
神功皇后も、凱旋後に「磐余に都を造る。(割注)これを若桜宮という」(3年条)とあり、また死亡後に「狭城盾列陵(さきのたたなみりょう)に葬りまつる」と見えるだけである。(※磐余は大和の中心部。狭城盾列陵は奈良市郊外)
仲哀天皇は、橿日宮滞在中に神の罰を受けて死んだとも、クマソとの交戦で死んだともいわれ、北部九州でも存在感は小さい。その一方で、神功皇后は極めて大きな存在感を示している。
皇后に関して大和周辺では角鹿(敦賀)以外に所縁の地名はないのだが、北部九州では微に入り際にわたる。
長門(山口県西部)、名護屋、モトリ島、アベ島、シバ島、逆見海、山鹿岬、洞海、五十、引島、松浦川・・・と佐賀県北西部から福岡県の北東部まで、古代の地理を学べるほど多量の地名が皇后の行動範囲に取り入れられている。
神功皇后が壱岐の島の出身であれば、このような北部九州の土地名はかなり親しんでいたのではないだろうか。
その皇后が半島南部の弁韓王だったタラシナカツヒコこと仲哀天皇に嫁ぎ、4世紀前半、勃興して来た新羅との紛争を経験し、やがて半島情勢の逼迫によって筑紫(九州島)に渡来したのだろう。
そう考えると、もともと弁韓の出身であれば、大和における異常なまでの存在感の薄さの説明がつく。
武内宿祢は腹違いのウマシウチノスクネに「筑紫を倭国から分離し、さらに三韓(馬韓・弁韓・辰韓)を味方に引き入れ、ついには天下を取るつもりのようです」と応神天皇に讒言される(応神天皇9年条)ほど、筑紫では大きな勢力であった。
この讒言により誅殺されかけた武内は、「壱岐直の祖・真根子」が身代わりになって自死した間に、「船で南海を巡って」紀国に到って難を逃れている。
武内宿祢の身代わりになった「壱岐直の祖・真根子」とは「壱岐の根子」すなわち壱岐国の土着の王という意味であるから、これは神功皇后の父・気長宿禰王と重なる人物である。(※この真根子は武内宿祢と瓜二つであったという。武内とは母系のつながりであろうか。)
さて、ウマシウチノスクネの讒言にあったように、武内宿祢は筑紫はもとより、海峡を越えた三韓にも通じていた。武内宿祢も海を越えて任那(弁韓)に行っていた可能性もある。そして現地のフタジノイリヒメに子を産ませたのかもしれない。それがタラシナカツヒコこと仲哀天皇ではなかったか。
「足仲彦(タラシナカツヒコ)」は「仲(なか)を統治した王」と解釈できる。この「仲」とは、三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の中に位置する弁韓、すなわち伽耶のことで、仲哀はそこの王であったのではないか。
この仲哀に壱岐の島から嫁いだのが「イキナガタラシヒメ」こと神功皇后だったのだろう。
仲哀天皇の崩御年は書紀によると「壬戌(ジンジュツ)の年」で、西暦362年が該当する。この時代の三韓では、馬韓が百済に統一され、辰韓が新羅に統一されるというまさに一大混乱期であった。
その混乱状態の中で馬韓と辰韓の中間にあった弁韓も、おおいに揺れ動いていたはずである。
この百済と新羅の間にあった弁韓は「任那」(伽耶国)となるわけだが、特に新羅とは不仲に成りつつあった。その新羅と筑紫(九州島)のクマソが連携したら、伽耶国にとっては大きな脅威になるのは明らかであった。
【仲哀天皇の筑紫への渡来】
そこで仲哀天皇は海峡を渡ってクマソを征伐しようとした。
仲哀天皇の8年条に、
「春正月、筑紫に出でます。時に岡の県主の祖・熊鰐(くまわに)、天皇の車駕を聞きて、・・・(中略)、周芳(すおう)の沙麼(さば=佐波)の浦に参上せり。」
とあるが、福岡県の遠賀川河口の岡地方の県主の熊鰐が、周防(山口県南部)の佐波に出迎えの船を出したとある。
ところが仲哀天皇は前年の9月、すでに瀬戸内海を通って長門(山口県西部)に豊浦宮を造営していたと、仲哀紀には記されている。
ここは首をかしげるところで、時系列から言うと、熊鰐は仲哀天皇が大和方面から長門豊浦宮に到達する前に、より大和に近い周防の佐波に出迎えていなければつじつまが合わないのである。
ところが仲哀天皇が半島南部からやって来たのであれば話は合う。長門に渡来した仲哀天皇一行に対して岡の県主熊鰐が、もうそれ以上大和へ(東へ)は行かせないと行く手を阻んだのだろう。
では、仲哀天皇は半島南部のどこの港から船出をしたのだろうか?
話は前後するが、その答えは仲哀3年条にある。
仲哀天皇の3年条は臣下である武内宿祢の誕生記事である。臣下の誕生を載せるのは他にない稀な記事なのだが、その中で仲哀天皇が紀伊国から船出をしたのが「徳勒津(トクロツ)」であった。
この徳勒津は岩波本の注釈では和歌山市の「得津・薢津(とくつ)」ではないかと比定しているが、それでは「勒(ろ)」が抜けてしまう。
これに対して、私は弁韓の一国「弁辰瀆盧国」の港ではないかと考えたい。「弁辰」は弁韓が辰韓から分離したことを表す書き方で、これは無視してかまわない。残りの「瀆盧国(とくろこく)」を俎上に載せると、「徳勒津」とは「瀆盧津」すなわち瀆盧国の港のことではないかと思い至るのである。
書紀は仲哀天皇が即位したときの王宮名は記さず、いきなり2年2月に角鹿(敦賀)に行幸して「笥飯(けひ)宮」を建て、3月にはこれも理由は示さず、皇后一行を角鹿に置いたまま、紀伊国に行き、「徳勒津宮」を造営している。
そしてまさにこの時に「クマソが叛(そむ)いた」と書かれ、天皇自ら船出して穴門に到り、そこでようやく皇后たちを角鹿(敦賀)から呼び寄せている。
ところでこの角鹿こそ、垂仁天皇紀によると「大加羅国(弁韓=任那)の王子ツヌカアラシト」が漂着したことに因む地名であった。
ここに「笥飯(けひ)宮」を造営したということは、仲哀天皇自身が大加羅国すなわち弁韓の出身であったことを示唆している。そして神功皇后をその角鹿から呼び寄せたということは、皇后を弁韓から呼び寄せたという含意だろう。
要するに仲哀天皇と神功皇后は半島南部の弁韓の支配者であり、そこから九州島に渡来したことを表明しているのである。
【北部九州の詳細な描写と大和周辺の空疎な描写】
仲哀天皇の即位に当たっては、前々代の景行天皇が最期を迎えた志賀(大津市)の高穴穂宮も、崇神王建以降の大和纏向(磯機)の宮も登場せず、2年になっていきなり登場するのが、大加羅国(弁韓=任那)から渡来したツヌカアラシト王子が漂着したことに因む「角鹿」の笥飯(けひ)宮であった。
3年条では、これもいきなり「南国に巡狩して、紀伊国に至り、そこに徳勒津(トクロツ)の宮を建てた」とあり、その時にクマソが反したので征伐に行くーーというストーリーになっている。しかもこの時は天皇のほぼ単独行で穴門(長門)の豊浦宮に到り、その後、角鹿に置いたままだった皇后や百官を豊浦宮に呼び寄せている。
天皇が角鹿(敦賀)から紀伊に行く途中には、志賀(大津)があり、大和がある。せめてそこまで皇后たちを一緒に連れてきて、大和の纏向宮などにとどめおいてから紀伊に行くのであればまだしも、皇后たちを角鹿に置いたままというのは全く解せない。
天皇にしても皇后にしても大和周辺における存在感は、書紀の描写からは微塵も感じられないのである。
仲哀天皇は、即位時に大和存在を思わせるものは何もなく、角鹿(敦賀)と紀伊のみ。そして、死して後に皇后が新羅から凱旋後に大和に入った時、亡骸を河内の長野御陵に葬ったことだけが見えるだけで、あとはすべて長門(山口県西部)と橿日宮(福岡市)においてクマソ征伐の準備をする場面だけである。
神功皇后も、凱旋後に「磐余に都を造る。(割注)これを若桜宮という」(3年条)とあり、また死亡後に「狭城盾列陵(さきのたたなみりょう)に葬りまつる」と見えるだけである。(※磐余は大和の中心部。狭城盾列陵は奈良市郊外)
仲哀天皇は、橿日宮滞在中に神の罰を受けて死んだとも、クマソとの交戦で死んだともいわれ、北部九州でも存在感は小さい。その一方で、神功皇后は極めて大きな存在感を示している。
皇后に関して大和周辺では角鹿(敦賀)以外に所縁の地名はないのだが、北部九州では微に入り際にわたる。
長門(山口県西部)、名護屋、モトリ島、アベ島、シバ島、逆見海、山鹿岬、洞海、五十、引島、松浦川・・・と佐賀県北西部から福岡県の北東部まで、古代の地理を学べるほど多量の地名が皇后の行動範囲に取り入れられている。
神功皇后が壱岐の島の出身であれば、このような北部九州の土地名はかなり親しんでいたのではないだろうか。
その皇后が半島南部の弁韓王だったタラシナカツヒコこと仲哀天皇に嫁ぎ、4世紀前半、勃興して来た新羅との紛争を経験し、やがて半島情勢の逼迫によって筑紫(九州島)に渡来したのだろう。
そう考えると、もともと弁韓の出身であれば、大和における異常なまでの存在感の薄さの説明がつく。