鴨着く島

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「たかが神話」というなかれ(記紀点描⑰)

2021-09-22 16:56:30 | 記紀点描
日本の神話は古事記と日本書紀の「神代」に描かれており、とりわけ古事記の神話は微に入り細を穿つ神話で、その体系の完成度はおそらく世界でも例を見ないレベルである。

「別(こと)天津神」の「天御中主(アメノミナカヌシ)」以下の五代はどう見ても「宇宙生成」を表しているとしか思われないし、「神代七代」のイザナギ・イザナミ神話は地球の成り立ちを基にした神話だろう。

地球が成り立ってから「太陽ー月ー海原(地上)」という三分統治が始まったわけだが、これを日本神話では「アマテラスオオミカミーツキヨミノミコトースサノヲノミコト」と表している。

ここまでの書きぶりは「天文学」か「天体力学」の分野を知っていたかのようであるのは、まさに驚愕に値する。

スサノヲノミコトが統治する「海原(うなばら)」とは地上のことだが、地球の4分の3が海であることの表現だったのだろうか。また、地上の生物の起源はすべて海に求められるとは近代生物進化科学の教えるところだが、「海原」の「海」は「産み」に通じ、「原」は「腹」でもあることを思うと、まるで地球上の生物進化をあらかじめ知っていたかのような表現である。

和銅5年(712年)に古事記を編纂して時の元明天皇に上納したのは太安万侶であったが、「帝皇の日継(ひつぎ)」及び「先代の旧辞(ふること)」を読み習ったのは稗田阿礼であった。阿礼の読んだという「先代の旧辞」にそのようなことが書かれていたと考える他はない。

いったい誰がいつどこでその「旧辞(ふること)」を書き記しておいたのだろうか。実に興味の持たれるところだ。

さて古事記では天照大神と月読命とともに、イザナギ大神の禊によって生まれたスサノヲノミコトが「海原」を統治する前に、天照大神のいる高天原(たかまがはら=天上世界)に挨拶に行った際に乱暴狼藉を働いて高天原から追放され、いよいよ地上に降り立つ。

その降り立った先が出雲の国であった。

出雲神話はほぼ古事記の独壇場と言ってよい。日本書紀では出雲国内にスサノヲが降臨し、ヤマタノオロチの犠牲になりかけていたクシナダヒメを救い、出雲に定住したことまでは描かれているが、古事記には詳しく描かれている大国主(オオクニヌシ=オオナムチ)をめぐる説話、いわゆる「出雲神話」は除外されている。

この出雲神話こそ遠い昔から日本列島に暮らしてきた縄文人の姿を捉えているのだが、日本書紀は「国譲り」を何にもまして優先させている。

最近の研究で日本列島から発掘された縄文時代人、弥生時代人、古墳時代人の人骨から採取された遺伝子のゲノム解析によって、弥生時代人のルーツと古墳時代人のルーツは大陸及び朝鮮半島経由のものだろうと解明されつつある。

日本書紀の「国譲り説話」は、縄文人の世界であった日本列島すなわち「葦原中国(あしはらのなかつくに)」の基層に、弥生人・古墳人が被さって来た状況をうまく説明できるようだ。これこそが日本書紀の優先事項なのである。

(※ただ弥生人・古墳時代人と言っても、完全に倭人という種族を離れた者たちではない。以前のブログ「縄文時代早期文化の崩壊と拡散」で述べているように、逃げ延びた、つまり「拡散」は、九州北部や海を越えて朝鮮半島にまで及んでいたに違いなく、そのような倭種族が半島やそれ以北に「拡散」した可能性も考慮する必要がある。特に言語の「主語+目的語+動詞」構造が共通なのはそれへの考察を促す。)

国譲りの後はニニギノミコトの天降り、いわゆる「天孫降臨」である。

神話学ではニニギノミコトが「天(高天原)」を離れて日向の阿多に来て、国つ神オオヤマツミの娘アタツヒメと結ばれて「地」を獲得し、その子供であるホホデミ(ホオリ)は竜宮に行って「海」を獲得し、さらに兄に当たるホスソリ(海幸)に勝つことによって「海」をも獲得して「王者」になった、とする。

つまり天孫降臨神話(日向神話)とは、その地上支配の構造(三重支配)を象徴したものである、と述べるわけだが、それは観念的に過ぎると思う。

古事記では天孫二代目のホオリ(ホホデミ)について、「580歳を高千穂宮に過ごして亡くなり、御陵は高千穂の西にある」と具体的に記している。580歳(年)を1代と考えればとんでもない誇張だが、しかしホオリの王朝が何代も続いていたと考えれば納得がいく。

要するに「ホオリ王朝」の存在が考えられるということである。580年だと1代が20年として29代、約30代続いていたのかもしれない。

ところが古事記ではこの第二代のホオリについてのみ具体的な統治期間が見えるだけで、他のニニギノミコトとウガヤフキアエズノミコトについては記載がない。

そこで日本書紀の同じ説話を見てみると、ニニギノミコトについては「久しくあって、ニニギノミコトは崩御し、筑紫の日向の可愛之山陵に葬った」とあり、またホホデミノミコトについては「久しくあって、ホホデミノミコトは崩御し、日向の高屋山上陵に葬った」、そしてウガヤフキアエズノミコトについては「久しくあって、ウガヤフキアエズノミコトは西洲の宮で崩御し、日向の吾平山上陵に葬った」となっている。

どの皇孫も統治期間を「久しくあって」と同じ表現をしていることに気づかされる。これにより書かれていない統治期間を類推すると、ニニギノミコトもウガヤフキアエズノミコトも、ホオリの580年ほどの統治期間があったとしておかしくはない。

したがって天孫三代は、それぞれ500年とか、ことによると1000年という長期の王朝だったという考えを提示しても、さほど無理はないだろう。

「たかが神話」と全否定する必要はないと思われるのである。