前回の「武内宿祢①」では、武内(タケシウチ)は南九州のクマソ王であり、ヤマトタケルはその分身ではないかと結論付けたが、今回は書紀の景行天皇紀以下に記載された武内の事績を辿りながら私見を補っていきたい。
まず書紀において武内の事績が見える紀年を天皇時代別に抽出してみる。
景行天皇時代・・・3年、25年、27年、51年
成務天皇時代・・・3年
仲哀天皇時代・・・9年
神功皇后時代・・・仲哀9年=神功元年、2年、13年、47年、51年
応神天皇時代・・・9年
仁徳天皇時代・・・元年、50年
以上の14回が武内宿祢の事績(誕生記事を含む)である。また、名前だけなら40回ほどにもなる。これは勿論同じ事績上、主語として出て来る回数であり、事績としてはカウントされない。
【景行天皇時代】(纏向の日代宮、のちに志賀の高穴穂宮)
さて、事績として最初に登場するのは景行天皇の3年である。これは武内宿祢の誕生記事であるが、天皇以外の一臣下の誕生が記されるのは極めてまれである。そのまれな記事を次に掲げる(若干の省略がある)。
〈三年の春二月、紀伊国に幸(みゆき)し、群神を祭祀するに、吉ならず。すなわち車駕(みゆき)止みぬ。屋主忍男武雄心(ヤヌシオシヲタケヲゴコロ)命を遣わして祭らしむ。ここに屋主忍男武雄心出でまして、阿備の柏原に居て、神祇を祭祀せり。よりて住むこと9年、すなわち紀直の遠祖ウヂヒコが娘カゲヒメを娶りて、武内宿祢を生ましむ。〉
景行天皇が紀の国へ行幸しようとして多くの神々を祭ったところ「吉」ではなかった。そこで屋主忍男武雄心という人物に行かせ、「阿備の柏原」という所で神々の祭りを行わせた。屋主忍男武雄心はその地に9年滞在し、その間に紀直の先祖であるウヂヒコの娘を娶り、そこで生まれたのが武内宿祢であった。
「阿備の柏原」が武内宿祢の生まれ在所だと言っているのであるが、これを紀の国のどこかと思うのが普通である。つまり父の武雄心は紀州に行ってそこで9年間祭祀を続け、その中で現地のカゲヒメを妻にして武内を生んだ、と。
しかし景行天皇が行幸したかった紀の国に行かせ、そこで武雄心が祭祀をしたら「吉」となったので天皇が行幸できた、というのなら話の筋が通るのだが、武雄心の9年間の祭祀とは結び付いていないのである。
つまり天皇の紀の国行幸の取りやめの記事と、後半の武内宿祢の誕生記事とは全く連結していないのだ。しかも紀の国には「阿備の柏原」という場所は存在しない。(※岩波本の脚注では、和歌山県海草郡安原村相坂・松原=現在の和歌山市内か、とし、未詳としている。)
私はこの「阿備の柏原」を鹿児島県肝属郡東串良町の柏原と考えている。「阿備」は「阿比」であり、大隅半島の肝属川流域、特に下流域の汽水地帯のことを指していると思うのである。そもそも「あび」とは「鴨」のことである。
(※大隅半島中央部の吾平は本来「阿比良(あひら)」(古事記)であり、「阿比」つまり鴨の多い土地(良)なのでそう呼ばれた。当時は肝属川下流の汽水域までを含む地名であったろう。)
大河の河口地帯はどこもおおむね汽水域を広く持っていた。そこは太古から水運上の港として一等地であり、また多くの鴨類の冬の渡りの地(越冬地)でもあった。
鴨が水面を走る姿は小舟に似ており、水運を司る航海民(水手=かこ)はそれになぞらえて「鴨族」と称された。その鴨族の蝟集する地こそが「鴨着く島」であった。のちに「水手(かこ)の島=鹿児島」と転訛する。
要するに、武内宿祢の生まれは南九州鹿児島の「鴨着く島」、大隅半島の肝属川下流域「阿比良(あひら)」の柏原だということである。
古事記では景行天皇時代に武内宿祢は一度も登場しないのだが、書紀の方では25年に「北陸・東国の巡見」に出かけ、27年2月に巡見から帰って景行天皇に復命している。
ところが不可解なのが、同じ27年の8月に「クマソが背いた」という理由でクマソ征伐の命令を下していることだ。しかもそれを今しがた巡見から戻った武内宿祢に下すのであればまだしも、ヤマトタケルに命じているのである。
ここは矛盾もいいところではないか。私はこのことからもヤマトタケルは武内宿祢に仮託した非実在の人物と考えるのである。
ヤマトタケルは3年ほどかけて東国の蝦夷等を征伐して戻ってくる途中、伊吹山で神罰を得て体を弱らせ、ついに死んでしまうのだが、古事記は言うもがな、書紀においてもこの間のヤマトタケルの物語は実にドラマチックである
。また所々の描写もリアルであり、主人公がヤマトタケルであることは疑わしいにせよ、ある程度の史実を下敷きにした説話には違いないと思う。
帰ってきた後、景行天皇は「わが子タケルの足跡を辿りたい」と東国巡幸を果たし、還幸後に都を纏向から志賀の高穴穂宮に移し(58年条)、そこで亡くなるのだが、なぜ都を大和から遠くの志賀(大津市)に移したのか、その理由は書かれていないのが不審といえば不審である。
【成務天皇時代】(志賀の高穴穂宮)
前代の景行天皇が大和から移した志賀の高穴穂宮で即位している。その時点で大和の纏向の宮がどうなっていたのか、については記載がない。とにかく成務天皇の3年に、「武内宿祢を棟梁の臣とする。天皇と武内宿祢は誕生日が同じなので、格別に厚遇した」とあり、武内は大出世を遂げる。
古事記では景行天皇時代には一切事績がなく、この成務天皇のときにはじめて登場している。そして「武内宿祢を大臣として、大国・小国の国造を定め、また国々の境、また大県(あがた)・小県の県主を定めさせた」とある。
これはあたかも武内宿祢が天皇位にあったかのような書きぶりで、事実、武内宿祢と成務天皇の誕生日が同じということを勘案すると、二人は同一人物であった可能性は高いと見られる。
もしそうでなければ、景行天皇が亡くなる三年前に息子のワカタラシヒコと志賀の高穴穂宮に遷都したのは、武内宿祢による纏向宮占拠、いわゆるクーデターのごとき事件があった可能性も考えられよう。
いずれにしても、景行天皇が、崇神天皇時代から3代にわたって築いてきた「纏向の王宮(王権)」を遠く離れて志賀(大津市)に都を移した理由をよく考える必要がある。
【仲哀天皇時代】(橿日宮)
仲哀天皇はヤマトタケルと垂仁天皇の娘フタジノイリヒメとの間の子でであり、后はかの有名な神功皇后である。成務天皇の直系ではないということなのか、宮殿について「高穴穂宮」の描写はなく、即位2年の2月に「角鹿(つぬか)」すなわち敦賀に行幸して「笥飯(けひ)の宮」を立てている。
そして3月には「南国巡幸」をして紀伊国に至り、「徳勒津宮」(とくろつのみや)を立てたところで、クマソが背いたという情報を得て、親征に出発し、穴門(長門)に至っている。
このあと、不可解なのが、角鹿の「笥飯宮」に滞在していた皇后以下官僚たちに対して「角鹿の津から日本海を経由して穴門(長門)の私のところに来なさい」と伝言していることである。
皇后たちを日本海側の敦賀に残して、自分は大和よりまだ南の太平洋側の紀伊にまで行っていたというわけだが、それならせめて敦賀から紀伊までの途中にある大和に皇后を連れてきておけばよさそうなものだ。
大和からなら波穏やかで安全な瀬戸内海航路で皇后を穴門(長門)まで呼び寄せればよいだろうに。そう思うのが自然だろう。この点については、やはり大和はすでに別の王権、すなわち武内宿祢の南九州由来の勢力に占拠されていたのではないか、と考えて大過ないだろう。
(※この私見についてはまだ先に述べる機会があるので、ここまでにして、武内宿祢②の記述を急ぐ。)
さて、仲哀天皇時代になると都は完全に大和を離れ、九州北部の橿日(香椎)の宮が中心となる。天皇が九州入りして南のクマソを撃とうとしていると神功皇后が神がかりし「クマソなど打つより、海の向こうの新羅を撃て」と託宣があるも、天皇は神の言葉を信じないでクマソを撃って戦死(または神罰死)してしまう。
仲哀天皇の9年、武内宿祢は天皇の死の後に登場し、天皇の亡骸を橿日宮から穴門(長門)に移し、豊浦宮で殯(もが)りを執り行っている。武内宿祢のこの登場はいきなり感が強い。どこをどうやってやって来たかの記載はない。
【神功皇后時代】(磐余の若桜宮)
仲哀9年(神功皇后摂政前紀)、神功皇后が新羅を攻めるにあたって、神託を聞く場面で、何と武内宿祢は琴を弾いている。皇后の神託受信の幇助である。また、中臣イカツノオミが審神者になっている。
この神託の結果だろうか、吉備臣の祖である鴨別(かもわけ)にクマソを撃たせたら、さほど日を経ずしてクマソ自らが恭順してきた、とある。これには首をかしげるのだが、吉備はもともと古事記に「建日方別(たけひかたわけ)」とあるように、「建日」すなわちクマソ国の分国(方別)でもあるうえ、豪族の名が「鴨別」であるからしてクマソこと「鴨族」とは親縁関係にあったがゆえに、無駄な争いは避けられたのである。
武内宿祢は神功皇后の時代に14回の事績のうち半数の6回の事績を残しているほど神功皇后とは縁が深いのであるが、不思議なことに神功皇后の最大の事績である「新羅征伐」に武内宿祢はタッチしていないのだ。
これは一体どういうことだろうか?
「神功皇后の新羅征伐など造作もいいところで、これは後世の斉明女帝の百済救援の史実にかこつけたおとぎ話である」というのが史学者の見解だが、私見でもそれには従う。
だが、確かに神がかりのおとぎ話的な要素が強いが、新羅征伐のような大規模なものでなくても似たような征伐(戦争)事例は大小あったはずで、そのような時に卑弥呼的なレベルの巫女に神託を聞くのは通例としてあったと考えてよく、神功皇后の神託の描写は参考に値する。
武内宿祢は対半島政策としては、クマソが新羅にかかわっていたとされるように、そのクマソ本人でもあるのだから、この新羅征伐が造作であるにしても、それにかかわることはできないのである。
逆に言うならば、武内宿祢の素性がクマソであることが、いよいよ以て確かであることを表明しているのだ。
さて神功皇后が新羅を征伐して凱旋した年の12月、皇后は皇子を産む。応神天皇である。
いよいよ都へ凱旋するという時、瀬戸内海航路では仲哀天皇の前妃の子である忍熊王が待ち構えていて危ないということで、生まれたばかりの応神を武内宿祢に頼んで「皇子(ホムタワケ)を抱きて、横しまに南海より出でて、紀伊の水門」に至らしめた、という。
(※五月人形で武内宿祢が幼児のホムタワケを抱いている人形があるが、あれはこの時の様子を再現したものだろう。)
ここで不思議なのが「南海より出でて」という箇所で、北部九州から南海というと南九州を経由するわけである。しかしここはクマソの本拠地であった。先に「吉備臣の祖・鴨別に撃たせたら、クマソは自ら恭順して来た」のだから、もうクマソは安全だというのだろうか。しかし敵対勢力であるクマソのこと、皇子が船で南九州を通過するとなったら、ただでは済まないはずだ。
そこで皇子を先導した武内宿祢こそ南九州のクマソの出身であるとすれば、この杞憂は氷解する。ホムタワケを乗せた武内の船は、わが故郷、鴨着く島「大隅」の肝属川河口の港に立ち寄り、休息と食料を得てから黒潮ルートで紀伊に至ったと推量する。
神功皇后時代のハイライトは、何と言ってもホムタワケ皇子を連れての笥飯宮参拝と、帰京してからの神功皇后との歌の応答だろう。神功皇后の13年条がそれである。
武内宿祢はホムタワケを連れて角鹿(敦賀)の「笥飯(けひ)大神」(気比神宮)を参拝したのだが、古事記ではここの描写が非常に詳しく書かれており、書紀のとは際立って違いがある。
古事記では武内(タケシウチ)がホムタワケに禊(みそぎ)をさせるべく、近江から若狭を経て敦賀の笥飯(けひ)大神を参拝させる。古事記には「禊をさせる」という理由があって敦賀にやって来たのであった。そして滞在中に夢にイザサワケ大神が現れ「わが名と皇子の名を換えよう」と言われ、結果として皇子はホムタワケになった、という。
つまりホムタワケは最初からホムタワケではではなく、「イザサワケ」だった可能性があるということである。
(※もっとも書紀の応神天皇紀の即位前紀の割注にこのことは取り上げられており、敦賀のイザサワケ大神の元の名は「ホムタワケ神」で、応神の元の幼名は「イザサワケ」だったのではないか、いまだ詳らかではないーーとしている。)
しかし私が問題にしたいのは、ホムタワケなのかイザサワケなのかのではなく、なぜ「角鹿」(敦賀)に禊に行ったかの方である。
角鹿(つぬか)というと思い出されるのが、記紀の記録上最初の渡来人の名が任那の「ソナカシッチ」、別名「ツヌカアラシト」であり、この人物は大加羅国から越国の笥飯(けひ)の浦に着船し、そこが「角鹿」と名付けられたーーという記事である。
このことを考えると、ホムタワケ(のちの応神天皇)は大加羅国、すなわち任那からやって来た母(神功皇后)の所生ではないかということに思い至る。要するに父・仲哀天皇も母の神功皇后も、ともに任那(加羅=伽耶)から渡来したのではないかーーということだが、そんなことがあり得るだろうか。
私は「あり得る」と考えるのだが、この点については仲哀天皇の事績を考察する必要があるので、今は留めておく。
【応神天皇時代】(軽島明宮、一説に大隅宮)
ホムタワケこと応神天皇が北部九州の「蚊田(かだ)」に生まれた後、母の神功皇后は大和へ向かうのだが、瀬戸内海の向こうに忍熊王の叛乱軍が待ち受けているということで、武内宿祢は生まれたばかりのホムタワケを抱いて、南九州経由で紀伊半島に到った(神功皇后紀元年)。
忍熊王の叛乱平定後に神功皇后は磐余の若櫻宮を立てて統治し始め、その一方で武内宿祢は神功皇后の47年、千熊長彦を新羅に使者として送り、51年には同じ千熊長彦を今度は百済に派遣している。半島の新羅・百済両方に使者を送って和平の道を探っている。このことを考えると武内宿祢は任那に大きな勢力を保持しており、隣国の新羅と百済との間の和平交渉に力を注いでいたことになる。
このことを踏まえると、応神天皇の9年の次の記事が現実味を帯びてくる。
その記事とは、この年に武内宿祢は筑紫(九州)に派遣されて筑紫の現状を査察しているのだが、この巡見に危惧を抱いた武内宿祢の腹違いの弟「甘美内宿祢(ウマシウチノスクネ)」が「武内は筑紫と三韓(馬韓・弁韓・辰韓)とを支配下に置こうとしている」という讒言を応神天皇に訴えたというものだ。
応神天皇はそれを真に受け、武内宿祢を亡き者にしようと使者を送った。だが、武内宿祢に瓜二つの「壱岐の直の祖、真根子」が身代わりとなって武内を救い、南海経由で都に帰った武内は「探湯(くがたち)」によって事の真偽を確かめた。するとウマシウチノスクネの讒言と判明した。
この時にもまた、昔、ホムタワケをそうしたように、武内が「南海より巡りて」紀の水門に帰っていることに注目しなければならない。
これも武内宿祢が南九州出身であることの証左になるだろう。「危険極まりないクマソ勢力」が卓越している南九州をわざわざ経由して紀伊に到ることの不審は、武内宿祢本人は南九州のクマソの出身だということで氷解されるのである。
またウマシウチノスクネが讒言したという内容、すなわち「武内宿祢は筑紫(九州)はおろか半島南部の三韓を巻き込んで新たな勢力を作ろうとしている」ということには現実味がある。それほど武内宿祢の九州における勢力が強かったということだろう。
【仁徳天皇時代】(難波の高津宮)
応神天皇の次代の仁徳天皇の時代になるとさすがの武内宿祢も高齢になったのだろう、出番はほぼなくなる。
それでも仁徳元年の記事は武内宿祢と仁徳天皇の関係に、なにがしか問題点を投げかけている。
というのはこの記事によると、仁徳天皇ことオオサザキ(大雀)と武内宿祢の子の一人ヅクノ(木菟の)宿禰とが同じ日に生まれたそうで、しかも両者は名を交換しているのである。
仁徳天皇が生まれたとき産屋にミミズクが飛び込み、武内の子が生まれたとき産屋にスズメが飛び込んだというので瑞祥と考え、名を換えることにしたという。
名を換えるのは応神天皇の時に、敦賀のイザサワケ大神と応神天皇の幼名ホムタワケとの交換があるが、この交換は人と人との間の交換である。
この場合、父の応神天皇がかつてイザサワケ大神と名を換えたのとは次元が違う。それを許したということは武内宿祢が単なる臣下ではなかったということをしめしている。言うならば武内宿祢は神に等しいというということである。
それほどの地位にあった武内が最後に登場するのが、仁徳50年であった。
それは次の通り(現代文にしてある)。
〈河内の人、奏して曰く、「茨田(まむた)の堤に雁(かり)が産卵した」と。仁徳天皇は歌にして武内宿祢に問うた。「たまきはる 内の朝臣 汝こそは 世の遠人(とおひと) 汝こそは 世の長人(ながひと) 秋津島 倭の国に 雁産むと 汝は聞かずや」。これに武内が応じ、「やすみしし わが大君 宜(うべ)な 宜(うべ)な 我を問はすな 秋津島 倭の国に 雁産むと われは聞かず」と返した。
要するに「日本列島ではシベリア方面から冬にやって来る雁(鴨)は産卵はせず、夏にシベリア方面で繁殖するのである」と武内は進言している。南九州肝属川河口域出身の武内は幼少のころから冬に北から飛んで来て、春になると帰って行く雁(鴨)の生態については熟知していたということに他なるまい。
こういうところからも、武内宿祢が南九州の「鴨着く島」出身であることに、疑いをいれる必要はないのである。
【武内宿祢の寿命】
仁徳天皇から「世の長人」(稀にみる長寿者)と歌われた武内宿祢の寿命は実際いくつだったのか。
(1)書紀の景行天皇紀の3年に誕生記事が書かれており、最期の記事はないものの仁徳天皇の50年に「雁が日本で卵を産むことはあるのか」という諮問を受け、「それはありません」と応じた記事はあるので、仮にその仁徳50年を死亡の年と考えてみると、単純な足し算で次のようになる。
景行時代は60年、成務時代は60年、仲哀時代は9年、神功皇后時代は69年、応神天皇時代は41年、そして仁徳50年までを加算すると、289年。景行天皇の3年に生まれているので3年、各天皇の継ぎ目は年がダブっているので5年、合計8年を減じると281年。
おおむね280年の齢を数えるということになるが、これがあり得ないことは明らかで、この超長寿によって武内宿祢の実在性はゼロと結論されるのが普通である。
しかし各天皇の治世の期間は水増しされている。紀年のない年はなかったものと仮定すると、景行時代は22年、成務時代は6年、仲哀時代は4年、神功皇后時代は19年、応神天皇時代は23年、そして仁徳天皇時代は29年である。これを合計すると103年。最後の仁徳時代は書紀の記事では87年もあり、武内はそのうちの50年目に登場しているから、実質29年に87分の50を積算すると約17年が配当される。
したがって武内宿祢の寿命は103年ー29年+17年=91年と算出される。91歳は今日でも長寿だが、当時としては間違いなく超長寿である。だが、皆無ということはないだろう。なぜなら魏志倭人伝の記述に「倭人は寿考(長寿)であり、あるいは80、あるいは90」と見えており、倭人は80歳、90歳と長生きであることを特筆しているのである。
90歳になって天皇に呼び出され、諮問に答えるというのは確かに稀なことに違いないが、史実としてはあり得ないと捨て去る必要はないだろう。
(2)もう一つ武内宿祢の寿命に迫る方法がある。それは古事記の記載されている天皇の崩御年から類推する方法である。
古事記には仁徳天皇までの各天皇の崩御年の干支が記されている。残念ながら武内宿祢に関係する天皇のうち、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、そして仁徳天皇の4天皇だけで、景行天皇と神功皇后の崩御年はない。次にその崩御年を挙げる。
成務天皇ー乙卯の年(西暦355年)
仲哀天皇ー壬戌の年(同 362年)
応神天皇ー甲午の年(同 412年)
仁徳天皇-丁卯の年(同 427年)
景行天皇の即位した年が分かれば、武内宿祢は景行3年に誕生記事があるので、ほぼ特定は可能だと思われる。幸い景行天皇の二代前の崇神天皇の崩御年は分かっている。
崇神天皇-戊寅の年(西暦318年)・・・これは垂仁天皇の即位年でもある。
この与件から推量してみよう。
成務天皇は355年に崩御し、治世期間は5年(数えでは6年)なので、即位年は350年。崇神天皇の崩御年は318年でその差の32年に垂仁天皇と景行天皇の2代があったことになるから、一代平均は16年である。そうすると景行天皇の即位年は350年ー16年で334年ということになる。
そうすると武内宿祢の生まれたという景行3年は336年となる。
武内宿祢の最後の登場は仁徳50年で、仁徳紀ではこの後の紀年は最後の87年までの間に8回の記事しかないので、武内宿祢は仁徳天皇の崩御年の少なくとも8年前までは生きていたことになる。
そうすると427年ー8年+1年=420年で、武内宿祢は少なくとも420年までは生きていた。これから生まれた年の336年を引くと84年。武内宿祢は少なくとも84歳は生きていて、天皇の諮問にも応じられたほど元気だったという結論を得る。
(1)の結論にしろ、(2)の結論にしろ、武内宿祢は長寿であったが、280歳などというとんでもない超長寿ではなく、80歳台から90歳台というあり得る年齢だったことになった。武内宿祢の実在性について、より確実になったと言えよう。
</span>
まず書紀において武内の事績が見える紀年を天皇時代別に抽出してみる。
景行天皇時代・・・3年、25年、27年、51年
成務天皇時代・・・3年
仲哀天皇時代・・・9年
神功皇后時代・・・仲哀9年=神功元年、2年、13年、47年、51年
応神天皇時代・・・9年
仁徳天皇時代・・・元年、50年
以上の14回が武内宿祢の事績(誕生記事を含む)である。また、名前だけなら40回ほどにもなる。これは勿論同じ事績上、主語として出て来る回数であり、事績としてはカウントされない。
【景行天皇時代】(纏向の日代宮、のちに志賀の高穴穂宮)
さて、事績として最初に登場するのは景行天皇の3年である。これは武内宿祢の誕生記事であるが、天皇以外の一臣下の誕生が記されるのは極めてまれである。そのまれな記事を次に掲げる(若干の省略がある)。
〈三年の春二月、紀伊国に幸(みゆき)し、群神を祭祀するに、吉ならず。すなわち車駕(みゆき)止みぬ。屋主忍男武雄心(ヤヌシオシヲタケヲゴコロ)命を遣わして祭らしむ。ここに屋主忍男武雄心出でまして、阿備の柏原に居て、神祇を祭祀せり。よりて住むこと9年、すなわち紀直の遠祖ウヂヒコが娘カゲヒメを娶りて、武内宿祢を生ましむ。〉
景行天皇が紀の国へ行幸しようとして多くの神々を祭ったところ「吉」ではなかった。そこで屋主忍男武雄心という人物に行かせ、「阿備の柏原」という所で神々の祭りを行わせた。屋主忍男武雄心はその地に9年滞在し、その間に紀直の先祖であるウヂヒコの娘を娶り、そこで生まれたのが武内宿祢であった。
「阿備の柏原」が武内宿祢の生まれ在所だと言っているのであるが、これを紀の国のどこかと思うのが普通である。つまり父の武雄心は紀州に行ってそこで9年間祭祀を続け、その中で現地のカゲヒメを妻にして武内を生んだ、と。
しかし景行天皇が行幸したかった紀の国に行かせ、そこで武雄心が祭祀をしたら「吉」となったので天皇が行幸できた、というのなら話の筋が通るのだが、武雄心の9年間の祭祀とは結び付いていないのである。
つまり天皇の紀の国行幸の取りやめの記事と、後半の武内宿祢の誕生記事とは全く連結していないのだ。しかも紀の国には「阿備の柏原」という場所は存在しない。(※岩波本の脚注では、和歌山県海草郡安原村相坂・松原=現在の和歌山市内か、とし、未詳としている。)
私はこの「阿備の柏原」を鹿児島県肝属郡東串良町の柏原と考えている。「阿備」は「阿比」であり、大隅半島の肝属川流域、特に下流域の汽水地帯のことを指していると思うのである。そもそも「あび」とは「鴨」のことである。
(※大隅半島中央部の吾平は本来「阿比良(あひら)」(古事記)であり、「阿比」つまり鴨の多い土地(良)なのでそう呼ばれた。当時は肝属川下流の汽水域までを含む地名であったろう。)
大河の河口地帯はどこもおおむね汽水域を広く持っていた。そこは太古から水運上の港として一等地であり、また多くの鴨類の冬の渡りの地(越冬地)でもあった。
鴨が水面を走る姿は小舟に似ており、水運を司る航海民(水手=かこ)はそれになぞらえて「鴨族」と称された。その鴨族の蝟集する地こそが「鴨着く島」であった。のちに「水手(かこ)の島=鹿児島」と転訛する。
要するに、武内宿祢の生まれは南九州鹿児島の「鴨着く島」、大隅半島の肝属川下流域「阿比良(あひら)」の柏原だということである。
古事記では景行天皇時代に武内宿祢は一度も登場しないのだが、書紀の方では25年に「北陸・東国の巡見」に出かけ、27年2月に巡見から帰って景行天皇に復命している。
ところが不可解なのが、同じ27年の8月に「クマソが背いた」という理由でクマソ征伐の命令を下していることだ。しかもそれを今しがた巡見から戻った武内宿祢に下すのであればまだしも、ヤマトタケルに命じているのである。
ここは矛盾もいいところではないか。私はこのことからもヤマトタケルは武内宿祢に仮託した非実在の人物と考えるのである。
ヤマトタケルは3年ほどかけて東国の蝦夷等を征伐して戻ってくる途中、伊吹山で神罰を得て体を弱らせ、ついに死んでしまうのだが、古事記は言うもがな、書紀においてもこの間のヤマトタケルの物語は実にドラマチックである
。また所々の描写もリアルであり、主人公がヤマトタケルであることは疑わしいにせよ、ある程度の史実を下敷きにした説話には違いないと思う。
帰ってきた後、景行天皇は「わが子タケルの足跡を辿りたい」と東国巡幸を果たし、還幸後に都を纏向から志賀の高穴穂宮に移し(58年条)、そこで亡くなるのだが、なぜ都を大和から遠くの志賀(大津市)に移したのか、その理由は書かれていないのが不審といえば不審である。
【成務天皇時代】(志賀の高穴穂宮)
前代の景行天皇が大和から移した志賀の高穴穂宮で即位している。その時点で大和の纏向の宮がどうなっていたのか、については記載がない。とにかく成務天皇の3年に、「武内宿祢を棟梁の臣とする。天皇と武内宿祢は誕生日が同じなので、格別に厚遇した」とあり、武内は大出世を遂げる。
古事記では景行天皇時代には一切事績がなく、この成務天皇のときにはじめて登場している。そして「武内宿祢を大臣として、大国・小国の国造を定め、また国々の境、また大県(あがた)・小県の県主を定めさせた」とある。
これはあたかも武内宿祢が天皇位にあったかのような書きぶりで、事実、武内宿祢と成務天皇の誕生日が同じということを勘案すると、二人は同一人物であった可能性は高いと見られる。
もしそうでなければ、景行天皇が亡くなる三年前に息子のワカタラシヒコと志賀の高穴穂宮に遷都したのは、武内宿祢による纏向宮占拠、いわゆるクーデターのごとき事件があった可能性も考えられよう。
いずれにしても、景行天皇が、崇神天皇時代から3代にわたって築いてきた「纏向の王宮(王権)」を遠く離れて志賀(大津市)に都を移した理由をよく考える必要がある。
【仲哀天皇時代】(橿日宮)
仲哀天皇はヤマトタケルと垂仁天皇の娘フタジノイリヒメとの間の子でであり、后はかの有名な神功皇后である。成務天皇の直系ではないということなのか、宮殿について「高穴穂宮」の描写はなく、即位2年の2月に「角鹿(つぬか)」すなわち敦賀に行幸して「笥飯(けひ)の宮」を立てている。
そして3月には「南国巡幸」をして紀伊国に至り、「徳勒津宮」(とくろつのみや)を立てたところで、クマソが背いたという情報を得て、親征に出発し、穴門(長門)に至っている。
このあと、不可解なのが、角鹿の「笥飯宮」に滞在していた皇后以下官僚たちに対して「角鹿の津から日本海を経由して穴門(長門)の私のところに来なさい」と伝言していることである。
皇后たちを日本海側の敦賀に残して、自分は大和よりまだ南の太平洋側の紀伊にまで行っていたというわけだが、それならせめて敦賀から紀伊までの途中にある大和に皇后を連れてきておけばよさそうなものだ。
大和からなら波穏やかで安全な瀬戸内海航路で皇后を穴門(長門)まで呼び寄せればよいだろうに。そう思うのが自然だろう。この点については、やはり大和はすでに別の王権、すなわち武内宿祢の南九州由来の勢力に占拠されていたのではないか、と考えて大過ないだろう。
(※この私見についてはまだ先に述べる機会があるので、ここまでにして、武内宿祢②の記述を急ぐ。)
さて、仲哀天皇時代になると都は完全に大和を離れ、九州北部の橿日(香椎)の宮が中心となる。天皇が九州入りして南のクマソを撃とうとしていると神功皇后が神がかりし「クマソなど打つより、海の向こうの新羅を撃て」と託宣があるも、天皇は神の言葉を信じないでクマソを撃って戦死(または神罰死)してしまう。
仲哀天皇の9年、武内宿祢は天皇の死の後に登場し、天皇の亡骸を橿日宮から穴門(長門)に移し、豊浦宮で殯(もが)りを執り行っている。武内宿祢のこの登場はいきなり感が強い。どこをどうやってやって来たかの記載はない。
【神功皇后時代】(磐余の若桜宮)
仲哀9年(神功皇后摂政前紀)、神功皇后が新羅を攻めるにあたって、神託を聞く場面で、何と武内宿祢は琴を弾いている。皇后の神託受信の幇助である。また、中臣イカツノオミが審神者になっている。
この神託の結果だろうか、吉備臣の祖である鴨別(かもわけ)にクマソを撃たせたら、さほど日を経ずしてクマソ自らが恭順してきた、とある。これには首をかしげるのだが、吉備はもともと古事記に「建日方別(たけひかたわけ)」とあるように、「建日」すなわちクマソ国の分国(方別)でもあるうえ、豪族の名が「鴨別」であるからしてクマソこと「鴨族」とは親縁関係にあったがゆえに、無駄な争いは避けられたのである。
武内宿祢は神功皇后の時代に14回の事績のうち半数の6回の事績を残しているほど神功皇后とは縁が深いのであるが、不思議なことに神功皇后の最大の事績である「新羅征伐」に武内宿祢はタッチしていないのだ。
これは一体どういうことだろうか?
「神功皇后の新羅征伐など造作もいいところで、これは後世の斉明女帝の百済救援の史実にかこつけたおとぎ話である」というのが史学者の見解だが、私見でもそれには従う。
だが、確かに神がかりのおとぎ話的な要素が強いが、新羅征伐のような大規模なものでなくても似たような征伐(戦争)事例は大小あったはずで、そのような時に卑弥呼的なレベルの巫女に神託を聞くのは通例としてあったと考えてよく、神功皇后の神託の描写は参考に値する。
武内宿祢は対半島政策としては、クマソが新羅にかかわっていたとされるように、そのクマソ本人でもあるのだから、この新羅征伐が造作であるにしても、それにかかわることはできないのである。
逆に言うならば、武内宿祢の素性がクマソであることが、いよいよ以て確かであることを表明しているのだ。
さて神功皇后が新羅を征伐して凱旋した年の12月、皇后は皇子を産む。応神天皇である。
いよいよ都へ凱旋するという時、瀬戸内海航路では仲哀天皇の前妃の子である忍熊王が待ち構えていて危ないということで、生まれたばかりの応神を武内宿祢に頼んで「皇子(ホムタワケ)を抱きて、横しまに南海より出でて、紀伊の水門」に至らしめた、という。
(※五月人形で武内宿祢が幼児のホムタワケを抱いている人形があるが、あれはこの時の様子を再現したものだろう。)
ここで不思議なのが「南海より出でて」という箇所で、北部九州から南海というと南九州を経由するわけである。しかしここはクマソの本拠地であった。先に「吉備臣の祖・鴨別に撃たせたら、クマソは自ら恭順して来た」のだから、もうクマソは安全だというのだろうか。しかし敵対勢力であるクマソのこと、皇子が船で南九州を通過するとなったら、ただでは済まないはずだ。
そこで皇子を先導した武内宿祢こそ南九州のクマソの出身であるとすれば、この杞憂は氷解する。ホムタワケを乗せた武内の船は、わが故郷、鴨着く島「大隅」の肝属川河口の港に立ち寄り、休息と食料を得てから黒潮ルートで紀伊に至ったと推量する。
神功皇后時代のハイライトは、何と言ってもホムタワケ皇子を連れての笥飯宮参拝と、帰京してからの神功皇后との歌の応答だろう。神功皇后の13年条がそれである。
武内宿祢はホムタワケを連れて角鹿(敦賀)の「笥飯(けひ)大神」(気比神宮)を参拝したのだが、古事記ではここの描写が非常に詳しく書かれており、書紀のとは際立って違いがある。
古事記では武内(タケシウチ)がホムタワケに禊(みそぎ)をさせるべく、近江から若狭を経て敦賀の笥飯(けひ)大神を参拝させる。古事記には「禊をさせる」という理由があって敦賀にやって来たのであった。そして滞在中に夢にイザサワケ大神が現れ「わが名と皇子の名を換えよう」と言われ、結果として皇子はホムタワケになった、という。
つまりホムタワケは最初からホムタワケではではなく、「イザサワケ」だった可能性があるということである。
(※もっとも書紀の応神天皇紀の即位前紀の割注にこのことは取り上げられており、敦賀のイザサワケ大神の元の名は「ホムタワケ神」で、応神の元の幼名は「イザサワケ」だったのではないか、いまだ詳らかではないーーとしている。)
しかし私が問題にしたいのは、ホムタワケなのかイザサワケなのかのではなく、なぜ「角鹿」(敦賀)に禊に行ったかの方である。
角鹿(つぬか)というと思い出されるのが、記紀の記録上最初の渡来人の名が任那の「ソナカシッチ」、別名「ツヌカアラシト」であり、この人物は大加羅国から越国の笥飯(けひ)の浦に着船し、そこが「角鹿」と名付けられたーーという記事である。
このことを考えると、ホムタワケ(のちの応神天皇)は大加羅国、すなわち任那からやって来た母(神功皇后)の所生ではないかということに思い至る。要するに父・仲哀天皇も母の神功皇后も、ともに任那(加羅=伽耶)から渡来したのではないかーーということだが、そんなことがあり得るだろうか。
私は「あり得る」と考えるのだが、この点については仲哀天皇の事績を考察する必要があるので、今は留めておく。
【応神天皇時代】(軽島明宮、一説に大隅宮)
ホムタワケこと応神天皇が北部九州の「蚊田(かだ)」に生まれた後、母の神功皇后は大和へ向かうのだが、瀬戸内海の向こうに忍熊王の叛乱軍が待ち受けているということで、武内宿祢は生まれたばかりのホムタワケを抱いて、南九州経由で紀伊半島に到った(神功皇后紀元年)。
忍熊王の叛乱平定後に神功皇后は磐余の若櫻宮を立てて統治し始め、その一方で武内宿祢は神功皇后の47年、千熊長彦を新羅に使者として送り、51年には同じ千熊長彦を今度は百済に派遣している。半島の新羅・百済両方に使者を送って和平の道を探っている。このことを考えると武内宿祢は任那に大きな勢力を保持しており、隣国の新羅と百済との間の和平交渉に力を注いでいたことになる。
このことを踏まえると、応神天皇の9年の次の記事が現実味を帯びてくる。
その記事とは、この年に武内宿祢は筑紫(九州)に派遣されて筑紫の現状を査察しているのだが、この巡見に危惧を抱いた武内宿祢の腹違いの弟「甘美内宿祢(ウマシウチノスクネ)」が「武内は筑紫と三韓(馬韓・弁韓・辰韓)とを支配下に置こうとしている」という讒言を応神天皇に訴えたというものだ。
応神天皇はそれを真に受け、武内宿祢を亡き者にしようと使者を送った。だが、武内宿祢に瓜二つの「壱岐の直の祖、真根子」が身代わりとなって武内を救い、南海経由で都に帰った武内は「探湯(くがたち)」によって事の真偽を確かめた。するとウマシウチノスクネの讒言と判明した。
この時にもまた、昔、ホムタワケをそうしたように、武内が「南海より巡りて」紀の水門に帰っていることに注目しなければならない。
これも武内宿祢が南九州出身であることの証左になるだろう。「危険極まりないクマソ勢力」が卓越している南九州をわざわざ経由して紀伊に到ることの不審は、武内宿祢本人は南九州のクマソの出身だということで氷解されるのである。
またウマシウチノスクネが讒言したという内容、すなわち「武内宿祢は筑紫(九州)はおろか半島南部の三韓を巻き込んで新たな勢力を作ろうとしている」ということには現実味がある。それほど武内宿祢の九州における勢力が強かったということだろう。
【仁徳天皇時代】(難波の高津宮)
応神天皇の次代の仁徳天皇の時代になるとさすがの武内宿祢も高齢になったのだろう、出番はほぼなくなる。
それでも仁徳元年の記事は武内宿祢と仁徳天皇の関係に、なにがしか問題点を投げかけている。
というのはこの記事によると、仁徳天皇ことオオサザキ(大雀)と武内宿祢の子の一人ヅクノ(木菟の)宿禰とが同じ日に生まれたそうで、しかも両者は名を交換しているのである。
仁徳天皇が生まれたとき産屋にミミズクが飛び込み、武内の子が生まれたとき産屋にスズメが飛び込んだというので瑞祥と考え、名を換えることにしたという。
名を換えるのは応神天皇の時に、敦賀のイザサワケ大神と応神天皇の幼名ホムタワケとの交換があるが、この交換は人と人との間の交換である。
この場合、父の応神天皇がかつてイザサワケ大神と名を換えたのとは次元が違う。それを許したということは武内宿祢が単なる臣下ではなかったということをしめしている。言うならば武内宿祢は神に等しいというということである。
それほどの地位にあった武内が最後に登場するのが、仁徳50年であった。
それは次の通り(現代文にしてある)。
〈河内の人、奏して曰く、「茨田(まむた)の堤に雁(かり)が産卵した」と。仁徳天皇は歌にして武内宿祢に問うた。「たまきはる 内の朝臣 汝こそは 世の遠人(とおひと) 汝こそは 世の長人(ながひと) 秋津島 倭の国に 雁産むと 汝は聞かずや」。これに武内が応じ、「やすみしし わが大君 宜(うべ)な 宜(うべ)な 我を問はすな 秋津島 倭の国に 雁産むと われは聞かず」と返した。
要するに「日本列島ではシベリア方面から冬にやって来る雁(鴨)は産卵はせず、夏にシベリア方面で繁殖するのである」と武内は進言している。南九州肝属川河口域出身の武内は幼少のころから冬に北から飛んで来て、春になると帰って行く雁(鴨)の生態については熟知していたということに他なるまい。
こういうところからも、武内宿祢が南九州の「鴨着く島」出身であることに、疑いをいれる必要はないのである。
【武内宿祢の寿命】
仁徳天皇から「世の長人」(稀にみる長寿者)と歌われた武内宿祢の寿命は実際いくつだったのか。
(1)書紀の景行天皇紀の3年に誕生記事が書かれており、最期の記事はないものの仁徳天皇の50年に「雁が日本で卵を産むことはあるのか」という諮問を受け、「それはありません」と応じた記事はあるので、仮にその仁徳50年を死亡の年と考えてみると、単純な足し算で次のようになる。
景行時代は60年、成務時代は60年、仲哀時代は9年、神功皇后時代は69年、応神天皇時代は41年、そして仁徳50年までを加算すると、289年。景行天皇の3年に生まれているので3年、各天皇の継ぎ目は年がダブっているので5年、合計8年を減じると281年。
おおむね280年の齢を数えるということになるが、これがあり得ないことは明らかで、この超長寿によって武内宿祢の実在性はゼロと結論されるのが普通である。
しかし各天皇の治世の期間は水増しされている。紀年のない年はなかったものと仮定すると、景行時代は22年、成務時代は6年、仲哀時代は4年、神功皇后時代は19年、応神天皇時代は23年、そして仁徳天皇時代は29年である。これを合計すると103年。最後の仁徳時代は書紀の記事では87年もあり、武内はそのうちの50年目に登場しているから、実質29年に87分の50を積算すると約17年が配当される。
したがって武内宿祢の寿命は103年ー29年+17年=91年と算出される。91歳は今日でも長寿だが、当時としては間違いなく超長寿である。だが、皆無ということはないだろう。なぜなら魏志倭人伝の記述に「倭人は寿考(長寿)であり、あるいは80、あるいは90」と見えており、倭人は80歳、90歳と長生きであることを特筆しているのである。
90歳になって天皇に呼び出され、諮問に答えるというのは確かに稀なことに違いないが、史実としてはあり得ないと捨て去る必要はないだろう。
(2)もう一つ武内宿祢の寿命に迫る方法がある。それは古事記の記載されている天皇の崩御年から類推する方法である。
古事記には仁徳天皇までの各天皇の崩御年の干支が記されている。残念ながら武内宿祢に関係する天皇のうち、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、そして仁徳天皇の4天皇だけで、景行天皇と神功皇后の崩御年はない。次にその崩御年を挙げる。
成務天皇ー乙卯の年(西暦355年)
仲哀天皇ー壬戌の年(同 362年)
応神天皇ー甲午の年(同 412年)
仁徳天皇-丁卯の年(同 427年)
景行天皇の即位した年が分かれば、武内宿祢は景行3年に誕生記事があるので、ほぼ特定は可能だと思われる。幸い景行天皇の二代前の崇神天皇の崩御年は分かっている。
崇神天皇-戊寅の年(西暦318年)・・・これは垂仁天皇の即位年でもある。
この与件から推量してみよう。
成務天皇は355年に崩御し、治世期間は5年(数えでは6年)なので、即位年は350年。崇神天皇の崩御年は318年でその差の32年に垂仁天皇と景行天皇の2代があったことになるから、一代平均は16年である。そうすると景行天皇の即位年は350年ー16年で334年ということになる。
そうすると武内宿祢の生まれたという景行3年は336年となる。
武内宿祢の最後の登場は仁徳50年で、仁徳紀ではこの後の紀年は最後の87年までの間に8回の記事しかないので、武内宿祢は仁徳天皇の崩御年の少なくとも8年前までは生きていたことになる。
そうすると427年ー8年+1年=420年で、武内宿祢は少なくとも420年までは生きていた。これから生まれた年の336年を引くと84年。武内宿祢は少なくとも84歳は生きていて、天皇の諮問にも応じられたほど元気だったという結論を得る。
(1)の結論にしろ、(2)の結論にしろ、武内宿祢は長寿であったが、280歳などというとんでもない超長寿ではなく、80歳台から90歳台というあり得る年齢だったことになった。武内宿祢の実在性について、より確実になったと言えよう。
</span>