今日9月1日は「防災の日」で、1923年9月1日に関東大震災が発生した日だ。今日はその100周年に当たる日である。
地震の規模はマグニチュード7.9だそうで、あの東北大震災の9.0に比べればエネルギーは100分の1だが、発生した場所が悪かった。神奈川県西部の小田原の近海だったのだ。
そのため東京はもちろんだが、横浜も大いに揺れ大きな被害を蒙っている。
しかし東京の地震による被害は巨大なもので、東京だけで10万人以上が死んでいる。
正確には行方不明者を入れて10万5千人だそうだが、そのうち9万2千人が火災によるという。
要するに火災さえ発生しなければ、或いは小規模で消し止められていれば、これほどの惨状にはならなかったのだ。
火災の主な原因はもちろん失火だが、発生した時間帯が悪かった。午前11時58分だったからちょうど昼食のために多くの家庭で火を使っていたのであった。
当時の炊事で火を起こすのに使ったのが、竃(かまど)であった。かまどは薪をくべ、火吹き竹で火を起こし、かまどの上に載せられた鍋ややかんを沸騰させるものだ。
多くの学校(尋常小学校以下、高等小学校や旧制中学など)では新学期の初めの日とあって始業式があり、生徒は午前中に帰宅していた。
もうすぐお昼という時間に突如起きたのが大地震だ。
母や祖母が作っていた昼食を食べるどころか、台所から火の手が上がったのだからたまらない。みな逃げるのにてんやわんやになった。
そうこうしているうちに火の手はどんどん広がり、みな逃げるのに精一杯だったそうだ。
私の母が当時住んでいたのは台東区の浅草に近い店舗だったのだが、這う這うの体で逃げ延び、幸いにも祖父祖母はじめ一家は無事であった。
焼け出されたのち、しばらくは店員の田舎である東京の郊外に身を寄せ、やがて祖父祖母の出身地である三重県の津市に一年ほど帰っていたという。
その後東京の復興の目途が付いたのち、今度は北区十条にふとん店を構えることになった。今日に続く「十条銀座」の一角である。
母と兄姉妹の5人兄弟が成人したのは、その十条銀座であった。
男は一人で、母と姉の間に生まれているが、戦時中に召集され、軍属としてインドネシアへの補給船に乗り組んだのだが、帰って来たら結核となっていて、そのまま約10年後に亡くなった。
長野県から嫁いできた伯母さんは戦後の復興期の繁忙期に、大変忙しい思いをしたようだ。母の実家であるから子供心に気安く、一番くつろげる場所だった。
夫婦とも教員であった我が家が、夏のボーナスをもらい、夏休みが始まるころになると必ず母の実家に行ったが、「銀座通り」を夜遅くまでからころと下駄の音が響いてさんざめいている商業地の独特の雰囲気の記憶はいまだに新鮮である。
とにかく日本は名うての天災大国である。地震はもとより火山噴火、台風・大雨による洪水や土石流などなど、毎年どこかで災害の起こらない年はない。
これに「戦災」が加わっては話にもならない。戦争は絶対に避けるべきだ、アメリカが何と言っても。
(閑話休題)
関東大震災の写真やフィルムがテレビでよく流されるが、あの惨状は戦時中に東京や他の大都市が焼け野が原になった様とそっくりである。
それもそのはず、太平洋戦争中のアメリカが日本本土への無差別攻撃の参考にしたのが、関東大震災による東京の惨状であった。
「紙と木でできた木造家屋が蝟集している町」はいったん火事が起これば、関東大震災の東京のようになることを知った米軍は、B29の爆弾攻撃の前にあらかじめ攻撃対象地区の周りに油をまき、そこへ爆弾(焼夷弾)を落とす作戦をとった。
作戦は上首尾に終わり、1945年3月19日の東京大空襲では約10万人が死んでいる。あの当時の米軍にとって日本人は虫けら同然の扱いだったのだ。戦争中とはいえ戦時国際法に違反する残酷な仕打ちであった。
(少しタイプは違うが、ベトナム戦争中に米軍はベトナムのジャングル地帯に「枯葉剤」という除草剤を撒いているが、発想は同じだ。)