志布志市の旧郷社で安楽地区にある「山宮神社」の春祭り(祈年祭)が行われるというので、久しぶりに参拝に行って来た。
何年前だったか、一度同じ春祭りを見に行ったことがある。このお宮自体にはもう5、6回足を運んでいるが、祭りの時ではないので国指定の天然記念物の「大楠」を見がてらの参拝だった。
10時から祭礼が始まると聞いていたので、家を8時半に出た。以前に行った時は一般道を走って1時間余りかかったのだが、この頃は東九州自動車道が開通したので50分弱で到着した。
10時になると石造りの鳥居前の広場で、踊りが始まった。太鼓・三味線に乗せて黒づくめの大小の踊り手が独特の身振り手振りで、円を描くように踊りながら広場に入って来た。
観客の一人に聞くと、4年ぶりの開催なので小学生や幼稚園・保育園の子どもたちにも見せているとのことで、たまたま今日は土曜の授業のある日なので、近くの安楽小学校から生徒たちが大勢見守っていた。
石の鳥居の右手に聳えるのが天然記念物「志布志の大楠」で、説明板によると樹齢は800年から1300年、樹高は23.6m、目通り(幹回り)17.1m、根回り32.3mという巨木で、この神社の主祭神・天智天皇のお手植という説がある。天智天皇の崩御は671年だから、お手植となると1350年である。
元は鳥居を挟んで対になっていた大楠があったが、1870年代に枯れたそうである。枯れ木の根元からは中世の遺物が発掘されたという。古代のお手植というのは無理だろう。
写真の踊りは「正月踊り」といい、黒のお高祖頭巾、黒紋付、手甲脚絆、黒足袋という黒づくめ、おまけにやはり黒の布で顔を覆って踊る。腰には「下げもん」をぶら下げているのはユニークだ。
広場での踊りが終わると生徒や園児たちは引き揚げ、祭礼の参加者と見物人が鳥居をくぐって境内の中に移動する。鳥居から見上げる大楠は圧巻である。枝ぶりがよく、南九州の神社にいくつか巨大なのがあるが、ここのは樹形の美しさでは「日本一」だと言われているそうだ。
境内の中には上り旗が林立し、祭りのムードを高めている。
最初の神事は「田植え神事」で、氏子や参列者が手に手に割り竹に色紙を挟んだのを稲の苗に見立て、小さな砂場に宮司を皮切りに立てて行く。
「苗」を植える神職。象徴的な意味合いだろう。そのあと参列者が次々に植えて行く。
田植えのあと、神社の祭殿で「田の神夫婦」と氏子の珍妙な問答が繰り返される。氏子つまり近傍の農民の願いは豊作であり、田の神の口からそう言って欲しい――これが主眼の問答で、稲の実りと子宝の授かりとが同じ目線で語られるから、エロチックでもあり面白い。
それが済むと、田の神が境内に下り、持っていた孟宗竹の竹筒を踏んで割ってしまう。これが稲が実る、また、子が授かることの象徴だろう。そうやって荒れ狂う田の神の周りを、先の正月踊り衆が取り囲み太鼓三味線の歌に合わせて踊る。
踊る時間は30分ほど、結構体力も使うだろうにずっと踊り続けている。
このあといくつかの神事を行い、神輿を担いで各集落(小字)をめぐり、各集落でまた正月踊りをするそうだから、踊り手にとっては大変な一日だろう。
明日はまた各集落を回りつつ、山宮神社から南へ1.5キロほどの安良神社まで行って、そこで今日と同じ踊り(神事)を奉納するという。
この山宮神社は安楽(大字)地区にあるので「安楽山宮神社」と俗称されている。鹿屋市にも山宮神社があるので、われわれは安楽山宮神社と呼ぶ方が都合が良い。
祭神は天智天皇・大友皇子(弘文天皇)・持統天皇(天智娘)・玉依姫(天智妃)・倭姫・乙姫の6柱で、天智天皇の御廟とされる御在所岳に元は祭られていたのを、御在所岳の麓の田ノ浦山宮神社から当地へ移設されたのが和銅2(709)年、さらに他に親族5柱を加えて「山口六所大明神」となったのが、大同2(807)年だという。
いずれにしても大隅半島では屈指の古社である。
(※この祭りに「安楽姓の人集まれ」という上り旗を持った人たちが来ていた。大隅の安楽姓は肝付氏の家筋だが、大友皇子からの血筋だという人もいる。安楽とは良い姓であるから大事にしてもらいたいものだ。)