【古日向は投馬国である】
古日向とは奈良時代直前の大宝2(702)年に薩摩国が、また奈良時代最初期の和銅6(713)年に大隅国が分立して、南九州が日向国・薩摩国・大隅国の3か国になる前の、今日の宮崎県と鹿児島県を併せた広大な領域を言う。
この宮崎県と鹿児島県とを併せた古日向を、私は魏志倭人伝時代に九州にあった5万戸の大国「投馬国」(つまこく)に比定している。
投馬国を宮崎県西都市に「妻」という大字があることでここに比定する研究者が多いが、西都市域に5万戸を想定するのは無理で、せいぜい数千戸だろう。
(※西都市域も私見の投馬国の内あり、全くの誤謬というわけではない。)
投馬国(古日向)人は自分の国を「ソツマ」と称していたと思われる。「ソツマ」とは「ソ(曽・蘇)」「ツ(~の)」「マ(場所・地域・国)」と分解でき、「我々が住んでいるのは曽津間じゃ」と自称していた。
帯方郡に派遣されていた魏の官吏が九州にやって来て、南九州出自の海民に、「あんたの国は何と言うのだ」と尋ねた時、彼らは「曽津間(ソツマ)じゃ」要するに「曽の国である」と答えた。
帯方郡から来た魏の役人は「ツ」の強勢に押されて「ソ」が聴き取れなかった可能性が高く、よって「ツマ」と聴き取り、これに「投馬国」と当てた。私はそう考えている。
戸数五万戸というと、魏志倭人伝記載当時、一国でこのような多数の戸数を抱える国はない。
邪馬台国は「七万戸ほどだろう」と倭人伝は記載するが、これは「その余の傍国は遠絶にして詳しい情報はない」として挙げられた「斯馬国」以下「奴国」まで21か国を併せた戸数だろう。これを私は「邪馬台国連盟」と見なしている。
また邪馬台国連盟の最南端の国「奴国」の南には「狗奴国」があるとしており、宿敵の男王・卑弥弓呼(これは卑弓弥呼=ヒコミコの誤り)がいて、大官に狗古智卑狗(クコチヒク=菊池彦)がいるとしているが、この狗奴国については戸数の情報はない(魏とは通交がないためだろう)が、3万戸程度はあったと思っている。
【投馬国・邪馬台国への行程】
帯方郡からの使い(役人)が、九州島に上陸したあと、「郡使の往来に際して、常に駐まる所」という唐津に比定される「末盧国」から東南陸行500里の所にある「伊都国」の位置が大問題である。
この国をほとんどの研究者は福岡県糸島市(旧前原町・志摩町)に比定するのだが、糸島市なら壱岐国から直接ここへ水行すればよく、どうして唐津で船を降り、少なからぬ携行品の数々を背負いながら海岸沿いの険しい道を歩く必要があるのだろうか。
そもそも東南へ歩くというのに、唐津から糸島市へは東北であることも否定される理由だ。さらに日本書紀の仲哀天皇紀や肥前国風土記逸文には、怡土郡(糸島市の旧郡名)は最初は「伊蘇(イソ)国」と呼ばれていたのだが、転訛によって「イト郡」になったが、それは誤りである――と書かれているのだ。
「糸島=伊都国」説は完全に比定されなければならない。糸島には「伊都国歴史資料館」があるが、糸島に住んでいた豪族「五十迹手(いそとて)」に因んで「五十国歴史資料館」とすべきだ。
(※五十(イソ)はまた崇神天皇と垂仁天皇の和風諡号にあり、それは崇神の九州時代における王権が、この糸島五十(イソ)の地から始まったことを示している。)
私は伊都国を「イツ国」と読み、唐津市から東南へ松浦川沿いの道をとり、上流部にある「厳木町」(きゆらぎ町)を「イツキ町」と読み替えて「伊都城(イツキ)」とする。まさにそこは「伊都(イツ)国」の王城があったと考えている。戸数は当時わずか1000戸になっていたが、かつては佐賀平野部を占める大国であった。
この伊都国からさらに東南へ100里(1日行程)の所に奴国があるが、この奴国は戸数が2万戸と巨大である。佐賀平野の西部に位置する多久市から小城市一帯にかけて、有明海の海の幸にも恵まれた気候温暖な平野部だろう。
この次の国「不弥国」はその東100里で、現在の佐賀市がまだ海中にあり、かなり陸奥に入った大和町あたりかと思われる。
【距離表記と日数表記】
さて以上の不弥国までは帯方郡から○○里という「距離表記」によって記載されている。この不弥国までの距離は合計すると1万700里である。またもう一つの距離表記があり、それには「郡より女王国に至る、1万2千余里」とある。
そうすると不弥国から邪馬台国まではあと1300里ということになる。この時点で畿内説は全く成り立たないことが分かる。
当時もちろん地図はなかったが、当てはめてみると唐津から厳木町(伊都国)を通り、佐賀平野に下って多久・小城、そして大和町まで700里のさらにおよそ2倍ほどの1300里を行った先に邪馬台国があることになる。
私はそこを八女市とした。
ところがここで悩ましい問題が生じる。帯方郡から半島の西海岸を経由し、朝鮮海峡を渡り、唐津に上陸してから松浦川沿いに東南500里の厳木町、さらに東南の奴国を経て東の不弥国まで帯方郡からの距離表記は10700里。
この不弥国のあとは、次のように投馬国と邪馬台国が登場するのだが、これが日数表記なのだ。
<(東行至る不弥国、百里。官に曰く多模、副に曰く卑奴母離、二千余家有り。)南至る、投馬国、水行20日。官に曰く彌彌(ミミ)、副に曰く彌彌那利(ミミナリ)。五万余戸なるべし。南至る邪馬台国、女王の都する所。水行10日、陸行1月。(以下省略)>
不弥国にはタモ(玉?)という大官がおり、ヒナモリ(夷守?)という副官がいて、戸数は2千戸程度だという情報を書き記したあと、「南至る投馬国、水行20日」とくる。さらに投馬国の戸数は5万余戸ばかりだという情報を書いたあと、「南至る邪馬台国、女王の都する所、水行10日、陸行1月」とくる。
多くの研究者は不弥国から船出して南へ20日の所に投馬国があると考える。不弥国を多くの研究者は福岡県の宇美町とするのだが、そこからは南へ行けるような海はない。投馬国までの20日の水行を悪戦苦闘して、遠賀川を逆上らせたりする。それでも20日は多過ぎる。
また宇美町から東へ水行し、下関海峡を通過して大分・宮崎の海岸を「水行」させたりする。これだと一見南へ下るようだが、その前の玄界灘を東行する過程を全く考慮しないで無視する。
仮に宮崎方面に南下し、宮崎を投馬国に比定したとしても、邪馬台国はそこからさらに南へ水行10日し、上陸したら1か月歩いた場所であり、鹿児島の大隅半島か薩摩半島に上陸したあと、徒歩で1か月もかかる地域はない。
【距離表記と日数表記は同値である】
ここで考慮しなければならないのは、段落というものを無視した漢文の書き方である。
上で引用した不弥国から投馬国、投馬国から邪馬台国の日数表記記事は連続しているけれども、どちらの「南至る」も共に帯方郡からの日数表記なのだ。
つまり帯方郡から邪馬台国までの距離表記「1万2千里」と「(帯方郡から)南至る水行10日、陸行1月」という日数表記は同値なのである。
「水行10日」とは「帯方郡から半島の西海岸経由で朝鮮海峡を渡り末盧国(唐津市)までの1万里」と同値であり、「陸行1月」とは「末盧国から伊都国・奴国・不弥国を経由して邪馬台国までの2千里」と同値なのである。
投馬国が後になったが、この日数表記も「帯方郡からの水行20日」であり、不弥国からの水行20日ではない。距離表記では書かれていないが、もし書くとすれば「帯方郡より投馬国まで2万里」となろう。まず「水行10日(距離表記では1万里)」は帯方郡から末盧国までの1万里。
末盧国からは、さらに南へ水行10日(距離表記では1万里)の九州南部域が広く該当する。
したがって戸数5万戸という大国は鹿児島県と宮崎県とを併せた古日向ということになる。
倭人伝の行程記事では距離表記と日数表記とが混在しているのだが、距離表記と日数表記が同じことを別の表現で表しているのだと気が付けば、九州説にとって臆説は存在しないことになろう。