2月の最終日、雨の中肝付町の塚崎古墳群と東田遺跡のつながりを探るべく「肝付町歴史資料館」に行って来た。
塚崎古墳群とは肝付町の塚崎という肝属山地からの流れが、肝属平野に下りるあたりにあたかも極小の半島のように平野部に突き出た比高にして15mほどの丘にある。
一週間前に行った大楠の生えた円墳は「塚崎1号墳」で、塚崎古墳群には前方後円墳が5基、円墳が51基、地下式横穴墓が29基見つかっている。
鹿児島でも大隅半島には前方後円墳にしろ、円墳にしろ、地下式横穴墓にしろ、古墳が薩摩半島を圧倒して多いのが特徴だ。
「前方後円墳は畿内の王権と密接な関係を築いていた証」という今日の学説に従えば、古墳時代には大隅半島の方が薩摩半島よりもより畿内の王権に近しい関係を築いていたことになる。
その大隅に多い古墳群の中でも塚崎古墳群は最も古く築かれた古墳群ということになっている。
資料館で配布されている小冊子には大隅半島にある前方後円墳を持つ古墳群が10ほど地図にプロットされている。その中で赤い丸に囲まれたのが塚崎古墳群だ。
塚崎古墳群は一見して内陸にあるように見えるが、当時の志布志湾はかなり内陸まで海岸線が入り込んでいたので、どの古墳群も海に近い場所にあったと考えて差し支えない。
塚崎古墳群も半島のように肝属平野に突き出た塚崎台地の上にあるのだが、大地の下のすぐそこまで海岸線が迫っていたと思われる。
地図の右手には5つの古墳群のそれぞれの前方後円墳が、築造年代の順に上から下に向かって描かれている。塚崎古墳群は一番地図に近く黄色く塗られた短冊状の中に、5つの前方後円墳が築造年代順に描かれている。
それによると塚崎古墳の5つの前方後円墳は他のどの古墳よりも古いことが分かる。これらはおよそ3世紀の終末から4世紀代に築造されており、この100年間で5つの前方後円墳というのはあたかも5世代にわたる当地の豪族の系譜を見るようだ。
ではその豪族の系譜とは?
そこで注目すべきは塚崎古墳群のある塚崎台地から東へ県道を下り、平坦な田んぼ道を1キロ余り行った所で発掘された「東田遺跡」である。
海抜5mの平坦地をまっすぐに伸びる道路の下で東田遺跡は発見された。
東田遺跡は県道の工事中に発見された古墳時代初期の住居跡群で、比較的狭い範囲に47軒もの住居跡が見つかっている。最初は弥生時代の物と言われたが、出土した成川式土器などにより古墳時代の遺跡と確定されている。
私はこの東田遺跡に居住していた古墳時代人が墳墓として塚崎台地を選んで古墳群を形成したと考えている。東田遺跡の海抜はわずか5mしかなく、言わば海岸べりに居住していたことになり、そうなると水田耕作は不可能で、ここに住んでいた人々は一言でいうなら「海人族(うみんちゅ)」ではなかったかと思う。
肝属川河口付近はそのころ広大な「潟湖(ラグーン)」であり、現在の肝属川を挟んだ向かい側の東串良町にはこのラグーンを囲うように北から南に向かって「砂嘴」が伸びており、海人族にとっては願ってもない穏やかな入り江だった。
ここを拠点にした豪族を私は古事記に書かれた神武天皇の二人の皇子(タギシミミとキスミミ)のうち「東征」に参加しなかった弟のキスミミのことだと考えている。
キスミミは「岐須美美」と古事記では書くが、私はこれを「岐津耳」と解釈した。
「岐(キ)」とは「ふなど」つまり「港湾=港」のことであり、「津」は「~の」、そして「耳」は古日向が魏志倭人伝に言う投馬国だったとする私見からして、その王を「彌彌(ミミ)」と言ったのと軌を一にしている。
要するに「岐津耳」とは「港の王」と解釈され、具体的にはこの肝属川河口を本拠地とするキスミミその人だったということに他ならない。
兄のタギシミミは大和に橿原王朝を築いたあと、記紀の説話では腹違いの弟によって殺害されるのだが、大隅半島に残ったキスミミはその橿原王朝の血筋であり、大和との繋がりを濃厚に持っていたのであるから、築造する墓(古墳)が大和との密接なつながりを持つ豪族に許されたとされる前方後円墳だったとして何ら不思議ではない。
そしてその前方後円墳が大隅半島で最も古いのもむべなるかなである。
※キスミミの後裔に700年に朝廷から派遣された「覓国使(べっこくし)」という南島への国境調査団に対して反抗した薩摩ヒメ・クメ・ハヅの他に肝衝難波(キモツキナニワ)がいたとされるが、この肝衝難波はキスミミの子孫ではないかと思っている。
※キスミミが「古事記には記されているのに、日本書紀には無い」のは何故かについては別稿で考察したい。
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