先日来3回にわたって「串間出土の玉壁の謎」を書いてきたが、自分なりに出土地「王之山」を佐吉の家のあった穂佐ヶ原の北側を東西に走る丘陵に比定し得たが、玉壁のほかにこれは稀代の珍宝というほどのものではないが串間からは漢代より前に大陸各地で貨幣として使われていたという青銅製の「刀銭(とうせん)」が出土している。
今回はこれについて考えてみたい。
この「刀銭」の情報を与えてくれたのは串間出身で志布志市在住だった故・深江洋一氏である。深江氏はかって大隅史談会の会員であり、史談会発行の論集『大隅』39号(平成8年発行)に「串間出土の刀銭」というタイトルで寄稿している。
内容は次のとおりである。
1、串間時代の中学校の友人で田中君という人の家が所有する畑から一本の「刀銭」が出土して保管していたのを、田中君が学校に持ってきてくれた。その畑の場所は字名が「天神」というところだった。
2、田中君が学校に持ってきてくれた刀銭は、歴史の担任の先生が見せてくれと持って行ったままになってしまったので、今はない(行方不明)。
3、かなりあとになって調べてみると、その刀銭はどうやら「明刀」とよばれる種類のものであったようだ。刀銭には明刀・斉刀・尖首刀(先が尖っている)・円首刀(先が円い)・方首刀(先が四角い)の5種類がある。出土したものと似ているのが明刀と斉刀だが、この二刀は大きさがまったく違い、田中君のは小ぶり(12㎝~15㎝)の明刀に該当する。
4、5種類のうち明刀は大陸の河北省、旧満州、北朝鮮の各地でおびただしく出土する。これに次ぐのが尖首刀で、斉刀、円首刀は数が少ない。
今は手元にないのが返す返すも残念だと言ったうえで、深江氏はこうのべてている。
「卑弥呼の時代をさかのぼること数百年、中国の北部から九州の果ての串間まで、いったい誰がどのような経緯で持ってきたのであろうか。伝説や名家の系図によく出てくる亡命貴族か。普通の渡来人か。あるいは大陸との交易によるものか。朝鮮半島、北部九州を経由して来たのか。それとも危険を冒して東シナ海を渡ってきたのであろうか。」
こう書いて、2200年以上前に鋳造された刀銭の出自について思いを馳せている。(※深江氏はこの二号後の『大隅41号』には「串間出土の穀壁」を書いておられる)
実は先日、串間市を訪れ、市役所の文化・文化財係の窓口で応対してもらった職員に耳よりの情報を得た。それは、深江氏はその後(昭和40年代)に串間市でもう一本別の刀銭を手に入れたという。
道路工事中に発見されたものだそうだが、どこかは特定できていない。おそらく先の刀銭の発見された「天神」の西で、さほど遠くないところだろうという。いずれにしても二本の刀銭は串間市の西方地区で串間駅のある中心地よりは標高の高いシラス台地の上で発見されたということになる。
あとの刀銭は現在「旧吉松家住宅」に展示されている。見た限りではやはり深江氏が指摘した長さが15センチ以内の「明刀」のようである。
もし刀銭と玉壁の両方とも「王之山」の同じ石棺から発見されたというのであれば、明刀である以上満州から北朝鮮に出土が多いことから類推して「王之山」の被葬者も半島由来の人物であるとほぼ確実に言えるのだが、刀銭は石棺とは無縁の出土であるから、ストレートに結びつけることはできない。
しかし串間でも同じ西方地区の、一方は穂佐ヶ原周辺であり、もう一方は天神周辺である。両者の距離は直線にして1キロ半ほどしかないのである。
西方地区には福島古墳群(19基)があり、特に福島小学校周辺には6基も集中して古墳が存在する。同地区は標高が高いため弥生から古墳時代にかけても海岸からは離れており、海陸ともに豊かな資源が得られた場所でもあった。弥生から古墳時代の遺跡が多いのも納得できる。
また福島小学校から西へ数百メートルには「銭亀塚」という遺跡があり、そこからは漢代のガラス製「トンボ玉」が出土しているという。
このトンボ玉も全国的には希少なものであり、串間にはやはり何らかの重要な人物がやって来た可能性が高いと思われるのである。
玉壁は周王朝からの周辺諸侯への賜与品(子爵の地位の証明)であるから、当然諸侯つまり王族クラスの所持品である。またトンボ玉は装飾品でありこちらは王族の婦人たちの所持品であろう。
串間出土の二本の刀銭は両方とも「明刀」である可能性が高いから、旧満州(中国東北部)から北朝鮮(旧楽浪郡)を経由したものである可能性が最も高いといって差し支えないだろう。
とすると刀銭もトンボ玉も玉壁もすべて朝鮮半島を経由または朝鮮半島の何らかの国からやって来たとしてよいのではないだろうか。
ただよくある「畿内にまず入り、そこから地方に配布された」なる畿内史観の入る余地はないことは言える。玉壁・刀銭・トンボ玉がごく狭い地域にぞろぞろと発見された例などあったためしはないのだから。
交易で得たとする考え方もないことはないが、刀銭とトンボ玉についてはあり得ても、石棺から他の鉄製品とセットになって出土している玉壁に関しては全くあり得ない。
この玉壁の出自については、このブログ2019年7月22日の「串間出土の玉壁の謎」に書いているが、刀銭の渡来ルートでもある朝鮮半島由来の王族の渡来によるものとの考えてよいと確信できる。
(※もっとも交易にしても王族の渡来にしても船および水主(かこ)が必要であり、自分としては南九州の航海民「鴨族」の存在がそれに当たると考えるのである。船主については意外と見落としがちだが、いかなる王者と言えども半島から九州島に渡来するには航路によるほかなく、波荒い海域を無事に乗り切る水主(かこ)の力量は称賛されたはずである。
半島から九州島まで、すでにあの当時(弥生中期から古墳時代)、定期航路(沿岸航法)のようなものがあったのではないかとも思われる。それに対して大陸からの航路は言うならば「チャーター船」によるほかなく、奈良時代にあの高僧鑑真が味わったように大海の荒波を越えるには「一か八か」くらいの偶然によることが多かったのである。)
今回はこれについて考えてみたい。
この「刀銭」の情報を与えてくれたのは串間出身で志布志市在住だった故・深江洋一氏である。深江氏はかって大隅史談会の会員であり、史談会発行の論集『大隅』39号(平成8年発行)に「串間出土の刀銭」というタイトルで寄稿している。
内容は次のとおりである。
1、串間時代の中学校の友人で田中君という人の家が所有する畑から一本の「刀銭」が出土して保管していたのを、田中君が学校に持ってきてくれた。その畑の場所は字名が「天神」というところだった。
2、田中君が学校に持ってきてくれた刀銭は、歴史の担任の先生が見せてくれと持って行ったままになってしまったので、今はない(行方不明)。
3、かなりあとになって調べてみると、その刀銭はどうやら「明刀」とよばれる種類のものであったようだ。刀銭には明刀・斉刀・尖首刀(先が尖っている)・円首刀(先が円い)・方首刀(先が四角い)の5種類がある。出土したものと似ているのが明刀と斉刀だが、この二刀は大きさがまったく違い、田中君のは小ぶり(12㎝~15㎝)の明刀に該当する。
4、5種類のうち明刀は大陸の河北省、旧満州、北朝鮮の各地でおびただしく出土する。これに次ぐのが尖首刀で、斉刀、円首刀は数が少ない。
今は手元にないのが返す返すも残念だと言ったうえで、深江氏はこうのべてている。
「卑弥呼の時代をさかのぼること数百年、中国の北部から九州の果ての串間まで、いったい誰がどのような経緯で持ってきたのであろうか。伝説や名家の系図によく出てくる亡命貴族か。普通の渡来人か。あるいは大陸との交易によるものか。朝鮮半島、北部九州を経由して来たのか。それとも危険を冒して東シナ海を渡ってきたのであろうか。」
こう書いて、2200年以上前に鋳造された刀銭の出自について思いを馳せている。(※深江氏はこの二号後の『大隅41号』には「串間出土の穀壁」を書いておられる)
実は先日、串間市を訪れ、市役所の文化・文化財係の窓口で応対してもらった職員に耳よりの情報を得た。それは、深江氏はその後(昭和40年代)に串間市でもう一本別の刀銭を手に入れたという。
道路工事中に発見されたものだそうだが、どこかは特定できていない。おそらく先の刀銭の発見された「天神」の西で、さほど遠くないところだろうという。いずれにしても二本の刀銭は串間市の西方地区で串間駅のある中心地よりは標高の高いシラス台地の上で発見されたということになる。
あとの刀銭は現在「旧吉松家住宅」に展示されている。見た限りではやはり深江氏が指摘した長さが15センチ以内の「明刀」のようである。
もし刀銭と玉壁の両方とも「王之山」の同じ石棺から発見されたというのであれば、明刀である以上満州から北朝鮮に出土が多いことから類推して「王之山」の被葬者も半島由来の人物であるとほぼ確実に言えるのだが、刀銭は石棺とは無縁の出土であるから、ストレートに結びつけることはできない。
しかし串間でも同じ西方地区の、一方は穂佐ヶ原周辺であり、もう一方は天神周辺である。両者の距離は直線にして1キロ半ほどしかないのである。
西方地区には福島古墳群(19基)があり、特に福島小学校周辺には6基も集中して古墳が存在する。同地区は標高が高いため弥生から古墳時代にかけても海岸からは離れており、海陸ともに豊かな資源が得られた場所でもあった。弥生から古墳時代の遺跡が多いのも納得できる。
また福島小学校から西へ数百メートルには「銭亀塚」という遺跡があり、そこからは漢代のガラス製「トンボ玉」が出土しているという。
このトンボ玉も全国的には希少なものであり、串間にはやはり何らかの重要な人物がやって来た可能性が高いと思われるのである。
玉壁は周王朝からの周辺諸侯への賜与品(子爵の地位の証明)であるから、当然諸侯つまり王族クラスの所持品である。またトンボ玉は装飾品でありこちらは王族の婦人たちの所持品であろう。
串間出土の二本の刀銭は両方とも「明刀」である可能性が高いから、旧満州(中国東北部)から北朝鮮(旧楽浪郡)を経由したものである可能性が最も高いといって差し支えないだろう。
とすると刀銭もトンボ玉も玉壁もすべて朝鮮半島を経由または朝鮮半島の何らかの国からやって来たとしてよいのではないだろうか。
ただよくある「畿内にまず入り、そこから地方に配布された」なる畿内史観の入る余地はないことは言える。玉壁・刀銭・トンボ玉がごく狭い地域にぞろぞろと発見された例などあったためしはないのだから。
交易で得たとする考え方もないことはないが、刀銭とトンボ玉についてはあり得ても、石棺から他の鉄製品とセットになって出土している玉壁に関しては全くあり得ない。
この玉壁の出自については、このブログ2019年7月22日の「串間出土の玉壁の謎」に書いているが、刀銭の渡来ルートでもある朝鮮半島由来の王族の渡来によるものとの考えてよいと確信できる。
(※もっとも交易にしても王族の渡来にしても船および水主(かこ)が必要であり、自分としては南九州の航海民「鴨族」の存在がそれに当たると考えるのである。船主については意外と見落としがちだが、いかなる王者と言えども半島から九州島に渡来するには航路によるほかなく、波荒い海域を無事に乗り切る水主(かこ)の力量は称賛されたはずである。
半島から九州島まで、すでにあの当時(弥生中期から古墳時代)、定期航路(沿岸航法)のようなものがあったのではないかとも思われる。それに対して大陸からの航路は言うならば「チャーター船」によるほかなく、奈良時代にあの高僧鑑真が味わったように大海の荒波を越えるには「一か八か」くらいの偶然によることが多かったのである。)