鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

「串間出土の刀銭」考

2020-03-13 08:52:14 | 古日向の謎
先日来3回にわたって「串間出土の玉壁の謎」を書いてきたが、自分なりに出土地「王之山」を佐吉の家のあった穂佐ヶ原の北側を東西に走る丘陵に比定し得たが、玉壁のほかにこれは稀代の珍宝というほどのものではないが串間からは漢代より前に大陸各地で貨幣として使われていたという青銅製の「刀銭(とうせん)」が出土している。

今回はこれについて考えてみたい。

この「刀銭」の情報を与えてくれたのは串間出身で志布志市在住だった故・深江洋一氏である。深江氏はかって大隅史談会の会員であり、史談会発行の論集『大隅』39号(平成8年発行)に「串間出土の刀銭」というタイトルで寄稿している。

内容は次のとおりである。

1、串間時代の中学校の友人で田中君という人の家が所有する畑から一本の「刀銭」が出土して保管していたのを、田中君が学校に持ってきてくれた。その畑の場所は字名が「天神」というところだった。

2、田中君が学校に持ってきてくれた刀銭は、歴史の担任の先生が見せてくれと持って行ったままになってしまったので、今はない(行方不明)。

3、かなりあとになって調べてみると、その刀銭はどうやら「明刀」とよばれる種類のものであったようだ。刀銭には明刀・斉刀・尖首刀(先が尖っている)・円首刀(先が円い)・方首刀(先が四角い)の5種類がある。出土したものと似ているのが明刀と斉刀だが、この二刀は大きさがまったく違い、田中君のは小ぶり(12㎝~15㎝)の明刀に該当する。

4、5種類のうち明刀は大陸の河北省、旧満州、北朝鮮の各地でおびただしく出土する。これに次ぐのが尖首刀で、斉刀、円首刀は数が少ない。

今は手元にないのが返す返すも残念だと言ったうえで、深江氏はこうのべてている。

「卑弥呼の時代をさかのぼること数百年、中国の北部から九州の果ての串間まで、いったい誰がどのような経緯で持ってきたのであろうか。伝説や名家の系図によく出てくる亡命貴族か。普通の渡来人か。あるいは大陸との交易によるものか。朝鮮半島、北部九州を経由して来たのか。それとも危険を冒して東シナ海を渡ってきたのであろうか。」

こう書いて、2200年以上前に鋳造された刀銭の出自について思いを馳せている。(※深江氏はこの二号後の『大隅41号』には「串間出土の穀壁」を書いておられる)

実は先日、串間市を訪れ、市役所の文化・文化財係の窓口で応対してもらった職員に耳よりの情報を得た。それは、深江氏はその後(昭和40年代)に串間市でもう一本別の刀銭を手に入れたという。

道路工事中に発見されたものだそうだが、どこかは特定できていない。おそらく先の刀銭の発見された「天神」の西で、さほど遠くないところだろうという。いずれにしても二本の刀銭は串間市の西方地区で串間駅のある中心地よりは標高の高いシラス台地の上で発見されたということになる。

あとの刀銭は現在「旧吉松家住宅」に展示されている。見た限りではやはり深江氏が指摘した長さが15センチ以内の「明刀」のようである。

もし刀銭と玉壁の両方とも「王之山」の同じ石棺から発見されたというのであれば、明刀である以上満州から北朝鮮に出土が多いことから類推して「王之山」の被葬者も半島由来の人物であるとほぼ確実に言えるのだが、刀銭は石棺とは無縁の出土であるから、ストレートに結びつけることはできない。

しかし串間でも同じ西方地区の、一方は穂佐ヶ原周辺であり、もう一方は天神周辺である。両者の距離は直線にして1キロ半ほどしかないのである。

西方地区には福島古墳群(19基)があり、特に福島小学校周辺には6基も集中して古墳が存在する。同地区は標高が高いため弥生から古墳時代にかけても海岸からは離れており、海陸ともに豊かな資源が得られた場所でもあった。弥生から古墳時代の遺跡が多いのも納得できる。

また福島小学校から西へ数百メートルには「銭亀塚」という遺跡があり、そこからは漢代のガラス製「トンボ玉」が出土しているという。

このトンボ玉も全国的には希少なものであり、串間にはやはり何らかの重要な人物がやって来た可能性が高いと思われるのである。

玉壁は周王朝からの周辺諸侯への賜与品(子爵の地位の証明)であるから、当然諸侯つまり王族クラスの所持品である。またトンボ玉は装飾品でありこちらは王族の婦人たちの所持品であろう。

串間出土の二本の刀銭は両方とも「明刀」である可能性が高いから、旧満州(中国東北部)から北朝鮮(旧楽浪郡)を経由したものである可能性が最も高いといって差し支えないだろう。

とすると刀銭もトンボ玉も玉壁もすべて朝鮮半島を経由または朝鮮半島の何らかの国からやって来たとしてよいのではないだろうか。

ただよくある「畿内にまず入り、そこから地方に配布された」なる畿内史観の入る余地はないことは言える。玉壁・刀銭・トンボ玉がごく狭い地域にぞろぞろと発見された例などあったためしはないのだから。

交易で得たとする考え方もないことはないが、刀銭とトンボ玉についてはあり得ても、石棺から他の鉄製品とセットになって出土している玉壁に関しては全くあり得ない。

この玉壁の出自については、このブログ2019年7月22日の「串間出土の玉壁の謎」に書いているが、刀銭の渡来ルートでもある朝鮮半島由来の王族の渡来によるものとの考えてよいと確信できる。

(※もっとも交易にしても王族の渡来にしても船および水主(かこ)が必要であり、自分としては南九州の航海民「鴨族」の存在がそれに当たると考えるのである。船主については意外と見落としがちだが、いかなる王者と言えども半島から九州島に渡来するには航路によるほかなく、波荒い海域を無事に乗り切る水主(かこ)の力量は称賛されたはずである。

半島から九州島まで、すでにあの当時(弥生中期から古墳時代)、定期航路(沿岸航法)のようなものがあったのではないかとも思われる。それに対して大陸からの航路は言うならば「チャーター船」によるほかなく、奈良時代にあの高僧鑑真が味わったように大海の荒波を越えるには「一か八か」くらいの偶然によることが多かったのである。)

東北大震災9周年

2020-03-11 10:25:44 | 災害
今日3月11日は東北大震災の発生した日。

2011年3月11日2時46分が運命の時刻であった。昨日から市役所の広報無線で「3月11日の午後2時46分にはサイレンが鳴りますから、一分間の黙とうをお願いします。」と、その2時46分を強調するアナウンスが流されている。

その時間帯、私は仕事で市内を車で走っており、カーラジオを点けていなかったので知る由もなかったのだが、1時間くらい後だったが、息子からの電話で大地震のことを知ったのだった。

息子がなぜ電話して来たかというと、彼は北九州に本社のある企業に入社していたのだが、最初の年に各地にある会社の工場などを数週間ずつ研修か何かで回っており、その一つが仙台市にあった。

そこが津波の被害に遭ったというのだ。息子が半年くらい前に数週間研修に入っていた工場で、その時にお世話になった社員の数名が亡くなったらしい。自分の研修期間がもし3月にずれていたら自分も危ない目に遭ったという思いだったのだろう。

帰宅後、テレビで津波による災害の凄さを知ったが、その何年か前にインドネシアのスマトラ島を襲った大津波の情景を報道で見ていたので、恐怖という心理は湧かなかったが、とにかくついい1時間前まで通常だった人々の生活がぐしゃぐしゃになって行くという光景は、呆気にとられる他なかった。

今日も思い返したのだが、この震災の三日くらい前に同じ三陸沖を震源とするマグニチュード6か7かの地震が2回起きていたのである。その時自分はこう頭に浮かべていた。

「日本ではマグニチュード7くらいではたいしたニュースにもならないのに、2月に起きたニュージーランド地震ではマグニチュード6程度で大災害になったよなあ。」と。

今朝ウェブで検索してみたところ、そのニュージーランド地震というのは「クライストチャーチ地震」といい、2月22日に発生し、震源はクライストチャーチ市の近郊で確かにマグニチュードは6.1で、日本ではごく普通の規模の被害などほとんど出ないような地震に過ぎなかったので、そう思ったのも無理はなかった。

また、「東北大震災の前震」で検索して確かめたら、記憶では本震の3日前と思っていたのだが、実際は2日前の3月9日であった。そのマグニチュードは実に7.3。クライストチャーチ地震の100倍以上のエネルギーである。この時実は60センチほどの津波があったらしいが、60センチくらいでは大風の時に海岸に打ち寄せる波ほどにも留意されなかったに違いない。

さらに翌日、つまり本震の前日にも同じ三陸沖を震源とするマグニチュード6.8の地震が起きているが、これもクライストチャーチの数十倍の規模だが、「何だ、またか。大したことないな」くらいにしか受け止めなかったのであった。

そして翌日の午後2時46分・・・。

まさに見事に一日ごとの三段跳び「ホップ・ステップ・ジャンプ」ではないか。

しかし実はクライストチャーチの場合、4か月ほど前にマグニチュード7クラスのが発生しており、その時に建物にひびが入ったりしたらしく、補強をする間もなく翌年2月のが起きたので、揺れ自体は小さかったにもかかわらず、崩壊した建物が多く、その一つの6階建てのビルが完全倒壊し、その4階にあった語学学校にいた60人余りの生徒が亡くなった。うち28人が日本人だったという記憶に残りる地震災害だった。

ニュージーランドの場合は直下型(活断層型)であり、東北大震災の場合は海溝(トラフ)型という大きな違いがあるので直ちに比べるわけにはいかないが、後者の災害は津波が最大の引き金であることは、いやでも経験したところである。

しかし今後必ず起こるであろう「首都直下型地震」は前者が参考になる。こちらは地震が発生してから、揺れによる建物や構築物の損壊までの時間が極端に短いのが特徴で、人々はまずそれでやられ、次いで火災の発生によってとどめを刺されるのである。

マグニチュード9、震度7であれば数十万、マグニチュード8、震度6強でも10万規模の犠牲者は免れないというから恐ろしい。人的犠牲もだがインフラの崩壊・寸断もすさまじく、しかも関東大震災当時には全くなかった当世の情報通信網が断たれたら、まさに想像を絶する危機に陥る(早く首都機能を移転、拡散すればよいのだが・・・)。

昨今、目に見えない新型コロナウイルスの感染におびえて自粛の嵐が吹いているが、その時にも足元では地殻変動のタイムリミットが迫っていることを忘れてはならず、対策を常に念頭に置いておくことが肝要だろう。</span>

串間出土の玉壁の謎(3)

2020-03-09 09:39:25 | 古日向の謎
 王之山
串間出土の玉壁の「出自」については、当ブログ2019年7月22日の『串間出土の玉壁の謎』及び2020年3月7日の『串間出土の玉壁の謎(2)』に書いた通りだが,では一体串間のどこから出土したのだろうか。最後にそのことを探求してみた。

『串間市史』(平成8年刊)の「串間出土の穀壁」の章によると玉壁(穀粒文様が施されているので市史では「穀壁」が使われているが、当ブログでは硬玉製品であることを重視して玉壁とする)の出土に関しては、大正10年(1921年)の考古学雑誌に「前田公爵家蔵品」として掲載されたのが世に出る最初の出来事だったとし、玉壁が収められていた箱の表に記されていた「壁箱書」によると(漢文だが読み下しにしてある)、


文政元年(1818年)戊寅二月、日向国那珂郡今町の農佐吉所有地たる字王之山より掘り出せし石棺中に獲たる所の古玉・鉄器三十余品の一なり。蓋し日向は上古の遺跡多し。いわゆる王之山は必ずや尋常の古塚にあらざるなり。明治十年十二月 湖山

箱書(表)を書いたのは小野湖山という漢学者であるが、この中に出てくる「王之山」こそが、玉壁をはじめ30品にも及ぶ副葬品のあった石棺の出土地ということである。また箱の裏書には「多気志楼(たけしろう)蔵」とあるので、松浦武四郎が元の所有者であり、前田公に譲渡した串間出土の玉壁だという証明にもなっている。

以上から、佐吉(河野氏)が居住し農地を所有していた穂佐ヶ原の周辺に「王之山」を探し出せばよいわけである。

といっても串間市の今町地区(現在の西方地区)に字として「王之山」はないので、はたと行き詰まる。串間市史によると、かって考古学者たちが穂佐ヶ原に近い「王ノ池」「王子谷」という小字を探り掘りしたりしたが、石棺に類するものは何も出てこなかったという。

箱書きには最初の「王之山」の前に確かに「字」としてあるので、解釈としては、①当時はあったが現在は無くなっただけとするか、②玉壁など王族クラスの副葬品を持つ墳墓なので土地の者が「王様の眠っている山」という意味で「王之山」と名付けた――の二つだろうが、私は後者を採る。当時の「俗称」もしくは今風に言うなら「愛称」だったろう。

さて穂佐ヶ原の人々がそう呼んだ思われる「王之山」を探る前にもう一つのヒントがある。これも串間市史の「串間出土の穀壁」の章に書かれているのだが、松浦武四郎が串間でこの玉壁を入手した時に、偶然なのか必然なのか出会いのきっかけは不明だが、国富庄の稲荷神社の神主で宮永真琴という人が武四郎に贈った漢詩に次のような表現があるのだ。


   「珠は獲たり、北陵山上の月」

「珠」は「珠玉」というように「玉」(ぎょく)と同じ、また最後の「月」は天体の月ではなくこれは真ん丸の形をしている「玉壁」の比喩だろう。

そう考えるとこの漢詩は「お月様のように真ん丸で美しい玉壁は、北の陵墓の山上で獲たものである」と言っているように思われるのである。

ならば、当時の穂佐ヶ原(ほさがばる)の人々が「王之山」と俗称(敬称)した「北の墳墓」とはどこかを見つければ良いことになろう。そこで下図の出番となる。


  穂佐ヶ原概念図河川改修以前の古地図が手に入ればよかったのだが、あいにく手に入らなかったので、手持ちの5万分の一道路地図と現地を歩いた感覚で手書きしてみた。

穂佐ヶ原は串間市の中心部から北北東に直線で約3キロ、そのほぼ中間には建武の頃に地頭として当地に入部した野辺氏の築いたという「櫛間城址」がある。この辺りは中心部と違い、かなりの高台(シラス台地)である。

佐吉の墓というのが櫛間城址を過ぎてシラス台地から穂佐ヶ原入り口に向かって下り始める間際に左手への農道(点線)を入った先にある。シラス台地特有の真っ平らな畑地帯の一角、下れば穂佐ヶ原集落という台地の辺縁である(辺縁と言っても墓地から集落を見下ろす視界はない)。

この墓地、元は穂佐ヶ原入り口にあり、昭和40年にここへ移転している。昭和40年以前で土葬をしていた年代の被埋葬者の遺骨は、移転の際に深く掘り下げて篩にかけたのを焼骨したそうである。今その跡地周辺は農機商会になっている。

佐吉の墓のある墓地から急な道を下ると途中からは左右(東西)に長い集落の一端が見え、その後ろに丘陵がなだらかに連なっているのが眼に入る。

集落は手前の現在の墓地のあるシラス台地と向こうの丘陵との間を流れる谷間の小流沿いに細長く展開しており、谷間の幅は200mを切るくらいの狭小な田園の中にある。

大きな河川の氾濫原に広々とした水田耕作地が生まれるのは、中世から戦国にかけての戦火の途絶える江戸時代に入ってからである。各藩では競って水田適地を広げたので、穂佐ヶ原のような小流による水田耕作はいかにも狭小な田園に格下げされたかのように見えたかもしれない。

しかしこのような山間から確実に水の得られる水田は、大きな富にはならないにしても、そこそこに安定した暮らしを保証したと思われる。

そしてそのような暮らしぶりは時代を一気にさかのぼった弥生時代でもそう変わらなかったに違いない。


  半島から王族が到来し安住する

そこへ200年代に朝鮮半島の戦乱を逃れてきた王族が串間の港に上陸したと考えてみよう。(※ただし、私見ではまず大隅の志布志に到着し、その後、串間に移動定住したとみる。)

西暦200年代の当時は考古学年代では弥生時代後期だが、串間は現在の福島川を遡上した北方駅近くの上町川原まで湾入していたと言われている(図の右下赤の/部分)。地質図がそのあたりを沖積地としていることからみて間違いないだろう。

中世建武の頃に野辺氏が地頭として入部して築いたという『櫛間城址」も、そのすぐ東側は満潮時には海の水がひたひたと迫る汽水域ではなかったと思われる(赤の点々で示してある部分)。

王族一行は上町川原に流れ込む福島川の一大支流「大矢取川」を船で遡行し、氾濫原の向こう、西方の山々からの清冽な流れの見える現在の穂佐ヶ原を適地と決めて定住したものだろう。

戦乱に明け暮れる朝鮮半島を離れた王族たちはここで平和をしみじみと噛み締めたのではないか。安定した水量による水田耕作、北の丘陵や南側の台地からは山の幸・野の幸、薪が採れ、東方200m辺りを流れる大矢取川からは淡水魚・川エビ・ウナギ、川を2キロも下れば遠浅の海が広がり、貝類や小魚が採れるのだ。


 『珠は獲たり、北陵山上の月』

土地を拓き、村を隆盛に導いた王もやがて最期を迎える時が来る。村人たちの悲しみは一入だろうが、死後も王の魂が村を見守って欲しいと思うのはごく自然の思いである。そこで集落を見下ろすことのできる高い所に墳墓を営みそこに王の遺骸を埋葬することになった。

墳墓の地に選ばれたのが上掲の図の中で「王之山?」とした標高80mほどの北の丘であったと考えれば、宮永真琴のあの漢詩の一節『珠は獲たり、北陵山上の月』中の「北陵」にこの北の丘が適することになる。

この丘の上からは南麓の集落はもとより、東に渺茫とした氾濫原を持つ大矢取川を眼下に収め、何よりも日の出が爽やかに眺められる。こうした配置は墳墓として最上であろう。

この墳墓(北陵)のことは時代を経て伝承となり、いつの頃からか住民の間に「王の山」という敬称が生まれたのだと思われる。

文政元年(1818年)に家の裏山に位置する「王の山」周辺を探ってついに石棺を掘り当てた河野家の佐吉も、そのような伝承は耳にしていたであろう。台風や豪雨の後に何かしら遺物が流れて来たり、表土に顔を出すようなことから、もしやと思い、本格的に掘ってみたのではないか。

その結果が稀代の優品「穀粒文様のある玉壁」の発見であったのだ。

まさに宮永真琴の漢詩の一節のように、「北陵」(北の丘の上の墳墓)から「月のような珠」(玉壁)を獲たのである。


  (追記)
なお、私は「穂佐ヶ原」を「長(おさ)が原」の転訛と考える。「長(おさ)」とは無論、支配者のことである。

また穂佐ヶ原から北へ丘陵をひと越えした集落を「桂原」(かつらはら。地元では「かつはら」と「ら」を省略して読む)は「かしらはら」の転訛だとも考えている。「かしら」は「お頭」のことで頭領を意味する。

桂原も穂佐ヶ原と似た環境の居住適地であり、穂佐ヶ原の王族の分派が移住しておかしくない場所である。

串間出土の玉壁の謎(2)

2020-03-07 09:56:34 | 古日向の謎
今日の仕事が前日になり予定外の休日になったので、行きそびれていた串間市へ、かの希少な「玉壁」の発掘されたという場所を確認に出かけることにした。

2019年7月22日のブログ『串間出土の玉壁の謎(1)』で述べたように、私は、この玉壁は朝鮮半島北部に存在し中国殷王朝の流れをくむ箕子の子孫が開いた国が、東周王朝から子爵の位を与えられた時、その賜与品として授けられた「穀壁(穀粒文のある玉壁)」であったろうとした。(※詳しい経緯は上記ブログに書いた。)

朝鮮半島は200年代に入ると燕王を自認する公孫氏の支配下にはいったが、それを嫌う大陸国家魏によって侵攻を受けることになり、戦乱が続いた。

その時に半島から九州島へと落ち延びたのが魏志韓伝に記載の「臣雲新国」(シウシン国)であり、南九州は志布志(シブシはシウシンからの転訛と考える)に到来し、その後国王か子孫かが串間を開拓し、墳墓の地とした。それがかの玉壁を副葬し「王之山」に埋葬された人物ではなかったかと考えている。

『串間市史』(平成8年刊)にはこの玉壁について6ページほどを割いて記述があり、国内ではただ一件発掘された玉壁であり、国宝級であるとしている。

発見された経緯をかいつまんで書くと、串間の今町在住の農家である「佐吉」という人物が、自身の所有する「王之山」という土地で掘り当てた「石棺」の中に、鉄器などとともに副葬してあった物であるという。

それは文政元年(1818年)のことであり、そのまま所有していたのを幕末の旅行家でのちに蝦夷地に渡り「北海道」と命名した松浦武四郎が買い受け、武四郎はまたそれを明治になって旧加賀藩主の前田侯爵家に譲ったので、世に出ることになった。(※武四郎は前田家に売ったことで大儲けしたため揶揄されてもしょうがないが、そのまま佐吉宅に置いてあったらどうなっていたか。おそらく盗まれるか二束三文で売り飛ばされ、完品のままの状態を維持されなかったに違いない。)

さてではどこが玉壁を副葬していた石棺の発掘地であったのか。

佐吉は河野家の一族であり、河野家は串間市中心部から北に3キロ半ほど行った「穂佐ヶ原(ほさがばる)地区」の旧家であった。

串間市役所で佐吉の墓がその河野家の墓地にあるというので行ってみた。串間市役所の文化財課の職員に地図で教えてもらい、その通りに行くと、県道「一氏・西方線」の県立福島高校あたりからはシラス台地の上を走るようになる。

串間警察署を過ぎ、左折しさらに右折して500メートルばかり行くと穂佐ヶ原を流れる小流に向かって道が下りになるが、下りにかかる寸前のところから左に畑地への道があり、そこを入っていくと広々としたシラス台地特有の平らな畑地が広がる。その一角に河野家の墓地群があった。

しかしこの墓地は昭和40年に旧墓地から移転したことが分かり、そのまま穂佐ヶ原地区に下っていくと、公民館らしきものが見えた。集落の中の道に降り、そこで出会ったおばあさんに訊くと、元の墓地は県道からの入り口にあったという。

そこで集落道を東へ走り県道に出ると、ちょうど作業している人がいたので聞くと、まさにそこが墓地の跡地だった。しかも現在そこで河野さんという人が農機商を営んでいた。

河野さんの話では、集落の中の自分の本家の裏山からは何かしら遺物が見つかるという。

私は瞬間「そこだ」と思った。

上の写真で言えば、向かいの丘陵の右手がそれにあたる。地図で調べると標高80メートルくらいにの丘である。穂佐ヶ原の集落からは北側がすべて丘陵になっており、北風を防いでくれるありがたい山々である。

「王之山」は串間市の小字にはないので、首をかしげるのだが、穂佐ヶ原にとっては愛称のような名づけで、裏山をそう呼んだのだろう。

この80メートルの山は頂上部が楕円形になっており、東方面は串間随一の福島川を見下ろすことができる。

西暦200年代に朝鮮半島から南九州に逃れ、田園を開いた栄えある半島王家の子孫が安住の地を得た喜びが垣間見える風景が見られたに違いない。穂佐ヶ原集落の入口。この道路の奥500メートルくらい、小流に沿って家々がある。右手(北側)の丘陵が俗称の「王之山」だったのではないか。昭和40年にこのあたりから移転した共同墓地は今、左手(南側)のシラス台地の畑地帯の一角にある。

小中高一斉休校要請の余波(2)

2020-03-03 11:10:53 | 日記
昨日の午後1時過ぎに我が家の近くの県道に出て、一段高くなった歩道と道路との境界に生えている草に除草剤を撒いていると、自転車に乗った帰宅途中の女子中学生が二人通りかかったので手を休め、そのうちのひとりに訊いてみた。

――明日から2週間、学校は休みなんだね。部活なんかも中止なの?

「はい。・・・卒業式も在校生は参加しないで、親も一人だけしか参列できないんです。」

――へえ。それは大変だ。でも、別の意味で想い出に残るかもナ。

女子中学生は3年生だった。こっちの質問に、はきはき答えたが、最後の冗談めいた言葉には
含み笑いだけで去って行った。

間近に迫った公立高校の入学試験は通常通り行われるようで、中学3年生にとっては学習上の問題は何もないが、それ以下の学年では2週間かひょっとしたらこのまま春休みまでの休校となると、学習面で遅れが出るはずだ。

しかしそれよりも何よりも心配なのが、共働きの核家族世帯の子供たちだろう。

母親がパートだったり、近くに祖父母がいるのなら何とかやり繰りがつくだろうが、フルタイム勤務だとそうは行くまい。

小学校高学年や中学生にもなれば、昼間家庭に母親がいなくても自分のことは自分でできるからいいが、低学年では無理な話だ。

政府は学童クラブで対応させたいらしいが、学童クラブの定員から考えるとこれも無理な話。

第一、学童クラブでも多くの子供たちが群れるわけで、クラスタ―感染の危険性は学校と変わるまい。

そうなると安倍首相が力説するように、小学校低学年の子を持つ共働き世帯の母親に勤務を停止して家にいてもらい、その分「休業補償」をするという線になる。

だがそれも勤務先の理解(公務員が一番早いだろう)と、企業なら業務上の損失補填が必要となるはずで、それやこれやを果たして予備費2700億円で賄えるのだろうか・・・。

(※これは仄聞だが、かのダイヤモンドプリンセス号に乗り合わせて感染して亡くなったアメリカ人の遺族からは政府に対して数億円規模の莫大な補償が要求されるだろう――という。)

休業補償と企業の損失補填と言えば、あの1100万都市武漢はどうなんだろうか?

武漢では1月23日に「封鎖」されて以来もう1か月半近く、学校も企業活動も停止したままだ。

日本の会社が大中小併せて160社あるというが、すべて活動は停止しているし、もちろん在地の企業や商店もほとんどが休業に追い込まれている。

あと何週間、何か月かかるか分からないが、無事「終息宣言」が出されて封鎖が解除になった暁には、いったいどれほどの休業補償と損失補填がなされるのだろうか。

この新型コロナウイルス感染の発端はどうであれ、武漢だけでは当然賄いきれず中国政府自身が面倒を見るはずだが、想像を絶する巨額になることは間違いあるまい。