鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

邪馬台国問題 第12回(「史話の会」6月例会)

2021-06-21 14:48:22 | 邪馬台国関連
6月20日に「史話の会」6月例会を開いた。

今回は「辰韓と弁韓」の続きである。

先月の例会では、辰韓は辰王の治める国で、今日の慶尚道がその領域だとしたが、洛東江沿いに倭人の航海民たちが蝟集し、そこに国々を築いた――ことを説明した。

なぜそこに倭人が蝟集したかは、辰韓で産出された鉄資源(「国、鉄を出す。韓・濊・倭、みなこれを取るに従う」とある)をもとめる倭人、わけても九州島を基盤とする「安曇族」「宗像族」(以上は北部九州)「鴨族」(南九州)が船舶による交易の拠点にしたからであろう。

【弁韓・辰韓の風俗】

弁韓と辰韓は雑居しており、お互いに自由に行き来できたようである。風俗として特徴的なのは、①歌舞と飲食を好む ②生まれた子の頭に石を挟んで「褊頭(へんとう)」にする ③文身している などであるが、この中で②は解釈に苦しむところで、赤ん坊の頭に石を挟んだというのだ。不可解千万の風習であった。

①では「瑟(しつ)」という「筑(ちく)」に似た弦楽器が演奏されていた。のちの「琴」である。弁韓の後身の伽耶には「伽耶琴」があったが、おそらくそれは「瑟(しつ)」そのものだろう。(※馬韓人も歌舞飲食を好んだが、踊りには「鐸(たく)」(鈴の一種)を鳴らすだけである。)

さて、この「琴」だが、日本書紀によると仲哀天皇と允恭天皇の二人の天皇がみずから演奏していた、とある。4世紀代には日本列島にも伝えられていたようである。

群馬県の古墳からは「琴を弾く男」の埴輪が出土しており、5世紀の日本本土に琴が普及していたといって差し支えないだろう。

③の「文身」だが、これは「身を文(あや)す」で入れ墨のことである。航海系の民が入れ墨を全身に施すのは、海中で大魚に出会うのを避けるための工夫であった。

しかしもとより航海及び海運を知らないはずの辰韓人までが「文身」を施していた、史の背景には伽耶鉄山の盛況があり、この資源をもとめて海人倭人の活躍があった。やはり当時でも活躍顕著な(トレンディな)人間の真似をしたがったわけで、ファッション化したに違いない。

後回しになったが、②の「褊頭(へんとう)」である。「褊(ヘン)」は狭いという意味であるから、頭に石を挟んで頭を狭くする(扁平にする)訳で、問題はいったい何のためにそうするのかなのだが、韓伝のこの部分には書かれていない。

そうなれば推測するしかない。そこで取り上げたいのが馬韓の条の次の部分である(現代文化してある)。

〈 その俗、衣幘(イサク)を好む。下戸でも帯方郡に朝謁する際には、みな衣幘を身に着けている。〉

「衣幘(イサク)」とは上着と頭巾のことだが、「帯方郡に正月の挨拶に訪れる馬韓人は首長層は勿論だが、下っ端でも頭に頭巾を巻いている」というのだ。

後世の「衣冠束帯」のうちの「衣冠」にあたるのが「衣幘」だろう。冠をかぶっている姿ではやはり「細面」、つまり顔の幅の狭い方が似合っている。丸い顔ではたしかに似合わないし、被り物をした時にぐらついてしまう。その点、幅の狭い頭であれば被るにせよ、頭に鉢巻のように巻き付けるにせよ、ずれたりしないだろう。

たかがそれくらいのために「褊頭(へんとう)」にするだろうかと疑問を感じるかもしれないが、日本でも武家の時代に頭を「月代」して、丁髷を結っていたのは、そのたぐいと言っていい。そういう風習は後から顧みておかしなものだが、当時の人間はそう思っていなかったのである。

【弁韓の城郭』

馬韓・辰韓・弁韓の城(守り)については、三者三様で、馬韓は「城郭無し」、辰韓には「城柵在り」、そして弁韓には「城郭」があった。

馬韓は馬韓の条を見る限り農耕社会の趣が強く、強大な権力者はいなかったので城の概念に相当するものがなかった。実に平和そのものの姿である。村々では「天君」という司祭のような人物を据え、「蘇塗(そと)」という一種のサンクチュアリがあった。

辰韓には「城柵」があったのだが、これは砦のレベルの施設で、戦火を交えるような争乱に対処できるものではなかった。逆に言えば、さほどの争乱はなかったと見ることができる。既にこの頃、辰韓の王(辰王)は半島から九州島に移動していたがゆえだろう。

そして不可解なことに弁韓には「城郭」が あったというのだ。城郭とは城を囲む塀のことだが、もちろん本来の意味の「土塁」に違いない。なぜ馬韓や辰韓にはなかった城郭が弁韓にはあったのか。

それを解くカギは弁韓の成り立ちにある。弁韓は韓伝ではほとんど「弁辰」と書かれているが、この意味は「辰韓を弁(わか)つ」であり、弁韓はもともと辰韓が12国を開いていた半島南部の洛東江流域に、鉄資源の交易を目当てに進出して来た九州島の倭人たちが土地を借りるか譲与されて作られた国家群だったのである。

つまり交易国家(商業国家)だったわけで、言うなれば徳川鎖国体制下に置かれた長崎の出島的な国家群だったと思われる。

ただ、出島と違うのは単なる取引の場ではなく、鉄資源の開発と製錬・加工まで行っていた加工貿易だったということである。相当の富が発生しただろうし、当時貴金属に等しい鉄の延べ棒(鉄鋋=テッテイ)を備蓄したりしており、犯罪から守るうえで「城郭」は必要だったはずである。

〈 法俗は特に厳峻であった(規則や規律を犯したら、厳しく処罰した)。〉という記述もうべなるかなで、内部の人間によって不正が行われぬようにという事であろう。(第12回 完)

都心の米軍基地

2021-06-18 10:38:13 | 専守防衛力を有する永世中立国
今朝のNHK番組で東京都心にある米軍の「赤坂プレスセンター」という名のヘリコプター基地を取り上げていた。

場所は港区赤坂で、千代田区の国会議事堂からわずか1.3キロメートルしか離れていない。

ここには戦前まで大日本帝国陸軍の聯隊施設があったそうで、敗戦後に占領軍(GHQ)によって接収され日米安保締結後に多くの米軍が引き揚げた後も、都心で唯一、米軍側に残された。

東京都にある米空軍基地では横田基地が質量ともに最大だが、そこに飛来した米軍関係者はもとより、3年前にはトランプ大統領も横田基地からこのヘリポートに降り立ち、すぐ近くのアメリカ大使館を訪れている。

地元港区はじめ東京都でも返還を求めているのだが、日米合同委員会では日米安保を盾にアメリカ側から拒否され続けている。

せめて騒音対策として日本国内の許容限度の高度300メートル以下での飛行はしないよう求めるのだが、こっちは「日米地位協定」によって突っぱねられている。

日米地位協定というのは現代版「治外法権」規定なのである。米軍の運用上、つまり、このような軍機の公的使用や軍人の公的行動については日本国内の法令を無視できる。例えば軍事運用(公務)中の事故なんかは日本の法令によっては裁けないことになっている。

日本国内には現在、米軍専用基地が53か所あり、その内、沖縄が23か所と最も多く、しかも専有面積は70パーセントを占めている。かつてほど米軍公務中の事故や事件は多くないが、それでも沖縄では一般市民への事件やヘリコプターが落ちたりする事故が絶えない。

いま鹿児島県種子島の西之表市馬毛島が、米軍の「艦載機離着陸訓練場」として整備に入る前の環境評価調査が行われており、基地化に賛成か反対かで町の世論が分断されている状況にある。ここで米軍に使用を許すと上掲の心配事に逢着するはずである。

いくら騒音対策をと言っても米軍は「日米地位協定」を盾に聞く耳を持たない。抗議をすればその直後は訓練回数を減らすなりして一応の配慮をする姿勢を見せるだろうが、結局のところは「馬耳東風」に落ち着く。状況は沖縄の現状と変わらなくなるだろう。

そもそも論で言えば、日米安全保障条約がある限り、こういった「沖縄化」は続く。「日米安全保障条約は片務的だ」と言ったのは前大統領のトランプで、「じゃあ、安保関連法案で自衛隊を出しますよ、少しは双務的になったでしょ」と受けたのが安倍前首相だった。

アメリカに忖度して米軍に肩入れすればするほど日本は世界で孤立して行くような気がしてならない。日本には日本独自のやり方で平和主義を貫くべきだ。

1945年7月26日に出された日本への降伏勧告文書「ポツダム宣言」の第7条と第12条にはこう書いてある。

(7)そのような新秩序(軍国主義の徹底的排除)が確立せらるまで、また日本における好戦勢力が壊滅したと明確に証明できるまで、連合国軍が指定する日本領土内の諸地点(連合軍基地)は、当初の基本的目的の達成を担保するため、連合軍がこれを占領するものとする。

(12)連合国占領軍は、その目的達成後、そして日本人民の自由なる意志に従って、平和的傾向を帯びかつ責任ある政府が樹立されるにおいては、直ちに日本より撤退するものとする。

この2か条からすると、日米安全保障条約による米軍基地の存在は「ポツダム宣言違反」としか言いようがない。

戦後は他国との交戦のための軍備は持たず、そのため一度も他国において戦火を交えず、平和主義に徹し、選挙も民主的に行われて来たのが日本である。これは世界でも極めて高い評価を得ている点である。(※アメリカの選挙は民主主義というより、金主主義だ。)

米軍を撤退させるためには、日米安全保障条約を継続しない旨をアメリカに伝えれば1年以内に撤収が始まる。そうすれば米軍基地の存在による地域の人々の「分断」は避けられる。

その上で、専守防衛に徹した自衛隊を維持すればよい。私は「本土防衛のためだけの軍備管理」を憲法第9条は否定していないと解釈している。

ただ、順序として天皇陛下による「永世中立宣言」が先に来ればベストだろう。天皇はまさに「日本国の象徴」として世界から尊敬されておられ、その宣言は多くの国から賛同を得るに違いない。当事者の一方であるアメリカ国民でさえ歓迎するだろう。

オリンピックは金(かね)の洪水

2021-06-17 13:24:07 | 災害
アメリカ最大のテレビ局NBCは、2014年のソチ冬季オリンピックから2032年のブリスベン夏季オリンピックまでの10大会の放映権料120億ドルをIOCに支払う(支払った)そうである。

10大会だから1大会当たり12億ドル(日本円で1300億円)平均がIOCの収入となり、他にも各国のテレビ局の放映権料が入るので、オリンピック開催には大金が動く。

2020年夏の東京オリンピックが決まって、さあメイン会場を造成するとなった時、たしか最初はイギリスの建築家の案が採用されたのだが、3000億円という予算規模になって慌てたのが日本の組織委員会だった。同じ物をその半分で造れるという意見が噴出し、結局、再入札となり、日本建築家の設計が採用されたことは記憶に新しい。

足許を見られて吹っ掛けられたのだろうか、何か釈然としなかった記憶がある。

ところが、テレビ局の放映権料というやつもIOCによる「ぼったくり」の類かと思ったのだが、どうもそうではないらしい。

報道によると、アメリカNBCテレビのCEOが「今度の東京オリンピックは収益が最高になるだろう。」と言っている。「開会式が始まれば、テレビに夢中になる。オリンピックに勝る番組はない。期間中の17日の間、視聴者はテレビの前で釘付けになる」。(※だから高額の放映権料を支払っても、高額の広告収入があるのでペイする、というわけだ。)

たしかにアメリカ人でも日本人でも、自国の選手が出場するだけでワクワクし、応援したくなるには違いない。

スポーツ中継がテレビ局にとって楽なのは、出演者に対する謝礼(出演料・契約料)が無視できることだろう。これだけでも金銭的な負担は極度に抑えられるうえ、実況中継がメインだから、いわゆる番組の構成・編集も至極容易である。

アメリカのような一国の中で時差のあるような国では、国内の普段のスポーツ中継は会場の所在するローカルテレビ局がやっているのだろうが、オリンピックとなると全国規模の放映だから、巨大テレビ局の独壇場だ。それだけの放映権料を支払っているのだから仕方がないが、テレビ局の収益の柱になる広告料金も全国ネットになるわけだから、高額なはずで、がっぽり入って来る。

しかもアメリカでは毎年秋には全国規模のスポーツ大会が目白押しで、そのがっぽり入って来る収益を優先させたため、東京オリンピックが真夏の最も暑い時期に開催されることになってしまった。

JOCは開催時期について秋を望んだのだろうが、IOCが「金(かね)の卵」のアメリカメディアにおもねって却下したに違いない。

IOCのコーツ副会長は「たとえ日本が緊急事態宣言中でもオリンピックは行う」と述べた。残念なことである。去年延期した時は、「日本の新型コロナ感染が非常に低レベルであっても、世界の感染状況はそうではない。こんな状態で開催するのは科学的ではない。」とかなんとか言っていたではないか。

せめて「日本中にワクチンが行き渡り、気候もよい11月に延期するのが、観客にとってもアスリートにとっても科学的にベストだ」と言って欲しかった。金の洪水に押し流され、肝心のアスリートに寄り添わないこんなアマチュアアスリートの祭典なら要らない。

新大西洋憲章!?

2021-06-14 09:08:17 | 専守防衛力を有する永世中立国
イギリスで開催されたG7が終了し、現地の会見で日本の菅総理は、各国から東京オリンピック開催に支持を得たとして喜んでいる。「やる気満々宣言」で、もう何としても開くしかないと肚をくくっているようだ。

これでは「やるっきゃない」だろう。今の感染状況では「無観客」が当然だが、パブリックビューイングもおそらく無理だろう。

海外からの観戦客はゼロでも、選手、引率者、各国OCの役員、報道陣それにIOC役員など6万人とかいう数の人々が一時期に海外から来て、ほぼ東京都内に集まって過ごすのだから、新型コロナウイルス(特に変異株)にとってはまたとない感染のチャンスである。

しかもこのクソ暑い真夏の東京圏でやろうというのだから、選手も役員も大変だろう。体力を消耗して免疫力を落とさないことを願うばかりだ。

この20日で切れる緊急事態宣言のあと、国内の感染状況がどうなて行くのか、ワクチン次第だと聞く。いま現在、65歳以上の高齢者のワクチン接種率がようやく1回目が3割を超えたが、仮に7月末までに2回目まで終了しても、64歳以下はオリンピックが始まってもまだせいぜい1割かそのくらいだろう。

いくら家でテレビの前で応援しろと言っても、夏休みだから親類や児童・生徒・学生の友人たちが集まって来るだろう。それを止めることはほぼ不可能だ。したがって今の状態でオリンピックを開けば、感染拡大を誘発するのは間違いない。

高齢者と医療関係者、施設などにクラスタ―は起きないにしても、低年齢層、学生や児童生徒間のクラスタ―などは多くなろう。

政府はそれを見越しているはずだと思うが、もし夏休みに本当に感染の「第5波」が起きたら、9月か10月かの衆議院選挙では「オリンピックは成功したが、自民党は惨敗した」という結果になるかもしれない。

ところで今度のG7サミットの主題は「いかに中国を抑えるか」だったが、英米首脳はついに「新大西洋憲章」なるものをぶち上げた。

これは勿論かつての「大西洋憲章」を念頭に置いたものだが、「旧」が対枢軸国(主としてドイツ)だったのに対して、「新」は対中国(ロシアも標的)で、2010年に日本を抜いて世界第二の経済大国になったことが大きい。

それだけ大きな経済力を持ちながら、相変わらず共産党一党独裁を貫いており、ウイグル族問題、香港問題、台湾問題などに専制的な力をチラつかせている非民主政府、はG7に参加している諸国とは価値観として相容れない。その上、南シナ海での軍事的な海洋進出が東南アジアのみならず、世界各国の脅威となっている。

「新大西洋憲章」は英米の「自由と民主主義」理念を再び世界共通の理念として高らかに宣言しようというのだが、そもそも旧大西洋憲章が宣言されたのは1941年の夏のことで、イギリスが交戦しているヒットラードイツの敗北後の世界秩序を謳ったものであった。

宣言して、1か月には共鳴する国々を誘って15か国になった。これはまさに「集団的自衛権」そのものだが、イギリスがアメリカを我が陣営に呼び込もうというのがそもそものきっかけで、それに応じたアメリカが「理想の国際観念」を上塗りし、のちの「国連憲章」の基本となった。

アメリカにはまだ老大国のしたたかさを受け容れない初々しさがあった。だからイギリスの搾取的な植民地主義をチクリと刺したりもしている。(※しかしながら、イギリスが本当に植民地の搾取的支配を終了させたのは、太平洋戦争前の日本の理念「大東亜協栄圏」構想による人種に拠らない互恵的な各国の独立自尊という旗印に触れて、各植民地が目覚めたことによる。ただしミャンマーはアウンサンスーチーがイギリス国籍を捨てていないことで、民主化運動が複雑になってしまった。)

さて、この「集団的自衛権」国家群の中に旧ソ連が含まれていたことは余り知られていない。

日本とソ連が中立条約を結んだのは1941年の4月だったが、同じ年の7月にイギリスがソ連と「相互援助条約」を結んでいる。ドイツを背後から衝いて欲しいというわけである。またアメリカも8月には「米ソ協定」を締結しているが、これはイギリスに慫慂されたアメリカがソ連に武器を援助するのが目的だった。とにかく憎きドイツをやっつけるには、共産主義だろうが何だろうが自陣に引き入れるのに躊躇はしないのが、百戦錬磨の老大国のやり方なのだ。

太平洋戦争終戦間際に日本は日ソ中立条約によりソ連に終戦の仲介を頼もうとしていたのだが、これら英米とソ連との間で結ばれた条約と協定に基づいて開かれた「ヤルタ会談」の結果、日ソ中立条約はすでに反古になっていたのである。

何も知らない日本はお目出度いという他ないが、このヤルタ秘密協定があればこそ、終戦間際のソ連軍満州侵攻、シベリア抑留、北方領土の占領が行われ、英米、特にアメリカがこの点に関しては是とも非とも何も表明しない理由である。(※ロシア政府は以上3つの案件に対して、第二次大戦の結果として行われたもので、補償も返還もないと言うようになった。盗人ロシアの背景には英米の影があったということができる。)

ところで、今度出されるという新大西洋憲章によって、強力な対中国包囲網が構築されるのだろうか?

G7のうち、英米を除く5か国の対応は様々で、イタリア、ドイツなど中国との結び付きの強い国は反対はしないまでも、積極的には賛成せず、フランスはもともと独自路線の国だから是非は言わず、カナダはイギリス連邦の一国だから当然賛成、して日本はとなると、尖閣問題があるので積極的に賛成したいものの、全体の貿易量で4割を占める中国には強く出られず、板挟みになるしかない。

何しろ去年の2月に5回にわたってチャーター便を飛ばして、ロックダウン中の武漢から日本に引き揚げた現地企業の日本人駐在員たちの数が800人、関係会社の数が160社もあったというのである。中国全土でいったいどれだけの日本企業があるのか見当もつかない。それだけ経済的な結びつきは強くなっている。

この状況では、中国への制裁に関して、手加減せざるを得ないだろう。

そもそもこんな一党独裁の共産主義国家を、成立した翌1950年に承認してしまったイギリスもだが、「ピンポン外交」から始まった米中融和が1972年の中国の国連加盟に繋がり、それまで中華民国(台湾政府)占めていた「国連安保理の常任理事国」の座をみすみす共産中国に与えてしまったのはアメリカである。

今さら、という気がしないでもないが、日本としてはこの機会に、旧敵国条項(53条)を削除した「国連憲章」の改訂を訴えておきたいものだ。

神武と崇神の「外来性」(記紀点描④)

2021-06-12 09:37:52 | 記紀点描
「記紀点描」の①から③にわたって、いわゆる「神武東征」なるものが、実は2回あり、最初のは南九州(古日向)投馬国からの「災害からの避難的な移動」であり、二回目のは北部九州の「五十王国」から発展した倭人連合すなわち「大倭」による「武力討伐的な移動」であったということを書いて来た。

そして、最初の大和王権である投馬国王タギシミミの橿原王朝が、約100年後にやって来た崇神王権によって取って代わられたその一つの証拠が「武埴安彦と吾田媛の叛逆」として描かれた(崇神紀10年)とも述べた。

だがもう一つ崇神王権による「投馬国王統追い落とし」の事件があった。

同じ崇神10年の記事に、「大彦命を以て北陸に遣わし、武渟川命を以て東海に遣わし、吉備津彦を以て西道に遣わし、丹波道主命を以て丹波に遣わす」といういわゆる「四道将軍派遣」の記事があるのだが、初めの3つまでは「北陸道」「東海道」「西海道」というように広範囲を鎮定する役目なのだが、最後の「丹波」についてはどうもしっくりこないのである。

丹波というのは今日でもさほど広い土地柄ではなく、こじんまりとした内陸の盆地に過ぎない。ここにわざわざ将軍クラスの丹波道主命を派遣する意味があるのかと誰しも考えるに違いない。

そこで古事記を参照すると次のようである。

<またこの御世に、オオビコ命を高志道に遣わし、その子のタケヌナカワワケ命を東方の十二道に遣わして、そのまつろわぬ人どもを和平せしめ給いき。また、日子坐(ヒコイマス)王をば丹波国に遣わして「玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)」を殺さしめ給いき。>

古事記には西海道に派遣されたはずの吉備津彦の登場は無いのだが、丹波についてはより詳しく書かれている。
(※丹波国に派遣されたのが崇神紀では「丹波道主命」、古事記ではその父とされる「日子坐王」という違いがあるが、今ここでは詮索しないことにする。)

丹波国には「玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)」という征伐の対象者がいたので殺害した、と古事記は書く。この「クガミミノミカサ」という人物とはいったい誰で、なぜ殺されなければならなかったのか、その理由は付されていない。

ところが「投馬国の王=ミミ」という観点からすれば、この人物も、南九州由来の橿原王朝の一族ではないかと見当がつくのだ。「クガミミノミカサ」とは

玖賀=京都北部「久我」(地名)
耳=投馬国王
御笠=王の名「ミカサ」

と分析される。要するに「京都北部の久我地方を支配する投馬国王統の一人である御笠」なる人物ということで、橿原王朝の一族が京都(山城)の北方を支配していたのである。

当然この人物もあとから大和に入って来た崇神王権の討伐の対象になったわけで、この人物は討伐の前に丹波方面に逃げ隠れていたのだろう。逃避先が山奥の丹波というのは、実は京都から丹波へは桂川(保津川)を溯れば到達する場所なのである。

もっとも京都から逃れるとすれば丹波もだが、丹後や若狭への道もある。どちらかと言えば大原を通過して行く若狭への道の方が逃げおおせるには確実だと思うのだが、丹波への道を選んだのには、次の理由があったものと思われる。

その理由は『山城国風土記逸文』に見えている。「賀茂社」という項目だが、全文は長いので要点だけを記しておくと、

1,賀茂社は、日向の曽の峰に天下り、神武東征に先立って大和の葛城に移り住み、その後山代から鴨川に分け入り、「久我の国の北の山基」に定住したカモタケツヌミ(賀茂建角身)を祭っている。
2,カモタケツヌミは丹波の神野のカムイカコヤヒメを娶ってタマヨリヒコとタマヨリヒメを産んだ。
3,タマヨリヒメが川で遊んでいる時に丹塗り矢が流れて来たので床辺に置くと、妊娠して男子を産んだ。その子はカモワケイカヅチといい、上賀茂社に祭られている。
4,カモタケツヌミ・カムイカコヤヒメ・タマヨリヒメの三柱は蓼倉の三井社の祭神である。

日向(古日向)から「神武東征」に先立って葛城に移り、それから北上してついに京都(山城)の鴨川上流の地(当時は久我といった)に定住した人物カモタケツヌミがいたという。そしてカモタケツヌミは「丹波のカムイカコヤヒメ」を娶ったのであった。

つまり、京都北方「久我の国」の南九州投馬国由来の王統(クガミミ)の始祖の母方が丹波出身だったということで、これだとクガミミノミカサが丹波に逃れた理由が了解される。母方の里を目指して逃れたわけである。

しかし丹波も安全な場所ではなかった。崇神側も母方の里という安全弁の隠れた反撃能力を警戒し、ついに崇神の弟のヒコイマス王をわざわざ派遣して追い詰め、殺害したようだ。


さて、このようにして最初の大和王権である南九州由来の投馬国(神武=タギシミミ)王権は、後発の崇神五十王権「大倭」に取って代わられたのだが、いずれにせよ、どちらも畿内大和にとってみれば「外来の王権」だったわけである。

不思議とどちらの漢風諡号にも「神」が付くが、もう一人の「応神天皇」さらには「神功皇后」まで含めて、すべて外来性の王権だった可能性があり、奈良時代にこれら諡号を考え出した淡海三船はそのあたりのことを知っていたのかもしれない。