鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

邪馬台国問題  第13回(「史話の会」7月例会)

2021-07-19 11:41:02 | 邪馬台国関連
7月18日(日)、「史話の会」7月例会を開催。場所は東地区学習センター。

今日の論点は「崇神・垂仁両天皇の出自について」副題~キ―ワードは「五十(イソ)」だ~(『邪馬台国真論』174ページ~)

崇神天皇と垂仁天皇の和風諡号にある「五十」を取り上げ、崇神王権が半島南部の「御間城(ミマキ)=後の任那(ミマナ)」」に由来するものであることを解明する。

【崇神天皇の和風諡号】・・・古事記では「御真木入日子印恵(ミマキイリヒコ・イニヱ)」。日本書紀では「御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコ・イソニヱ)」


【垂仁天皇の和風諡号】・・・古事記では「伊久米入日子伊佐知(イクメイリヒコ・イサチ)」。日本書紀では「活目入彦五十狭茅(イキメイリヒコ・イソサチ)」

一見して違いが目に付く。古事記が「万葉仮名」を使って表現していることは別にするが、古事記の表記と日本書紀の表記とを比較すると、両天皇ともに大きな違いがある。それは古事記では「五十」を全く示さないことである。

その部分を取り上げて比較すると、古事記では崇神天皇と垂仁天皇の和風諡号の後半部分に「五十」はない。「五十瓊殖(イソニヱ)」は「印惠(イニヱ)」であり、「五十狭茅(イソサチ)」は「伊佐知(イサチ)」である。

なぜこれほど違うのか。なぜ両書を摺り合わせて諡号を統一しなかったのか(古事記の編集者である太安万侶は、日本書紀にも関わっていたのに…)という疑問が浮かぶ。

これについて私見では次のように考えている。

古事記は太安万侶が編纂している。
この太安万侶は古事記によれば、神武天皇の大和で誕生した3皇子の内の長子・カムヤイミミの子孫である。神武天皇(タギシミミ)は南九州由来の王権であり、北部九州由来の崇神王権に滅ぼされている。
しかもその王権の由来は半島南部の「御間城(任那)」である。
この王権による神武(実はタギシミミ)王権の簒奪を、太安万侶は認めたくなかったので、半島由来の崇神王権が北部九州に構えた王宮の所在地である「五十」(糸島市)の存在を消してしまった。

以上のように考えるのである。

では、太安万侶が書かなかった「五十」を日本書紀ではなぜ堂々と記すのか。

それは崇神王権の北部九州における発端の地「糸島」(五十)を隠し通すわけにはいかないということを、書紀の編纂者が考えていたからだ。

その証拠に日本書紀では半島系の渡来人の記述が、まさにこの崇神天皇の時代から始まっていることと、それ以降も半島との交渉の記事の無い天皇紀のほうが珍しいほど、半島がらみの記事があふれていることに気付けば了解される。

逆に言うと、半島との交渉(交流)を描かなければ日本の古代前史は成り立たないということである。それほど半島、ひいてはその背後にある大陸王朝との交流は列島に大きなインパクトを与えていた。

さてではこの「五十」だが、これは「イソ」と読んで福岡県糸島市(旧前原町と旧志摩町)を指すのだが、岩波本などの古典・歴史書では必ず「イ」とだけのルビで済ませている。これは誤りで、おそらく古事記の「イニヱ」だったり「イサチ」だったりの「ソ」を抜いてしまう読み方に同調したのだろうが、「五十」を本来ならば「イソ」と読むべきを古事記の読みに合わせて「イ」と読むその理由は付していない。

「八十神」と書いて「ヤソカミ」と読み、「八十梟師」と書いて「ヤソタケル」と読むのに、「五十」についてだけは「イ」としか読まないのはおかしい。これはやはり「イソ」と読むべきである。

そこで「五十」だが、この地名はどこを指すのかについては、次の二つの史料がある。

一つは「仲哀天皇紀」であり、もう一つは「筑前国風土記逸文」である。それぞれその箇所を示しておこう。

【仲哀天皇紀・8年条】
〈・・・筑紫の伊覩県主の祖「五十迹手(イソトテ)」、天皇の行る(いたる)を聞き、五百枝の賢木を抜き取りて、船の舳先に立て、上枝には八尺瓊(ヤサカニ)を掛け、中枝に白銅鏡を掛け、下枝には十握剣を掛けて、穴門(長門)の引島に奉迎して献上る。(中略)天皇すなわち五十迹手をほめたまいて「伊蘇志(いそし)」と言う。故に時の人、五十迹手が本土を号して「伊蘇国」という。いま、「伊覩(イト)」というは訛(よこなま)れるなり。〉

【筑前国風土記逸文】
〈・・・怡土郡、昔、仲哀天皇、球磨曽於を討たんとして、筑紫に出でましし時、怡土県主らが祖、五十迹手(イソトテ)、天皇出でましぬと聞きて、(中略)、天皇、何れの人ぞや、と勅門したまうに、五十迹手、奏しけらく、「高麗国の意呂山に天より降り来ましし日鉾(天之日鉾)の苗裔、五十迹手これなり。」と申しき。天皇ここに五十迹手を誉めて「恪(いそ)し」とのりたまいき。五十迹手の本土なれば「恪勤(いそしき)国」というべきを、いま、怡土(イト)郡と云えるは訛(よこなま)れるなり。〉

以上の二史料に共通しているのは、仲哀天皇の御幸とそれを迎えた伊覩(怡土=イト)県主「五十迹手」が天皇にまめまめしく仕えたので、天皇から「お前の国をイソとしなさい」ということである。そして繰り返すように「今はイト国と呼ばれているが、それは誤りで、イソ国が本来の国名であった」としていることだ。

つまり現在の糸島市はかつて「伊覩県(いとのあがた)」だったり、「怡土郡(いとぐん)」だったりしたが、もともとは五十迹手がそうであるように「イソ国」だったのである。
(※これによって倭人伝中の「伊都国」を糸島市に比定するのは誤りであることが分かる。糸島市を伊都国としたことによって倭人伝の行程解釈に全くの誤謬が生まれ、女王国には永遠に辿り着けない愚を犯しているのに気付かなければならない。)

すなわちこの「イソ」は「伊蘇」とも「五十」とも書いてよく、どちらも「イソ」と読むべき地名だということが判明する。

しかも五十迹手が首長をしていた怡土郡はイソ国であり、風土記逸文にあるように彼の先祖は半島(高麗国)の「意呂山」に天降りしているというのであるから、崇神王権が和風諡号に「五十」を持つ以上、先祖は半島南部のその意呂山に天降りしたとして何ら差し支えないだろう。

もう一度最初の崇神天皇の和風諡号に帰ると、まさに前半は「御間城(ミマキ)」に「入った彦(王)」で、後の任那(ミマナ)に王宮を構えた辰韓の王であるということが分かり、後半の「五十瓊殖(イソニヱ)」は海を渡った「五十(イソ)」つまり糸島に「瓊(ニ=玉)」すなわち王権を「殖(ヱ)」やした(拡大した)王であったということが了解される。

この「崇神五十王権」は勢力を伸長させて、ここ糸島で生まれた皇子の垂仁とともに北部九州に「大倭」の指導者となり、土着の奴国系の「厳奴(イツナ)国」と戦って勝利し、さらに八女邪馬台国を保護国化したあと、半島情勢及び大陸に晋王朝が樹立された(266年)ことによる危機感に促されて北部九州から大和への侵攻を開始する。これが私の「第二の東征」であり、この東征は3年半という短期で成就し、先に大和入りして橿原王朝を築いていた南九州由来の王権を駆逐することになる。

上に触れた「厳奴(イツナ)」こそ「伊都(イツ)国」であり、崇神率いる「大倭」に敗れて佐賀平野から撤退して、最終的には「厳木(きゆらぎ=イツキ)」に逼塞させられた。また、厳奴(イツナ)の主人公である「大奴主」(オオナムチ)は現在の出雲(島根県)に流されたと見ている。島根が「出雲(イヅモ)」なのは「厳奴(イツナ)」の転訛であろう。

また九州島のほかの国々、中でも「大倭」と女王国との関係、及び女王国の南にあって女王国に侵入しようとしていた狗奴国との関係にも触れておかなくてはならないが、それについては次回に。

「黙浴」

2021-07-18 21:10:07 | おおすみの風景
月に2回ほど行く隣町の温泉施設に入りに行ったが、浴場に入る引き戸に「黙浴」と貼り紙があって久しい。


「黙読」とか「黙禱」とか「黙認」はあっても「黙浴」は聞いたことがない。新造語だろう。

新型コロナ感染以降の暮らしに「三密を避ける」「黙って飲食する」など制限がかかって来たが、風呂に入るにも「黙って入れ」はなかなか手厳しい。

もっとも風呂場で知人と会っても、そうそう話し込むわけではない。たいてい「おう!」「早いね!」くらいな挨拶で済むから、コロナ感染はまずないだろう。

我が家の風呂なら鼻歌でも出るのだが、公衆浴場ではそうは行かない。だから必然的に「黙浴」にはなる。

今日は日曜日の午後とあって家族連れが多くなかなかの混雑だった。


いい気持ちで風呂から出たあと、ロビーのテレビの前に行くと、横綱・白鵬と大関・照ノ富士の優勝を掛けた一戦が始まっていた。

白鵬は今日は右の張り手ではなく、左の猫騙し的な立ち合いだった。例によって横綱らしくない立ち合いだ。

そのあと四つになって凌ぎ合うかと思ったが、何とお互いに貼り手の応酬になった。おいおい、格闘技じゃないんだぞ、と言いたかった。そして横綱はこれまた定番の相手の後頭部を抑え込み、その直後に組んだかと思ったら、すぐに照ノ富士の左手を手繰って強烈な上手出し投げで土俵に転がせた。

それにて一件落着。白鵬が全勝優勝。何と45回目。

つまらない取り組みだった。白鵬の「勝ちたい一心」が表れ、堂々と受けて立って四つに組む、という横綱の持つべき品位がない。

立ち合い時の「張り手」とか「猫騙し」は決まり手から除外すべきではないか。

白鵬の立ち合いの定番が「右手による張り手」だが、横綱としての品位からは全く逸脱しているのだ。「ノブレス オブリージュ」という言葉がある。「高貴な者はそれなりの品位を示さなくてはならない」という意味である。

横綱という最高位に上がった者は、下位の者に胸を貸すつもりで堂々と受けて立ち、一方的に張り手を出したり、突っぱねたりしてはいけないという暗黙の了解があるのだ。

このことが分からず、兎に角「勝ちたい一心」が取り口に現れては横綱としての品位がない。白鵬にはそれがいまだに分からないらしい。

「もう辞めてくれ、朝青龍」というブログを書いたことがあるが、あの朝青龍も勝つ気満々で、相手が土俵を割っても、さらに突き出して土俵の外に落としてしまうのが定番だった。横綱の品位のかけらもなかったのでそう書いたのだが、今度は白鵬に言いたい。

もう辞めてくれ、白鵬!

せっかくの風呂上りの気持ち良さが半減してしまったではないか!

最も大切なのはチャイニーズ・ピープル

2021-07-16 20:51:56 | 日本の時事風景
IOCのトーマス・バッハ会長が7月8日に来日し、3日間の隔離を経て11日に日本側の組織委員長・JOCなどと対面し、挨拶をしたが、「安心・安全に開催されるに違いない東京オリンピック」へのエールの締めくくりに、「大切なのはジャパニーズ・ピープルだ」と持ち上げようとして、「大切なのはチャイニーズピープルだ」と言ってしまった。

単に口を滑らせたに過ぎまいが、本心なのかもしれない。

というのは、一昨日、菅総理と会談し、「感染の状況が好転すれば、観客を入れて欲しい」と申し入れていたからである。

バッハ会長の言い分は、「日本でもサッカーや野球などの試合に観客を入れているわけだから、オリンピックもそうして欲しい」というものだ。オリンピックだけが例外なのはおかしい、ということである。

理屈の上では不平等に思えるが、しかし国外からの来日選手団と関係者、それに海外メディアの人員の数を知れば、やはり感染の危険は無視できない。日本国民への思いやりに欠けているとしか思えない。

第一、去年の3月下旬にオリンピックの延期を決めた時、日本ではまだ全国で感染者の累計が1000名もなかったし、世界でパンデミックの様相を呈し始めたと言っても、全世界で10万くらいなものだった。

そのレベルで「夏にオリンピックを開いたら感染拡大に歯止めがかからない」という理由で一年の延期が決定されたのだ。

それを考えると、いま現在の日本で、東京だけでもこの3日は一日で1000名を超え、全国でも一日で3000名の新規感染者が出ている状況では無観客が正解だろう。

「大切なのはジャパニーズ・ピープル」なのであれば、当然そう言わなくてはならないはずだ。

今日、バッハ会長が広島の平和公園で、もう一人の要人コーツIOC調整委員長が長崎を訪れ、原爆慰霊碑の前に献花をした。

オリンピック開催期間中の「戦争放棄」を世界に向かってアピールするためだそうだが、こういうことは初めて知ったし、有難いことだと思う。

1964年の東京オリンピックの時にはなかったイベントだ(と思う)。

このこと自体は、国境と民族を超えた平和のスポーツの祭典オリンピックの名に恥じない。

けれどもウイルスの方は待ったなしで、東京圏ではもう感染第5波に入ったに違いない。この状況下ではバッハも取り付く島が無いだろう。

バッハ会長の心の内はすでに来年2月の「北京冬季オリンピック」に向いているのかもしれない。北京政府は「われわれは新型コロナに打ち克った」と言っており、向こうでなら通常の開催をしてIOC役員たちもVIP待遇が受けられるはずだ。楽しみで仕方がないだろう。

しかし、中国では丸一年、「感染者数10万、死者数4800」という統計のままだ。つまり武漢市だけで他の都市には感染者がいないということだ。いったいこれが信じられるだろうか。

武漢と人口規模のほぼ同じ東京都では、感染流行のこの1年半で累計感染者数19万余りで、死者数は2300足らず。感染者数は約2倍だが、月当たりで換算すれば、武漢は東京の5倍になる。

だから、私は少なくとも共産党政府発表の5倍の規模の感染者・死者があったと思う。それは武漢から全国に拡散した分はカウントしていないと思うから、実際はもっと多いはずだ。自国の弱点は10分の一に、他国による被害は10倍に膨らますのが共産党流だからだ。

来年2月の北京冬季オリンピックはそんな数値を隠して(報道管制を敷いて)開催されるだろう。そして高らかに「コロナに打ち克ったのは東京大会ではなくわれわれの大会だ」とメディアでもSNSでもどんどん流されるだろう。

そして「やっぱり本当に大切なのはチャイニーズ・ピープルだった」とバッハは確信するに違いない。

習近平の不敵な笑いと、二年連続して放映権料ががっぽり入るバッハ会長のほくそ笑みが目に浮かぶようだ。

狭穂彦の反乱(記紀点描⑧)

2021-07-14 08:25:38 | 記紀点描
崇神・垂仁時代には国を揺るがすような大きな反乱が二度あった。

一つはすでに書いているが、「武埴安彦の反乱」であり、もう一つは「狭穂彦の反乱」である。

前者は崇神天皇が即位して間もない頃に起きた「橿原王朝」(南九州投馬国由来の王朝)側の抵抗であった。

武埴安(タケハニヤス)にしろ妃の「吾田媛」(アタヒメ)にしろどちらも南九州風の名を色濃く含んでおり、また、神武が天の香久山の土(埴)を採取して「大和の物実(ものざね)」としたのと同じことを吾田媛が行おうとしたことなどによって特定できる。

では狭穂彦による反乱はどういう性格のものだろうか。(※以降はサホヒコと書く)

この反乱の経緯は、垂仁天皇に嫁いだサホヒコの同母妹「沙穂媛(サホヒメ)」に恋情を抱いていたサホヒコが、サホヒメをそそのかして垂仁を亡き者にしようとことが発覚し、結果として垂仁の派遣した将軍によって二人とも焼き滅ぼされるというものである。

日本書紀では垂仁紀の4年から5年に掛けてその顛末がかなり詳しく描かれている。古事記では紀年が無いのだが、サホヒメが垂仁を小刀で刺そうとして逡巡する場面や、反乱の後にサホヒコが作った「稲城」(いなき)に籠城し、垂仁側の投降の勧めに応じずに二人とも稲城とともに焼き殺されるまでの場面は、歌舞伎の一幕にしたいくらいの文学的な描写に満ちている。

記紀ともにあらすじはほぼ同じで、一見してこのサホヒコとサホヒメの反乱は崇神・垂仁王権すなわち「大倭王権」(纏向王朝)への抵抗というよりも、当時でもタブーであった同母の兄妹が恋愛関係に陥ることを非とする説話に力点が置かれているように見受けられるのだが、一つだけ非常に気になる存在がある。

それは古事記では省かれているのだが、日本書紀には明確にその名を表されている二人の反乱を鎮圧平定した将軍「八綱田(ヤツナダ)」のことである。

書紀において八綱田が登場するのはすべて垂仁5年のうちの記事であるが、次に掲げてみる。


(1)すなわち近き県の卒(つわもの)発し、上毛野君の遠祖・八綱田に命じて、サホヒコを撃たしむ。

(2)すなわち、将軍・八綱田、火を放ちてその城を焚く。

(3)時に火熾(おこ)りて、城崩れ、軍衆ことごとく走る。サホヒコと妹とともに、城の中に死せり。

(4)天皇、ここに将軍八綱田の功をほめたまいて、その名を号して「倭日向武日向彦八綱田」という。


(1)では、サホヒコを攻撃する将軍に、八綱田という者を起用した、という記事で、八綱田は『新撰姓氏録』の和泉国皇別に記載の「登美首(とみのおびと)」によれば、豊城入彦の子であるから崇神天皇の孫に当たる人物である。この人が軍勢を率いて出陣した。

(2)では、サホヒコが作った稲城にサホヒメが逃げ入り、投降の勧めに応じなかった。火が放たれて稲城に燃え移る。(※しかし、生まれたばかりの皇子(ホムツワケ)だけは八綱田側に差し出す。)

(3)ついに稲城は焼かれ、サホヒコ軍の軍士たちは慌てて逃れるのだが、二人はその中にとどまり、焼死する。

(4)以上のようにしてサホヒコとサホヒメは亡き者になった。天皇は八綱田の戦功をほめたたえ、称号を授けた。それは「倭日向武日向彦八綱田」というものである。不可解なのはこの称号である。

「倭日向武日向彦八綱田」を一般には「ヤマトヒムカ・タケヒムカ・ヒコ・八綱田」と読むのだが、そう読んだのでは通り一遍、漢字に訓読みをあてただけの棒読みにしか過ぎない。

これは「倭日に向かい、武日に向かいし、彦、八綱田」と読まなければ意味が取れない。この意味は「倭日(大和)に派遣されて行き、武日(南九州)に派遣されて行きし男、八綱田」ととるべきである。

「倭日」はむろん「大和」を指し、大和においても武将として小規模な反抗を平定したことがあった。

また次の「武日」は「建日」とも書ける(武内宿祢は古事記では「建内宿祢」となる)から、イザナミによる国生みの中で筑紫(九州島)は4つの面からなり、南の面を「建日別」といったとあることから、「武日」は「建日」で南九州のこととしてよい。つまり八綱田は大和から南九州まで、各地で反乱軍を鎮圧して回ったのだろう。

そうと分かるとなおさらこの称号の意味が不可解と言えば不可解である。なぜ「武日に向かい(派遣され)」というような内容の称号がサホヒコの反乱を平定した後に名付けられるのであろうか。

そこで私はふと気が付いたのである。サホヒコの反乱こそが南九州で勃発した叛乱ではなかったのか、と。それならば「武日に向かった男」と称号された意味が取れるのである。

ではその反乱の中身とは何か?

結論的に言うならば、南九州投馬国から西暦170年代に大和入りして築かれた「橿原王朝」だが、100年ほどのちに北部九州「大倭」(崇神五十王国の発展した倭人連合)が大和に侵入し、橿原王朝が次第に「大倭王権=纏向王朝」に取って代わられつつあり(それへの抵抗がタケハニヤスの反乱=270年代前半の頃)、その情報を得た南九州投馬国側が救援軍を派遣しようとした。これは当然のことであろう。

しかしまだ北部九州には「大倭」が去った後でも崇神王権の勢力は残っており、南九州へはそれなりの監視軍を派遣していたはずである。したがって南九州投馬国はすぐには動けなかったに違いない。だが、10年後、投馬国王サホヒコはついに大勢力を結集して大和へ進軍しようとした。

そこへやって来たのが将軍八綱田に率いられた纏向王朝軍であった。西暦280年の頃ではなかったかと思われる。

サホヒコ軍は「稲城」(注)を築いて抗戦したが、大和においてすでに軍功勇ましい将軍八綱田の率いる軍隊の前になすすべなく、稲城とともに炎上し殺害されたのだろう。

サホヒメは、実は、まだ北部九州「大倭」の若きプリンスであったイキメイリヒコイソサチ(活目入彦五十狭茅)こと垂仁に10年ほど前に嫁いでいたが、「大倭東征」には付いて行かずに南九州に残っていたのではなかろうか。垂仁との子であるホムツワケ皇子はその頃もう10歳ほどで、八綱田は皇子だけは大和へ連れ帰ったものと思われる。(※ホムツワケは青年になるまで口がきけない啞者(おし)だったのは、母のサホヒメとの壮絶な別れを目の当たりにしたショックだったのかもしれない。)

以上のような展開を考えてみた。

要するに、「タケハニヤスの反乱」が大和における南九州投馬国系の橿原王朝側の反撃であった一方で、「サホヒコの反乱」は南九州の地で行われた投馬国の崇神・垂仁王権(纏向王朝)への抵抗であったと考えるのである。

北部九州「大倭」(崇神五十王国が発展した倭人連合)は大和への東征前から南九州の動向には目を光らせており、南九州の要衝である大淀川の下流域で当時は遠浅の渚であった「生目地区」に「都督」(監視軍)を常駐させていたものと思われる。この生目地区にある「生目古墳群」は、そのような「都督」たちの墳墓であるのかもしれない。かの「武日に向かいし」将軍・八綱田が眠っている可能性無きにしもあらず。

(注)「稲城」・・・いなき。稲を積み固めて作った城、というより砦。脱穀後の稲わらを、向きを交互に積んで行けば木の板壁の代用にはなる。雨に降られても水を含んでかえって堅固になる。矢を射られてもびくともしないが、乾いていたら火にはめっぽう弱い。八綱田は初戦では苦労したろうが、動物の油をしみ込ませた「火矢」を大量に放って勝利したのだろう。
 なお、鹿児島・宮崎(古日向)の伝説の巨人「弥五郎どん」は国分の「稲積」の出身で「稲積弥五郎」という名であるという説がある(宮崎県日南市、田ノ上八幡神社)。


睡蓮が咲く(2021.07.13)

2021-07-13 11:10:12 | 日記
庭の池に植えてある睡蓮が、今日は二輪咲いた。

5日ほど前に初めて一輪が咲き、咲き終えたら水面に二つの蕾が顔をのぞかせていたが、今朝、それが花を開いた。(※左側の置物はフクロウで、いま池の中ではメダカの繁殖が進んでおり、あかちゃんメダカが沢山いて、それらが鳥に食べられるのを防ぐためである。初めはそこに小便小僧の置物を置いて水を噴出させようと思ったのだが、男の子の孫がまねをして池に小便されても困るのでやめてこれにした。)

一昨日、南九州では梅雨明け宣言をしたが、昨日は午前中、雨になった。

まだ梅雨前線が日本列島に居座り、あちこちでゲリラ豪雨を降らせている。

いま「線状降水帯」と書こうと思ったのだが、急にこれまでよく使われていた「ゲリラ豪雨」を思い出して書いてしまった。

ゲリラ豪雨は今から思えば「線状降水帯」のことではなかったか。日本列島は至る所に谷筋があり、そこを湿気の多い風がさかのぼれば標高が高くなるにつれて気温が下がり、また上空にはもともと寒気があるので冷やされた水蒸気が雨粒になる。

また都市化によって地上で極度に暖められた空気が急上昇し、上空で一気に冷やされて雨粒になるというケースも多々ある。夏には多い現象だ。ゲリラはもうすぐ死語になり、すべて「線状降水帯による豪雨」となるに違いない。


鹿児島の山間地で、荒れ果てた休耕田を再開発し、そこを睡蓮池にしたところがあり、話題を呼んで結構な観光客が来ているところがあるそうだ。

水を張った田んぼは日中の太陽光線よって水が蒸発し、その時に熱が奪われるのでさして気温が上がらずしのぎやすくなるのは周知だが、そこに睡蓮が一面に咲いていたら見た目にも涼しくなること請け合いだ。

都会にこそ、そういった仕掛け(オアシス)が必要なのではないか。