鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

『三国志・魏書・東夷伝』に見る倭人系種族(3)

2023-10-05 20:10:41 | 邪馬台国関連

⑦ 倭人

最後は朝鮮半島との間に「定期航路」があったかと思われるほど海路に習熟した倭人の本拠地である九州島の倭人についてである。

邪馬台国がどこにあるかについてはこのブログのカテゴリー「邪馬台国関連」において、すでにさんざん書いてきたことなので、邪馬台国以下九州島内に見える主要な諸国の所在地を簡単明瞭に記しておきたい。

0狗邪韓国・・・金海市(帯方郡から黄海を南下し、木浦沖の珍島から朝鮮海峡を東へ海路で7千里)

1対馬国・・・今日でも同じ対馬島(狗邪韓国から海路で千里)

2一大国・・・一支国、つまり壱岐島(対馬から海路で千里)

3末盧国・・・佐賀県唐津市(壱岐から海路で千里)

4伊都国・・・イツ国と読み、佐賀県厳木町(末盧から東南へ陸路で500里)

5奴国・・・佐賀県小城市(伊都国から東南へ陸路で100里)

6不彌国・・・佐賀県大和市(奴国から東へ陸路で100里)

7 邪馬台国

投馬国と邪馬台国は0から6までの各国への行程が距離(里)で表示されているのに対して、投馬国については不彌国のすぐ後に「南、投馬国に至る、水行20日」と日数表記になっている。

また邪馬台国については投馬国のすぐ後に「南、邪馬台国に至る、女王の都する所、水行10日・陸行1月」と、これも日数表記になっている。

多くの研究者を惑わすのがこの書き方であり、しかも多くの研究者は投馬国は不彌国の南に連続しており、また邪馬台国は投馬国の南に連続した場所にあると思い込んでしまっている。

しかし邪馬台国への行程については女王国の傘下にある21か国の列挙および狗奴国の属性(女王に属さず)について触れたあとに、「郡より女王国に至る(には)、万二千余里」と距離表記があるのだ。

つまり帯方郡から海路で九州の唐津に上陸するまでが1万里、唐津から東南に陸路を歩き伊都(イツ)国を経て不彌国までが700里。合計で1万700里となる。すると女王国までは1万2千里から1万700里を引くとあと1300里となり、唐津から佐賀平野の西部までの距離の2倍弱の場所が邪馬台国(女王国)ということになる。

私はそこを八女市域とした。九州説では非常に多くの比定地があるが、八女市を邪馬台国に比定した研究者は多くはないけれども数名はいる。

ただ問題は「伊都国」の比定地である。私は唐津市から東南に遡上している松浦川沿いの道をまさしく「東南陸行500里」の道と考えたわけだが、八女市を邪馬台国と考えた研究者も伊都国については福岡県糸島市説としており、これは誤りである。

糸島市は旧怡土(いと)郡だが、この郡名の「いと」は仲哀天皇紀と筑前風土記(逸文)によれば本来「五十(いそ)」または「伊蘇(いそ)」が正しく、「イトと読むのは後世の転訛だ」とわざわざ書かれているし、郷社の「高祖神社」の祭神が「高磯姫(たかいそひめ)」であることからも裏付けられる。

糸島市を伊都国に比定したことで、「東南陸行」が実際は「東北陸行」なのだから九州上陸後の倭人伝の方角は南を90度反時計回りにした東に変えて読まなければならない――という論法がまかり通り、距離表記から考えたら全く有り得ない畿内に邪馬台国を持って行くという虚説が大手を振るうことになった。

ここらで伊都国=糸島説の虚妄から目覚めないと、九州説、畿内説いずれにせよ邪馬台国の所在地については蜃気楼化するほかない。残念な、いや、残念過ぎる話である。

8 投馬(つま)国

さて投馬国の所在地であった。投馬国も邪馬台国と同じく「南至る投馬国、水行20日」というように日数表記になっていることから考えると、邪馬台国が「(帯方)郡より女王国に至る(には)」と表記されたのと同様、投馬国も「郡より南、投馬国に至る、水行20日」と「郡より」を補うべきだろう。

この「水行20日」だが、最初の10日は帯方郡から狗邪韓国を経て末盧国までの「水行1万里」に相当する。

そのわけは、朝鮮海峡(対馬海峡)を渡る際の距離表記から推量できる。この海峡渡海の3区間は狗邪韓国から対馬間が千里、対馬と壱岐の間も千里、壱岐と唐津の間も千里とあり、どの区間も距離はかなり違うのにすべて千里という距離で表されている。

どの区間の行程にも当てはまるのが、「2地点間の渡海は一日行程」ということで、「日の出とともに漕ぎだした船はその日のうちに渡り切らなければならない」のである。

これを朝鮮海峡の渡海3千里に当てはめると、日数表記では3日の行程となる。また帯方郡から狗邪韓国までが7千里なので日数表記では7日、したがって帯方郡から唐津の末盧国までの1万里は日数表記に直すと「10日」。これがまさに「南、邪馬台国に至る、水行10日・陸行1月」の中の「水行10日」に該当するのだ。

投馬国の場合はこの末盧国(唐津市)までの水行10日に加え、さらに10日の合計20日であるから、唐津からさらに九州の沿岸を水行するわけで、東回りなら宮崎県の沿岸部から大隅半島に、西回りなら鹿児島県の薩摩半島のいずれかに到達する。

投馬国の戸数は一国で5万戸という大国なので、鹿児島県と宮崎県を併せた領域、すなわち古日向の領域がこれに該当する。

9 狗奴(くな)国

狗奴国については女王国に属さず、しかも従来から不和の関係にあったと倭人伝は記す。また王の名は「卑弥弓呼」(ヒミキュウコ)そして官に「狗古智卑狗」(クコチヒコ)がいるとしてある。

位置については21か国の最後に登場する奴国(5の奴国とは同名別国の奴国)が八女邪馬台国をぐるりと取り囲む最南部にあり、さらに「その南、狗奴国有り」としてあるのと、官に「菊池彦」と推察される人物がいることから今日の熊本県の領域と考えられる(ただし菊池川右岸の玉名市を除く)。

王の「卑弥弓呼」は「卑弓弥呼(ヒコミコ)」の誤りだろう。卑弥呼が女王であるのと対照的な男王ということである。戸数については記載がないが、おそらく3万くらいはあったのではないかと思う。

 

以上が倭人の本拠地である九州島の主要な国家群で、卑弥呼の統治する邪馬台国傘下の21か国と、属していないが投馬国という大国や敵対しているこれも大国の部類に入ると思われる狗奴国などがあったことが分かる。

 

(追 記)

「倭人」という用法

魏書の『東夷伝』ではシリーズ①から③に見るように、北の夫余からはじまって南の倭人まで7種の種族にを取り上げてその国勢(人口・戸数)、国政(統治者・統治組織)そして風俗(風物・風習)を記している。

これら7種族のうち、朝鮮半島の北半分を占めてい濊(ワイ)こそが朝鮮半島における倭人種の大国であった(『山海経』に記された偎(ワイ)人、愛人の存在)。

そして、その北に展開する高句麗や夫余は漢王朝が北朝鮮に楽浪郡を置き(前108年)、また燕の公孫氏が自立して半島に勢力を及ぼした(200年前後)ことによって濊(ワイ)が分裂し、北へ移動した結果国としてのまとまりが生まれたのが夫余に見える「濊王之印」であり「濊城」であった。

最後の7番目には倭人の本拠地である九州島の国勢・国勢・風俗がかなり克明に記述されているのだが、そもそも不思議なのはなぜ「倭」とか「倭国」ではなく「倭人」なのだろうかということである。

他の6種族については「人」はなく、倭にだけ「人」が付いて「倭人」なのはどうしてかという点については意外に問題視されないのだ。

この問題について詳しく考察しているのは作家の松本清張である。

清張は邪馬台国について『古代史疑』と、全6巻という大部で古代日本の歴史を書いた『清張通史』の第一巻『邪馬台国』で考察しているが、後者には10項目のうちの2番目に「倭と倭人」がある。

多くの邪馬台国論者の中で「倭と倭人」について取り上げているのは清張くらいなものだろう。かく言う私も『邪馬台国真論』(2003年刊)を書いた時点でこの点については論外であった。

結論から言うと、清張は「倭人」はもちろん「倭」でもあるが、「倭」とも「倭国」ともしなかったのは、三国志記述の史官・陳寿が『漢書地理志』の次の記述に従ったからであるという。

<東夷は天性柔順(従順)にして、三方の外とは異なれり。故に孔子は道の行われざるを悼み、桴(いかだ)を海に設け、九夷の外に居らんと欲す。故あるかな、夫れ、楽浪海中に倭人有り>

この「東夷は従順であり、その中に倭人がいる」という記事と、神仙思想に感化されていた史官の陳寿が「倭」または「倭国」とせずに漢書地理志の用法に従って「倭人」としたのだろうと考えている。だから「倭人」を「倭国」と書いても一向に差し支えない――と述べている。

私も漢書地理志の「楽浪海中に倭人有り」こそが「倭人」の出どころだと考えたい。

そしてさらに次のように考えてみたいのだ。

「楽浪海中」とは具体的には紀元前108年に漢の武帝が置いた朝鮮半島の北半分を統治する楽浪郡の海域のことである。当時はまだ公孫氏の置いた帯方郡はなく、楽浪郡は言わば朝鮮半島の代名詞でもあった。

その海中とは今日の黄海を指しているわけだが、要するに朝鮮半島の東側に広がる黄海全域と考えていいのではないか。

とすると「楽浪海中に倭人有り」とは、「黄海全域を海域に持つ朝鮮半島全体に倭人がいた」ということに他ならない。

倭人の本拠地は倭人伝によれば九州島であるが、少なくとも三国志の書かれた3世紀に至るまで、九州島を含めて朝鮮半島全体に倭人がいたとして大過ないだろう。

(※その様相を例えるなら、近代アジアにおいて中国大陸から南方のシンガポールやマレーシア・インドネシアに多数の華僑が移住したが、華僑は「華人」だが中国人ではないのと同様である。)

半島にいた倭人は唐新羅連合軍との戦い(白村江の海戦=663年8月)で徹底的に敗れたのち、引き上げるか向こうに吸収されるかして命脈は断たれた。

さかのぼっていつから半島に居住するようになったかについては未詳であるが、孔子が世の乱れを嘆き「船を浮かべて九夷に行きたい」と思った時期は紀元前500年代であるから、その時期には「天性従順な」倭人が朝鮮半島を居住地としていたに違いない。

 

 

 

 


稲刈りのシーズン到来

2023-10-02 20:04:32 | おおすみの風景

我が家から西へ4キロほど離れたところに野里地区の田んぼ地帯がある。

大隅半島では最高峰の大箆柄岳(おおのがらだけ=標高1276m)を主峰とする高隈連山から流れてくる高須川の中流盆地に広がっており、ここは大字では「大津」と呼ばれている。

今日の昼過ぎに訪れてみると、まさに見渡す限り一面の黄金色の稲の波が(6月に田植えをする普通作である)。

手前の田んぼの稲はすっかり穂を垂れ、間もなく刈り取られるのを待っているが、向こうの田んぼでは稲刈りが終わり、刈り取られた稲が「架け棒」にかけられている。

架け棒を「馬」と呼ぶところもある。稲株が振り分けられてかけられている姿が、ちょうど人間が馬に跨る姿に似ているからだ。

向こうの田んぼの馬は長いこと長いこと、おそらく50メートル以上だろう。このところの高温と晴天続きで乾燥は十分にできているに違いない。

あと5日もすればもっちりとして美味しい新米が食卓に乗るだろうが、今年は大きな異変があった。

鹿児島県の8月末時点での新米の等級だが、一等米が38%、二等米が62%と一等米の割合が減っているというのだ。

それでも鹿児島はまだいい方だ。秋田県大仙市ではあきたこまちの産地として有名だが、ここの一等米比率は何と1.4%しかなかったという。また新潟市のコシヒカリでは一等米比率わずか0.6%だったそうである。

こうなると「壊滅的な出来具合」だが、その原因はやはり高温障害と同時期に起きた水不足だった(ただ秋田の場合はその他に線状降水帯による洪水の影響も大きい)。

6月に北海道で一時期35℃越えをしたのには呆れてしまったが、その高温現象が東北や北陸では7月8月と恒常的に続いた。いつもテレビで天気状況を見るが、日本海側の異常高温が見られなかった日はなかったと言ってよかった。

大隅半島では中心都市の鹿屋の天気情報が毎日報道されるが、6月から9月の夏季の間、35℃を超える猛暑日は2日か3日しかなかった。これでも例年に比べると平均して1℃くらいは暑かった。

とはいえ連日のように32~3℃が続くとやはり暑い。

9月に入って朝の最低気温こそ23℃かそれ以下となり寝苦しさからやや解放されたが、日中は相変わらずの夏日で、困ったのが9月中に蒔く野菜と花の種だ。

余りの高温に水をやりたいのだが、水がすぐに生ぬるくなるので日中は撒くことができない。勢い夕方以降となるのだが、あちこちに水やりしているうちにやぶ蚊の襲撃に遭うのだ。これが一番困る。

そこで散水用のスプリンクラーというやつを購入し、撒くようにしたのだが、これがすこぶるいい。なぜもっと早く導入しなかったのかと反省している。

ただ問題は水道のコックの閉め忘れである。もう5回ほども菜園と通路を水浸しにしてしまった。

ちゃんとタイマーを掛ければいいのですよ、とアレクサに笑われそうだ。