鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

爽快な朝(2024.04.04)

2024-04-04 08:50:35 | 日記

昨日は西風が吹きまくったまま夜を迎え、9時半には床に就き、定番のCD音楽を聴きながら眠りに就いた。

今朝は6時前に目が覚め玄関先の郵便箱の朝刊を取りがてら外を見ると、もうあの風は止んでいた。

東の空が少し明るんでいたので、天気は回復し、晴れ間が見えてくるだろうと居間で新聞を読んでいると、外はさらに明るさを増し、何と庭が朝焼けの内にあった。

庭木に日の出の光が当たり、まるでサーチライトを浴びたようにやや赤みを帯びて浮かび上がっている。

居間のガラス越しにみると、東の方はすでに太陽が山の端を離れて上っていた。時計を見ると6時10分。

カメラを手にして庭に出て日の出を写そうとしたが、すでに日光が強すぎて無理だった。いわゆるバカチョンカメラなので逆光の太陽を撮るのは難しい。

正月の初日の出の時期ならば光が弱いので、太陽が浮かんでいても何とか写るが、もうこの時期では無理だ。

そこで日の出の太陽に背を向けて西の方を見ると、朝焼けに眩しく浮かんだ木々や建物がある。「ああ、これなんかもそうあることではないな」と思い写してみた。

西の山々と畑、隣家の倉庫、そして高木のマテバシイと低木の椿が朝焼けを浴びてそれなりに見応えがある。

椿の木がまるでスクリーンになり、カメラを構えている私のシルエットを映し出しているのも一興だ。

 

・・・これを書いていると、娘の子ども3人を家内が連れて来た。今日は一日子守のようだ。

今度3年生の長女、新一年生の長男、そして5歳(年長組)の二女。にぎやかな声が聴こえる。

天気が回復したようだからどこかに連れ出すか。昨日の嵐で桜は大方散っただろうが、まだ少しは見られるはず・・・。

 

家でしばらく過ごしたあと、爺婆と孫3人で出かけることにした。朝の快晴の日の出がウソのように曇り空になっていたが、雨の心配はあるまいと、まず行ったことがないという鹿屋小動物園へ。

ここは鹿屋市の中心部に近い北田の町の南側、武道館や体育館、野球グラウンドのある丘の一角にある。

主に飼育しているのは鳥ではキンケイ、キジ、セキセイインコ、四つ足ではウサギ、モルモット、ヤギなどで、ウサギは飼育場に入って触れ合うことができる。

次に行ったのは吾平山陵の奥にある吾平自然公園。

ここは鹿屋市と合併する前の吾平町時代に整備した所だが、姶良川の清流がすぐそばを流れる親水公園で、桜やクス、ツツジが植えられた公園内に川から引いた石造りの水路がある。

今は水は流れていないのだが、流れに沿ってツツジと思しきピンクや白の灌木がきれいに咲いていた。よく見るとシャクナゲであった。

シャクナゲが植えられていたのは知っていたが、こんなに早く咲いているとは!

桜の花の散り敷いたビロード状の苔の上で、おにぎりを頬張る。

桜の花はまだ落ち切っていないが、それより白とピンクの大ぶりのシャクナゲの花が映えている。

今年の当地では桜の開花が早かったが、それと同じようにシャクナゲの開花も早まったのだろう。


台湾の大地震はM7.7

2024-04-03 19:07:18 | 災害

今朝の8時58分ごろ、テレビ画面に緊急地震のアラートが表示された。

すわ南海トラフかと先走ったが、すぐに、沖縄県宮古地方と与那国島では津波が来るかもしれないから避難をしてください――とさほど緊迫度はなかったが、それでも「大変なことだ」と脳裏をよぎった。

しかしすぐに震度が表示され、与那国島で震度4、宮古島で震度3とあった。

「何だ、震度4じゃないか」と拍子抜けの体で、なおも画面を見ていると震源はごく浅く、マグニチュードは7.5と出た。「おう、意外に大きいぞ」と画面から目を離せなくなった。

震源に注意が行くまでやや時間を喰ったが、震源は台湾近海で、マグニチュードは7.7、震央の深さは23キロと訂正された(台湾当局の発表ではM7.2、華蓮県沖25キロ、震源の深さは15キロ)。

M7.7と言えばかなりの規模の地震だ。震源に近い台湾の東部海岸沿いの華蓮県では震度6強で、昼のニュースを観ていたら華蓮市が中継で映されていたが、大きなビルが横倒しになっていた。

4月1日に書いた1月1日の能登大地震で、朝市が開かれる通り沿いの3階か4階建てのビルがやはり横倒しになっていた光景と重なった。

この地震による台湾での死者数は午後7時現在で9名と極めて少ないが、負傷者は820名いるからこのうち重症者がどのくらいいるかだ。

台湾の東海岸では津波が発生したはずだが、それに関しての情報は今のところまだない。数百キロ離れた与那国島や宮古島で最初の予想では3mだったのだが、実際には30㎝とごく小さかった。

しかしわずか25キロの沖で発生しているから、台湾東部では3m程度の津波があっておかしくない。

西郷隆盛の奄美愛加那との間に生まれた菊次郎が赴任して活躍した宜蘭(ギラン)県では震度5強だったそうだが、こちらでの被害の実態は伝えられていないから、その程度は軽微だったのだろう。

台湾も日本列島と同じく環太平洋造山帯に属しているから、活断層が発達していてやはり地震災害の多い地域だ。

ただ活火山はごく少ないのが台湾の利点と言えば言える。

地震の島と地震プラス火山噴火の列島、どちらも人の生きにくい条件のはずだが、それを既成値として前向きに暮らしていくほかない。明日は我が身、御同輩と思いやる覚悟が必要だ。

ところで今日の天気は大荒れだった。

昨夜たしかに大雨注意報が出ていたのだが、雨はたいして降らず、それよりも風の強いのには閉口した。

午後4時過ぎからは台風並みの西風が日没まで吹きまくったが、この先いったいどんな気象になるのか予断を許さない。


1月1日と4月1日(2024.04.01)

2024-04-01 19:51:59 | 災害

新年の始まりは1月1日、新年度の始まりは4月1日。

今年はどちらも曜日は月曜と一致した。

令和6年1月1日元旦のあの能登大地震には本当に驚かされ、元旦のお屠蘇気分はすっ飛んでしまったのを思い出す。

今日4月1日は令和6年度の始まりの日で、ニュースでは各地の会社の入社式がクローズアップされていた。

能登地方のある市では新人市役所職員の辞令式が放映されていたが、インタビューの中である男子職員が市外の会社に決めていたのだが、地元に残って復興に携わりたいので役場に入職したと抱負を語っていた。

若手の活躍を大いに期待したいものだ。未来につながるだろう。

今度の地震では死者が240人余りと地震の規模にしては少ないが、インフラの破壊度はすさまじい。

中でも大きな被害が出たのは水道施設だ。まる3か月経っているのだが、まだ8,000戸弱が復旧されていないそうだ。

能登地震よりも大きな被害をこうむった熊本地震では、3か月後にはほぼ全戸で水道の復旧が行われたのだが、それに比べて能登地方の復旧の遅れが目立つ。

その原因としては、幅の狭い半島特有の道路事情の影響が大きいようだ。この地理的条件は変えようがないので被災者には同情するしかない。

今月は新年度ということで能登の青少年たちも移動の季節になっている。

進学で能登を離れる者、就職で離れる者、それこそ人さまざまだが、かつてなら彼らの多くはゴールデンウイークや夏休みに故郷に帰省するのが通例だろう。だが今年はどうだろうか。

帰っても家族で過ごした懐かしい家はないし、避難所に家族がいるからといって逗留することはできまい。

ただ父母がいて祖父母がいてこその故郷だから、どうしても様子を見たい、避難生活を励ましてあげたいという気持ちが募るに違いない。

延伸された北陸新幹線を記念し、石川県の復興を後押しする旅行割引もいいが、今年の夏は各地から能登に帰る若者たちに「帰省割引」でもサービスしてくれまいか。