鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

京都国際高校の優勝(2024甲子園)

2024-08-23 21:08:04 | 日本の時事風景
甲子園高校野球の決勝戦で、京都国際高校が東京東地区代表の関東第一高校を破り、ついに優勝旗を手にした。

東京と京都の決勝戦の対戦は過去に例を聞かないが、今日の決勝戦では京都に軍配が上がった。


優勝校の京都国際高校は初めて聞く名前だが、前身の学校は韓国系の「京都朝鮮学校」だそうである。

優勝後の校旗掲揚と校歌演奏の際のテロップを見ると、作詞者も作曲者も韓国系の朝鮮人のようだ。

甲子園100年の歴史の中で初めてのことに違いない。

一般の高等学校として認可を受けて以来、中学校を併設して中高一貫の学校となってから、野球に力を入れたという。

野球部には韓国系の日本人だけではなく一般の日本人子弟も受け入れ、この20年で甲子園の優勝校になるまでに成長した。

大したものである。涙ぐましい努力があったのだろう。

ただ鹿児島の神村学園もベスト4まで勝ち進み、この決勝に出た関東第一高校とは1対2という僅差で敗れたが、1対1の9回では勝負がつかずタイブレークに進んで惜しくも敗退している。

神村学園を僅差で破った関東第一が決勝戦では1点差で敗れているから、もし準決勝で関東第一を破って決勝に進んでいたら――そう思うと、準決勝が恨めしい。

それでも2年連続の準決勝進出は、近い将来の優勝をほのめかしていると思う。

孫を遊園地へ(2024.08.20)

2024-08-20 19:54:24 | 日記
8月に入って連日の猛暑日が続き、それだけでも外に出たくはないのだが、娘一家では娘と孫二人がコロナに罹り、ひっそりとした旧盆だった。

お盆明けの頃、ようやく完治したので、孫3人を連れて遊園地に出掛けた。

出かけたと言っても、鹿屋市には遊園地がないので、去年は志布志市の「ダグリ遊園地」だったが、今年の行先は霧島市の「城山公園遊園地」だ。東九州道を使って約1時間半、遊園地に行く前にバイキングの昼食を摂り、着いたのが午後1時半。

猛暑の中―を覚悟していたのだが、意外にも曇り始め、観覧車に乗ってもそう暑くはなかった。
城山公園の観覧車は係員の高齢者に聞くと、直径は30mということだったが、頂上まで行くとなかなか高いのには驚く。

桜島や旧国分市街地が一望のもとに見える。鹿屋市にもぜひ欲しいアイテムだ。

公園内にある一般の遊具で遊んだ後はゴーカートに乗り込む。
係のおじさんに操作を教えてもらう3人兄弟の長女(小学3年生)。

身長が130センチ以上ないと単独では乗れないのだが、この子はちょうど130㎝だったので、自分一人で運転することになった。

足元のアクセルとブレーキには何とか届く程度だったが、何とか一人で帰って来た。

ここのゴーカートのすごいところは標高差だ。何と35mもある。しかも長さも1400mあるから乗り甲斐は満点だ。

乗り場に行った時は他の乗客はいなかったのだが、運転を始めた頃には次第に増えて行き、一周して帰った頃には3組くらいが順番を待っていた。

2時半頃になって急に大粒の雨に見舞われた。夕立だ。遠くで雷鳴も聞こえる。

30分ほど雨宿りして帰路に就いたが、降ったのは国分市街地でも城山のような山間だけで、下場ではさほど雨の形跡はなかった。

明日の出校日を前に、長女と長男がまだ宿題を済ませていないということで、夕飯後は取り組ませている😈





インドネシアの首都移転

2024-08-19 19:55:49 | 災害
今朝の何時だったか忘れたが、ニュースを見ていたらインドネシアの新首都が「開業」?したという。

インドネシアでは現在の首都ジャカルタが急激な発展をしたため、新しい首都を建設中だという話は聞いていたが、ついに新首都が開設されたのだ。

その名は「ヌサンタラ」。

大きな島であるボルネオ島の東部に位置し、ジャカルタからの距離は1200キロもある。

現在の首都ジャカルタはジャワ島にあるのだが、ジャワ島は比較的小さな島である上に、ジャカルタに人口が集中したため「大気汚染」と「人の密集」が極大化し、首都移転を決めたようだ。

大英断だ。日本も見習えと言いたくなる。

現在はまだ大統領府と宮殿(?)が建設されたばかりだが、2045年までには首都機能は完全に移転するという。

まだこの先20年もの長い期間が必要らしいが、それだけの長期にわたる計画が国民に支持されたのかと思うと羨ましい。

もしかしたら日本と同じ火山国であり地震の多い国だから、単に大気汚染と人口集中を解消するための移転ではなく、将来起き得るかもしれない火山噴火と大規模地震を回避する意味もあるのではないか。

日本こそ今後起こり得る大規模災害、特に大地震が迫っているというのに相変わらず首都圏への人口集中が進んでいることを思うと、もどかしい限りだ。

今後30年のうちに首都直下型地震をはじめ南海トラフ、東南海トラフ、千島海溝トラフなどが70%の確率で起きると政府レベルで公言しているのに、首都移転という政策への議論は実に低調である。

東日本大震災クラスの巨大災害が、再び実際に起きなければ目を覚まさないのだろうか?

(3)無視されている「周旋5千里」の意味

2024-08-18 08:11:20 | 邪馬台国関連
前述の(1)、(2)とも邪馬台国までの行程に関しての解釈における誤謬を指摘したのだが、いずれも距離及び日数表記に関してのものであった。

最後にもう一つの距離表記について述べておきたい。

それは次の表記である。

<女王国の東、海を渡ること千余里、復た国有り。みな倭種なり。
(中略)倭の地を参問するに、海中の洲島の上に絶在し、或いは絶え、或いは連なり、周旋して5千余里なるべし。>

<(意訳)女王国の東には海があり、そこを千里(一日)渡るとまた国がある。すべて倭人種である。
(中略)倭人の国を訪れて倭人にいろいろ問うてみたところ、倭人は海の中の島々に分かれて住み、その島は隔絶した島だったり、島と思っても実は陸地とつながっていたりする。倭人のこの地を船でぐるっと回れば、およそ5千里の距離である、という。>

倭人伝では、(1)(2)で扱った倭国への行程記事のあと、倭人の風俗・制度記事が続くが、その記事の最後に付け加えられた形で再び地理的な記述があり、その最後に「周旋5千里」の一文が来る。

まず初めの「東の海を千里渡るとまた倭人種の国がある」という点だが、この時の「海を千里渡る」の千里は提示した「海峡渡海(水行)千里=一日行程」説に従えば、九州島に所在する女王国から東へ一日渡海したら四国または山口県に到達するから、九州説の補強となる。この点でも畿内説は有り得ないことになる。

次に多くの研究者は(中略)以下の一文について解釈し切れていないし、それゆえか無視する立場をとっている。

<(意訳)>で示したように、この一文は倭の地の地理的状況を捉えたもので、この一文も九州説を補強している。

まず倭国は「洲島の上に絶在する」とあるが、日本列島はそもそも畿内でも島の上にあるということができるから、屁理屈的には畿内も「洲島の上」にあるとこじつけることは可能だ。

しかし「或いは絶え、或いは連なり」という地理的状況は畿内ではあり得ない。

ましてや次の「周旋して5千里」となると、畿内説では全く説明がつかないので、結局のところ無視することになる。(1)と(2)ですでに畿内説が成り立つ余地はないのだから、ここは無視したほうが知的だと言える。

「周旋」は「ぐるっと回ること」だが、これを陸行と捉える向きもあるようだが、八丈島とか伊豆大島のような富士山型の円形の島ならいざ知らず、記述にあるように島なのか陸地につながっているのかよく分からない、つまり、リアス式海岸を持つ島だと島内の海岸べりを隈なく歩いて距離(日数)を計上するなんてことは不可能だろう。

この「周旋5千里」は明らかに水行による距離表記である。

船で回ったらと理解出来たら、ここに先の「水行千里=一日行程説」を適用すれば、この「周旋5千里」とは「船でぐるっと回れば5日の行程」のことである。

九州説でこのような地理的条件に合致するのは、末盧国(唐津市)から西へ水行し、長崎県の西岸を南へ下り、島原半島から有明海に入って今度は北上するコースしかない。もちろん「沿岸航法」の手漕ぎの舟を使っての話である。

唐津市から西回りで有明海に入れば私の比定する邪馬台国(女王国)の八女市までは穏やかな水行ができるはずである。
手書きで細部の正確さについては御免蒙るが、朝鮮半島を描いた「魏志韓伝」によると、「韓は帯方の南、東西は海をもって限りをなし、南は倭と接す。方4千里なるべし。」とある。

「方4千里」とは「縦横それぞれ4千里」ということで、言うなら「一辺が4千里の正方形」である。

倭人伝では帯方郡から南へ水行4千里(4日)行き、今度は東へ3千里(3日)で狗邪韓国に着くとあり、弁韓と辰韓の間にある狗邪韓国からはさらに東に千里(1日行程)で半島の東端となる。

そこから南の対馬へ千里(1日行程)、壱岐へ千里(一日行程)、末盧国(唐津市)へ千里(1日行程)、都合、3千里(3日行程)である。

この唐津市から船で西回りをし、平戸の瀬戸を抜け、リアス式海岸では名高い長崎半島西岸部から島原半島南端を通ると波穏やかな有明海に入る(点線で示してある)。

このコースがまさに「周旋5千里」つまり水行5日の行程に相当する。

倭地はこのおおむね佐賀・長崎の領域にある国々で構成されていたと考えてよいだろう。後世の旧国名に従えば「肥前」がこれに該当する。

倭人伝では、女王国以北の対馬国から不彌国(6か国)までの国々については「其の戸数・道里は略載できるが、その余の傍国(21か国)は遠絶にして詳しく書くことができない」とあるが、「その余の傍国」とは以上のような国々のことだろう。






(2)邪馬台国論における2番目の誤謬

2024-08-16 09:14:06 | 邪馬台国関連
(1)では邪馬台国に至る行程のうち、九州北端にある末盧国(佐賀県唐津市)に上陸したあと「東南陸行して伊都国に至る」という行程を曲解して、東北にある福岡県糸島市に行き、糸島こそが「伊都国だ」と比定したことが最大の誤謬だと指摘した。

この伊都国糸島説はほとんどの研究者が信じて疑わないのだが、まず唐津市から糸島市への方角は東南ではなく東北であること。また糸島市なら唐津市(末盧国)などに上陸せず、壱岐国(一大国)から船を直接向かわせればよいのであって、なにも王のいない末盧国に上陸して山が海に迫る悪路を歩く必要は全くないのである。

東南なのに東北が正しいと考えた伊都国糸島説では、以後、南は東の誤りとして邪馬台国への行程を東へ東へと曲解した末に、ついに畿内こそが邪馬台国の在処だと断定してしまった。

邪馬台国は大和国の前身だと考えるのも畿内論者の定番的思考である。

しかし畿内説が成り立たないのは帯方郡から末盧国(唐津市)までの行程は「水行1万里」(帯方郡・狗邪韓国間の7千里+狗邪韓国・末盧国間の3千里)である。そして倭人伝の行程記述の最後に「郡より女王国に至る、1万2千里」と書かれており、この総行程から「水行1万里」を引けば残りは「2千里」しかなく、2千里では畿内に至るすべもなく畿内説は成り立たないのだ。

もう一つ畿内説が成り立たない大きな理由がある。

それは伊都国(自説では佐賀県厳木町)から徒歩で東南に100里の「奴国」(自説では佐賀県多久市~小城市)、さらに徒歩で東へ100里の「不彌国」(自説では佐賀県佐賀市の北、大和町)まで記されている。

しかしその次は急に「南、投馬国に至る、水行20日」と書かれ、さらに「南、邪馬台国、女王の都する所に至る、水行10日、陸行1月」と「水行の日数」が現れるのだ。

行程論では方角についての誤謬の最たるものが末盧国から伊都国への行程上の東南を東北に曲解したことだが、同じ行程論の水行の日数について多くの研究者は戸惑いを隠せないでいる。

その挙句、畿内論者は「投馬国は不彌国から船に乗って東へ20日行った所にある」と曲解し、私のように不彌国は佐賀平野にあると考えた者でも、佐賀平野の港から南へ20日航行したところが投馬国で、そこはおおむね南九州だとする。

畿内説のように南を東に改変してしまうのはもとより誤謬で論外だが、倭人伝の記述通り伊都国を末盧国の東南に比定し、奴国と不彌国を佐賀平野の西部に比定する九州説でも「不彌国から南へ水行20日で投馬国だから、投馬国は宮崎県の都万(おおむね西都原市)を含む一帯であり、女王国に敵対している狗奴国はクマソ国だから南九州でも鹿児島県が該当する」とする論者がある。

これは九州説の中でも比較的理にかなっている説だが、佐賀平野の港から水行20日もしたら、天草を通過して南九州南端の坊津からはるか南の太平洋の上まで行く距離(日数)である。

また次の邪馬台国も不彌国・投馬国間と同様に、投馬国から南へ水行10日かつ陸行1月だ考えると、南九州からさらに南へ10日船で行き、さらにどこかに上陸して1月行く場所になるが、そのような場所(島)は存在しない。

では不彌国の後に続く「南投馬国水行20日」さらに「南邪馬台国水行10日、陸行1月」という行程記述はどう捉えたらよいのだろうか。

ここで次の論理を提示しよう。

【海峡渡海1000里は一日行程である】

繰り返すまでもなく、帯方郡から唐津市の末盧国まで水行距離は1万里であった。

このうち最初の7千里は帯方郡治の港から朝鮮半島の西岸を航行し、西南端の珍島島を回って朝鮮海峡に入り、そのまま半島の南部沿岸を洛東江の港町「狗邪韓国」に至る。

ここから船は南を目指し、対馬国、壱岐(一大)国を経て末盧国(唐津市)に到達するのだが、狗邪韓国・対馬間、対馬・壱岐間、壱岐・末盧国間の三つの海峡はすべて距離は全く違うのに同じ千里で表されている。

ここに疑問を感じた私は、この同じ距離の千里とはどういうことなのか、第一海の上の距離は測れないはずなのだが――などと考えていてふと気づいたのである。

それは距離が同じということではなく、渡る日数が同じということなのではないか――と。

では何日か?

それは一日である他ない。なぜなら朝鮮海峡の流れの速さはかなりのもので、狗邪韓国から対馬までがもっとも距離があるのだが、渡っているうちに寝ることはできない。漕ぎ手が手を休めたが最後、船はどんどん東に流され日本海へ抜けてしまうのだ。

この狗邪韓国・対馬間は直線距離にして80キロはあり、ここが航行上の最大の難関だろう。それでも海が凪いでいる日を見計らって早朝東が白み始めたら船を出し、その日の夕刻日が沈みかけるまでの10から12時間漕げば渡り切ることは可能だ(理論上は時速8キロ程度)。

対馬から壱岐間、壱岐から唐津間は狗邪韓国・対馬間に比べたらかなり楽だろう。こうして朝鮮海峡を渡るのにようする期間は3日(ただしこれは理論値で、漕ぎ手の休息や天候による出航見合わせの日数は考えない)。

つまり倭人伝では、この4地点間の最短日数の各1日を「水行千里」で表したものと考えられ、したがって狗邪韓国から末盧国までの水行要する日数は3日と換算できる。(以上が「水行千里一日行程説」である。)

この「水行千里=一日行程」を帯方郡から狗邪韓国までの水行7千里に当てはめると、要する日数は7日となる。そしてこれに海峡渡海の3千里を換算した3日を加えると「水行10日」が得られる。

この「水行10日」こそが投馬国の直後に記述された「南、邪馬台国女王の都する所、水行10日、陸行1月」のうちの「水行10日」に該当する。

要するに「南、邪馬台国女王の都する所・・・」という記述は直前の投馬国からの「南、・・・」ではなく、帯方郡からの「南、・・・」だったのである。

このことと倭人伝の行程記述の最後にある「郡より女王国に至る、万2千余里」とを勘案すると、この中の1万里とは帯方郡から末盧国の1万里に合致し、その所要日数は10日でまさに「南、邪馬台国女王の都する所、水行10日、陸行1月」のうちの水行10日に該当する。

つまり「南、邪馬台国女王の都する所、水行10日、陸行1月」と「郡より女王国に至る万2千余里」とは同値だったのだ。

このことから邪馬台国は帯方郡から距離表記で1万里を南下して末盧国まで、水行つまり船で10日かかって至り、九州島に着いてからは東南方向に1か月歩いて到達できる場所にあるということになる。

このことからも畿内説の成り立つ余地は全くないのである。