鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

2週間ぶりの雨

2024-08-15 20:39:57 | おおすみの風景
今日の12時30分過ぎ、ぽつぽつと雨が降り出した。

10分後にはかなりの雨となり、やや激しく降った。

庭一面が濡れ、そのうちに地面にほんのり水が溜まり出した。

庭に置いてある車のリアドアを開けたままにしていたのを思い出し、強い雨の中車の所に行き、しばらくリアドア越しに雨粒を眺めていた。

気温もやや低くなり、うれしい限りだ。

前に降ったのはいつだったかよく覚えていないが、たぶん8月に入ってからは一滴も降っていないと思う。

畑の表面がカラカラで、砂地にさえなっていたのだ。

お盆(旧盆)を迎えた13日頃から、明け方は少し涼しくなっていたのだが、この突然の雨でもっと気温が下がるのを期待した。だが残念ながら強い雨は30分ほどで止み、再び高温が戻って来た。

夕方の天気予報ではこれからもまとまった雨は降りそうもなく、あと一週間は猛暑が続きそうだ。

それでも今度の雨で畑や花壇の水遣りは必要なくなったのでやれやれである。

この分だと8月も7月程度に記録的な高温が続くだろう。

熱中症も人ごとではなくなったような気がする。

縄文ミュージアムと国分郷土館

2024-08-15 10:29:41 | 古日向の謎
 縄文ミュージアム

霧島市には国分郷土館(旧国分市)、隼人史跡館、隼人歴史資料館(旧隼人町)があり、隼人の歴史に関しては多くの伝承とともに見過ごせない所である。

昨日は猛暑の中だったが、以前から見たいと思っていたホテル京セラ内にある「縄文ミュージアム」と兼ねて行ってみた。

東九州道の国分インターで降り、国道10号線を隼人町方面に数キロ走り、霧島温泉郷への道をとって約2キロ、大きな円筒形のホテルが聳え建つ。

本館と別館を繫ぐ渡り廊下、というには長さが30mはあり、幅も高さも4mはあろうかという規模の一直線の施設の片側を縄文遺跡の展示に当てている。

ホテルの宿泊者や利用者でなくても無料で見られるのは有難い。

ただ展示は常設なのだろうか、鹿児島の縄文と言えば同じ国分市の上野原遺跡出土の早期の遺物を中心に展示してあるのかと思っていたのだが、他の縄文時代、特に2021年に世界文化遺産となった「北海道・北東北の縄文遺跡群」の展示がクローズアップされていたのは意外だった。

これは青森県の「是川石器時代遺跡」で、是川遺跡と言えば「朱の漆を使った器物」が出土したことで有名だ。

面白いのが、ガラスケース内の左端に見える二本の「楽器」で、角状の先端に糸らしきものを取り付けて弾いて音を出す琴の一種らしい。

北海道・北東北の縄文遺跡群の登録された遺跡の総数は、北海道が6つ、青森県が8つ、岩手県が1つ、秋田県が2つの合計17遺跡が対象となっており、このミュージアムでは是川遺跡の他に、同じ青森県の「三内丸山遺跡」と秋田県の「大湯環状列石(祭祀)遺跡」とが展示されていた。

その他にも各地の縄文遺跡が取り上げられていたが、地元霧島市の上野原遺跡の物を除くと、残りの縄文遺跡の出土地はほぼ中部(長野・石川)より東の物ばかりであった。

たしかに縄文時代と言えば東日本に多くの遺跡があり、発掘もされていて出土品の形象も多種多様なので「縄文時代は何といっても関東と東北だ」というイメージが定着しており、西日本の縄文時代は軽く扱われる傾向にある。

しかしこの霧島市上野原で発掘された縄文早期の土器群は「縄文というより貝文土器である」と発掘者の誰かが言っていたように、中期以降の「縄目文様」とは一線を画している。

しかも約10000年前後と古い。縄文中期より3000年以上も前に南九州では特有の土器(壺型を含む)を創造しており、東日本の縄文文化とは一味も二味も違った形象である。

古さでは青森県の「大平(おおだい)丸山遺跡」の土器が16000年前だそうだが、この16000年前と縄文中期の6000年前との隔たりは実に1万年である。この1万年の間、東日本では人々はどうしていたのだろうか?

また鹿児島では上野原遺跡が10500年くらい前から始まり、7500年前の鬼界カルデラの大噴火によって壊滅したとされるが、その一部は海に逃れるかして生き延びたと思われるし、上野原遺跡の始まる前の11500年に起きたという桜島大噴火(現在の桜島の基礎が噴出した)の前に南九州に暮らしていた人々の痕跡は、この桜島火山灰によって埋もれてしまったのかもしれない。

南島の種子島からは約3万年前の生活遺跡が発掘されているので、鹿児島本土でも同様の時代の遺物が桜島火山灰層の下に眠っているかもしれない。

 国分郷土館

ホテル京セラからほぼ東方向へ5キロほどで国分高校に至るが、ここは島津家の16代当主義久が領有していた「舞鶴城」の跡地で、昔をしのぶ門構えの前を通り過ぎ、そのまま前方の丘に登っていくと最上部にあるのが「城山公園」で、観覧車のある遊園地となっている。

国分郷土館は遊園地より一段下にある。一階建てだが、鉄筋コンクリート造りのがっしりした建物である。

中に入ると靴を脱いでスリッパになるが、入ってすぐ右手が「資料室」で、長い廊下の向こうが「民俗資料室」である。

資料室に入ってしばらくすると館長(もしくは管理人)らしき人から案内を受け、見て回ったが、ここには出土の土器の類はなく、中心は国府(大隅国府)関連であった。

国府の跡地とされる国分市立向花(むげ)小学校の建設中か改築中かに発見された「三環頭太刀」が目玉であった。

この類の太刀は半島由来ということで、この太刀を手元に置いていた(墓に副葬した)のは国府の主、つまり大隅国司だろうと考えられている。半島由来のこの太刀はまず大和王権の府庫に入り、国司に任命された者に賜与されたのだろう。

逆にこの太刀の発掘によって、向花小学校界隈に国府が存在したというのが証明された面もあった。

展示室の中には何と「調所広郷」が使用していた太刀と脇差(小太刀)があったのには驚いた。

説明によると、調所家は古くからの現鹿児島神宮の社家の一流で、戦国期に島津氏によって圧迫されて逃れたのだそうだ。鹿児島神宮への寄進領は当時島津氏に次ぐ2500町もあり、その意味では島津氏の敵でもあった。

調所広郷は島津26代重豪に見出されて茶坊主から出世を果たし、孫の斉興時代には家老職まで上り詰め、放漫財政だった鹿児島藩の財政立て直しに成功するのだが、幕府によってご禁制の唐物輸入の咎めを受け自害している。

その一方で五大石橋などの建設も行っており、単なる倹約家ではなかった。一説によると斉興と開明藩主斉彬との間の確執に翻弄されたのだという。

民俗資料室では何といっても、止上(とがみ)神社の王面と神王面の展示が一大特色である。

止上(とがみ)神社の創建ははっきりしないが、もともとは現地の隼人がはるか後ろに聳える「尾群(おむれ)山」が神の宿る山として崇拝されていたのだが、のちに社殿が建てられたのだという。

止上神社の現在の祭神は鹿児島神宮と同じ「ヒコホホデミ、トヨタマヒメ」という、皇室の祖先だが、現地隼人は単純に山の神だったのかもしれない。

奈良時代の初めに起きたいわゆる「隼人の反乱」(719年~720年)で朝廷軍に敗れた現地隼人はそれ以降、「祟りを為すから」と、厳しい表情の王面と神王面を象徴とした神幸祭が行われるようになったという。
鼻が高く、目力を極限にまで表現した「神王面」。隼人の怨霊を制圧するためだろうか。

宇佐神宮では隼人の怨霊をニナに移して海に逃すという儀式を行っており、これが「ホゼ祭」(「浜下り」)の起源だという。

その他珍しいところでは「青葉の笛」の伝承がある。

天智天皇が南九州を巡錫していた時に、国分の北東から流れ出る郡田川の上流で珍しい竹の一種「ダイミョウ竹(コサン竹)」を進呈されたが、節と節の間が長いので笛にしたところ良い音色が出た。そこで天皇が都に帰った後も青葉竹を奉納するようになったというのだ。

天智天皇は間違いなく九州には到来している。

しかし母の斉明天皇が朝倉宮で亡くなり、半島の百済が滅亡し、それどころか救援に行った数万隻という軍船が壊滅したので、唐新羅から追われる身となった。

その時点では九州から引き揚げたに違いなく、もし南九州にやって来たとすれば、朝倉宮という対新羅戦の大本営に着いて間もない頃だろう。南部九州に新羅戦への健児を求めて来たのではないだろうか。

いずれにしても国分の長い歴史が垣間見える伝承である。



(1)邪馬台国論最大の誤謬は「伊都国の位置」

2024-08-12 17:59:05 | 邪馬台国関連
邪馬台国論争が果てしもなく続くが、この論争の最大の誤謬は「伊都国」を福岡県の糸島市に比定したことにある。

どういうことか――。

話は簡単である。邪馬台国を史料の上で取り上げたいわゆる「魏志倭人伝」における邪馬台国までの行程(進路)の中に登場する「伊都国」の位置の比定が誤っていることに気付かないことが最大のネックになっているのだ。

「伊都国」は半島の帯方郡から九州島の北端に近い「末盧国」まで1万里を水行したあと、上陸してから末盧国の東南に陸路で「500里」のところにある国であった。

ところがほとんどの研究者はこの「伊都国」を「イト国」と読んで福岡県糸島(イトシマ)に比定した。

となると末盧国である佐賀県唐津市からは「東南ではなく東北に伊都国(糸島市)はある」のだから、倭人伝の末盧国から伊都国までの「東南陸行500里」は本当は「東北陸行500里」なのであり、倭人伝の記述における「東南」は「東北」の誤りで、このあとの行程論における「南」という方角はすべからく「東」に置き換えなければならない――となってしまった。

この一点が邪馬台国畿内説最大の論拠となったのである。

ところがもし糸島市が「伊都国」であるのならば、末盧国の前に存在する「一大国」(壱岐島)からは船で到達できる国であり、何もわざわざ唐津市に比定される末盧国に上陸して歩かずとも直接糸島市に入港すればいいだけの話ではないか。

したがって糸島市が「伊都国」であるというのは誤謬であり、邪馬台国畿内説は誤りである。

「伊都国」をそもそも「いとこく」と読むのが間違っている。

私は「イツ国」と読み。唐津市の「末盧国」から倭人伝の記述通り東南に歩いたら、そこは松浦川沿いの道があるのに気付き、上流までさかのぼった所にある「厳木町」に辿り着いた。

「厳木」を現在は「きゆらぎ」と読んでいるが、漢字の読み方からして「イツキ」が正解だろう(安芸の宮島にあるのは厳島イツクシマ神社である)。「イツキ」とは「伊都城」のことであり、王である「爾支」がいると書かれた「伊都国の王城」がここに比定される。

戸数も小規模な「千戸」と書かれており、山間の盆地である厳木町なら規模として合致する(末盧国は4千戸もありながら王の類はいない)。

この伊都国からさらに東南に100里で奴国とあるのは佐賀平野の西端にある多久市又は小城市だろう。小城市からは弥生時代の大きな集落跡が見つかっている。

次の「不彌国」(末盧国から700里)の後に続けて「南水行20日投馬国」とあるが、この陸行から水行に変わっているのは、不彌国から連続したの水行ではなく、「帯方郡から南水行20日」なのである。

この点については次回以降に詳述するが、とにかく「伊都国」を「いとこく」と読んで福岡県糸島市に比定するのが誤りであることは、口を酸っぱくしてでも言っておきたい。



「巨大地震注意」が発表される

2024-08-11 19:15:07 | 災害
8月7日の午後5時前に起きた「日向灘地震」はマグニチュードが7を超えたので、気象庁は専門家による検討会議を経て聞きなれない「地震情報:巨大地震注意」というのを発表した。

7年前に起きた震度7の熊本大地震を受けて、マグニチュード7.0を上回る大きな地震が起きたら、専門家による検討会議を開くことになったそうだ。

その結果として「問題なし」、「巨大地震注意」と「巨大地震警報」の3段階に区別して検討結果を公表することになったが、今回の日向灘沖地震はマグニチュード7.1と7を超えたので検討がなされ、その結果「巨大地震注意」と判断された。

この日向灘は南海トラフの発生域に含まれており、今回の地震が南海トラフ由来の大地震につながる可能性は捨てきれないということだったのだろう。

巨大地震注意の内容だが、今後1週間くらいは同じような規模の地震が起きる可能性があるという認識と、起きた場合に備えて対象の各市町村では防災に関する警戒レベルを上げておく対策が要求されている。

すでにあの東日本大震災を経験しているから、各自治体では防災を施政の一つの柱に立ち上げている所が多い。

あとはいつ巨大地震が来るかだが、8月8日には神奈川県の内陸部で震度5弱の地震が起きたし、今朝(8月11日)の7時過ぎには同じ日向灘沖でマグニチュード4.8、震度3(宮崎平野部)の地震が起きた。

これらは余震とみられるが、南海トラフの震源域の東西の外れで続けざまに起きた地震が何を意味するのか、注視しなければなるまい。

「天災は忘れた頃にやってくる」は物理学者寺田寅彦の箴言だが、1995年に起きた阪神淡路大震災以降の日本では、「天災は忘れないうちにやってくる」を通り越して「天災は明日にでもやってくる」となった。

備えあれば憂いなし。大難を小難に、小難を無難にして行きたいものだ。

長崎平和祈念式典(2024)

2024-08-09 20:22:58 | 専守防衛力を有する永世中立国
今年の式典にイスラエルが招待されなかったことをめぐり、平和祈念式典に水が差された。

長崎の鈴木市長は戦争を継続しているイスラエルを招待すると不測の事態が起きかねない――という理由で招待を見送った。

これに対してアメリカ始め世界の主要国である先進七か国(G7)のうち日本を除く6か国が、長崎市長あてに書簡で大使級の要人の不参加を言って来たという。

その理由は「イスラエルをロシアとベラルーシと同列に置いているのは、純粋な平和祈念を政治化するものであり、容認できない」ということらしい。

つまりイスラエルが行っている戦争と、ロシアの対ウクライナ戦争とは質的に全く違うのだというのである。

しかし長崎市としては原爆による惨禍もだが、そもそもいかなる戦争にも反対する立場だから、たとえイスラエルの戦争が「正義の戦争」であったとしても、パレスチナの一般市民を多数巻き添えにしている状況は絶対に容認できないのだ。

日本政府は主催者である長崎市の意向には逆らえないようで、欧米の主張には耳を貸さないでいる。珍しく欧米なかんずくアメリカの言い分に忖度しない姿勢をとった。溜飲が下がる。

アメリカは広島にウラン型原爆リトルボーイを落としたあと、今度はプルトニウム型原爆ファットマンを落とすべく北九州を標的に向かったのだが、あいにく視界不良のため次の候補地であった長崎に落とした。


爆心地に近い場所に慰霊のための「原爆殉難者之霊」という御霊柱を立ててある。

長崎での爆死者は7万余りで広島の半分ほどだが、当時の人口比からして殉難率ほぼ変わりない。

この時の殉難者の中にはかの有名な浦上天主堂というカトリック教会でミサの最中だった人々が含まれている。終戦後に占領軍の中心だったアメリカ政府が天主堂の再建を申し出たのだが、長崎市から断られるというエピソードがあったことはあまり知られていない。

戦時中に米軍側では「良い日本人は死んだ日本人である」という言い分で日本人なら誰かれの区別なく殺害して構わないことを「正当化」していた。

その最大の惨劇が原爆による無辜の日本人の殺害であった。

しかしその中に教会でミサを上げていた日本人のキリスト教徒が多数いたのに気付いた。彼らからすれば日本人でもクリスチャンならば「人(白人)並みの人間」であるから、さすがに良心が疼いたのだろう。

それでこの「戦時国際法違反」に該当する所行を隠蔽あるいは無視したいがために、広島には長らく参列していたのだが、長崎には行っていなかったのだ。

だが、オバマ大統領の時代に駐日大使として日本に赴任したケネディ元大統領の娘キャロライン・ケネディは赴任早々に長崎を訪れた。

それまでの政権では政府要人の誰もが長崎を訪問したことはなく、そこにアメリカ側の「トラウマ」の片鱗が見られたのだが、親日家でもあったキャロライン・7ケネディの足跡により、以後、大使級の長崎訪問がされるようになった。

今回のアメリカの駐日大使が長崎平和祈念式典を見送ったのは、彼らの主張とは逆に彼らこそ長崎市長および市民の純粋な平和を願う気持ちを政治的な問題に引っ張り出しているのではないだろうか。