鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

信じがたい残暑と超長寿

2024-09-17 14:14:07 | おおすみの風景
10号台風が若干の涼をもたらたのも束の間、戻って来た暑さは半端なく、その後は連日の暑さが続いている。

一般的に8月の終わり頃の台風は、九州を過ぎながら大陸の高気圧由来の涼を届けてくれるのだが、10号台風は残念ながら太平洋高気圧によって「押し出し」を食らったようだ。

8月27日は自分の「健康検診」の日だったのだが、ここ数年は予約制になり、これまでと違って検査ごとに待たされることなく、スムースに検査が行われていたのだが、今年は台風が最も接近した8月26日の検診が中止になったため、翌日に振り替えた人たちが多かったらしく、かなり待たされた。

それでも最初の問診までは時間がかかったが、それ以降はとんとん拍子に進み、1時間余りですべてが終わった。かねての半分の時間だ。

ただ最後に受けた胃がん検診のバリウムは約1週間の間、便通に違和感を感じていた。来年からは胃カメラによる透視にしようかと思っている。

何にしても健康が第一である。

それにしても日本の健康検診体制は素晴らしい。誰もが低料金で自分の健康具合が確かめられる制度はよその国にはないと思う。

それに加えて日本人の長寿だ。

報道によると、今年の百歳以上は9万5000人余りで54年連続で前年を上回ったという。

60年前の記録では100人程度だったから驚異的な伸びである。この伸びは平均寿命の伸び率をはるかに上回る。

男女の平均寿命は男女混合で85歳前後だが、上位の超長寿組だけを抽出してみれば寿命は10歳以上多いだろう。

中でも女性の超長寿は突出している。

100歳以上の約10万人のうち女性の比率は85%に迫る。

その最大の要因としてあげられるのが、「役割意識」だろう。女性はかなりの高齢になっても「家事・炊事」にいそしんでいるのだ。

まだ家族(多くは夫)がいれば、何かと世話を焼き、じっとしている暇はない。こまめに何かしら動いている。

このことが身体を柔軟に保つ大きな要因だ。結果として血流が良くなり、身体のコリや痛みが和らげられる。

身体の柔軟性はまた心の柔軟性にも通じている。

男はおおむね体が硬く筋肉が発達している。それはそれで有用な面もあるが、コリには悩まされるし、それに起因する高血圧体質を免れない。

これからも女性の「細く、長く、柔軟な」生き方は続くだろうから、男性の超長寿は女性の足元にも及ばないだろう。

話は飛ぶがあの3世紀に書かれた『魏志倭人伝』でも日本人(倭人)の長寿は有名で「倭人は寿考(長寿)であり、あるいは100年、あるいは8・90年。」と書いてある。

ここに出て来る100年、80年・90年は「二倍年歴」つまり倭人は(中国と違って)一年を二年にして数えていた――という説があるが、中国人が書く本国の史書には本国の単位に換算して書くはずだから、この100年、80・90年という数値はそのまま信じてよい。

ただしこの100年、80・90年はもちろん倭人の平均寿命ではなく、長生きした人とは、感染症にも罹らず、事故やけがもなく無事に過ごした人であり、長生きする人はいつの時代でも長生きしたのである。

私もあなたもその部類に入るかどうかは、運(天命)次第になろうか。

敬老会の起源

2024-09-14 19:45:38 | おおすみの風景
今朝のテレビで9月15日の「敬老の日」が制定されるまでの経緯を放映していたが、それによると1947年9月15日に兵庫県の多可郡野間谷村で「としよりの日」という名の行事が開催されたのが嚆矢だという。

当時の野間谷村の村長が戦後の道義的な混乱を目の当たりにして「年寄りを大事にしない村に未来はない」との発案で始めたという。その後は兵庫県下に広がり、ついには全国にまで波及することになった。

政府はその成果を取り入れて「としよりの日」を定め、その後名称変更で「老人の日」となり、「老人」の語感が悪いと1966年に正式に「敬老の日」が制定された。

ところが実は鹿屋市吾平町ではとっくの昔の明治時代から「敬老会」が定められていた。当初は「お年寄りの日」という名称だったようだが、明治40年頃には始まっており、途中、戦時中と戦後まもなくを除いて連綿と続き、去年は「第114回」であった。

去年は11月5日が敬老会だった。敬老会では祝賀行事の一環として各種の演芸が催される。広い舞台付きの体育館(大ホール)に集うのは70歳以上である。(※「美里」は「うましさと」と読む。吾平町の自然と農業に恵まれた環境を指し、某大学教授(故人)の提案でそう呼ばれるようになった。)

この敬老会を取材する新聞社があれば、「敬老会の始まりはここ吾平町」などと書くのだろうが、60年前に国で「敬老の日」という国民の祝日が法令化された以上、あとの祭りということだろう。

しかしこれをギネスブックに申請したらどうだろうか?

百年以上続く敬老の行事などおそらく世界でも稀に違いない。

古文書はAIで解読可能

2024-09-11 19:54:09 | 日記
熊本大学では保管する古文書の解読にAIを使って目覚ましい効果を上げているという。
  (今日のNHKニュースから)
熊本大学には「永青文庫」という膨大な古文書群があり、その中に保管されている古文書を解読するのに、AIを使うことに成功したという。

その使い方は古文書を撮影したものをAIアプリによってパソコンに学ばせ、        くずし字(草書体)の多い古文書の一字一句を楷書に変換するというものである。

楷書に変換できればあとは歴史学の出番で、当時の時代的な背景に基づいて解釈を加えていくことが可能になる。

江戸期までの歴史を学ぶには当時書かれた文書の解読が必須で、「古文書学」という分野が設けられていた。

今度応用されたこのシステムを使えばくずし字に悩まされることなく、広範な歴史研究が可能になるだろう。

今のところ永青文庫に保管されている280万枚という膨大な文書のうち5万枚(950万字)が解読されたという。まだ全体の2パーセント程度だが、楷書に置き換えられたのであるならば、今後は解読者の数も増員されて研究は一段と進むに違いない。

実は私も一時期古文書の解読に取り組んだことがあるのだが、その時に「パソコンを使って英語の文章ををなぞるだけで日本語に転換できるのなら、古文書も同じようになぞれば現代語になるのではないのか」とふと思ったことがあった

今回のはそれとは若干仕組みが違う、というよりAIの能力が飛躍的に伸びたので、文書全体の写真を撮るだけでほぼ一瞬にして楷書化されている。

一行一行なぞるというアナログから、写真によって全体を掴み一瞬にして転換するというデジタル化が行われたのだ。

まさに古文書へのDX(デジタルインフォメーション)に違いない。



都城と志布志を散策(2024.09.07)

2024-09-08 08:35:47 | 古日向の謎
午前中に娘の家の芝刈りに汗を流したあと、昼前に都城まで行くことにした。

夕方7時に町内会の役員会があるのだが、鹿屋市の笠之原から東九州自動車道に入り、志布志経由で今度は都城志布志道路に路線変えし、ほぼ信号なしで都城の南部入口まで行くことができるようになったので、往復するだけなら2時間くらいで行って来られる。

これら自動車専用道路が無かった5,6年前までは、60キロ余りの道のりを一般国道で行くしかなく、片道だけでも優に1時間半はかかっていた。

まず目指したのは都城歴史資料館で、この場所には歴代の都城島津氏族「北郷(ほんごう)氏」の居城があった。
天守閣を模した都城歴史資料館。北郷氏の居城の本丸がここにあり、「都島」と呼ばれた台地の上に中尾城・破城・池ノ上城・取添城・西城・南城など10を数える城があった。

都城盆地は大昔は約3万年前の姶良カルデラの噴出物で川がせき止められた湖だったのだが、数万年かかって北への排水溝が生まれ、流れ流れて宮崎市を還流して太平洋に注ぐようになった。大淀川である。

この大淀川の源流は鹿児島県曽於市の南之郷の山中にあり、この源流が同市末吉町を通って都城に入り、歴史資料館のある旧北郷氏居城の高台にぶつかり、そこでさらにいくつかの河川が合わさって本格的な大淀川になる。

北郷氏居城は「都島城」とも呼ばれていたらしく、資料館(本丸)とは谷を隔てた「西城」と呼ばれた所には「狭野神社」が建立されているが、境内に立つ案内板によると、「この高台は神武天皇こと狭野(さの)の尊の旧居であり、ここを拠点にして栄えたあと東征に出発した」とある。

その頃はすでに都城盆地からは水が引いていたのだろうけれど、やはり盆地の入口を塞ぐような位置にある高台は都城一帯を治めるには好適な場所だったに違いない。

資料館の展示物は旧石器時代から明治大正そして昭和の戦跡まで幅が広いが、私の目に留まったのは木造の骨組みが珍しい2回の回廊にあった縄文時代の「壺型土器」だ。
高さ30センチ、幅20センチほどのさほど大きなものではないが、端正に作られている。注ぎ口の深い横溝と、肩のあたりまでに見られる流水紋(?)が印象的だ。発見したのは「志和池(志和地)小学校」の生徒だったという。

ふた昔いや三昔前だったら、縄文の壺ではなく弥生時代の壺とされていたはずだが、鹿児島県国分の上野原遺跡で「縄文の壺」が確定されたので、まごうことなく8000年前のものと判定された。

土器は昔から女性の手で作られたとされるが、優美な形は確かにそう思わせる。これで温かい飲み物でも沸かしたのだろうか。用途はいまいち分からない。

資料館を辞してからまだ時間があったので、「神柱宮」を参拝した。

この神社は島津庄の前身を開拓し、摂政藤原頼通に寄進した太宰府の大監だった平季基(すえもと)が建立した都城市梅北益貫の「黒尾神社」が、明治6年になって現在地に移転したお宮である。

黒尾神社のある梅北は、平季基が最初に田地を拓いたところで、大淀川の支流梅北川の沖積地であり、ここを拠点に下流に当たる盆地にまで荘園を広げたようだ。当時の都城は「無主の地」だったそうだが、詳しいいきさつは分かっていない。(※かつて湖だったため、姶良カルデラによるシラス火山灰や霧島火山の降灰が度重なったにせよ、土壌としては悪くなかったと思うのだが・・・)

明治6年に新しく建立されたのが「神柱宮」だ。当時の県令は薩摩藩出身の桂久武であった。

高さ25mというコンクリート造りでは日本一の大鳥居をくぐるとそこは広い公園になっており、奥に進んだところに石段と小ぶりな鳥居が見え、上がった鳥居の先は広い境内である。
本殿に祭られているのは天照大神と豊受大神がメインで、この二柱は島津庄開拓者平季基が最初に梅北の地において伊勢神宮から分霊したと伝えられている。

しかもその年月日まで分かっているのだ。万寿3年(1026年)9月9日だそうである。とすると再来年の9月9日(旧暦)がこの神社の前身である黒尾神社はちょうど建立1000年の節目だ。

1000年前に建立された際の奉斎者の名が分かり、年月日も判明しているという神社は日本全国で10万社はあろうかという中でもそう多くないはずだ。

その最初の奉斎者である平季基を祀る末社「基柱神社」が、本殿の右手に並んでいる。なぜか菅原天神を相殿にしているのだが、季基だけでは参拝客も少なかろうと学問・受験で圧倒的に人気のある道真公を招霊したのだろうか。

そのせいか、拝殿の外壁には多数の絵馬が掛けられており、「学問の神様」人気を裏付けていた。

また手水舎の上を覆い尽くさんばかりのイチョウの巨木は、昭和天皇がまだ皇太子の時代にこちらを参拝された時(大正8年=1918年)にお手植えされたものだった。

3時過ぎに帰路に就いたが、時間があったので志布志で自動車道を降り、埋蔵文化財センターの展示室を訪れたところ、そこにも8000年前の「縄文の壺型土器」があった。

夏井という江戸時代には番所があり、今は海水浴場にもなっている所のやや高台で発見された物という。都城歴史資料館の小学生が発見したという壺型土器と比べ形は瓜二つだが、一回り小型であった。

いずれにせよ、南九州では縄文の壺型土器が見つかるのは広範囲であり、どれをとっても早期に属しており、年代で言えば8000年から9000年前に相当している。

それがあの7400年前の「鬼界カルデラの大噴火」によって亡失してしまった。大噴火後に壺型土器は継続していない。

縄文早期に南九州に暮らしていた人たちの高い文化はいったいどこに消えたのだろうか? それとも離散して形を変えてしまったのか?

志布志市埋蔵文化センターの案内人は「歴史ガイド」というボランティアの高齢の女性だったが、志布志城の話を聞いたあと、「福山氏庭園」というのが最近整備されたと聞いて行ってみた。

もう5時まで10分ほどしかなく急いで行ってみると、場所は志布志小学校の隣りといってよかった。しかもここには「若宮神社」というのがあり、山宮神社に祭られている天智天皇の娘・持統天皇が祭神だというので3回くらい来たことがあった。
しかしそのお宮たるや、何ともみすぼらしい姿である。

父君の天智天皇の「安楽山宮神社」が1200年の楠を前景に立派なお社を構えているのに比べるとまさに月とスッポンの差がある。

今度の台風10号の襲来に備えたのか、拝殿の上の角に2本の太い丸太が斜めに突っかい棒になっているのも見苦しい。

福山氏庭園の入り口がまだ空いていたので、母屋にいた歴史ガイドの女性に遅く見学に来たことを詫びつつも、若宮神社について苦言を呈してしまったが、もとより小言を言うために来たわけではないことを分かってもらえただろうか。

時間的にもっと早く来ればよかったと思った。また近いうちに来てみよう。


こんなキノコは初めて

2024-09-04 17:53:09 | おおすみの風景
我が家の玄関先には樹齢20年ほどのキンモクセイが生えているが、最近その木の下に異変が起きている。

異変とはこれまで見たこともない真白なキノコらしきものが2株(?)生えて来たのだ。

それがこれである。
普通キノコと言えば茎らしきもので立ち上がり、上には開いた笠が乗った形だが、このキノコはまるで違う。

直径8センチほどの枯れた丸太に行儀よく2つ並んで生えている。左のはあたかも少女がちょっとおしゃれしてパーマを掛けたような顔に見える。

この枯れた丸太ははっきりした記憶はないが、何年か前に、キンモクセイを間伐したのを輪切りにして地に下ろしたシンビジウウムの土留めに置いておいたものだが、2週間くらい前に奥にあったものを手前に動かしたら見つかった。

触ってみると見かけは石膏が固まったようだが、さほど硬くはなく、手でもげばすぐに取れそうだ。香りはほんのりあるがさほど特徴的なものではない。

このキノコの正体は一体全体何なのか?

※グーグルアプリで調べたら「シロキクラゲ」と出たが、キクラゲならもう少し笠が薄いように思う。