夜の9時過ぎに外に出てみると、ナント美しい月が皓々と…ああ、そうなんだ、明日が満月だったっけ! これぞまさに「寒月」!「冬の月」という言い方もありますが、やはり感じが違いますね。冬の月よりもいちだんと冷厳な凍てつくような月が寒月。季語としても「冬の月」は三冬で冬の間ならいつでも使えますが、「寒月」は寒中ですから晩冬になります。
寒月や僧に行き合ふ橋の上
のり合ひに渡唐の僧や冬の月
どちらも蕪村の句ですが、前句は、皓々と寒月の照らす橋の上で偶然一人の僧に出合った場面。後句は、どこかの川の渡船でしょうか、乗り合わせた人の中に今から唐へ渡ろうという僧がいたのです。それに驚くと同時にその僧の高邁な精神にきっと感動したのでしょう。そんな人々を照らしている冬の月。どちらもしっかりと景の見える句です。しかし、感じが違うでしょう。入れ替えてみると分かると思いますが、内容的には後句の方が厳しいはずなのに、何となくやさしい月で人の温みも感じられませんか。それは〈のり合ひ〉という場と〈冬の月〉という取り合せだからなのです。もしこれが〈寒月〉だったら少し厳しすぎると蕪村は考えたんではないでしょうか。エエッ、聞いてみなくちゃ分からんって…まことに…(笑) 前句の方は橋の上ですから、ここはぴーんと張った緊張感があった方が面白い!…と蕪村は考えたのかも。エエッ、これも分からんって! まあ、作者の手を離れた作品はどう解釈されようとも自由なんですからね。ゴメンナサイ!
ところで、昨日の〝寒菊〟の原句と添削句の違いが分かりましたか?
原句の〈寒菊や売物件の字の太し〉では、〝字が太いんです〟と、字の様子の説明をしているのですが、添削句の〈寒菊や売物件の太き文字〉は、文字の有り様の描写なんです。
俳句は韻文ですから、散文のように自由には表現できません。限られた字数の中で自分の感動を最大限に表現しなくてはならない。そのためには切字や表現法などを駆使して余白を活用するしか方法がないのです。だから、無駄を省き省略を利かせて、読者にインパクトを与えなければ、それがどうしたという駄句になってしまうのです。
要するに、俳句は〝説明するな〟〝理屈を言うな〟と最初に学びます。〝ことがら〟で説明せずに〝もの〟で具象することによって語らせよということ。そのために〝見える俳句〟を詠めということになるのです。絵や写真と同じなんですよ。
そうです。一瞬を切り取る……「今」「ここ」での感動をどう伝えるか、それを〝ことば〟でやるのが俳句だと思うのです。
例えば、〝薔薇が美しい〟というより〝真っ赤な薔薇〟といった方が映像になるでしょう。そのように何がどうだと説明をせずに、見たままを描写する…すなわち写生するのです。つまり〝ことば〟で絵を描くのです。
いかがですか?少しは分かりましたか。説明がどうも下手なもんで……ウウン、下手なのは当り前? だって俳句ばっかりしてるんだもの…アハハハ…
写真は…これは本当に下手ですが、ごあいきょうに見て下さいね。殆ど満月と変わらないぐらいでした。では明日は?
ああ、明日は「馬醉木」の新年俳句大会なんです。それで東京へ早朝から出かけますので休みます。また、帰ってから報告しますね。では、オヤスミナサイ。