今日も1日ゴロゴロとして過ごしてしまいました。ついに鼻をかみすぎて鼻の下と唇辺りがヒリヒリして…ああ、風邪が一向によくなる感じがしません。喉はよくなって水洟だけなんですが、それがヒドくなり、またぶり返したような…、困ります。ホントに!
明日は、出席者が少ないかも知れませんが、希望者がいましたので、俳句教室をやるつもりです。
兼題は〝蘖〟。ひこばえと読み、春になって樹木の根元や切株から新しい芽が何本も吹き出すのを、「孫(ひこ)生え」というんです。
大木の蘖したるうつろかな 高浜虚子
「うつろ」には、漢字で書くと、〝空ろ〟〝虚ろ〟〝洞ろ〟とあり、〝中に何も満たすものがなく、からであること。また、そういう所〟という意味です。また、精神的なむなしいさまにも用いますが、この句での〈うつろ〉は、大木ですので、当然幹の中が腐って空洞になっていることをいっています。そんな朽ち果てようとしている老木なのに、そこから新しい芽が萌え出ているという。そのみずみずしい緑の芽に、春の、ひいては生命の喜びを心から感じているのです。だからこれを見た虚子は、きっと〝まだまだ頑張らなくては…〟と生きる力を貰ったのかも知れませんが、一体この句は何歳頃の作なんでしょうね。
さて、それでは昨日のつづき、〝紙漉き体験〟です。
これは、会場を上小野集会所から閉校になった小野中学校の校舎へ移して行われました。
中国から日本に製紙技術がもたらされたのは推古天皇の時代(610 年頃)といわれ、その後、徐々に日本全国に広がっていったと。山口県には、文治 2 年(1186年)、東大寺再建のため奈良から下向してきた重源上人によって現在の山口市徳地地域に和紙がもたらされたとされていますが、実際にはもう少し古くから製造されていたとも言われています。
かつて山口県は全国有数の和紙の生産地であったそうです。それは、毛利藩の「三白(米、塩、和紙)政策」の一つとして手漉き和紙の生産が奨励され、米の代わりに半紙を公租として代納する仕組みができていたからなんです。その結果、山代地方(現在の岩国市美和町、錦町、本郷町など)や徳地地方を始めとして県内各地で和紙生産が盛んになりました。その後、明治時代になってからも、山口県の奨励により、低価格かつ良質な和紙が大量に生産されました。小野地区もその一つだったんです。
私は、以前德地の〝重源の郷〟で和紙漉きの体験をしたことがありますが、この宇部市の近くで体験できるなんて思ってもいませんでした。でも、小野中学校の生徒達が自分たちの卒業証書を和紙で作るというニュースは、毎年地方新聞で報道されますので知ってはいましたが…
その小野中学校は、平成28年(2016年)に閉校になり、厚東中学校と統合されて厚東川中学校となりましたが、この和紙の卒業証書は今も継続されているそうです。
この日も地域の観光推進協議会・文化伝承部会の皆さんのご指導で体験させていただきました。中学生たちがしていた紙漉きの手順から先ず説明されました。それは次のように…
①粘材のトロロアオイの栽培 ②コウゾの採取(11月末~12月初旬) ③コウゾ蒸し(12月上旬) ④コウゾ皮はぎ(12月上旬) ⑤黒皮ふぶり・塵より(皮に付いている黒いところや節を取り除くこと。1月上旬) ⑥コウゾ煮炊き(苛性ソーダ水溶液で煮て皮を柔らかくする。1月上旬) ⑦コウゾ叩き(柔らかくなった皮を棒で叩いて、細かな紙の繊維にする。1月末~2月上旬) ⑧トロロアオイ叩き(根を叩いて粘液を取り、それを糊にする) ⑨紙漉き(舟(木箱)に水、紙素、糊を入れてよくかき混ぜ、卒業証書の大きさの枠で漉く。それを乾かして証書用の小野和紙が完成)
この最後の〝紙漉き〟のところだけを体験させて貰うんですから、なんだか申し分けない感じ…
私たちの木枠は葉書の大きさのもので、二枚漉きました。一遍にはなかなか出来ませんので、紙漉きをする班と和紙で団扇造りをする班に分れて交替で行いました。私たちは先に紙漉きで、最初は要領が分からずモタモタしましたが、指導の方々に手取り足取りしていただいて無事完成。今回は乾かす時間がないので、アイロンで乾かしました。
その後は団扇の骨に、すでに漉いてあった和紙を貼って、彩りよく完成させました。
これで今回のイベントの全てが17時過ぎに終了。なんとも盛りだくさんの内容だったわねと、みんなで満足しながら帰りました。本当に充実した1日をお世話して下さった地元の皆さん方アリガトウございました。
ついでながら、この〝紙漉き〟は冬の季語なんですよ。寒中に漉いた紙は虫が入らないので重宝されたんですって!
水責めの道具揃ひて紙を漉く 後藤夜半
紙漉くや天の羽衣より薄く 有馬朗人
紙一重水の一重と漉きあがる 中原道夫