おはようございます昌栄薬品の宮原 規美雄です
薬学博士渡辺武著『漢方が救う人体危機』
現代医療の誤りを正す
第1章 漢方薬はなぜ効くか
漢方薬は〝クスリ〟として害はないか?
p80後漢のころには漢方薬の数は七百五十種にもなった!
漢方は中国の漢時代に完成された医術、医道です。
『傷寒論(しょうかんろん)』や『金匱要略(きんきようりゃく)』はその原典といわれていますが、そもそものはじまりは、二千年も前から炎帝神農(えんていしんのう)によって『神農本草経(ほんぞうきょう)』という医薬の道が開かれ、約千年前には黄帝(こうてい)がそれを引き継いで『黄帝内経素問霊枢経(ないけいそもんれいすうきょう)』を編纂(へんさん)して医学の根本的な基礎をつくり上げたといわれています。
二千年前というと、日本は太古の縄文式文化後期で、穴ぐら生活をしていた時代です。
卑弥呼(ひみこ)が生きていた時代が西暦二三九年ごろですから、中国の文化や技術がたいへんに進んでいたことがわかります。
草根木皮を食べたり、飲んで味わい、人体実験でその作用を収録して、漢方薬のもとをつくったのですから驚くべきことです。
神農さんは中国では農業と医薬の神様、木の葉の着物を着て角(つの)がある空想の世界の神様です。
この中国の医術が歴史を経て唐時代にいたって、やっと海を渡って日本に入ってきたのです。
奈良の正倉院宝庫といえば、光明(こうみょう)皇后と孝謙(こうけん)天皇が大仏殿に薬物を奉献して、病人の救済に当たり(七五六年)、以来、千二百年もの間、その扉は固く閉ざされてきた建物です。
昭和二十三年にその宝庫のなかの薬物の科学調査が朝比奈(あさひな)泰彦博士らに委嘱されて、はじめてその薬物は科学の日の目を見たのです。
私も科学調査に参画しましたが、麝香(じゃこう)など四十種の薬物は原型に近いかたちで残されていて、当時の唐とわが国との医薬の交流を知る意味で貴重な資料を提供してくれたのです。
唐時代に薬物書の唐本草『新修本草』が生まれて、七十二年後にはその書写したものと実物の漢薬が、日本に伝えられているのです。仏教と同じくらい、医薬は重要な伝来物であったといえます。
現在、中国では数千年前から始まった漢方医学の発生の研究が盛んに行われています。
漢方のそもそものはじまりは、宗教でいう祈禱(きとう)とか邪気を払うとか、呪(まじな)いからはじまったといわれています。
その時代は気の病(やまい)を払うために、いぶり出したり、あるいはとりつかれたのだから、背から発散するか、口から出すか、大小便で外に出します。
それから熱があるから冷やす、冷えているから暖めるというふうに、だんだんに中和する方向に発展してきました。
『素問』の虚実の分別
実 |
暑 |
熱 |
肥 |
邪気盛 |
瀉 |
奪 |
盛 |
有余 |
入 |
気実 |
左手 |
上逆 |
脹 |
実邪 |
陽 |
虚 |
寒 |
寒 |
痩 |
精気奪 |
補 |
与 |
衰 |
不足 |
出 |
気虚 |
右手 |
下虚 |
泄 |
虚邪 |
陰 |
病は色に出て、形に現れてくるもの。
発汗しなければならないときは青くなってくるし、吐かなければならないときは赤くなってきます。
熱い場合は白くなるし、冷えた場合は黒くなってくるとされ、それが東西南北の四方からやってくるのだとされました。
相撲(すもう)の土俵の四方を青房下とか赤房下という語源は、この東西南北の四方の守り神(四神)の思想を伝えてつけられた言葉です。
漢方薬には熱のあるものには「白虎(びゃっこ)」(石膏(せっこう))、冷たくなったら「玄武(げんぶ)」(附子(ぶし))、汗を出すには「青竜(せいりゅう)」(麻黄(まおう))、吐き下すには「朱雀(すざく)」(芫花(げんか))という薬物から、漢時代に酸(青)・苦(赤)・甘(黄)・辛(白)・鹹(かん)(黒)の発汗・吐下・中和の治療原則の原理ができたのです。
薬の種類も三百六十五種から、後漢のころには七百五十種になってきました。
たとえば、胡椒(こしょう)といえば、現在は料理には欠くべからざる代表的なスパイスですが、その昔は貴重な薬物だったのです。
胡椒は南方諸島にしか分布しない植物なのに、シルクロードを通って、南方諸島から直接か、唐の国にはちゃんと入っているのです。
その当時、南方諸島に行くには、現在の南極探検よりむずかしかったに違いありません。
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