1998年に起きた北イタリアの悲劇。加害者の米軍人の罪は明らかにされず、被害者は泣き寝入りを余儀なくされている。日本でも日米の安全保障を理由に、米軍や軍人による犯罪が後を絶たないばかりか、其の罪も追及できない状況が沖縄をはじめとして全国である状況を考えると怒りがあふれる。北イタリアのこの事件もそうした同じ状況を見る事が出来る。引き続き、NATO軍、米軍のイタリアにおけるその地位協定の現状を調べてみようと思う。
Opinione Pubblica.COM より
3 febbraio 1998, la strage del Cermis
Il 3 febbraio avveniva la drammatica strage del Cermis. Venti furono le vittime, che ancora attendono che sia fatta veramente giustizia.
19年前の2月3日、北イタリア、トレントの近く、カヴァレーゼ近郊で近くのチェラミス山と結ぶケーブルカーのケーブルが米軍のジェット機の翼でぶち切られ、20人(19人のスキー客とケーブルカー案内者の1人)が乗ったケーブルカーが150メートル下の地上に墜落する事故が発生。乗っていた20人全員が死亡した一方、米軍機自体はかなりの損壊にもかかわらず、乗っていた4人の軍人は特にけがをすることもなく基地のAviano NATO海軍基地に戻った。
事故から19年経つが20人の犠牲者は今だに真の裁きが下されることを待ち望んでいる。
1998年2月3日14:36 1機の海軍機、グラマンEA-6B Prowlerが低空飛行訓練のため、NATOの基地から飛び立った。飛行士はRichard Ashbyだった。数分後の15時13分、グラマン機はケーブルカーの下をくぐって通過しようとして、ケーブルに引っかかった。そのため、ケーブルカーのキャビンは支えを失い、150メートルの高さから墜落、7秒後には爆発するように散り散りに壊れた。乗っていたのは19人のスキー客と1人のケーブルカー操作員。20人の内訳はイタリア人3名、ドイツ人7名、ベルギー人5名、ポーランド人2名、オーストリア人2名、オランダ人1名だった。一方、事故を起こしたグラマン機は尾翼と片方の主翼に軽い損傷を受けただけで、特に問題なく海軍基地に戻った。
イタリア各紙はすぐにこの惨劇を報道したが、事故から数日ワシントンからは何の説明もなかったが、その後当時のビル・クリントン大統領が事故が起きたことに弔意を表し、犠牲者に対し補償金を払うことを約束した。しかし、その間、米国とイタリアの関係は慎重に中断された。
調査はすぐに開始されたが、証人があるにもかかわらず、確定的な調査報告は提出されなかった。ただトレントの行政官による決断と真摯さですぐに飛行機の差し押さえを命じられ、責任の所在を明確にすると約束、乗組員の取り調べのために拘束したものの、飛行機の差し押さえの時にはすでに修理の最中だった。まさにそれは事故の証拠の隠蔽であることは明らかだった。損傷した尾翼にはまだケーブルを引っ掛けた跡が残っていたのだ。
歴代のイタリアの首相は、この惨劇の責任追及はイタリアで行われるべきと訴えてきたが、トレントの1次調査担当の判事は、1951年6月19日のNATO軍の地位に関するロンドン条約により、このケースでは米国に裁判権があるとした。実際、パイロットのRichard Ashbyと指導官のJoseph Schweitzerの二人は裁判にかけられたが、ほかの二人の乗組員はまったく何の調べもなかった。
2012年の1月になってようやくNational Geografic誌の調査のおかげで、指導官のJoseph Schweitzerが裁判の妨害の罪で新たに訴えられた。それは彼が飛行機の操縦中に彼を映した映像カセットテープを処分してしまっていたことを告白したためだ。そのテープには事故を起こした直後に笑っている映像があったのだ。彼はその証拠をCNNでさらけ出されたくはなかったという。きっとそれだけがテープを破棄したことの彼の唯一の申し開きだったろう。裁判過程でたくさんの彼の責任問題が判明したにもかかわらず、1999年の軍法会議でAshbyとSchweitzerは操縦時の映像テープを破棄した罪で、6ケ月の有罪とされたが、その期間は減刑により4ケ月半に短縮された。これは軽率な行為で20人もの人間の命を奪った者たちに対するまったく馬鹿げて軽い判決だ。正しい裁判が行われることを今日でもまだ待っている人たちがいるのだ。
(原文)
http://www.opinione-pubblica.com/3-febbraio-1998-la-strage-del-cermis/
Opinione Pubblica.COM より
3 febbraio 1998, la strage del Cermis
Il 3 febbraio avveniva la drammatica strage del Cermis. Venti furono le vittime, che ancora attendono che sia fatta veramente giustizia.
19年前の2月3日、北イタリア、トレントの近く、カヴァレーゼ近郊で近くのチェラミス山と結ぶケーブルカーのケーブルが米軍のジェット機の翼でぶち切られ、20人(19人のスキー客とケーブルカー案内者の1人)が乗ったケーブルカーが150メートル下の地上に墜落する事故が発生。乗っていた20人全員が死亡した一方、米軍機自体はかなりの損壊にもかかわらず、乗っていた4人の軍人は特にけがをすることもなく基地のAviano NATO海軍基地に戻った。
事故から19年経つが20人の犠牲者は今だに真の裁きが下されることを待ち望んでいる。
1998年2月3日14:36 1機の海軍機、グラマンEA-6B Prowlerが低空飛行訓練のため、NATOの基地から飛び立った。飛行士はRichard Ashbyだった。数分後の15時13分、グラマン機はケーブルカーの下をくぐって通過しようとして、ケーブルに引っかかった。そのため、ケーブルカーのキャビンは支えを失い、150メートルの高さから墜落、7秒後には爆発するように散り散りに壊れた。乗っていたのは19人のスキー客と1人のケーブルカー操作員。20人の内訳はイタリア人3名、ドイツ人7名、ベルギー人5名、ポーランド人2名、オーストリア人2名、オランダ人1名だった。一方、事故を起こしたグラマン機は尾翼と片方の主翼に軽い損傷を受けただけで、特に問題なく海軍基地に戻った。
イタリア各紙はすぐにこの惨劇を報道したが、事故から数日ワシントンからは何の説明もなかったが、その後当時のビル・クリントン大統領が事故が起きたことに弔意を表し、犠牲者に対し補償金を払うことを約束した。しかし、その間、米国とイタリアの関係は慎重に中断された。
調査はすぐに開始されたが、証人があるにもかかわらず、確定的な調査報告は提出されなかった。ただトレントの行政官による決断と真摯さですぐに飛行機の差し押さえを命じられ、責任の所在を明確にすると約束、乗組員の取り調べのために拘束したものの、飛行機の差し押さえの時にはすでに修理の最中だった。まさにそれは事故の証拠の隠蔽であることは明らかだった。損傷した尾翼にはまだケーブルを引っ掛けた跡が残っていたのだ。
歴代のイタリアの首相は、この惨劇の責任追及はイタリアで行われるべきと訴えてきたが、トレントの1次調査担当の判事は、1951年6月19日のNATO軍の地位に関するロンドン条約により、このケースでは米国に裁判権があるとした。実際、パイロットのRichard Ashbyと指導官のJoseph Schweitzerの二人は裁判にかけられたが、ほかの二人の乗組員はまったく何の調べもなかった。
2012年の1月になってようやくNational Geografic誌の調査のおかげで、指導官のJoseph Schweitzerが裁判の妨害の罪で新たに訴えられた。それは彼が飛行機の操縦中に彼を映した映像カセットテープを処分してしまっていたことを告白したためだ。そのテープには事故を起こした直後に笑っている映像があったのだ。彼はその証拠をCNNでさらけ出されたくはなかったという。きっとそれだけがテープを破棄したことの彼の唯一の申し開きだったろう。裁判過程でたくさんの彼の責任問題が判明したにもかかわらず、1999年の軍法会議でAshbyとSchweitzerは操縦時の映像テープを破棄した罪で、6ケ月の有罪とされたが、その期間は減刑により4ケ月半に短縮された。これは軽率な行為で20人もの人間の命を奪った者たちに対するまったく馬鹿げて軽い判決だ。正しい裁判が行われることを今日でもまだ待っている人たちがいるのだ。
(原文)
http://www.opinione-pubblica.com/3-febbraio-1998-la-strage-del-cermis/