宿河原堰下流200m位の場所に常時カイツブリが姿を見せます。遠方ですが写真を撮りました。
どの新聞社の新聞のコラム欄は執筆するコメンテーターが何人かいて、どのような担当区分か分からないが、執筆内容は日々異なっている。物の見方は立場や、従事した過去の経験、現在の立場、思想、宗教、生活基盤、参加する組織等によって異なるのが当然で、見聞する新聞の思想的な位置づけによって、言葉を換えれば、右寄りか、中庸か、左寄りかが変わることは明白である。これも数年購読するというスパンで購読することによってのみ、体感できるのであって、取り扱うテーマでも時代によっても異なっている。
新聞をどのようなきっかけがあって購読するかは、人それぞれであり、内容よりも折り込み広告を生活情報として選ぶ主婦も多いようである。自宅では日経新聞を朝刊・夕刊ともに購読しているが、20数年前には朝日新聞を購読していた。朝日新聞は政権批判的な記事が多かったように記憶しているが、従軍慰安婦の記事が初回ではないが、なにやら左寄りで、納得できない面があった。過去、労働行政の仕事をしていた関係もあり、的確な他行政機関の情報収集手段として、もっとも的確であった日経新聞に切り替えたことが理由といえる。
どの新聞社を選ぶかは強制されるものではなく、消費者の自由意志で決めるので、どの新聞社を選んでいたとしても特段問題があるわけではない。また、思想的な主義を表に出しているわけではないし、特定の購読者を対象として編集方針が明確化されているわけではない。とはいえ、情報の多くは、編集者や執筆者の持つ思想的な背景までも明確化されてはいないし、知りたいと思えば問い合わせをするなり、質問するなりすることで知ることは出来るであろうが、現実的ではないし、そこまで読者が拘りを持って読んでいるとは思えないが、顔の見えない相手との一方的な情報提供は、不安のリスクとの戦いでもある。
コラム欄ばかりではないが、茶飲み話ではないテーマについての情報提供は、十分な熟慮がなされている場合もあるが、根拠が曖昧な内容が多く、執筆者の偏見で、推測や、希望的な観測が曖昧な形となって表現している場合を多く見いだすことができる。娯楽誌ではない以上、お笑い沙汰ではすまされる話ではないし、また、研究論文ではないので、厳しい制限が課せられていないため、曖昧な表現が多用されているようにように見える。
不特定多数を対象とする情報提供には、購読側の意見や主張をどのように反映するかは、それぞれ工夫されていると思うが、最近の傾向を申し上げれば、論旨の曖昧な八方美人的な論調が多くなったと感じられることであり、取り上げたテーマは何であっても良いが、曖昧な何を言わんとするのかが見えない。雲を掴むような、煙幕の中にいるような結論は極力避けるべきであろう。