多くの日本人が信仰する宗教は、神道と仏教であろう。普段はさほどご縁が無くても、心のどこかに居座っている。毎日の礼拝を心がけ、実践されている方も多い中、自分のようにほとんど何もしない部類にはいると思っている。年に一度ぐらいは神様と仏様となった親族の住まいの掃除を行うことにしている。神棚と仏壇の掃除である。
神棚は寝室にあり、東を向いている。小さな檜の社に、天照皇大神宮のお札があるだけで、ことさら派手な飾りはない。以前仏具屋で購入した物である。榊は年に正月1回限り、このときは重ね餅と水、白米を差し上げている。寧ろ、仏壇のほうが切り花をあげたり、命日には線香を上げているし、お盆にもそれらしき所作を行っている。その程度で別によいとは思っていないが、気持ちの問題としてご勘弁願っている。
神棚はあっても地元の神社とは無縁であり、どこかに属しているわけではないし、仏教徒としても、特定の寺院の檀家ではない。父親は大家族の末っ子で、従兄に当たる長男は群馬にある九品寺(くほんじ)という真宗の檀家を引き継いでいるが、他の従兄はどのようになっているのか訪ねたこともないのでよく分からないままとなっている。両親の兄弟が多いと檀家制度が崩壊するのもよく分かる。父親は、地元で同姓である浄土真宗の住職と懇意にしていたこともあり、死後、その寺で仏事を行った。しかし檀家ではない。果たして自分はどうなってしまうか考えることもあるが、死後のことは残された者の判断でよいと思っているし、あまり、真剣に考えているわけではない。
数日前に両親の墓掃除に行ってきた。お彼岸の時に清掃してきたので荒れている様子もなく、枯れ葉が積もっているぐらいで、簡単な掃除で済ませた。墓地の墓掃除が終わっているのは数えるくらいであった。路線駅から近いが、丘にある公園墓地で、多摩丘陵の一部を市が公園墓地として整備している。高齢となり、足腰が弱くなれば、上り下りで墓掃除も大変であることを女房と話した。高齢社会の負の部分であろう。最近は永代供養とかで、寺側に管理を任すサービスが人気となっているのも良く理解できる。
せめても、神様、仏様の居所を年に数えるぐらいの掃除で済ませているが、気持ちよく新年を迎えてほしいとの思いである。こうしてみると神道の方が、あっさりとしているようだ。名所旧跡に行ったときのお賽銭(何処かの巫女さんに効き目は1年限りといわれた)の効果はあったのであろうか、普通の方は年を取るとより近づくといわれているが自分は徐々に遠のく宗教心である。しかし、如何ともしがたく、自然の流れに任せる他はないとの心境である。