歳神様を迎えた朝は、盛装(正装)で家族が揃い、祝いの席に望む前には、神棚と仏壇におせち料理を差し上げ、お屠蘇を上げていた。祝い膳の前には、全員が拝礼を済ませている。お袋も滅多に着なかった和服姿であった。誰も手伝わなかったため、一人で帯を締めていたのであろう。掛け軸はおめでたい鶴と松に黎明が描かれている物であった。
祝い膳は新しい箸が配られていて、お屠蘇から始まる。父親は早くに病死したため、母親と兄弟3人であった。前日に夜遅くまで掛かって母親がおせち料理を作り、お重に入っていた。皆が揃ったところで、一番歳が若い弟から母親の手酌でお屠蘇が振る舞われ、最後に長男が母親の盃にお屠蘇を注いだ。
盃が揃ったところで一斉に「新年あけましておめでとう」を口に出し、盃を飲み干した。お年玉が母親から渡された。元旦は家族が揃って一日を過ごした思い出がある。翌日は母親の実家があった杉並区関根町の祖父と祖母に新年の挨拶に行った。当時は100才を超えた祖祖母が健在であり、同居していて、部屋が違っていたため、そこへも挨拶に行き、清酒の辛いお屠蘇を飲んだ記憶がある。
時間がずれて親戚や従兄・従弟も年始に集合し、大変な人数となっていた。当時は何かあれば必ず親族が集まり、自分との関係を知ったものである。以後、仏事で会うことの他はほとんど無かったが、今では遠い思い出である。貧しさ故に、正月ぐらいは贅沢をしようとしたようであった。どの家族であっても戦後の物のない時代にはお互い家にある食料を持ち寄り、衣類を分けあっていたし、行き来も多かった。
今になってみると我が国の国力が上がり、経済的にも豊かとなっている時代では、昔と異なるのは仕方ないにしても、疎遠になりやすい親の兄弟はほとんど他界し、いとこ同士のつきあいは全くといってしなくなってしまっている。少子高齢化は我が家にとっても他人事ではなく、一度、関係が疎遠になると再び元に戻すことが出来ない。
敷居が高くなっているのではなく、自らの意志が向かない理由をどのように修正していくのか、今後どのようになっていくのであろうか、疑問は尽きないでいる。淋しいこと以上に、自分も高齢層に入りかけている。手助けできることは限界もありで、若い頃のようには行かない。せめて、平素の生活での関係改善を意識をして図り、機会を捉えて前向きに行動できるようにしたいものである。年賀状のやり取りだけは続けていきたいと思っている。