鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

昼食のレストラン

2016年09月21日 00時00分01秒 | 紹介

 中食を外食にすることは、滅多にない、在職時には、職場近くの蕎麦屋が定番であったが、退職後は、自宅で簡単に済ませることが多い。これも毎食同じであるのも飽きてくるが、食事のバリエーションはそう多くはない。夏場はどうしても冷たい食事が多い。最近の簡単にできる食材は多く、麺類が主であるが、インスタントではない。拘りというのか、その場合でもできるだけ手間を惜しまず、うまいものを食するようにしている。とはいえ、レトルトな食材が意外においしいのである。

 

 特に、冷凍食品の中には、値段は張るが、一流レストラン並みの味を追求し、手軽で、出来上がる食材が多くなっているというのが実感である。特段安く済ませるなどとは思わないし、調理に時間がかかるのは敬遠したくなる。総じて、冷凍食品には脱帽しているところである。

 

 今回、昼食時に登戸の中華料理店に入った。いつものように、店は混雑していて、喫煙ルームに案内された。混雑時には、禁煙ルームでもよいのであるが、同伴する女房には申し訳ないが、愛煙家を称する我が身では、むしろ喫煙ルームが良い。すでに10席ほどの席は半数が埋まっている。1時を過ぎていたが、すでに酩酊状態の若い男二人の席の通路へだてた後ろ側であった。注文した料理が運ばれてくるまでの間にも、酩酊状態の二人の一名は、寝入ったもう一人の相棒に、店を出ることを伝えるが、話が通じないと見えて、勘定を済ませて立ち去った。

 

 店の配慮もあり、冷水を飲ませるなど気にかけていたが、もう一人の残された若者は、携帯の操作を行っていて、徐々に平常に戻っていた。暫くして料理が運ばれてきたので、我々は食事をしたが、先輩と見える先ほど出て行った男が、戻ってきた。何やらもう一人を叱咤していたが、テーブルに残されたビールを飲み始め、階段で滑ったなどといっていた。酩酊状態は続いていたが、いつまでも付き合っていられないので、我々も勘定を済ませ、店を出た。

 

今時、若者二人連れが、昼間から酩酊するまで飲んでいる風景を見ることがなかったので、気にかかっただけであるのだが、馬鹿な騒ぎはない、おりこうさんばかりを見る昨今、レトロな雰囲気を感じたのである。時にはそのような光景も新鮮に見える。殻に閉じこもることのない世界は、返って、異質ではなく、ほのぼのとするものである。世間の既成概念を破り、当たり前だった世界があるのを見て、むしろ自然な世界はもっと自由なのかもしれないと気付かされた。

 


事務職と技術職

2016年09月20日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 業種や規模によって事務職と技術職との配分や、役割は異なる。官庁や公共施設においての中枢は一般的に事務職の独壇場であり、大臣を補佐する事務次官をトップとするピラミッド組織を持つ。人事、経理(予算、決算)、総務の部局を持ち、行政上の業務担当が合わせて組織されている。各省庁には共通した人事、経理、総務を持っている。

 

 技術職という範疇は各省庁で微妙に異なる。例えば、心理職、教育職、研究職などを技術職に分類する場合はあるが、技術分野は、理工学部を中心とした科学技術にかかわる専門性を保有している集団である。官公庁ではない民間企業の場合には、産業の専門性による大卒のエンジニアを指している。科学技術の範囲は広く、従来の自然科学を中心に、医学、工学、研究開発、検査機関、宇宙関連、環境、バイオ等最先端科学まで含めれば、無限の領域が含まれる。

 

 事務職と技術職に分割して考えたが、実際は、グレーゾーンに位置する職業も多い。また担当する業務内容によっては、事務分掌による業務の範囲と深さがあり、複雑な人事体系が含まれるため、個々の担当内容は一律ではない。

 

 今回の築地市場移転先の豊洲市場での建物の地下構造が、都が公開している内容と異なっていることによる物議が発生し、移転まで道筋の変更が予測されている。発端は前石原都知事時代に遡る。連日、新聞の報道や、TVによる解説が行われ、出口が見えない状況となっている。当時の責任者との答弁なども二転三転し、言った言わないの水掛け論、事務職と技術職の考えの差などが明らかになりつつある。

 

 縦割り、横割りの組織が内在する問題点も浮上し、問題の拡散が懸念されている。ボタンのかけ違いはどこにもあるが、都議会と都知事の確執の違いや、五輪の会場交通アクセスの問題も絡み、単なる建設された建物安全性だけではない都行政に対する不信感を助長しているように映る。

 

 自分が指摘したい確執に、専門家集団が提案した技術上の提言を、知事発言の忖度などの理由で、曲解したことである。謙虚であるべき事務職集団が権限を持ち、最終決定できるなどの思い上がりが、今回の問題の根底にあることは明らかなことである。組織の存亡は、一部の狼の毛皮を纏ったキツネの無知が引き起こすことは歴史が証明している。


沖縄知事に物申す

2016年09月19日 00時00分01秒 | 提言

  豊洲移転問題の石原前都知事の失言と失態は、いい加減な代表として、その名声は黒く塗られることになる。6年前とはいえ、発言や、支持があったことを否定すれば、批判の矢面になる証である。なんとも不遇としかいいようがないが、猪瀬前知事、舛添前都知事など、なんと情けない都知事を就任させた根本の原因は、都知事選でも明らかな、人気投票の選挙である。以前も大数の法則を披露したが、将に大数の持つデメリットがはっきりしたではないか。民度で決まるといわれる選挙のふたを開けてみれば、その地位にふさわしくない人間を選んでしまう結果になったことである。

 

 大数が持つデメリットとは、大衆の動向を左右し、本来知事にふさわしい人間を排除し、何らかの別の材料が、候補者を当選させるのである。前大阪府知事のノック、青島都知事、何かむなしいが、選んだ都民の胸中は決して穏やかではないはずである。結果、幾ら悔やんだところで、消すわけにはいかない。この傾向はどの県知事選でも同様で、係争中とはいえ、沖縄の知事に至っては、司法が判断を示した係争相手の国側の勝訴を不服として、最高裁へ上告しているが、全くの筋違いで、そのことも気づかずに司法の批判をする行政の県知事であれば、その末路は明らかなことである。

 

 上告は不服ならば手段としてあるが、国を形成する都道府県知事は、あくまでも判決によって、著しく県が不利益を被ると判断される以外は、国の下部組織として、沖縄は司法の判決を真摯に受け取る立場といえそうである。それが嫌であれば、独立の道を選ぶのか、県民の民意が知事と同じ意見であるのか、確かめもせずに上告する愚かさは、すでに知事の職責を逸脱しているといえないであろうか。傍目には、自暴自棄に陥り、抵抗勢力を形成する対面としか見えない。

 

 どう贔屓目に考えてみても今回の判決は高裁において相当重い判断といえる。今や、わがままで子供じみた態度を許すことは、逆に、沖縄県民の利益をないがしろにする暴挙であろう。この係争は今後も続くが、沖縄が特例扱いを受け、基地負担を旗印に、暴言や反対行動を示すことによる揺さぶりをかけ続ける原因は何であるのか、果たして、民意は沖縄県民だけなのか、応援に来た他県の反対派の画策が見え隠れしているようにも見える。

 

 批判は当然あろう、しかし、司法の判決をないがしろにすることが果たして得策かどうか、熟慮する必要はあろう。沖縄だけの問題にせず、全国を巻き込む方策をなぜ行わないのか疑問が沸く。


十五夜

2016年09月18日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 中秋の名月として、有名で、月を愛でる(観月)習慣があるのは我が国ばかりではなく、近隣の諸国もそうで、同じ文化を持っている。中でも中国は、月餅というまんじゅうを月に見立て食べる習慣がある。1か月ぐらい前から友人に送るため、中秋には月餅を見るのも嫌になるらしい。毎日食すると飽きてくるのであろうか?最近は十五夜といっても、ススキを飾るわけでもなく、月に見立てた白まんじゅうを食することもないが、サラリーマン諸氏は、月見酒と称して、盛り上がっているのであろうか。

 

 月を愛でるのも風流であり、紅葉を見る観紅,観梅 雪見 観月と時期々の植物や、自然現象を愛でることはなんとなく、余裕が感じられ、良いものである。左利きには同伴の飲み物があり、将に酔うほどに没入できる美があるのである。仕事に追われる多くのご同輩、今宵は月でも愛でて、秋の夜空に酔いしれてはいかがであろうか。昨日までは雲に隠れ、薄っすらとしか見えなかった名月も、今夜は昨日よりはましな月となっている。

 

 十五夜、十六夜(いざよい)立待月、居待月、寝待月などと日を追って、月の出が遅くなる。それに合わせて、月に上げる供物等の準備をし、月を見る。月が出るまでには日々酔いも深まるのである。団子をつまみに酒が主役になり、寝待する月など、すでに月が出るころには酩酊してしまい、見えなかったかもしれない。月に語りかけ、月の中にいるウサギに呼びかける、またはバニーガールを想像し、酔っぱらってないとできない行為であり、大人も子供に返るのであろう。

 

 耳を澄ますと、多くの虫が、合奏している。夏の暑さを忘れさせ、秋の夜長にふさわしい音色である。時々騒音のバイクがかき消すが、世の中は、確実に秋に近づいている。豊洲の市場が喧しい(まなびすしい)。民放ではにわか解説者や、昔関係した都議や、前知事も雁首をそろえて、掴まえ所がないにわか裁判官に変身している。誰を悪者にするか、似た者同士が集まり、その一番を決めている。次にもっと悪いという影武者もジワリと忍び出る。三つ巴となり、グルグル、グルグル。果てしないバトルである。なぜか、過去の出来事を穿り出す。決まって結論はないし、改善策を提案するものもいない。

 

 そのような戯れごとを話題とし、放映側も、それを見ている側もみな同じレベル。時間をつぶすにもうってつけの番組である。どちらが勝とうが負けようが、自分には関わり合いがないと決めつける。無限地獄に入るのである。むしろ、月を相手に酔っていた方が自分には合っている。


秋の長雨

2016年09月17日 00時00分01秒 | 提言

 秋晴れが続く年もあれば、今年のように、天候が不順な年もありで、今後の台風の影響も心配である。一喜一憂するのは誰しも同じであるが、やはり真夏と違って、朝夕は涼しいと感じている。季節の変わり目は気圧配置が安定せず、その原因は、太平洋からの高気圧の勢力が弱まり、大陸育ちの冷たい高気圧が綱引きを行っていて、境には、前線が発生するので、雨模様が続くようである。丁度この時期は、コメや果実が実るし、台風による被害も発生する。

 

 我が国ばかりではなく、近隣国も台風による被害を受けるし、洪水で孤立する村落も多い。治水対策や、高潮対策など、十分であるとはいえず、集中豪雨による床下、床上浸水の被害もある。今回岩手県や東宝各県に及ぼした豪雨による災害は、手付かずの場所もあり、ラジオから流れるボランティアの募集は、9月の連休を利用するといった試みが聞こえてくる。どうも違和感を思うところであり、災害発生と同時に各団体や、赤十字等で、募金活動が活発となる。

 

 今回の放送も、窓口が社会福祉協議会とされ、ボランティアを応募していたが、災害の後始末は本来、社会福祉事業ではないし、組織的に一本化されているとはいいがたい。社会福祉協議会は一周の民間団体であり、その運営は不透明なところが多い。被害情報を十分把握しているわけではないし、ボランティアのマッチングについても明確な基準はないと思われる。

 

 ボランティアは本来、無償の活動であり、労働等対価を求めるものではなく、滞在中の食事・飲料や宿泊場所についても自腹を切るのが当たり前である。汚れ作業が想定され、水の便も悪いところでは、それなりの衛生対策も必要になる。簡単にボランティアを受け入れることが容易などと担当者は考えているように思え、本末転倒しているといわざるを得ない。実際は、役所が主体的に行うべき事柄であるし、必要ならば、一義的に近隣住民を対象とした募集もあってもよい。東京から交通費をかけるより、ボランティアの負担を最小限にする必要もあろう。

 

 ラジオの呼びかけは、体力的に自信がない者については、募金を勧めていた。何たることか、毎回の恒例ではあるが、募金の収支も公表せずに、募金の在り方についても疑義を持っている。ボランティアが、チープレイバー以下の待遇に公的組織は何も感じないのか、住民のためといって、公務についている者が、率先するのは当たり前である。ボランティアを行う側も、もっと実態を勉強すべきである。


嘆かわしい風景

2016年09月16日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 JR南武線で西国立に用事があり、用事を済ませ、昼食を駅前の無門庵にしようということで、立派な和風の門をくぐり、入り口まで庭を見ながら入り口にたどり着いた。特別に価格を安く抑えたランチメニューは15食限りである。12時まで15分あるので、うまくいけばスペシャルランチが食べられると思ったが、入り口についてすでに終わっていたのが分かった。同じ道を引き返し、開店時間を確認したところ11時からということであった。西国立は駅の周りにはほとんど食堂らしきものは見当たらない。仕方なく登戸まで戻ることにした。

 

 無門庵といえば知る人ぞ知る有名和食料理店で、以前大先生と何度か同席し、美食を馳走になったことがあった。すでにその先生は他界されていて、この世では会えないが、来世ではぜひお会いしたい方である。JICAから招聘(しょうへい)された国費留学生や、行政官等のセミナーのコーディネータを長年なさっていて、海外にも先生を慕う多くの方がいる。この方のお住まいは羽衣町だったと記憶している。

 

 川崎行きの各駅停車に乗り込んだ。同時に乗った2名の短大生らしき女性は、ジャージ姿にゴム草履姿で、明らかに体育系女子と見えた。体はどちらも大きく、途中府中本町で下車したのであるが、落ち着きがなく、姿勢も悪く、投げだした足は見事にだらしなく、菓子か何かをぱくつきし、ペットボトルは飲むし、会話はそこそこ、これが現代の若者の姿なのかと思うと嘆かわしくなった。

 

 まともな制服を着用した女学生とは全く異質の世界を見てしまった。一例を見てすべてを察するには無理があることはわかっていても、目障りな光景であったことは間違いない。

傍若無人というのが適切な表現である。体育系を称賛していた自分が見る目がなかったと反省した次第である。様々な生き方はそれでよいが、電車の中では他人の目があり、何をしても関係なく、全く自由と思うのは勝手であるが、そうではないこともある。

 

 同年代の男性にお同様な場面を見ることもあろうが、どうもTPOというか、中学校の先生が、初めての家庭訪問で、ジャージ姿で来宅したことを思いだした。学校教育や、家庭教育の方向性を再度見直すことも必要であろう。自由は多くの人に備わった秩序やルールの下でのことで、一人で生きているのではないことをどこかで気づいてもらいたいものである。


本位牌の受け取り

2016年09月15日 00時00分01秒 | 紹介

 昨日、本位牌を注文していた仏壇店から、本位牌へ戒名、俗名、享年等の字入れが終わった旨の電話があった。本日、受け取りに行った。呂色塗りの板面に、金色の字が書き込まれてある。呂色(蠟色)塗り、一般的に、乾燥した呂色漆の表面を炭で研いで、磨きをかけた漆器の通称である。会津塗や金沢漆器は、磨いた上に彫刻を施し、または金粉等を撒いて加飾する。そういえば、仏壇用品への漆塗りは、漆工産業の一部となっている。最近はコンパクトな仏壇がはやりといわれるが、仏間もない近代的な住宅では、そうせざるを得ない事情もあり、致し方ない傾向といえよう。

 

 注文してから約10日間で出来上がった。亡き父母を両名で位牌に書き入れることも考えたが、死亡した時期に差があったため、死後に行われる初盆、3回忌、33回忌等の法事では、都合が悪いとの判断もあり、別々に作ることとし、同様な形で本位牌を合わせることにし、両親それぞれの位牌を書き入れた。出来上がった位牌は、字も揃っていて、立派な位牌となった。

 

 来月初旬に予定している亡き母親の四十九日法要は、お骨の埋葬と入魂もかねているので、ついでに父親の位牌も入魂してもらうことにしている。支払いを済ませ、店内商品に目を移すと、らせん状の線香があるではないか、この線香は、12時間燃え続ける。1週間分が入って、1200円と手軽な値段である。平素はそれほど必要ではないが、お彼岸や、お盆などには重宝すると考え、購入することにした。丁度、蚊取り線香を細くしたもので、円錐形上の治具に乗せて使用する。

 

 仏壇店で商品を割引するセールを合わせて行っていた。アンケートに答えると1割引となるといっていた。仏具の割引もあるのかと不思議な気分になった。商品の販売は、考えてみればどの店も同じなので、セールがあるのも頷けるが、今までは考えてもみなかった。どうも安売りにはなじまないとの先入観があったようだ。消費者にとっては当然安く購入できれば良いわけで、これからは先入観を無くす努力をしたい。

 

 四十九日の準備も着々と進んでいる。日常とは異なる行事なので、悔いの残らないように、また、残された家族が行う大切な儀式であることを思いながら、粗相のないように進めていきたい。