鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

葬儀の残務整理その2

2016年09月14日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 約1週間前に義母死去に伴う不動産の関係等相続にかかわる相談に、地域を管轄する新百合ヶ丘にある法務局へ伺った。前回の時点では、必要な書類は一切持参しなかった。法務局の担当者からは、一連の関係書類についての説明があり、帰宅後、取り寄せ等の準備を行った。以前、女房の手元にある書類は、義父逝去後に義母が遺産相続する旨の分割協議書だけであった。法務局の担当から求められた、土地と建物の登記簿謄本(権利証)は見当たらなかった。

 

 別途、今回の葬儀の機会を利用して義兄との話も進んでいて、義母に引き継がれた家屋や土地の遺産相続は、放棄するとのことであった。義兄は中京地区に自宅があり、家族と同居しているため、住民票、印鑑証明、戸籍謄本等を役場で取り、送付してもらうように頼んだ。義母の方は、戸籍謄本を出生からのものとのことであったので、これも郵送で義母が居住していた役場へ依頼した。

 

 これらの書類の準備に約一週間を要し、ようやく、すべてが揃ったので、それらを持参し、法務局へ伺うことにした。前回の担当者とは異なっていたが、経過を説明後、担当者の方から、土地や家屋の権利証に添付されている詳細についての書類が必要とのことで、なかったため、その作成に取り掛かった。根拠となるのが、不動産税を支払うための、役場から送られてきた納付書(固定資産税納付通知)である。土地は、山林や畑、宅地を含んでいて、40件近くあった。建物についても母屋だけではない付属の建物が5件ほどあり、それらをすべて書類に書き込んだ。

 

 これらは、分割協議書に記載される相続項目とそれにかかる納税表示に関係するものである。多分、司法書士にお願いすれば費用はかかるものの、これらの作業をやってくれるのであろう。今回は自分たちで行うこととしたため、申請のために発生した作業である。一応、大方の作業が終わり、分割協議書に必要な、実印捺印と相続関係図の作成が残った。これらの書類が揃えば、もう一度、法務局へ出向き、担当者に記入漏れや訂正事項等を見てもらい、物件を管轄する実家を管轄する法務局の方へ書留郵便で送付することになる。

 

 三度通うことが通例で、それで済むかわからないが、とにかく最終段階にきていることは、事務の流れからするとそのような気がする。何事もやってみなければわからないのである。私的なことを多く含む内容になったが、その点はご容赦願いたい。


ケーニャとサポーニャ

2016年09月13日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 ペルーの楽器で、葦の笛である。ケーニャは縦笛に似ているが、空気を吹き込み場所は、至極簡単である。たんに、U字型に刻みの入った場所に唇を当て、軽く息を吹き込めば、音になるが、微妙な吹き加減がある。フルートを勉強中の孫娘が、久しぶりに女房に連れられて映画鑑賞となった。もちろん長男の孫も一緒である。

 

 映画の題名は「君の名は」である。驚くなかれ、アニメーションとして復活しているのである。あらすじなど全く知らないが、当時は相当評判になった映画と聞くが、あらすじすら知らないため、どのように現代によみがえったのか、いわれてもよくわからないのが、正直、情けない次第である。

 

 時代は繰り返すといえども、知らないことは、仕方がない。しかしながら、映画館は満員だったようで、同行した女房に聞いてみたところ、半分以上は寝ていたので、よくわからなかったとの返答であった。どっちにせよあまり興味がないので、それ以上の詮索はしなかったが、孫が夢中になるのは何かを掴めずにいる。

 

 食事はいつも娘も加わり、刺身とから揚げのリクエストがあったようで、早速、女房が準備した鶏のもも肉の下準備にかかった。大分は福沢諭吉の生誕の地である中津が、本場ということで、盛んに宣伝している。今回の帰省では葬儀で大部分を消化したが、どこへ行ってもから揚げはついて回り、いささか根を上げていたところであった。リクエストがある以上気合を入れて取り掛かった。大ぶりの鶏肉であり、一口大にし、ニンニク醤油に漬け込む。

 

 約30分後に、余分な水分を流し、鶏卵と片栗粉を加え、全体に攪拌し、馴染ませる。180℃の食用油を温め、二度揚げする。そうするとジューシーで、柔らかく揚げ上がる。アツアツの揚げたてを食べるのが最高にうまい。孫もよく箸を出したようで、日頃経験しない、大皿に盛り上げた鶏のから揚げは、それなりに豪華に見えるのかもしれない。

 

 孫娘も気になっていたという楽器をプレゼントした。フルートを吹いているせいか、数分で音を出せるようになった。JICAの技術プロジェクトで、ペルーへ行っていた友人のお土産である。ケーニャもサポーニャもどちらもペルー産の刻印が彫られている。時代を経て、引き継がれる因縁と行為の大切さを実感している。


葬儀の残務整理その1

2016年09月12日 00時00分01秒 | 紹介

 人が死ぬということは、如何に多くの残務があることが分かる。よく言われることに、死者を媒体とする人間関係の再構築である。死者がめぐり合わせてくれたとの言い方を聞くが、日ごろ疎遠であった親族が再開できる口述が出来上がる。良きにつけ、悪しきにつけである。親戚の付き合いも、不便な時代は意味があったが、交通機関も便利となり、携帯電話でのやり取りは、仕事中であっても回線がつながる便利な世の中、距離感を感じさせないメリットと、言い訳が通らない世界の両面を持つことになった。

 

 できれば会わずに過ごしたくても、親族は避けようがない。しかし、高齢化や少子化の影響で、年々親族が少なくなっているのに気づく。名前を知っていても、顔の判別がつかない。顔を合わせてもとっさに名前が出てこない等、相手も同様であろう。毎日顔を合わせていれば、違和感なくわかるが、寄る年波は、全くといっていいほどわからない。しかも数年会っていないといかに変化するか、見分けがつかなくなる。

 

 葬儀後の残務整理は、それぞれのケースで異なるが、簡単ではない。当面、四十九日の法要に向けた事前予約が必要となる。声をかけるのもまずは準備が必要で、まずは、お寺さんの都合を確認し、予約を入れる。参加者は親族がほとんどであるが、どこまでの関係を呼ぶかは、相手の都合にもより、父方、母方と出来るだけ絞ってお願いすることになる。

 

 四十九日はご遺骨の埋葬であるが、その前に、白木の位牌を本位牌に変えるため、入魂式を執り行う。時間があれば墓碑銘に戒名の掘り込みを行うが、石材店への連絡も必要となる。

 

 最大の仕事といえば、通夜や葬儀へ参列いただいた方へのお礼状と、香典等をいただいた方へは、お返しがある。これは簡単ではない。まずは住所の確認がある。香典額に対しての半額分を目安とした品物の選択である。参列者の実情に即し、品を選ぶのであるが、めったにお会いしない方への品は全く見当がつかない。結局自由に選ぶことができる金額相当のカタログ商品となってしまう。

 

 四十九日の埋葬は、墓地に近い場所に自宅があれば、お寺にわざわざ参る必要はなくなるが、弔問客の自宅での接客も意外と気を使うところである。部屋の片づけや、法要のための準備もある。分刻みのスケジュールを立てることが事前準備として生じる。


集中豪雨

2016年09月11日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 未だに人間の手でコントロールできないことの一つに、お天気のコントロールがある。突風、豪雨、台風、雷、等すべてである。気象については全くのお手上げ状態で、この他、地震、火山噴火、地震に伴う津波、等の自然現象もあり、科学技術を駆使しても自然がもたらす異常を感知はできても、操作するまでには至っていない。一時、砂漠に雨を降らすプロジェクトなるものがあったが費用の面や、効果が一部に限定されるなど、どうも怪しげなプロジェクトであった。今は雨を降らすなど、誰も話題にすらしていない。

 

 砂漠地帯に降る雨は、ごくわずかな量であり、それでもそこに適応して生き続ける動植物がいる。地中深く掘った井戸は、オアシスとは異なる水の供給手段として利用されているし、我が国が海水を淡水にする技術援助は多くの国で利用されている。ペットボトル等で飲料水の供給はもはや、砂漠の国ばかりではなく、水の豊富なわが国でさえ、利用されている。我が家にもサーバーなる装置があり、常に冷水と温水の飲み水を利用している。

 

 飲料水のビジネスは見事成功しているし、普段摂取する飲料水以外のコーヒー、紅茶、日本茶なども、自動販売機で容易に飲むことができる。水の問題はある程度コントロールが可能と思えるが、今回テーマとした、集中豪雨などは、ゲリラ豪雨とも呼ばれ、短時間に一部地域に集中して豪雨をもたらすので、排水が追い付かず、河川の氾濫や、土砂流出の被害が発生する。それでも治水対策や土留めなどの土木技術の向上で、ある程度抑えることができている。

 

 問題なのは、台風や、竜巻、落雷、豪雨、豪雪などは、全く手に負えないのである。予測はできても、そのこと自体をコントロールすることができないし、解消や軽減することが不可能な状況である。天気予報などで、注意を喚起するだけで、防ぐことができないのである。発生の度に同じ注意報は出るが、根本からの対策はとることができない。

 

 その意味では、人類の英知には限界ありとしなければならないのである。そのなかでも、フロンによるオゾンホールが拡大し、太陽からの紫外線量が人体へ悪影響があるとして、フロンの使用をやめたところ、効果があったようである。地道な努力が温暖化を避けることも言われている。自然災害を阻止することは不可能であっても、この分野の問題解決への挑戦は大変重要であり、諦めずに行ってほしい。


北朝鮮の挑発

2016年09月10日 00時00分01秒 | 提言

  北朝鮮の脅威は日増しに増大している。TVや、新聞紙上ではミサイルの発射や、ミサイル到達地点が、我が国の領海に接する排他的経済水域とのことであるが、政府はこのことで、苦言を呈するばかりで、具体的な対抗手段を取っていないように見える。戦争行為は不幸なことであるが、このまま見過ごし、エスカレートするのを待つのか、それとも甚大な被害を受けてからでないと反抗できないのか、どうも国民を納得するに至っていない対応に対し、このままでよいのか疑問を持つに至っている。

 

 直接の担当についても、毎回、繰り返す談話や、抗議はあっても、何ら効果がないまま、北朝鮮の行動を抑え込むに至っていない。このような対応は、防衛になっていないし、発射されたミサイルを即時把握していない、または情報すら米国任せでは完全に敗北の道を進んでいるとしか思えない。平和ボケをした我が国の行政を案じている一人である。

 

 先制攻撃を行う時期ではないとの判断は確かにあるが、指をくわえて待つばかりなのか、拉致問題にせよ、これまでの挑発行為に対して具体的な対応がなされないまま、近隣諸国との接触は、他力本願である。近隣諸国と仲良くすることを否定はしないが、わが国独自のしかるべき対応があると思われる。ミサイルの発射が射程内で出漁している漁民への被害はなかったことは幸いであるが、万が一被害を受けた場合、どのように対抗するのかの筋書きすら明確ではない。

 

 なんとも頼りない政府であり、このままでは安心して暮らすことはできない。国防の意味をもう一度考え、具体的に国民に知らせる必要があると思われる。被害があってからの対応で果たして良いのかも疑問である。核弾頭が、都内に落ちれば、数百万人の死亡が現実となる。これがなければ対応出来ないとなるとすれば、防衛ではなく、起こるべくして起こったという、確証をつかめなければ反戦出来ないという理不尽な結果が見えてくる。

 我が国が戦争放棄しているとしても、戦争ができないのではなく防衛すらできない国ということになる。そこまで放棄しているとは思えないし、現実に自衛隊が合法的に存在しているではないか。

 

 何のための自衛隊なのか、米国に対しての遠慮なのか、それとも国連が対応してくれるとでもいうのか、平和主義はそれでよい。しかし日本民族が犠牲になっても反撃すらできない国なのか、改めて、国防の意味を政府に問いたい。北朝鮮の度重なる狂気はもはや限界になっていると判断されるのであるが・・・。自分一人の思い過ごしであれば良いのだが。


多摩川の流れ

2016年09月09日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 台風13号崩れの温帯低気圧が河川の氾濫や、集中豪雨で緩んだ傾斜地の法面や、急峻な山間部で被害を起こしている。安定した天気は期待できないが、それでも、雨天の合間に愛犬の散歩に出かけた。徐々にではあるが、河川は澄んできたように見える。水量はまだ多く、えさを求めて飛来したコサギやアオサギは居場所がないようで、狭い場所でも縄張り争うがみられる。ほとんど人の気配はなく、静かな多摩川である。

 

 川面を見ると水面下ではカワウに追われた小魚が盛んに逃げ回っているようで、川面にはね出る。それを見ていて、中国のことわざを思い出した。「水清ければ、大魚なし」。語源は、厳しい態度で臨めば、人々の支持を失う。できるだけ寛容な態度で臨み、小過を許し、大綱だけを抑えるという意味であるが、衛生的といわれる環境はかえって住みづらいとの意味もあるような気がする。または、浮世は決してきれいな場所ではなく、様々な人種が住む坩堝(るつぼ)との意味でその中に大物も存在するのかもしれない。

 

 「清流の清濁はその源(みなもと)にあり」。これは組織論で使われる格言で、組織のトップがまともならば、自ら部下もまっとうとなり、トップがだめならば、部下にも感染するという意味である。自らの組織について考えてみればよくわかる。トップがいい加減であれば、部下にいかにまっとうとなれと気合をかけても部下が清流にはならないのは自明の理である。

 

 もっとも有名な格言に、「呑舟の魚は支流に泳がず」がある。舟を飲み込む魚を呑舟というが、そのような大きな魚は、川の支流にはいないということである。人生の目標は大きくあれ、人の成長には環境が必要であるという意味を含んでおり、こせこせした環境では、大きな魚は住むことができず、別の組織に移っていく。組織を運営するには人物を見抜く力が必要で、トップはいつもそのことを考え、部下を成長させてほしいものである。

 

 川面を見ながらのたわごとかもしれないが、格言が持つ含蓄は、時代を超えても通じるし、人生の教訓にもなりうる。思い出したので紹介することにした。


位牌について

2016年09月08日 00時00分01秒 | 紹介

 仏壇に鎮座するお位牌について述べたい。死者の魂が入っているとすれば、死者が現世を過ごす形代(かたしろ)であり、最も死者に近い偶像である。仏教での偶像崇拝の対象としては、木像、銅像、絵画、乾漆像土偶や陶磁器など素材はさまざまであり、寺に安置されているから、姿かたちが分かるものが多い。各家庭には、先祖や関係者を拝する仏壇があり、偶像化した位牌がある。生前の写真なども飾られていると、容易に死者へ近づくことができる。

 

 仏壇の位牌は大切にされてきたし、今でも不敬罪があってはならないと大切にされている。仏教徒の死後には来世で使う名前である戒名が寺の住職からつけられる。白木の位牌が葬儀には必要となり、四十九日法要が済めば、通常、塗り物の本位牌が作られる。白木の位牌は二体()あり、四十九日法要が済んでから一体はお寺に返される。四十九日法要には、ご遺骨の埋葬と、本位牌に魂を移すための儀式である。これを機に死者は仏の道に進むことになり、迷わずに成仏することになる。

 

 残された家族は死者の形代を仏壇の中に納め、礼拝の対象としてあの世での安寧を祈るのであり、日ごろは家族の一員として家の中で共存するとしている。よく話に出てくるのは、火災や地震などが発生すると、非常時持ち出し品の中に位牌が入るし、何らかの事情で転居する場合も位牌は必ず運び出され、転居先へ家族と一緒に移る。

 

 これらは、我が国の仏教が日本人の心のどこかに刻まれた行為であり、宗教観や、死生感を表す事柄である。そのためだけではないのであろうが、本位牌は木製の塗り物が多く、大きさは17㎝ぐらいで、持ち運びが簡単である。寺の火災は火を使うこともあり、何度となく起きているが、青銅製の仏像を運び出すことは容易ではない。木彫や、乾漆族が生まれたのも、移動させやすいということが原因の一つとなっている。

 

 位牌には戒名と俗名、享年(行年)、死亡年月日が刻まれている。蓮華の座に置かれている位牌もあり、大きさや、使用する木材、塗り、金箔、螺鈿等が施され、値段もピンキリである。たまには仏壇店に行ってみるのもよい。最近は生活空間が狭くなり、仏壇も小型化やコンパクトなものに変化してきているといわれている。仏壇を持たない家庭もあるようで、ここにも変化がみられる。


死後の旅その5

2016年09月07日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 どうも腑に落ちないのは、死者に対して安らかに眠ってくださいという願いと、仏の道に進むための試練やお努めが、死後も続くということである。仏教では、7日ごとに閻魔大王なる裁判官に近い権力者の前に引き出され、尋問を受けるとかいわれている。将に針の筵で、お白州での捌き、馬鹿げていると思うのであるが、鵜呑みにする死者の関門であるとする考えは、恐れ入る。これはその発生までは定かではないが、恐怖心をあおる一種の恫喝、脅しに他ならない。

 

  そのことを否定しない無責任さは、どう考えてみても、現代の仏教界の怠慢である。なにも地獄と天国に二分する必要もないし、生前の善意が来世を決めることとしても、親鸞聖人がいっているように、「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや、悪人おや」である。この教理は、自分では最もふさわしい仏教の教理と思うのであるが。

 

 そのことを無視してか、死者は三途の川を渡り、現世とおさらばするが、待ち構える裁判官らに行く手を阻まれ、現世での悪事を償うとのことで、閻魔大王のお沙汰待ちとなる。なんともやるせないではないか、家族や親族、知人が現世のお行いを甘い評価だとしても、それを送り言葉としたのは真実半分、あとはお世辞であったかもしれないが、決して的外れではないであろう。

 

 むしろ、初めて死者と会う閻魔大王が、衆生の行動までも詳細にチェックできているとはいいがたい。更には、過去の判断基準は冤罪かもしれないし、誤った勝手な判断では、将来の死者に対しても、信頼関係が崩れ、信頼を失うかもしれない。突然現れる地獄の亡者ども、閻魔大王の手下も許しがたい。なにゆえにそのようなひどい試練を真っ当に生きた亡き人に課すのか、それを教条とすれば、何たる低次元の話であり、許されることではない。

 

 このようなたわいもない話を、大人がまことしやかに語ることが異常であるのである。見たこともない世界をまことしやかにいうのは虚偽であり、将に犯罪である。そのことが分かっているかわからないか、伝道者たる世間では敬愛される高僧の反論を聞きたいところである。

 

 結論からいわせてもらえば、多くの善人が、不幸にして命を落としたとしても、それは自然の摂理、現世の行為を悪と判断する根拠はないし、あくまでも性善説に進むべきである。根本的な考えを修正しない限り、今の仏教集団の明日はないに等しい。