>・・・・・・・・・・・・・引用開始・・・・・・・・・・・・・・・・
> 『国体論 菊と星条旗』 著・白井聡
> 最近、北朝鮮と韓国の南北首脳会談がおこなわれ、65年間休戦状態であった朝鮮戦争を終結させ、朝鮮半島の非核化と平和体制実現に向けて進むことで合意した。>この東アジアにおける戦後史を画する動きは、日本人にとっても、かつての大戦と戦後をどのようにとらえ、どのような未来を切り開いていくかを突きつけている。
はたして、日本人に、その答えが出せるか。
>京都精華大学専任講師の著者が4月に著した本書は、その意味で示唆に富んでいる。 > 本書は明治維新以降の日本の「国体」、つまり権力構造を概観している。>注目すべきは1945年の敗戦によってそれがどのような根本的変化を遂げたかを明らかにしていることだ。
日本人は変わらないでしょうね。日本人の魂は、’君が代’ のようなものでしょう。
>根本的変化とは、天皇のかわりにアメリカが権力を握ったことであり、民主化だけをやったと見せかけて、天皇制というピラミッドは残したままその頂点にアメリカが鎮座したことである。
それは、正解でしょうね。序列体制は、依然として元のままですね。
> 戦前の「国体」は、「万世一系」の天皇を頂点にいただく専制君主制国家であった。
そうですね。為政者の恣意 (私意・我儘・身勝手) による政治ですね。
>天皇制政府はアジアに対する侵略戦争から対米戦争へと突き進み、日本人320万人、中国やアジアの人民1900万人という膨大な犠牲者を出したあげくに破滅した。
本当に、無軌道の極みでしたね。
>そして1945年8月、天皇制政府は「国体(天皇の国家統治の大権)護持」を唯一の条件として敗戦を受け入れた。
国体は、序列国家の根幹ですね。これにより、序列国家の解散はまぬかれた。
>1946年に新憲法の審議をおこなった帝国議会でも、当時の首相・吉田茂は、新憲法によって国体は「毫も変更せられない」と主張した。
吉田茂の断言する如く、日本人の序列メンタリティは毫も変更させられませんでしたね。
> しかし、1950年のサンフランシスコ講和条約の締結、それによる「日本の主権の回復」「国際社会への復帰」は、ファシズムの温床となった軍国主義の除去と体制の民主化、つまり国体が根本的に変更されたと認められることで可能になった。
わが国が軍国主義であろうとなかろうと、日本人のメンタリティは変えられませんね。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上とみるか・下とみるか’ の判断は、片時も忘れることなく続けられております。世俗の上下判断が疎かであると、その人は日本語会話にも支障が出ます。
また、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、世俗の上下判断ができない人は、礼儀正しい日本人にはなれません。逆に、序列なきところにては、日本人は礼儀なしです。
>これに「国体は毫も変更せられない」と宣言した同一人物が調印した。
‘軍国主義’ や ‘民主化’ は単なる建前 (言い訳・口実・言い逃れ) であり、日本人の本音 (私意・我儘・身勝手) はまた別のところにあります。
> ここには重大な欺瞞があった。>新憲法で「主権者が天皇から国民に移動した」とされたが、実際には占領下での主権は移動しようにも日本側にはなく、アメリカが握っていた。>主権は天皇からマッカーサーに移動したのである。
日本人には意思がない。だから、主権がどこに移動しようとも、日本人には大した問題にはならないでしょう。建前は、建前にしかならないでしょう。
意思は、未来時制の文章内容である。日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本語の脳裏には未来時制は存在しない。だから、日本人には意思がない。それで、優柔不断・意志薄弱に見える。
>それは、戦後日本の武装解除を決定した権力と同じ権力が、1950年の朝鮮戦争にさいして、一切の民主主義的プロセス抜きで一片のポツダム政令によって、再軍備(自衛隊の前身である警察予備隊の創設)を命令したことにもあらわれている。
上位下達は、生きていますね。
>そして、サンフランシスコ講和条約は、同時に結ばれた日米安保条約とワンセットであった。>安保条約でアメリカが要求したのは「我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」であった。
アメリカ人にとって、無哲学・能天気の日本人は当てにならないですからね。
> 著者によれば、戦前戦中の保守支配層は、かつてみずから主導して「鬼畜」と呼んだ相手に膝を屈し、とり入ることで復権の機会をつかみ、それとひきかえに自発的に主権を放棄した。
鬼ノ弁慶が牛若丸に降伏したようなものですね。よくある日本話です。今後も語り続けてゆきましょう。
>革新陣営はアメリカの民主化を支持することで補完的な役割を果たした。>この国家主権の構造は占領終結で終わらず、日米安保体制として現在まで続いている。
安定しているメンタリティですね。
>それを象徴するのが、1959年に最高裁判決が出た砂川事件である。> 一審では「日米安保条約は憲法違反である」とする伊達判決が出た。>これに飛び上がったのがアメリカで、当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世は伊達判決を無効化するよう、外相・藤山愛一郎や最高裁長官・田中耕太郎に圧力をかけた。
日本人は、つかみどころのない人間ですからね。
>最高裁は「米軍の駐留は憲法の趣旨に反しない」「日米安保条約のように高度な政治性を持つ条約については、違憲かどうかを司法が判断することはできない」との判決を下した。
弁慶が勧進帳を読むようなものですね。窮余の策。これは、日本人の好むストーリーです。民主的でも何でもない。昔から語り継がれた話の筋ですね。
>この判決は、駐日米大使から指示と誘導を受けながら書かれたという事実がある。
あくまでも、アメリカ人は日本人の教師ですね。日本人には、自己判断というものがないですからね。
>この判決で、日本の法秩序において、日米安保条約が日本国憲法に優越する構造が確定された。
憲法違反を理由にして、その条約を破棄することはできないのですか。
(略)
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> 『国体論 菊と星条旗』 著・白井聡
> 最近、北朝鮮と韓国の南北首脳会談がおこなわれ、65年間休戦状態であった朝鮮戦争を終結させ、朝鮮半島の非核化と平和体制実現に向けて進むことで合意した。>この東アジアにおける戦後史を画する動きは、日本人にとっても、かつての大戦と戦後をどのようにとらえ、どのような未来を切り開いていくかを突きつけている。
はたして、日本人に、その答えが出せるか。
>京都精華大学専任講師の著者が4月に著した本書は、その意味で示唆に富んでいる。 > 本書は明治維新以降の日本の「国体」、つまり権力構造を概観している。>注目すべきは1945年の敗戦によってそれがどのような根本的変化を遂げたかを明らかにしていることだ。
日本人は変わらないでしょうね。日本人の魂は、’君が代’ のようなものでしょう。
>根本的変化とは、天皇のかわりにアメリカが権力を握ったことであり、民主化だけをやったと見せかけて、天皇制というピラミッドは残したままその頂点にアメリカが鎮座したことである。
それは、正解でしょうね。序列体制は、依然として元のままですね。
> 戦前の「国体」は、「万世一系」の天皇を頂点にいただく専制君主制国家であった。
そうですね。為政者の恣意 (私意・我儘・身勝手) による政治ですね。
>天皇制政府はアジアに対する侵略戦争から対米戦争へと突き進み、日本人320万人、中国やアジアの人民1900万人という膨大な犠牲者を出したあげくに破滅した。
本当に、無軌道の極みでしたね。
>そして1945年8月、天皇制政府は「国体(天皇の国家統治の大権)護持」を唯一の条件として敗戦を受け入れた。
国体は、序列国家の根幹ですね。これにより、序列国家の解散はまぬかれた。
>1946年に新憲法の審議をおこなった帝国議会でも、当時の首相・吉田茂は、新憲法によって国体は「毫も変更せられない」と主張した。
吉田茂の断言する如く、日本人の序列メンタリティは毫も変更させられませんでしたね。
> しかし、1950年のサンフランシスコ講和条約の締結、それによる「日本の主権の回復」「国際社会への復帰」は、ファシズムの温床となった軍国主義の除去と体制の民主化、つまり国体が根本的に変更されたと認められることで可能になった。
わが国が軍国主義であろうとなかろうと、日本人のメンタリティは変えられませんね。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上とみるか・下とみるか’ の判断は、片時も忘れることなく続けられております。世俗の上下判断が疎かであると、その人は日本語会話にも支障が出ます。
また、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、世俗の上下判断ができない人は、礼儀正しい日本人にはなれません。逆に、序列なきところにては、日本人は礼儀なしです。
>これに「国体は毫も変更せられない」と宣言した同一人物が調印した。
‘軍国主義’ や ‘民主化’ は単なる建前 (言い訳・口実・言い逃れ) であり、日本人の本音 (私意・我儘・身勝手) はまた別のところにあります。
> ここには重大な欺瞞があった。>新憲法で「主権者が天皇から国民に移動した」とされたが、実際には占領下での主権は移動しようにも日本側にはなく、アメリカが握っていた。>主権は天皇からマッカーサーに移動したのである。
日本人には意思がない。だから、主権がどこに移動しようとも、日本人には大した問題にはならないでしょう。建前は、建前にしかならないでしょう。
意思は、未来時制の文章内容である。日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本語の脳裏には未来時制は存在しない。だから、日本人には意思がない。それで、優柔不断・意志薄弱に見える。
>それは、戦後日本の武装解除を決定した権力と同じ権力が、1950年の朝鮮戦争にさいして、一切の民主主義的プロセス抜きで一片のポツダム政令によって、再軍備(自衛隊の前身である警察予備隊の創設)を命令したことにもあらわれている。
上位下達は、生きていますね。
>そして、サンフランシスコ講和条約は、同時に結ばれた日米安保条約とワンセットであった。>安保条約でアメリカが要求したのは「我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」であった。
アメリカ人にとって、無哲学・能天気の日本人は当てにならないですからね。
> 著者によれば、戦前戦中の保守支配層は、かつてみずから主導して「鬼畜」と呼んだ相手に膝を屈し、とり入ることで復権の機会をつかみ、それとひきかえに自発的に主権を放棄した。
鬼ノ弁慶が牛若丸に降伏したようなものですね。よくある日本話です。今後も語り続けてゆきましょう。
>革新陣営はアメリカの民主化を支持することで補完的な役割を果たした。>この国家主権の構造は占領終結で終わらず、日米安保体制として現在まで続いている。
安定しているメンタリティですね。
>それを象徴するのが、1959年に最高裁判決が出た砂川事件である。> 一審では「日米安保条約は憲法違反である」とする伊達判決が出た。>これに飛び上がったのがアメリカで、当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世は伊達判決を無効化するよう、外相・藤山愛一郎や最高裁長官・田中耕太郎に圧力をかけた。
日本人は、つかみどころのない人間ですからね。
>最高裁は「米軍の駐留は憲法の趣旨に反しない」「日米安保条約のように高度な政治性を持つ条約については、違憲かどうかを司法が判断することはできない」との判決を下した。
弁慶が勧進帳を読むようなものですね。窮余の策。これは、日本人の好むストーリーです。民主的でも何でもない。昔から語り継がれた話の筋ですね。
>この判決は、駐日米大使から指示と誘導を受けながら書かれたという事実がある。
あくまでも、アメリカ人は日本人の教師ですね。日本人には、自己判断というものがないですからね。
>この判決で、日本の法秩序において、日米安保条約が日本国憲法に優越する構造が確定された。
憲法違反を理由にして、その条約を破棄することはできないのですか。
(略)
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