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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

白井聡氏 1/2

2019-05-27 21:56:49 | 政治
>・・・・・・・・・・・・・引用開始・・・・・・・・・・・・・・・・
>    『国体論 菊と星条旗』 著・白井聡
>  最近、北朝鮮と韓国の南北首脳会談がおこなわれ、65年間休戦状態であった朝鮮戦争を終結させ、朝鮮半島の非核化と平和体制実現に向けて進むことで合意した。>この東アジアにおける戦後史を画する動きは、日本人にとっても、かつての大戦と戦後をどのようにとらえ、どのような未来を切り開いていくかを突きつけている。

はたして、日本人に、その答えが出せるか。

>京都精華大学専任講師の著者が4月に著した本書は、その意味で示唆に富んでいる。 >  本書は明治維新以降の日本の「国体」、つまり権力構造を概観している。>注目すべきは1945年の敗戦によってそれがどのような根本的変化を遂げたかを明らかにしていることだ。

日本人は変わらないでしょうね。日本人の魂は、’君が代’ のようなものでしょう。

>根本的変化とは、天皇のかわりにアメリカが権力を握ったことであり、民主化だけをやったと見せかけて、天皇制というピラミッドは残したままその頂点にアメリカが鎮座したことである。

それは、正解でしょうね。序列体制は、依然として元のままですね。

>  戦前の「国体」は、「万世一系」の天皇を頂点にいただく専制君主制国家であった。

そうですね。為政者の恣意 (私意・我儘・身勝手) による政治ですね。

>天皇制政府はアジアに対する侵略戦争から対米戦争へと突き進み、日本人320万人、中国やアジアの人民1900万人という膨大な犠牲者を出したあげくに破滅した。

本当に、無軌道の極みでしたね。

>そして1945年8月、天皇制政府は「国体(天皇の国家統治の大権)護持」を唯一の条件として敗戦を受け入れた。

国体は、序列国家の根幹ですね。これにより、序列国家の解散はまぬかれた。

>1946年に新憲法の審議をおこなった帝国議会でも、当時の首相・吉田茂は、新憲法によって国体は「毫も変更せられない」と主張した。

吉田茂の断言する如く、日本人の序列メンタリティは毫も変更させられませんでしたね。

>  しかし、1950年のサンフランシスコ講和条約の締結、それによる「日本の主権の回復」「国際社会への復帰」は、ファシズムの温床となった軍国主義の除去と体制の民主化、つまり国体が根本的に変更されたと認められることで可能になった。

わが国が軍国主義であろうとなかろうと、日本人のメンタリティは変えられませんね。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上とみるか・下とみるか’ の判断は、片時も忘れることなく続けられております。世俗の上下判断が疎かであると、その人は日本語会話にも支障が出ます。
また、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、世俗の上下判断ができない人は、礼儀正しい日本人にはなれません。逆に、序列なきところにては、日本人は礼儀なしです。

>これに「国体は毫も変更せられない」と宣言した同一人物が調印した。

‘軍国主義’ や ‘民主化’ は単なる建前 (言い訳・口実・言い逃れ) であり、日本人の本音 (私意・我儘・身勝手) はまた別のところにあります。

>  ここには重大な欺瞞があった。>新憲法で「主権者が天皇から国民に移動した」とされたが、実際には占領下での主権は移動しようにも日本側にはなく、アメリカが握っていた。>主権は天皇からマッカーサーに移動したのである。

日本人には意思がない。だから、主権がどこに移動しようとも、日本人には大した問題にはならないでしょう。建前は、建前にしかならないでしょう。
意思は、未来時制の文章内容である。日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本語の脳裏には未来時制は存在しない。だから、日本人には意思がない。それで、優柔不断・意志薄弱に見える。

>それは、戦後日本の武装解除を決定した権力と同じ権力が、1950年の朝鮮戦争にさいして、一切の民主主義的プロセス抜きで一片のポツダム政令によって、再軍備(自衛隊の前身である警察予備隊の創設)を命令したことにもあらわれている。

上位下達は、生きていますね。

>そして、サンフランシスコ講和条約は、同時に結ばれた日米安保条約とワンセットであった。>安保条約でアメリカが要求したのは「我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」であった。

アメリカ人にとって、無哲学・能天気の日本人は当てにならないですからね。

>  著者によれば、戦前戦中の保守支配層は、かつてみずから主導して「鬼畜」と呼んだ相手に膝を屈し、とり入ることで復権の機会をつかみ、それとひきかえに自発的に主権を放棄した。

鬼ノ弁慶が牛若丸に降伏したようなものですね。よくある日本話です。今後も語り続けてゆきましょう。

>革新陣営はアメリカの民主化を支持することで補完的な役割を果たした。>この国家主権の構造は占領終結で終わらず、日米安保体制として現在まで続いている。

安定しているメンタリティですね。

>それを象徴するのが、1959年に最高裁判決が出た砂川事件である。>  一審では「日米安保条約は憲法違反である」とする伊達判決が出た。>これに飛び上がったのがアメリカで、当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世は伊達判決を無効化するよう、外相・藤山愛一郎や最高裁長官・田中耕太郎に圧力をかけた。

日本人は、つかみどころのない人間ですからね。

>最高裁は「米軍の駐留は憲法の趣旨に反しない」「日米安保条約のように高度な政治性を持つ条約については、違憲かどうかを司法が判断することはできない」との判決を下した。

弁慶が勧進帳を読むようなものですね。窮余の策。これは、日本人の好むストーリーです。民主的でも何でもない。昔から語り継がれた話の筋ですね。

>この判決は、駐日米大使から指示と誘導を受けながら書かれたという事実がある。

あくまでも、アメリカ人は日本人の教師ですね。日本人には、自己判断というものがないですからね。

>この判決で、日本の法秩序において、日米安保条約が日本国憲法に優越する構造が確定された。

憲法違反を理由にして、その条約を破棄することはできないのですか。

(略)


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唯我独尊

2019-05-27 02:35:59 | 哲学

>リンク
>他人から鬱陶しがられそうな言動を繰り返していても、相互不干渉がマナーになっている現代社会では、誰かが叱ったり注意したりしてくれることは少ない。

個人に対する干渉は、御法度ですね。

> 自分を叱ってくれる人、それもちゃんと心に刺さるようなかたちで叱ってくれる人は貴重な存在だ。

それは、神様しかいないでしょうね。それも、自己の意思を示す神様でないと駄目でしょうね。

> 大人の世界では、他人がまずい言動を繰り返していても叱ってくれる人はいない。>ただ黙っていられるか、距離を取られてしまうだけである。

そうですね。自主的な判断を待つばかりですね。大人の社会ですね。

>ひょっとしたらこの男性の兄弟や妻も、最初のうちは注意や忠告ぐらいはしていたのかもしれない。>だが、言うだけ無駄、言っても逆恨みされるのが関の山、と思って距離を取ることにしたのだろう。>こんな具合に、まずい言動を繰り返している大人は、自分の何がまずいのかを自覚する機会も無いまま、人が離れていき、唯我独尊に陥ってしまう。

困ったことですね。国際社会でも、そうした態度の国はあるでしょうね。

>■叱られにくく、自省もしにくい社会
> 私たちは今、相互不干渉が通念として定着した、誰かに叱られたり注意されたりしにくい生活空間で暮らしている。> 赤の他人から叱られる機会は非常に少ない。

そうですね。大人による叱責・体罰は子供の世界ですね。

>近所の人や地域の人から「おまえ、そんなバカなことやってどうすんの」などと言われる筋合いなどどこにも無くなった。

バカなことをしでかすのは、個人責任ですね。自主的な判断を待つばかりです。

> 万が一そのように言われたとしても、「どういう筋合いでお前はそういうことを言っているのか」と反感が先立つのがおちである。

個人に干渉すると仕返しがありますね。

>そして年を取り、何らかの地位に就いていれば、ますます叱られにくくなり、注意も忠告もされなくなる。>コミュニケーションの失敗確率が高くなるような言動を繰り返していても、面と向かってそれを注意してくれる人はそういない。

自己責任ですね。他人の判断は、当てになりませんね。

>「お互いに争わない」「お互いのストレスを回避する」といった言葉は、相互不干渉を貫く恰好の大義名分になる。>家族や兄弟ですら、3度も言って変わらなければ「もう言うだけ無駄だからなるべく離れて暮らそう」になってしまうし、一人暮らしをしている場合などは、誰も! 本当に誰も! 自分を叱ったり注意したりしてくれない。> 相互不干渉を是とし、お互いのしがらみを最小化し、アトム化した個人主義者として皆が暮らしていく社会ができあがったことによって、私たちは、他人から叱られる・注意される・忠告されるといった学習ルートを失ってしまった。

すぐに戦争を仕掛けることなく、ならず者の国に経済制裁を加えるようなものですね。これは、自分で考え直す機会を与えるものです。

> 失ったと言って言い過ぎだとしたら、「そういう学習ルートが希少になった」と言い換えていただいて構わない。

直接的な個人干渉は子供向けですね。叱責・体罰はアニマルに対する調教のようなものですね。

>そのような社会では、むやみに争うこともないし、ストレスも回避できる一方で、自分自身の言動のまずい点を省みる力が乏しければ自分の言動が改められない。

それは、個人の責任になりますね。個人の責任を認めなければ、おせっかい (不当干渉) になりますね。

>信頼できる他人から叱られたり注意されたりすることもなしに、自分自身の言動を省みるのは非常に難しい。

我々は、考える人になる必要がありますね。大人は、幼児期を卒業する必要がありますね。そうでなければ、知恵遅れです。

>そして自分自身の言動を省みることに慣れていない人は、かりに誰かから何かを言われても、えてして自分自身の言動を省みない。

それは、その人個人の責任ですね。

>だとすれば、この相互不干渉の浸透した個人主義社会は、自分自身を省みる機会も能力も無い唯我独尊の人間を大量生産する社会、になってしまっているのではないだろうか。

そうですね。個人主義の社会は、唯我独尊の社会ですね。個人の人権を認める社会ですね。全ての責任は、個人にかかります。個人主義がなければ、国がひっくり返った時にも責任者は出ませんね。

>■ネットは自省よりも自己正当化を促してしまう
> こう書くと、一部の人は「ネットを使ってコミュニケーションすれば自分のことが省みられるじゃないか」と考えたがるかもしれない。>ネットを介して自省する筋道も無くはないだろう。>だが、実際はほとんど期待できないのではないだろうか。

それは、個人次第ですね。

> 自分自身を省みる力もない人がネットをよすがとした時、たとえばネトウヨのようなアイデンティティの入れ物におさまるというのはよくわかる話だし、実例も見かける。>政治的なセクト・思想的なセクト・趣味的なセクト、その他いろいろあるが、とにかくネットではセクトができやすい。

デジタルによるツーカーですね。類は友を呼ぶ。Birds of a feather flock together.

>セクトと一体になることによってその人の承認欲求や所属欲求が充たされ、アイデンティティも補償されるのだから、可否はともかく、セクトができるのは理解できる。>だが、セクト化した人は、えてして自分自身を省みなくなる。>セクトメンバーとつるむなかで、「自分たちは悪くない」「悪いのは自分以外のあいつら」といった考えに傾いてしまう。

それは本人の勝手な解釈によるものですね。現実直視から外れますね。

>この文章のテーマに立ち返って考えるに、そういったセクトは唯我独尊に対するブレーキたり得るものだろうか。

それは、無理でしょうね。考える機会が失われていますからね。

>いや、おそらくブレーキにはならず、自己正当化のためのアクセルになってしまうのではないだろうか。

そうですね。アクセルですね。

>意見の同じ者同士はつるみやすいけれども、意見を異にする者・異議を唱える者とは対立しやすい、>このSNSというアーキテクチャ自体が、私たちに自省よりも自己正当化を促しているきらいがあるとしたら、ネットで唯我独尊を避けるのはリアル以上に難しいのではないだろうか。

個人主義は、唯我独尊を擁護します。考えの内容は、人さまざまですからね。他人の考えにも興味を持つ必要がありますね。

>こんな具合に、幾重にも重なった、唯我独尊に陥りやすい社会の構造のなかで私たちは暮らしている。

個人主義の社会構造ですからね。対話・議論を盛んにしましょう。意思疎通が大切ですね。友好的にならないと、話も通じないですね。

>だとしたら、唯我独尊はお金持ちやナルシストだけの問題というより、貧富を問わず、誰もが陥りやすい現代社会の風土病みたいなものだと解釈しておいたほうが事実に近いように、私には思われる。

我々には、意見交換が必要ですね。自分自身の意見があったら世界中に広めよう。百花繚乱の世の中になるか。


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