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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

原爆投下

2016-10-30 22:13:45 | 政治
>原爆を実戦で投下した国と投下された国が、共に「核兵器禁止条約」に反対する。

そうですね。米国と日本のことですね。

>前者はともかく、後者はこの行動によって、前者による自国への原爆投下の正当性を認めてしまったことになる。

そうですね。原爆投下により、我が国は無条件降伏を決断したのですね。

>今の日本政府は、その事実を理解しているのか。

日本政府は、その事実を世界で一番よく理解しているでしょう。

>自国を守るために他国が第三国を核攻撃することを是認するのか。

我が国は、それが頼りでしょう。是認しなければならない。

>日本政府の「核兵器禁止条約」への反対は、先の来日時にオバマ大統領が発表を検討していた核の先制不使用宣言に安倍首相が反対したという話ともリンクする。

その通りでしょう。



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言論の自由

2016-10-30 18:46:11 | 文化

>首相の靖国参拝が批判されるようになったのは、知る人ぞ知る「朝日新聞」の批判記事から始まっていますが、慰安婦問題といい、たかだが一新聞社の記事がここまで国益を損なうのだから、恐れ入りやの鬼子母神といったところです。

ペンの力は強力ですね。

>いかに現在の日本のマスコミに「言論の自由」とやらを与えるのが危険か、後世、教科書の教材になってもいいくらいでしょう。

批判精神のない国民には「言論の自由」は宝の持ち腐れでしょうね。

>外国勢力に乗っ取られたマスコミは一国の民主主義の最大の敵であり、日本人は多大な月謝を払ってそれを学んだのでした。

外国人が、’ああいった・こういった’ といって騒ぐのは、’ロバ売りの親子’ のようなものですね。


>民主主義という制度自体は、紀元前の古代ローマ帝国にも採用されていた制度であり、別にそれ自体、正義でも悪でもない、政治の一体制であり、よく日本のマスコミや左翼の政治家がやたらと「民主主義を守る」だとか「民主主義に反する」だとか言うと違和感を覚えるのはこのためです。

民主主義に勝る政治形体は、まだ発見されていませんからね。衆愚も一緒についてくる。

>民主主義の最大の敵達が民主主義を守るというフレーズを使う事自体、お笑い草ですが、歴史的な知識や良識がなくとも、アジテーターとしての才能があれば、マスコミでは食っていけるということでしょうか。

現実は衆愚的ですね。

>踊る阿呆に書く阿呆というのでは情けない限りですが、ネットの保守層の重要性は今後も益々増大することになりそうです。

動けば失敗するというのでは、保守しかありませんね。


>日本の保守化自体、時代の流れであり、必然といってもいいのではないでしょうか。

元の木阿弥といったところですね。

>戦争によって付けられた重石は、戦争によって外されるのが歴史の常。

力は正義ですね。(Might is right)

>日本全体の歴史の中で戦後から続く反日勢力が日本社会で力を持つ異常な状況は、異端として修正される時が迫っているのかもしれません。

言論の自由は我が国では異端になるか。困ったものですね。自由主義が ’自由のはき違え’ になるようなものか。


>日本の保守化自体、時代の流れであり、必然といってもいいのではないでしょうか。

鎖国の方向に向かうのですかね。

>戦争によって付けられた重石は、戦争によって外されるのが歴史の常。

力は正義ですね。

>日本全体の歴史の中で戦後から続く反日勢力が日本社会で力を持つ異常な状況は、異端として修正される時が迫っているのかもしれません。

日本語脳では、欧米文化を吸収しきれないでしょう。


>時代の流れに逆らう者はえてして衰退の道を辿るものですが、今のテレビや新聞はまさにその通りの状況に陥っています。

時代の流れとは、保守化の流れのことですか。

>あの強力な徳川幕府でさえ歴史の流れには勝てず、滅亡の道を辿りました。

あの時は、歴史の流れは保守化ではなくて、開国の方向でしょう。

>現在のマスコミが徳川幕府以上に強いとは思えませんが、彼らは執拗に時代の流れに抵抗し続けています。

彼らは、欧米文化を読み違えているからではありませんか。悪あがきのようなものか。


>血こそ流れませんが、今は明らかに時代の転換点であり、ネットによる日本国民の保守化は、いずれ静かな革命として歴史に記されるかもしれません。

欧米文化吸収の失敗談のようなものになりますね。

>まあ、その時までに自分は生きていないかもしれませんが、我々が活動した証としての、良き日本の未来を希望したいものです。

団結して打開策を見つけましょう。








学校教育

2016-10-29 02:22:09 | 教育
>現在の学校教育が崩壊の危機に瀕している直接的原因は、戦後のGHQ支配の時代に、私権獲得(個人の利益追求)以外の教育目標を、教育機関や国家が掲げてはいけないとされたこと。

無哲学・能天気の民族性の表れですね。

>戦後でも高度経済成長の時代は、絶対的な貧困(飢えて死ぬ)が存在しており、私権獲得=豊かさの実現が個人にとっても社会にとっても重要な目標であり、勉強をする意味は人に言われなくても十分に感じられた。

昔からの立身出世が必要だったのですね。

>しかし、豊かさが実現し、私権の獲得という目標が二義的なものになった今の時代、勉強の目的が私権獲得しかなければ、必然的に勉強する意味はなくなってしまう。
>良い大学に入って良い会社に就職するために勉強しなさいと言われても、今の子供たちは全くやる気が出ない。

個人個人に哲学が必要ですね。衣食足りて、礼節を知る必要があります。

>学校を活力ある場とするためには、私権獲得に代わる、勉強する意味、目標を大人たちが提示する必要がある。

それを子供たちが自分自身で目標を考える必要があるのでしょう。

>、旧観念にとらわれて、個人の自由だから学校は勉強する意味や目標を提示してはいけないなどと言って、何の目標もなくただ知識を詰め込む今の教育を続けていたら、教育は崩壊するしかない。

日本人に、自分自身の考えを持たせることは、難しいことですね。知識を詰め込む今の教育は、マニュアル組の人間を育てる教育です。

>過去を振り返ってみると、戦前の時代は欧米列強の侵略・植民地支配に対抗して日本が独立国として生き残り、豊かな国家を建設することが、国家の目標であり、国民の目標でもあった。
>教育もそのための人材育成という観点が中心であった。

猿まねの時代だったのですね。だから、自分自身の考えは必要なかった。

>江戸時代には、国全体を統合するような一つの目標は存在しておらず、藩や村落共同体や、家といったそれぞれの集団が、自律性を持っていた。
>また、身分制度で立身出世も限られていたことから、勉強は私権獲得とは直接結びついておらず、それぞれの集団の中で互いに充足度を高められるような、人格の育成に重点が置かれていた。

同感です。

>現代は国家という観点も、地域共同体という観点も、家という観点も、全て個人の権利を抑圧するものとして、ことごとく破壊されてしまった。
>個人を絶対とする近代観念が教育の意味を失わせている。

自分自身の考えは、個人を絶対視しなければ育ちませんね。

>現代において、個人という枠を超えられる可能性があるのは、仲間という関係。今の若者たちにとって、仲間と協働する充足が最高かつ唯一の活力源と言っても間違いないだろう。

仲間・同志の協力は、未来社会の建設に必要ですね。

>今の学校教育は個人の能力上昇が主眼で、殆どの課題が個人課題で、先生と多数の生徒個人という関係が殆どだが、このままでは活力が衰弱する一方。

教育に世界観が抜けていますね。

>この問題を突破する入り口は、学校が仲間との協働充足を高める方向に変わっていくこと。

学校にも対話・理解・協力が必要ですね。

>先生が大勢の生徒を相手に一斉に教えるスタイルから、生徒が仲間同士で追求し合い、教え合う関係に変わっていくこと、ではないか。

同感です。

>そのような、仲間関係が母体になって、企業や地域社会が再構築されていけば、仲間のため、地域のため、社会のためという目標を共有できる社会となり、私権獲得以外の勉強する意味が社会全体で再生されていく可能性がある。

同感です。
未来社会の建設に力を尽くすことができますね。





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大学教育

2016-10-27 01:15:28 | 教育
>■ 実務で役に立たない大学教育

そうですね。教養は実務の役に立ちませんね。

>○ 日本の大学教授は欧米の輸入学者

原書は、海外で作られる。舶来の知識を民に授けるのが教授の役割でしょう。

>第二次世界大戦では、産・官・軍の共同体が日本を悪くしたということで、まず大学教授がアンビションを持たないように、戦後、進駐軍は大学をアカデミックに改造しました。

そうですね。人間には教養・哲学が大切ですね。

>つまり実務から離れ、学問を追究していればいいという方向に持っていってしまったのです。

日本人には、実務は理解できるが、哲学は理解できないでね。無哲学・能天気の国民性は治らない。

>このアカデミックというものが、今でも教授会の防波堤になって、何か新しいことをやろうとしても改革に反対する風潮につながっています。

日本人には世界観がないから、移行すべき次の世界の内容を構築して提示することはできないでしょうね。内容のない改革には、賛成者はいないでしょう。

>大学という場所からアンビションが失われているのですね。

‘何も変わりませんから’ といって、役人は教授たちの不安を取り除いていている。
目標のない変化は、不安の元でしかない。無哲学では、目標の設定は不可能です。

>「アカデミック」と言っても、日本の大学教授は、欧米の学者の理論を解釈して学生に伝える、いわば輸入学者にすぎません。

欧米の学者の理論が日本の教授の正解です。日本の大学教授はそれを学生よりも早く手に入れる。学生はその教えを乞うて暗記に励むのが昔からの習わしです。

>学生にとっては新しいかもしれないが、教育自身は30年も同じ講義を繰り返しているという状況です。

ずぶの素人にとっては何事も新しいかもしれませんが、所詮、畳水練のようなものでしょうね。

>○ 大卒・院卒は実務で役に立たない?

無哲学・能天気の民には、英米流の高等教育には手が届かないでしょうね。大卒が駄目なら、院卒も駄目である。

>高等教育がこのような状況ですから、大学を卒業して企業に入っても、実務ではまるで役に立たない。

専門学校で職業教育を受けなくてはならないでしょうね。教養教育は、職業教育の代わりにはなりませんね。

>前述のように保守的な教授が教えていることに加え、できのいい学生は「君、よくできるから大学院に行きなさい」と言われるわけです。

大学院では、創造力が必要ですね。暗記学力では追いつかない。

>大学院に通い始めると、今度は「研究室に残らないか」ということになる。

序列感覚に導かれて、学問をするわけですね。時間の浪費でしょうね。

>大学が、次の教授をつくるための装置になっているのです。

昔からある家元制度のようなものですかな。

>私に言わせれば、できのいい人間は早く世の中に出た方がいい。

できのいい人間は、学問の道を選んで英米流の高等教育を受けたほうが良いでしょう。

>大学や大学院で、実務で役に立たないことばかり学んできた学生を受け入れる企業は大変です。

大学では教養を積み、大学院では高度の職業人を目指すべきでしょう。

>入社した人間を一から鍛え直さなければならない。

指示書に従って働く人間には、教養は必要ないのかもしれませんね。

>大学を出て一度就職した後、専門学校に入り直す人が増えているのも、大学の教育が実務とかけ離れている証拠でしょう。

大学院が学士のための専門学校の役割を果たしていないからでしょう。高度の職業人を養成する機関となっていない。米国では、小・中学校の教員でも、就職後一定期間内に修士号を得ないと、以後お払い箱になります。

>○ 国立大学は時代遅れの官僚養成学校

お変りのないのが、天下泰平のあかしと考えられているのでしょうね。

>国立大学(旧帝国大学)は、もともと官僚養成学校としてスタートしています。

そうですね。官僚がいなければ、国が成り立ちませんからね。政治家が困る。

>決まった仕事を手際よくこなす「能吏」を養成することを目標にしており、もはや時代遅れで役目を終えています。

マニュアル組の人間に頼っていては、現代国家の操縦は成り立たないでしょうね。

>小泉純一郎首相(当時)が国立大学の民営化を提案 したのですが、文科省の強い抵抗にあって実現できず、「国立大学法人」として、中身をほとんど変えないまま存続することになりました。

政治家には哲学が必要です。民を説得する強力な魅力的な内容が必要ですね。役人は政治をしない。また、その責任もない。

>本来は職業訓練学校として機能すべきところ、その役割を担うことなく中途半端にアカデミックな教育を続けているので、国立大学を卒業しても、企業では即戦力として使えない。

我が国の大学院を高度な職業学校に育てるべきですね。




同調圧力

2016-10-10 06:30:37 | 教育

>日本人は学校教育からして、「自分の意見を殺して他人に合わせる」という意識を徹底的に行う場所である。

学校は、学生が先生に教えを乞うところである。各人が自分の意見を言わなければ、暗記する内容もそれだけ少なくて済む。

> 学校教育が「自分の意見を殺して他人に合わせろ」と教育している。そして、もはや「他人に従う」という意識は日本人の無意識にまで刷り込まれていて、それが日本人気質にまで昇華してしまっている。

自分で考えるのは骨が折れる。他人に従うほうが楽である。結果の責任は、だれが負うのでしょうかね。

>日本人が意見を言わないのはなぜか。

それは、意見が無いからでしょう。

>それは、その意見が他人と違ったものであれば恥ずかしいからである。

人前で出鱈目を言うのは恥ずかしい。それは誰でもそうである。自分固有の話の筋を得意とした経験がない人達ばかりである。

>多数意見に同調するために多数意見がはっきりするまで黙っている。
>そして、「みんながこう考えている」というのが分かれば、安心して、その方向に沿った意見を言い始める。これが同調圧力をますます強いものにしていく。

付和雷同ですね。寄らば大樹の陰か。

> 同調圧力というのは「無言の圧力」のことである。無言の圧力を無意識に感じ取って、無意識にそれに従ってしまう。

空気を読むのですね。歌詠みは、気分・雰囲気に敏感ですからね。そのことに専念します。一生を賭けます。

> 「これが多数意見だ」「これが国際社会の意見だ」「大勢がこう考えている」「大勢がこれに賛成している」「アンケートの結果、多数意見はこうなのでそうしなければならない」
> 「多数派に支持されている」という同調圧力を絶対正義のように振りかざして、マスコミは私たちに襲いかかる。

多数決は民主主義ですね。民主的か、衆愚的か、それはどうして決まるか。矛盾の有無は、どのような過程で判明されるのか。

>私たちが異論も持っても、それは個人攻撃やレッテル貼りや完全無視や歪曲で対処されて、結果的に沈黙せざるを得なくなってしまう。

わが国には、話の筋を追い求める習慣がない。理性主義はダメですね。日本人は、気分・雰囲気で踊りだす。

山本七平は「『空気』の研究」のなかで、理性に弱いことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。



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