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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

横山恭三氏  

2021-03-30 05:28:15 | 文化

 

>JBpress

>日本がワクチン開発に出遅れたのはなぜか > 横山 恭三 2021/03/29 06:00 

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> 筆者 [横山恭三] は今回のワクチン開発競争や獲得競争で日本が後れをとった理由は、かつて第2次大戦末期の原子爆弾の研究・開発に失敗した理由と共通するものがあると考えている。

>「そもそも原爆は、ドイツが作ると大変というのでアインシュタイン博士がルーズベルトに手紙を出し、アメリカが製造を始めたものです。日本も原爆のことは知っていて、それとなく研究開発に着手していました。

>陸軍が仁科研究室に依頼し、海軍は独自に京都大学の物理学者を中心に「B研究」を始めてはいたものの、日本の場合はあくまで「研究」であって、作るところまではいっていません。

>一方、アメリカはちょうど真珠湾攻撃の頃に五十万人、二十億ドルを投じて製造に全力を挙げ始めました。

>日本の「B研究}の予算は二千円(四千七百ドル)ですから比べ物になりません」(半藤一利氏『昭和史19261945』平凡社)

> 日本の原子爆弾の研究・開発計画と米国の「マンハッタン計画」については、いろいろ詳しい資料もあるが、ここでは、半藤氏の簡明な文章を引用した。

> ちなみに、当時の20億ドルは、2012年時点の資産価値に換算するとおよそ300億ドル(約24000億円)になる。

> 当時、日本の原子爆弾研究・開発に投入された人員数は不明だが、多くても1万人くらいであると推測すると日本の資金は米国の40分の1、人員数は50分の1である。

> 日本は、ワクチン開発と同じように初めから本気度で米国に負けていたのである。

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく

 

> これらの事例は、危機管理においては結局、リーダーの先見性と失敗を恐れない勇気ある行動がカギになることを示している。 

 

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の頭の中にある非現実の内容は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。これは人とアニマルが共有する非言語の世界である。非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を逐一理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。理解は人間だけが持つ言語の世界である。理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。思慮ある人は ’純粋によく観察する’が、凡人は ‘期待したもの’ しか見ようとしない。

 

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏 (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) <日本語文庫新版への序文>の中で下記の段落のように述べています。

、、、、、日本の政治を語るうえで欠かせない表現の一つである「仕方がない」という言葉を放逐することに、本書がいささかなりとも役立てばと願っている。本書は、本当の意味での政治参加をさせまいとして日本に広く作用する力について詳述している。この力こそは、個々人の、市民になろうとする決意と、有効に機能する民主主義を守ろうという意志を弱めるものである。日本に作用するこの力は、独裁政権があってそこからくり出されてくるのではない。それは日本の社会環境のあらゆる場所から発現する。、、、、、この力こそが、多くの日本人が身をおく境遇に対して唯一、適当な対応は「仕方がない」とうけいれることだと思わせるのである。(引用終わり)    

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

 

 

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日本型人事労務管理  

2021-03-30 03:05:03 | 文化

>大企業に「閉塞感」が生まれた歴史を調べてみた①いつ「日本型人事労務管理」は生まれたのか? >髙木 一史 >2020/11/26 18:55

>前回のnoteで、ぼくはあらためて「人事労務管理の10要素」について、日本の大企業で多く見られるしくみを概観し、それぞれにおいて、「選択できる余地が少ないこと」が「閉塞感」の一因になっているのではないか、という仮説を立てた。

 

そうでしょうね。選択の余地のないことが閉塞感につながりますね。  

 

>またサイボウズのような、「選択できる余地がある」人事労務管理のありかたは、もしかすると、1つの解決策になり得るのではないか、とも。

 

そうですね。意思のある人には選択の余地のある職場が閉塞感の解決策になるでしょう。だが、日本人には意思がないでしょう。

 

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>1969年。

>まさに高度経済成長期の真っ最中、「日本型人事労務管理」が最も輝いていた時代に、日経連がある一冊の本を出版した。>タイトルは『能力主義管理ーその理論と実践ー』。>そしてその本の中に「日本型人事労務管理」のメリットを端的に表している一文があった。>「終身雇用制や年功賃金制は『企業に対する忠誠心を植え付ける』『優秀な労働力を定着・確保する』『長期の人員計画および育成計画を行う』メリットがある」

 

そうですね。言語は伝達の手段となるばかりでなく、思考の手段にもなります。   

日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるいうのも云うのも、序列社会の言い換えに過ぎない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。

 

我が国の政治家にも、政治哲学がない人が多い。我々の未来社会の有様を大衆に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っている。上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことにより仕事にやりがいを感じている。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。 

 

序列関係を保持するには終身雇用制や年功賃金制が良い。自己の属する序列に帰属意識があるので忠誠心も育つ。序列人間は、序列を外れると冷や飯を食わされる。だから、定着する。終身雇用は長期の人員計画になる。  

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく

 

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏 (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) <日本語文庫新版への序文>の中で下記の段落のように述べています。

、、、、、日本の政治を語るうえで欠かせない表現の一つである「仕方がない」という言葉を放逐することに、本書がいささかなりとも役立てばと願っている。本書は、本当の意味での政治参加をさせまいとして日本に広く作用する力について詳述している。この力こそは、個々人の、市民になろうとする決意と、有効に機能する民主主義を守ろうという意志を弱めるものである。日本に作用するこの力は、独裁政権があってそこからくり出されてくるのではない。それは日本の社会環境のあらゆる場所から発現する。、、、、、この力こそが、多くの日本人が身をおく境遇に対して唯一、適当な対応は「仕方がない」とうけいれることだと思わせるのである。(引用終わり)     

 

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楊海英氏  

2021-03-29 16:41:08 | 文化

>20210306 >楊海英『独裁の中国現代史 毛沢東から習近平まで』 >読書 アフロユーラシア史近現代 政治 > 文春新書の一冊として、文藝春秋社より20192月に刊行されました。>電子書籍での購入です。

>本書は独裁の観点からの中国近現代史です。

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>共産党はモンゴルの有力者と義兄弟の契りを結び、独立を約束するなどして協力関係を築いていきました。

 

民族自決の理想は多民族国家の中国には無理な要求でしょうね。   

 

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>毛沢東による独裁は、1950年代後半の反右派闘争でほぼ完成します。> 1950年代の大躍進政策と1960年代の文化大革命により、中国では多数の死者(とくに大躍進政策で)が出て、経済も大打撃を受けました。>本書はこの大惨事の要因が、毛沢東という独裁者だけではなく、共産党政権の志向・野望にもあった、と指摘します。

 

そうですね。中国は中原の鹿を追う伝統的な覇者の国ですからね。覇権を求めて世界への進出に意欲を燃やしているでしょうね。21世紀版の三国志を書いてみたいのでしょうね。覇者の物語は、中国人の愛読書となっている。

漢民族は、自分たちの考えを示すために漢字を作った。しかし、彼らは外国人の考えを示すための漢字は作らなかった。だから、外国人に対して自己の内容を発信はできるが、外国人からの内容を受信することは難しい。だから、独断専行に陥りやすい。漢文の書物をいくら読んでも外国人の考えは出てこない。だから、中華思想を堅持し自己中心的にならざるを得ない。周辺諸国を中国化することに専心してやまない。中国人が外国人の影響を受けて発想の転換 (paradigm shift) をすることは期待薄である。

 

>本書は文革を、国際的(とくにインドネシアの九・三〇事件)および地方の視点(漢民族から見て「周辺地域」となるチベットやモンゴルやウイグル)と、中華人民共和国で繰り返され、今も続く「粛清の連鎖」との観点から把握します。

 

問答無用と粛清の連鎖は独裁国家にとっての必需品ですね。   

 

>「周辺地域」では文革期に、漢民族による強圧的支配が進行しました。

 

周辺地域には、東夷・南蛮・西戎・北てきの諸民族が住んでいますからね。漢民族は、覇権樹立に熱心でしたね。  

東夷 (とうい)  [東方の野蛮人の意] とは、 昔、中国から見た東方諸国の称。[広義では朝鮮・沖縄を含み、狭義では日本を指した]   南蛮 (なんばん)  [南方の野蛮人の意] とは、昔、中国で、インドシナなど南海地方の諸民族の称。 西戎 (せいじゅう)  [西方の野蛮人の意] とは、昔、中国で、チベット族やトルコ族など西方の異民族の称。北てき (ほくてき)  [北方の野蛮人の意] とは、昔、中国で、匈奴 (きょうど)・韃靼 (だったん) などの遊牧民族の称。

 

>本書はこの民族浄化の背景に 漢民族中心主義・中華思想があった、と指摘します。  

 

自己中心的な中華思想を成り立たせるためには民族浄化は必要な手段でしょうね。  

中華 (ちゅうかとは、[外国との交渉が少なかった時代に] 自国を、世界の中心にある、一番優れた国とみなしたこと。[狭義では、漢民族のそれを指し、またその呼称としても用いられる]   

 

>今も続く「粛清の連鎖」は、敵の定義の曖昧さと恣意性、誰でもいつまでも敵とみなされる可能性があることです。  

 

漢民族は意思の表明が無く、恣意 (私意・我儘・身勝手) の実行がある。だから彼らは信頼できず危険極まりない。  

 

>著者は1989年の天安門事件の直前に日本に留学しますが、これは、当時の学生運動に半ば見切りをつけたためでもあるようです。>モンゴル出身の著者にとって民族問題はひじょうに重要でしたが、北京の学生たちの多くは少数民族問題への関心があまりにも低いように、著者には見えたためでした。 

 

中華思想の持ち主にとっては、少数民族問題は大した問題になりませんね。やられたことは覚えているが、やったことは覚えていない。       、

 

> 改革開放路線で中国経済は飛躍的に発展しましたが、腐敗も進み、それは一部の不心得者が起こした例外ではなく、構造的必然だ、と本書は指摘します。>これは妥当な見解で、現代中国における腐敗と格差の背景には、根深い歴史的問題があると思います(関連記事)。

 

腐敗は昔からありましたね。漢民族の国の体質でしょうね。      

 

>現在の習近平政権は、反腐敗闘争で支持を得ましたが、腐敗は構造的問題なので、現代中国である程度以上の地位にある人間を腐敗の罪状で処分することはいつでも可能で、腐敗を理由とした政敵の追い落としも可能です。>じっさい、習近平政権はそうして政敵を失脚させてきたわけで、本書はこれを文革的手法そのものと指摘します。

 

力は正義ですね。   

 

> なお本書は、人類の起源について世界中のほとんどの学者はアフリカ起源説を基本に研究を進めているものの、中国は例外で、中国の学者だけは、今も中国人は「北京原人」の子孫で、人類の起源は中国と主張し続けている、と指摘しています。

 

どこの国にも例外はあるでしょうね。   

 

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尾崎文美氏 6/6  

2021-03-26 18:14:44 | 文化

 

>我々がその塀の中でいくつもの手製の神を弄んでいることにもう気づかねばならない。>現世の中に閉じこもっていたのではその現世すら見えなくなるだろう。   

 

そうですね。前世・現世・来世があっての現世ですね。各世界を比較するのでなければ現世ははっきりと見えては来ませんね。     

 

>井の中の蛙が井戸とは何かを知らないのと同様、孫悟空が釈迦の掌の上を得意に駆け回っていたのと同様である。  

 

そうですね。井の中の蛙にも孫悟空にも世界観がなかった。だから話の内容がどこまでも小さくなります。    

 

>生きているうちに現世から出ることは無理だが、現世のしがらみから意識を解き放ち現世を見つめなおすことは可能である。

 

そうですね。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.      

 

>生を受けて魂が宿ったその肉体が朽ちるまでの数十年の時、それが人ひとりにとっての現世である。>国家が興り滅びるまでの一時代、それが一つの国の現世である。>人が人としての営みを始めやがて地上から消滅するまでの間、それが人類のための現世である。>ビッグバンに始まる時空の拡張が終結し、そしてもとの一点に再び集束するまでの時間、それが宇宙の現世である。

 

全ての内容は個人の頭の中にありますね。だが現実の中には存在しない。現実界は常に千変万化している。   

 

>つまり、意識が肉体や国や地球という媒体に宿ることで生まれる時を現世といい、その媒体が滅びるとともに必ず終わる刹那なるものである。 

 

前世・現世・来世も肉体と共に終わりますね。

 

>現世での時を終えた人の魂は来世に迎えられ、来世での行き先が天国か地獄かは現世での行いが秤にかけられ裁かれる―多くの信仰で説かれるこのことを拒むかぎり、時が尽き果てるまでセキュラリズムに操られ続ける。>セキュラリズムの語源saeculumの原義はやはり「時間」である。>そして来世、そこでは時は流れない。 

 

前世・現世・来世は考えの内容であり、時は流れませんね。   

 

>日本の先祖はそれを常世(とこよ)と呼んで知っていた。>時の流れがないことは「永遠」を意味する。

 

現実界は千変万化する。処世術 (要領の良さ) だけを頼りにしていては世渡りも疲れます。そこにくると非現実界 (哲学) は不変ですから、無哲学・能天気の状態を脱して人間は考える人’ (the thinking man) になる。         

 

>大海への通い路を絶たれた入り江の如く、来世から切り離された現世は淀み、穢れ、毒を放つ。 >その毒が時につれ濃さを増しこの酷すぎる現代に至った。

 

そうですね。後は野となれ山となれの態度ですね。我々は未来社会建設への展望を開く必要がありますね。いつまでも現実肯定主義にとどまってはいられませんね。         

 

>これはひとえに「カエサルの物はカエサルに、神の物は神に納めよ」として現世の善悪を現世の法で裁いてきたセキュラリズムの結果である。 >現世に生まれた事象の善悪の判断を、同じく現世生まれの科学と理論に頼っていては遠からず己の毒に毒されることになる。 >カエサルのものは神に還されなければならない。

 

金は手段にはなる。だが、目的にはならない。だから、目的のない金稼ぎは吝嗇家 (けちんぼう) と呼ばれる。そして、目的を得るために各人に哲学 (考え) が必要となります。    

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

 

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尾崎文美氏 5/6  

2021-03-26 17:31:49 | 文化

 

>分身の術を使い、筋斗雲を駆って飛び回る孫悟空はこの世に敵なしと思い上がり神になろうとした。>「悟空よ、それほどならば我が掌から逃れてみよ」と言う釈迦に、一尺ほどの手のひらから逃れるなどとは笑止、俺様の一飛びは十万八千里、この世の果てまで駆けて見せようと息巻いた。>そして幾日かとび続け、この世の果てと思われる五本の柱の立つ処へと辿り着くと、その根元に「斉天大聖」の名を書き見参の証をのこして後を戻る。>やれ百万里、二百万里を駆け抜けたと豪語する悟空だが、じつは釈迦の掌の上をぐるりと周っただけであった。>孫悟空は驕り高ぶる人の子を、悟空が証拠にと名を書き残したことは弁証法や因果律をそれぞれたとえ、「釈迦の掌」とは数量と理屈が価値を裏付ける現世そのものを暗示している。>その外を包む無限の来世があり、そこでは現世の法など毛ほどの重さもないことを知らなかったからこそ悟空は傍若無人な振る舞いができたのであろう。

 

そうですね。悟空は世界観を持たなかった。そこが日本人と同じですね。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。        

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

 

>日本の中で信仰の話をするのは極めて難しい。 

 

そうですね。

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

 

>それだけ日本はセキュラリズムに侵されているといっていい。

 

そうですね。日本人は、現実肯定主義者ですからね。現実より他に赴くところがないからでしょう。   

 

>まがりなりにも神の存在を認めてきた西洋のほうがセキュラリズムからの脱却の余地があるのかもしれない。

 

そうですね。西洋人には意思がある。だから罪の意識に苛まれる。その魂を救済するためのキリスト教には存在する。だから、意思ある人にはキリスト教は価値がある。    

 

>日本の場合は前編に記したように来世や神に関わる多くの霊的な概念を皇室神道に結び付けて玉砕した経緯があり、人々は「神」を否定をしないまでもそれを「自然」や「宇宙」と呼んでみたり、「心のよりどころ」などと定義してみたり、また地球外生命体に人類の救済を求めてみたり、とにかく直接認めたがらない。   

 

自称の無神論者が多いですね。それというのも日本語には時制がない。だから、日本人は前世・現世・来世の内容は文章として表現できない。そして輪廻転生の考えは生じない。非現実 (考え) の内容も認められない。   

 

>そこには歴史上で宗教戦争を繰り返してきた一神教に対する抵抗、暴利をむさぼる宗教団体への嫌悪、複雑になりすぎ解釈不可となった仏教からの逃避などさまざまな影響が垣間見れるが、いずれにしてもセキュラリズムが現世の周りに築いた塀があまりに高く、日本が「神」を直に見つめることが出来なくなったことに負う。  

 

政治的な取り決めや社会的な習慣は、もともと自然や祖先崇拝を基調にして矛盾やあいまいさを許容する宗教である神道が司ってきた。この日本固有の宗教――( )――には、哲学的あるいは道徳的な教理の展開がまったくない。 (カレル・ヴァン・ウォルフレン)          

 

 

 

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