>ラカン [Lacan, Jacques-Marie-Emile (1901.4.14 -1981.11.9) ジャック・ラカン] は日本人に無意識が存在しないといったが、日本人を西洋の精神分析で分析すると、範囲を超えてしまう。
東西の流儀の違いでしょうね。やはり、日本人は特殊な民族でしょうかね。
>たとえば、甘えの構造では、日本人社会に甘えが溢れている。
そうですね。大の大人が、大衆の前で ’皆様に甘えさせていただきます’ と言っている。
>義理人情など。西洋の理性主義では、甘えは幼児性としか分析できない。
日本人には、意思はなくても恣意がある。恣意はバラバラな単語 (小言・片言・独り言) で、表現されます。文章にならないから、意味も無ければ矛盾もない。恣意 (私意・我がまま・身勝手) には、リーズン (理性・理由・適当) の表現が無い。だから、自己の行為に説明責任がとれない。
>しかし日本人ならわかるように、義理人情は幼児性とは真逆の高度な社会調整機能である。
そうですね。我が国は、高文脈文化の国ですからね。言葉以外に状況や文脈も情報を伝達するし、重要な情報でも言葉に表現されないことがある。’言わぬが花’ です。だから、’言った・言わない’ の議論はそれだけ意味が薄い。重要な情報は忖度 (推測) の内容にあります。忖度は、自分勝手な解釈です。恣意疎通になるのか。論拠として認められることはないでしょう。
低文脈文化においては、正確性が必要とされる言語が使用され、伝達される情報は言葉の中で全て提示されます。論理的に意思決定されます。このような文化と、我が国の文化を区別なく取り扱おうとすると我が国内に混乱が起こります。
>西洋の我ありに対して、無我、我なしを基本に据える日本では、高度な他者への配慮が重視される。
日本人には意思が無い。だから、自己主張ができない。’無我・我なし’ を基本としますから、責任感も湧いてこない。
意思は未来時制の文章内容であり、日本語には時制というものがない。だから、日本人には意思が無い。優柔不断・意志薄弱に見える。
日本人の精神活動は文章・言説では表現できない。ただ、心から心へと伝えられる。以心伝心・不立文字 (ふりゅうもんじ)
物に込められた日本人の心は、国際間の言語障壁を乗り越えて、直接外国人にも伝えられます。そのセンス (判断) の良さが高く評価され、我が国の製品の輸出が伸びています。
>これらはどの教科書にも載っていないし、あまりにも高度すぎて体系化もできない。
禅僧にも低文脈文化 (low-context culture) との比較が必要ですね。
>空気の読み方は現場で学ぶしかない技である。
日本人は現状を見て、高文脈文化の欠点をしっかりと学び取る必要がありますね。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。
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