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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

唯我独尊

2019-05-27 02:35:59 | 哲学

>リンク
>他人から鬱陶しがられそうな言動を繰り返していても、相互不干渉がマナーになっている現代社会では、誰かが叱ったり注意したりしてくれることは少ない。

個人に対する干渉は、御法度ですね。

> 自分を叱ってくれる人、それもちゃんと心に刺さるようなかたちで叱ってくれる人は貴重な存在だ。

それは、神様しかいないでしょうね。それも、自己の意思を示す神様でないと駄目でしょうね。

> 大人の世界では、他人がまずい言動を繰り返していても叱ってくれる人はいない。>ただ黙っていられるか、距離を取られてしまうだけである。

そうですね。自主的な判断を待つばかりですね。大人の社会ですね。

>ひょっとしたらこの男性の兄弟や妻も、最初のうちは注意や忠告ぐらいはしていたのかもしれない。>だが、言うだけ無駄、言っても逆恨みされるのが関の山、と思って距離を取ることにしたのだろう。>こんな具合に、まずい言動を繰り返している大人は、自分の何がまずいのかを自覚する機会も無いまま、人が離れていき、唯我独尊に陥ってしまう。

困ったことですね。国際社会でも、そうした態度の国はあるでしょうね。

>■叱られにくく、自省もしにくい社会
> 私たちは今、相互不干渉が通念として定着した、誰かに叱られたり注意されたりしにくい生活空間で暮らしている。> 赤の他人から叱られる機会は非常に少ない。

そうですね。大人による叱責・体罰は子供の世界ですね。

>近所の人や地域の人から「おまえ、そんなバカなことやってどうすんの」などと言われる筋合いなどどこにも無くなった。

バカなことをしでかすのは、個人責任ですね。自主的な判断を待つばかりです。

> 万が一そのように言われたとしても、「どういう筋合いでお前はそういうことを言っているのか」と反感が先立つのがおちである。

個人に干渉すると仕返しがありますね。

>そして年を取り、何らかの地位に就いていれば、ますます叱られにくくなり、注意も忠告もされなくなる。>コミュニケーションの失敗確率が高くなるような言動を繰り返していても、面と向かってそれを注意してくれる人はそういない。

自己責任ですね。他人の判断は、当てになりませんね。

>「お互いに争わない」「お互いのストレスを回避する」といった言葉は、相互不干渉を貫く恰好の大義名分になる。>家族や兄弟ですら、3度も言って変わらなければ「もう言うだけ無駄だからなるべく離れて暮らそう」になってしまうし、一人暮らしをしている場合などは、誰も! 本当に誰も! 自分を叱ったり注意したりしてくれない。> 相互不干渉を是とし、お互いのしがらみを最小化し、アトム化した個人主義者として皆が暮らしていく社会ができあがったことによって、私たちは、他人から叱られる・注意される・忠告されるといった学習ルートを失ってしまった。

すぐに戦争を仕掛けることなく、ならず者の国に経済制裁を加えるようなものですね。これは、自分で考え直す機会を与えるものです。

> 失ったと言って言い過ぎだとしたら、「そういう学習ルートが希少になった」と言い換えていただいて構わない。

直接的な個人干渉は子供向けですね。叱責・体罰はアニマルに対する調教のようなものですね。

>そのような社会では、むやみに争うこともないし、ストレスも回避できる一方で、自分自身の言動のまずい点を省みる力が乏しければ自分の言動が改められない。

それは、個人の責任になりますね。個人の責任を認めなければ、おせっかい (不当干渉) になりますね。

>信頼できる他人から叱られたり注意されたりすることもなしに、自分自身の言動を省みるのは非常に難しい。

我々は、考える人になる必要がありますね。大人は、幼児期を卒業する必要がありますね。そうでなければ、知恵遅れです。

>そして自分自身の言動を省みることに慣れていない人は、かりに誰かから何かを言われても、えてして自分自身の言動を省みない。

それは、その人個人の責任ですね。

>だとすれば、この相互不干渉の浸透した個人主義社会は、自分自身を省みる機会も能力も無い唯我独尊の人間を大量生産する社会、になってしまっているのではないだろうか。

そうですね。個人主義の社会は、唯我独尊の社会ですね。個人の人権を認める社会ですね。全ての責任は、個人にかかります。個人主義がなければ、国がひっくり返った時にも責任者は出ませんね。

>■ネットは自省よりも自己正当化を促してしまう
> こう書くと、一部の人は「ネットを使ってコミュニケーションすれば自分のことが省みられるじゃないか」と考えたがるかもしれない。>ネットを介して自省する筋道も無くはないだろう。>だが、実際はほとんど期待できないのではないだろうか。

それは、個人次第ですね。

> 自分自身を省みる力もない人がネットをよすがとした時、たとえばネトウヨのようなアイデンティティの入れ物におさまるというのはよくわかる話だし、実例も見かける。>政治的なセクト・思想的なセクト・趣味的なセクト、その他いろいろあるが、とにかくネットではセクトができやすい。

デジタルによるツーカーですね。類は友を呼ぶ。Birds of a feather flock together.

>セクトと一体になることによってその人の承認欲求や所属欲求が充たされ、アイデンティティも補償されるのだから、可否はともかく、セクトができるのは理解できる。>だが、セクト化した人は、えてして自分自身を省みなくなる。>セクトメンバーとつるむなかで、「自分たちは悪くない」「悪いのは自分以外のあいつら」といった考えに傾いてしまう。

それは本人の勝手な解釈によるものですね。現実直視から外れますね。

>この文章のテーマに立ち返って考えるに、そういったセクトは唯我独尊に対するブレーキたり得るものだろうか。

それは、無理でしょうね。考える機会が失われていますからね。

>いや、おそらくブレーキにはならず、自己正当化のためのアクセルになってしまうのではないだろうか。

そうですね。アクセルですね。

>意見の同じ者同士はつるみやすいけれども、意見を異にする者・異議を唱える者とは対立しやすい、>このSNSというアーキテクチャ自体が、私たちに自省よりも自己正当化を促しているきらいがあるとしたら、ネットで唯我独尊を避けるのはリアル以上に難しいのではないだろうか。

個人主義は、唯我独尊を擁護します。考えの内容は、人さまざまですからね。他人の考えにも興味を持つ必要がありますね。

>こんな具合に、幾重にも重なった、唯我独尊に陥りやすい社会の構造のなかで私たちは暮らしている。

個人主義の社会構造ですからね。対話・議論を盛んにしましょう。意思疎通が大切ですね。友好的にならないと、話も通じないですね。

>だとしたら、唯我独尊はお金持ちやナルシストだけの問題というより、貧富を問わず、誰もが陥りやすい現代社会の風土病みたいなものだと解釈しておいたほうが事実に近いように、私には思われる。

我々には、意見交換が必要ですね。自分自身の意見があったら世界中に広めよう。百花繚乱の世の中になるか。


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近代観念

2019-05-07 14:25:34 | 哲学

>金貸しが封印してきたのは、自然科学上の事実だけではない。
>むしろ、金貸しは、近代以降、一貫して人々の意識を近代観念一色に染め上げ、社会科学上の事実を封印すること、その為に、学会とマスコミを支配し、学校教育とマスコミを動員して人々を染脳することに力を注いできた。

金貸しと近代観念は、存立の基盤を共有しているのでしょうね。

>それは、それこそが金貸しが世界を支配するための命綱だからである。>(自然科学上の事実の封印も、その延長上にある。)

金貸しも科学者も世界支配を目的としていますね。

>自由・平等・博愛、あるいは個人主義・民主主義、あるいは権利(人権)という観念、これらは全て、現実にはどこにも存在しない、頭の中だけの架空観念に過ぎない。

そうですね。非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話の内容を理解するためには、その文章内容を理解しなければならない。だから人は頭を使うようになる。

>現実には存在しないということは、事実に反する観念だと言い換えることもできる。

事実 (現実) に反する概念 (非現実) ですね。この両者は、その所在が違うので内容も同じにはならないでしょうね。
現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。考える必要は無い。思考停止でも差支えがない。思考停止の状態を長く続けると、人間は無哲学・能天気の人になります。

>近代思想は、ユダヤ・キリスト教の観念パラダイムを踏襲しているが、神であれ、個人であれ、権利であれ、それらは全て、現実否定→自己正当化という思考回路が生み出したものである。

彼等は世界観を持っていますので、それ (非現実) との比較により現実を否定することも可能になります。そして、それは、自己正当化に成功したことになります。

>つまり、貧困や抑圧に満ちた現実世界を否定し、(現実世界の変革に向かうのではなく)頭の中に「神」や「自由」や「権利」etcの観念を創出して、その観念に寄り縋るという思考態度である。

神や自由や権利などの理想 (非現実) を参照しながら、現実の変革に取り掛かっているのでしょう。
非現実 (考え) の内容を現実の世界で実現させたら、それは創造したことになる。人間にしか与えられていない能力を発揮させたことになる。
現実の内容を現実の世界で再現させたら、それは模倣したことになる。特亜三国人 (日本人・中国人・韓国人) は模倣が得意で、創造が苦手である。

>セム人や白人がそのような思考方向に向かったのは、4200年前~3200年前、コーカサス周辺での皆殺しの略奪闘争の連鎖によって、共同体が完全に破壊され、再生の現実的な立脚点を失ってしまったからである。>従って、彼らには、現実世界の変革に対する不可能視が刻印されており、現実とは逆の非現実の世界に救いを求めることになる。

そうですね。非現実の世界の実現には、革命が必要になりますね。

>近代観念も、その延長上に生み出されたので、極めて深刻な欠陥を孕んでいる。
>まず第一に、果てしない皆殺しの略奪闘争によって共同体を失ってしまった彼らは、他者否定と自己正当化の塊である自我に立脚して、唯一絶対神を作り出したが、近代観念たる自由・平等・博愛も、個人主義・民主主義も、権利という観念も同じく自我に立脚して作られた観念なので、唯一絶対性を帯びて頭の中に巣食っている。

まあ、そういうことでしょうかね。考え (非現実) は、頭の中の内容ですからね。

>従って、それらの観念に染まれば染まるほど、自分の利害発でしか物を考えられない「自分脳」が形成されてゆく。

‘あるべき姿’ は、自分の利害のみに限られているものではないでしょう。

>第二に、不可能視を刻印されているが故に、現実を対象化するのではなく現実をただ否定し、かつ自我でそれを正当化しているので、現実を直視して可能性を追求する人類本来の思考が失われ、最も大切な思考回路が、何事も否定し、原因を分析してお終いという「否定脳」に改造されてゆく。

意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 彼等には意思があるので、現実を作り替える行動に出るあるでしょう。

>第三に、現実に存在しない(事実に反する)架空観念に立脚しているので、当然のことながらフランス革命であれ共産革命であれ、その観念(理念)が実現された例(ためし)は一度もない。>それどころか、近代思想を信じてそれらの運動に飛び込んだ有為な若者たちは、出口のない袋小路に追い詰められ、悉く挫折していった。>彼らの頭の中には、今も変革に対する不可能視が深く刻印されている。

理想 (非現実) と現実はなかなか同じになりませんね。理想と現実では所在が違うので、内容もなかなか同じにはならないですね。

>第四に、近代観念は、与えられたその架空観念(しかも唯一絶対観念でもある)を信じ込んだら終いで、その後は人々を思考停止に陥らせる。

それは、原理主義というのでしょう。思考停止は、困りますね。考えることは、いつの世の中でも必要です。

>例えば、近代観念に操られて何らかの運動をしている当人たちは(幾つかの知識が頭の中に在ることを以って)物を考えているつもりでいるが、その実はどこかで聞きかじった知識の断片をお題目のように唱えているだけで、完全に思考を停止してしまっている。>しかも、当人たちは、それに気付けない。

それは、日本人のご唱和の世界と同じ現象ですね。山本七平は、<ある異常体験者の偏見>の中で、絶対化について述べている。「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」と述べています。

>実は、民主主義や権利などを掲げる革命運動や市民運動こそ、(本人たちは、金貸しに騙され操られているとも知らずに、自分は正しいことをしていると信じ込んでいるが)あらゆる変革の芽を摘み取り、社会を閉塞させてきた張本人なのである。

現実は、金貸し万能ではないでしょう。

>そもそも、個人主義・民主主義をはじめ、近代思想を生み出したのは金貸しなのであり、敵と同じ近代思想に立脚して現実世界を変革し、本源社会を実現することなどできる訳がない。

金貸しの自由と思想の自由は、自由という点で近縁関係にあるのでしょうね。金貸しは技術 (実学) であり、思想は学問 (哲学) ですから、違うところもありますね。実学と哲学は、手を携えて未来社会の建設に役立てなくてはなりませんね。協力して、やってゆきましょう。


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おじさんと若者

2019-04-27 13:29:19 | 哲学

> <前略>
>人は自分が理解出来ないものを否定する

そうですね。手に入らない食べ物は、まずいものと考えて諦めている。

>人は自分が理解できる世界観でしか物事を見ることが出来ません。 >つまりこの世界は、それを見ている人間の数だけ存在するのです。 >そして人は本質的に自分が理解できない世界を否定的に見てしまうのです。

そうですね。 非現実の内容を信じることは難しいです。 

>現在の私は会社経営をする立場で仕事をしています。 >会社員として働いている頃は「景気・不景気」という言葉は、自分にはまったく関係のない話と思っていました。 >「不景気で失業率が高くなった」とニュースが流れてきても「でも自分は会社員をやっているし、しばらく転職の予定はないから関係ないや」とまったく耳に入りませんでした。 >むしろ、不景気で中小企業の業績が苦しいとか、会社が潰れてしまう話を聞いて、「景気・不景気に振り回されるなんて、経営者の立場は安定していないから大変だな。 >自分は会社員をやっていて本当に良かった」と考えていたのです。 >「経営者」とか「社長」というキーワードを聞いても、まったくポジティブなイメージを持っておらず、否定的でした。 >なぜかというと経営者という立場を理解できていなかったからです。

そうでしょうね。世の中には、理解できないことが多く存在しますからね。

>しかし、起業してフルーツギフトビジネスの世界に入った途端、その感覚は180度ひっくり返りました。 >会社員時代には安定性という物差しでしかビジネスを見ていなかったのですが、経営側に立つことで違った指標を持つことになったのです。 >これにより、世の中がまるで違った見え方をするように感じました。 >両方経験してみて、私の場合は「会社員より経営者」として生きていく方が向いていたことが分かったのです。

それは、良かったですね。

>「モノ=豊かさ」ではない現代 >おじさんと若者の豊かさの指標は全く異なります。

世代の格差ですね。

>高度経済成長期では「モノを持つことが豊かさ」の象徴でした。 >洗濯機、テレビ、冷蔵庫は3種の神器と言われ、例外なくそれを持つことを「良し」とされていた時代が確かにありました。

神代の時代から、三種の神器はありましたからね。

>しかし、今は所有しなくてもレンタルの方が合理的な場面は少なくありません。 >洗濯機を持たなくても、コインランドリーはあちこちにありますし、ブランドバッグなども自分用に購入しなくても、結婚式などの大きなイベントの時だけ業者からレンタルする、という選択肢もあるのです。 >おじさんは「モノを所有することが豊かさの象徴」とされた人生経験から「豊かさ=モノ」と若者に訴えているのに対し、今の若者はまったく違った価値観を持っていますから、それが伝わらないのです。

世代の格差は、仕方のないことですね。

>では、今の若者にとっての豊かさとは何でしょうか? >それは「自由」です。

そうですね。それは、正解ですね。国際的にみても自由は大切ですね。大国は、国土は広いが、必ずしも自由があるとは限らない。自由のない国には、難民・移民は命を懸けて押しかけない。

>近年の意識調査を見ても「つながり欲求」は、低下のトレンドを見せていることが明らかになっています。 >「SNSで常時つながりたい」という時代はすでに過去のもの、今の若者にとっては「豊かさ=自由」と考えているのです。

そうですね。自然の脅威から逃れられれば、次は自由を望むことになりますね。

>近年、「結婚をしたくない」と答える若者の意識調査が波紋を呼ぶことがありますが、あれは経済的な負担や一緒に済む煩わしさから自由になりたいという意思表示に他なりません。 >また、レンタル事業は盛況であることを考えると、若者は物を持つことからも自由になりたい、と考えているようにすら思えます。 >自由を求める若者にとって、郊外にマイホームを持ち、高級車を乗り回す行為が豊かな生活に映らないのは、自由があるようには思えないからです。

そうですね。物を持てば、その維持管理が大変です。我々は、博物館の責任者にはなりたくない。

>いくらおじさんにさとり世代だの、消費しないだの揶揄されても、今の若者はモノより自由を選ぶのです。

幸運な社会に生まれたものですね。住む環境が住む人の考えを変えたのでしょう。

>いつも時代を変えるのは若者 > 「若者はケシカラン」というおじさんがいる一方で、若者を肯定的に見る人もいます。>私もその一人です。 >今の10代・20代を見ていて、若いのに優秀で礼儀正しくてすごいという尊敬の念と、将来ビジネスの大きなライバルに成長するという畏怖の念を持っています。

あなたは、若者のよき理解者ですね。

>中学生でもIT事業で稼いだり、世間を驚かせる発明をしたりする話はあちこちで出ています。 >また、先日読んだ記事では20歳そこそこで六本木ヒルズにオフィスを構え、ビジネスをバイアウトして一攫千金を手にした若者社長が取り上げられていました。 >つい先日、日本男子フィギュアスケートで金メダルを取得した羽生選手も、マスコミの取材に対して落ち着いた様子でとても謙虚な対応でした。 >まだ23歳と若いのにとても大人びて見えたものです。

外国人のようなものですね。

>こうした世代がこれからの日本を引っ張っていってくれるなんて、とても頼もしいと思う限りです。

そうですね。‘新日本人’ ということでしょうかね。

>その反面、将来のまだ見ぬライバルになってしまう可能性を考えると「うかうかしていられない」という危機感も、またあります。 >産業構造をひっくり返してしまうような、革新的なテクノロジーを生み出すのは、おじさんではなく若者でしょう。 

人手不足を解消するような産業構造が必要ですね。

>そうしたまだ見ぬライバルの出現に、引き続き気を引き締めてビジネスをしていく必要があります。 >結論的には、私は若者を心配して叱るおじさんの気持ちも分かりますし、それに冷ややかな目で見ている若者の気持ちもよく分かります。

老人には貴重な過去があり、若者には貴重な未来がある。過去と未来は同じになららいので、老人と若者は同じにならない。

>すれ違いはなんとも切ないものです。>相手を理解できない時こそ、否定から入るのではなく自分の持っている価値観や指標を外して見てみるのはすれ違い防止になるのかもしれません。

そうですね。我々日本人も、対話や議論のできる国民になると良いですね。


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西洋思想からの脱却

2019-04-22 19:22:53 | 哲学



>.前回参加した実現塾では「近代観念の弊害」のみならず「観念そのものの持つ危うさ」についても追求が及んだ。>確かに言葉は現実を固定するのに便利な手段だが、言葉化されたとたん、現実との乖離が始まる。

そうですね。言葉は、現実をとらえられませんね。
現実の内容は、頭の外にある。見ることができる。見ればわかる。考える必要は無い。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。見ることができない。単なる話しである。話の内容を理解するには、文章の内容を理解しなくてはならない。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを示している。だから、正解は一つではない。人さまざまである。
矛盾を含む文章も、その矛盾を取り去れば、正しい考えとなる。だから、対話・議論は、正しい考えを得る手段として重要である。
非現実 (考え) の内容を文章にするためには、文法に時制 (tense) というものが必要です。
時制のある文章は、非現実の独立した三世界 (過去・現在・未来) を表します。インド人なら、前世・現世・来世ということになるのでしょう。
全ての非現実 (考え) の世界は、現実とは乖離していますね。両者の所在が違います。現実の内容は頭の外、非現実 (考え) の内容は頭の中に存在しますから。
日の下に新しきものなし。現実は、進歩しない。だが、非現実 (考え) は、進歩する。人間は自分の考えを改めることができるからである。

>日本神道の「言挙げせず」、仏教の「空」、いずれもが「観念」が「縁起=事象のつながりの中でどんどん変化していく現実」と遊離していくことへの戒めを含んだ認識論である。

日本語は写生画の言葉ですから、その内容は時時刻々と変化しますね。その正解は、唯一です。描写した現実と目の前の唯一の現実との乖離は避けられないでしょう。現実を語る者は、事実を語っても、真実は語らない。
山本七平は、<ある異常体験者の偏見>の中で、絶対化について述べています。「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」(引用終り)
時制のある文章は、非現実の内容を表します。未来の世界に関しては、’あるべき姿’ を語ることも可能です。英語には時制があるが、日本語には、それがない。
不動の内容を示さない人間には、信用がない。民信無くば立たず。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)

>潜在思念と一体となった東洋的思考の重要性を再認識していたところ、以下の「国際秘密力研究」というブログの認識論が目についた。
>「奥の院」は人々を「近代思想や宗教」を道具として使い、人々を思考停止させ、対立させ、支配していると分析し、そこから脱出するためには、「はじめにコトバありき」の西洋思想からの脱却が不可欠であると説く。

日本人は、現実オンリーの中に住んでいるので、思考は必要ありませんね。現在、日本人は、西洋思想からの脱却状態にあります。すなわち、無哲学・能天気の状態です。
一方、英米人は、非現実 (考え) の中で思考停止することは、非常に難しいことです。彼らは、大人になると ‘考える人’ になります。

>全く賛同する。

’奥の院’の見解には、賛同できませんね。’奥の院’は、世界の孤児になるのではないでしょうか。

(略)




アトキンソン氏

2019-04-14 05:56:42 | 哲学
> (中略)
> 計算機をたたいてみれば、今の日本経済のあり方を変えないと国が滅びてしまうことはすぐにわかる。>にもかかわらず、それに本格的に取り組んでいる人は少ないとアトキンソン氏は言う。

そうですね。日本人には、未来の内容は想定外になっていますからね。

>諸外国に比べてより改革が必要なのに、先進国として日本は最も改革しにくい国だとも。

そうですね。同感です。日本人は、無国籍になってはいけないと、常に頑張っています。

>だから、誰かが「日本人の変わらない力は異常」と言っていたことにも同感するのだそうだ。>これだけの危機に直面していても自ら変わろうとしないのは、普通の人間の感覚では理解できず、異常以外の何物でもないと言い切るのである。>残念ながら、そこには共感するしかないだろう。

日本人の不変は、日本語で裏付けられていますからね。力は異常です。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

>なぜ、こんなにも頑なに変わろうとしないのか。>変わる必要がないと思っている人たちは、こんな理屈を述べ立てます。
>日本は世界第3位の経済大国である

現実は、見ればわかる。

>戦後、日本経済は大きく成長してきた

前例がある。

>日本は技術大国である

見ればわかる。

>日本は特殊な国である

‘特殊・例外’ を持ち出しては、議論を停止させている。初めから、真剣に議論をする気持ちは無い。
非現実・考えの内容は、頭の中にある。見ることができない。ただの話である。話の筋がわかるには、その文章の理解が必要である。
見ることのできる内容は、’本当’ のことである。見ることのできないものは、’嘘’ である。

>よって、日本のやり方は正しいし、変える必要はない([日本人の勝算] 249ページより)

正であろうが不正であろうが、考えを改める余地は無い。日本人は、もともと無哲学・能天気であって、建設的なことは考えられない。

>そして、アトキンソン氏が「変える必要がある」と指摘すると、次のような反論が返ってくるのだという。
> 日本はお金だけじゃない、もっと大切なものがあるんだ

そうですね。それは、愛着ですか。我が家に残した柱の傷のようなものですか。残酷なものは、’過去のない老人’ と ‘未来のない若者’ でしょう。

>前例がない

思考停止になっている。しかし、見ればわかる。前例がないのでは、話にならない。

>海外との比較は価値観の押し付けだ

‘海外では、、、、’ といえば、皮肉を込めて ‘出羽の守’ と答える。

>今までのやり方は日本の文化だ

そうですね。日本人には、それしかない。

>見えない価値がある

愛着ですか。昔ながらの山桜かな。

>データ、データと言っても、データはいらない

当の昔に日本人は、理屈を捨てている。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

>さらに、本音を言う人は「俺はこれ以上がんばるつもりはないよ」と言います。

意思のないところに、方法 (仕方) は無い。Where there’s a will, there’s a way.
意思は、未来時制の文章内容です。しかし、日本語文法には、時制というものがないので、日本語の脳裏には未来時制はありません。だから。日本人には、意思がない。
日本人は、優柔不断・意志薄弱に見える。

>■動かない日本を動かす方法
>確かに、どこかで聞いたことのあるフレーズばかりだ。>それはともかく興味深いのは、アトキンソン氏が耳にしたという「こうした偏屈ともいえる意見を持つ人が少なくないのは、日本人の平均年齢が上がっていることに原因があるという人もいる」という意見だ。

高齢者は、‘頭が固い’ と言うことですかね。

> (中略)
>しかし、仮にそうだったとしても、私たちは大きく意識を変えなければならない時期にきているのかもしれない。

そうですね。意識改革がぜひ必要ですね。

>そして重要なのは、かたくなに動こうとしない日本という国を、どう動かすか、動かせるか。

日本人に日本語と英語の両言語を熱心に学ばせて、時制 (tense) の大切さを理解してもらうしかありませんね。
時制のある文章内容は、独立した三世界 (過去・現在・未来) を表すことができる。だから、人は世界観 (world view) を持つことができる。
‘我々はどこから来たか’、’我々は何者であるか’、’我々はどこに行くのか’ の哲学的命題に答えを出すことができれば、未来に関する危機感を持つことも可能になります。
英語文法には時制 (tense) というものがあるか、日本語にはない。だから、日本語は、写生画の言葉といわれている。現実以外を映さないからである。現実以外の内容が想定外になっていて、かたくなに動こうとしない。

> 日本企業は、自由にさせておくと、生産性を向上させる方向に向かわないだろう。

そうですね。お変わりのないことが、何よりなことですからね。

>アトキンソン氏も言っているとおり、それは歴史を振り返ってみれば明らかだ。

歴史は、繰り返す。安らかに、眠ってください。過ちは、繰り返しますから。歌詠みは、わが国の伝統です。

>だとすれば、手段はひとつしかないことになる。>すなわち、強制的にやらせることだ。>そのためには、最低賃金の引き上げが最適だという考え方なのである。

対症療法では、日本病は根治しませんね。病根は深い。


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