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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

狂信と恐怖

2015-02-27 12:47:09 | 国際・政治
>いま、「イスラム国」が狂信的かつ暴虐的なふるまいをして世界中から非難の声が上がっていますが、70年前の日本は、今の「イスラム国」と同類の狂信国家だったのです。
日本が先の戦争では侵略国であったことを認めようとしない安倍首相。
狂信国家の精神的支柱であった靖国神社に参拝する安倍首相。
安倍首相が、戦前の日本、狂信国家であった大日本帝国に強いシンパシーを持っていることは明らかです。
その首相のもとで憲法破壊が進められようとしていることに、恐怖を覚えます。(引用終り)

貼り付け元 <http://blogs.yahoo.co.jp/kiyohira_0227/63477420.html>

日本人には、哲学がない。非現実の世界の内容を発想できない。だから、現実の中でもがいている。現実の中で '認めない' のである。
過去時制が無いので過去の世界を脳裏に展開できない。世界に向けて歴史時代が語れない。
現在の世界にあって、非現実の内容を脳裏に展開できない。あるべき姿を世界に向けて発信できない。だから、狂信である。
未来時制がないので未来の世界を脳裏に展開できない。未来社会の内容を世界に提唱できない。
憲法前文には、哲学の内容が書いてある。無哲学・能天気の輩には、普遍の原理は意味がない。シンパシーが持てない。これが大和民族に関する恐怖であるか。


特亜三国 (日本・中国・韓国) が米国と足並みをそろえることが北東アジア地域の発展にとり望ましい。
かつての敵国を中傷することで国民の歓心を買うことがあってはならない。小異 (中傷) を捨てて、大同 (アメリカとの足並み)につくのが良策である。

しかしながら、特亜三国の民は、無哲学・能天気である。自らの大同 (哲学) を語ることはない。つまり'我々はどこに行くのか' という哲学的命題に自分自身の答えを出すほどの知的能力がない。
お変わりないのは天下泰平の証拠で、いつまでも、小異 (中傷) の中に埋もれて拘っている。そして、北東アジアの不安定要因になっている。地域住民の小人であることが不幸の原因である。





大人の教育

2015-02-20 22:54:45 | 国際・政治
>高等教育(大学など)を受ける学費がハーバード大(年500万円!親の年収5000万円)や、オックスフォード大(年162万円)のように余りに高額だと、超リッチな子弟しか高度な知識や技術を学べなくなる。日本の東大は年54万円だが、家庭教師代や塾代にカネがかかるから、親の年収平均は1000万円である。昔は東大は中の下の家庭の子供でも行けたが、今では貧乏人の子は、受験前の段階ですでに差がついているから、逆立ちしても無理である。(引用終り)

我が国伝統の高等教育といえば、漢文と歌詠みであろうが、これらの修業は西洋の高等教育とは関係がない。
特亜三国 (日本・韓国・中国) の言語には時制が無く、哲学もないが、西洋の高等教育は修道院における哲学である。
西洋式の教育制度を取り入れても、わが国では高等教育が成り立たないから、学生は大学で遊ばなくてはならない。
和魂洋才というが、日本人のいう洋才というのは、技術のことで、高等教育を受けなくてもできる程度のものが多い。
高度の技術は、大学卒業生の入学する大学院で教育されている。これにより、高度な職業人を育てることができる。
我が国の人間教育には、教養 (哲学) が抜け落ちている。

我が国に於いては、政治指導者も国民も、高等教育の真価を認める段階には達していないのであろう。家庭教師や塾や予備校での励みが、高等教育の代わりをするものでもないこともわかっているはずであろうが、高等教育に無関係な努力と操作により多大な資金がつぎ込まれている。実のない高等教育の成果に差をつけようとする浅はかさを誰もが見抜けないでいる。真の高等教育の価値を理解していないのであるから、大人の教育が子供の教育の様になるのも無理はない。これが、我が国民の民度の低さを表している。

>北欧やドイツの大学は無料・ゼロ円、フランスは親の収入が低いと無料の大学が多い。おまけに日本の「公的補助」(教育支出)の対GDP比率は、何とOECD最下位の3.8%しかない。ノルウエー8.7%、OECD平均5.6%なのに。(引用終り)

日本語には時制が無い。非現実の文章が作れない。
日本人には、非現実の内容が無い。自分自身の 'あるべき姿' が脳裏に形成されない。
だから、現実にたいする自己判断ができない。
そこで、判断基準を外から与える必要に迫られる。徳目を教え込む手段としての修身教育が必要になる。
お仕着せの判断基準ばかりで、個人主義が育たない。
個人意見を求められても困る。子供のようなものか。私は貝になりたい。
学歴も身分・格式の一つとして判断基準に数えられている。
我が国の高等教育も大和流学歴作成のためにのみ重要であって、人類の英知育成には関係が無い。
非現実の内容を文章に作成する能力が大切である。非現実の内容を現実の内容に変換できれば、それは創造である。人間だけが持つ知的能力である。
我が国に於ける高等教育は残念ながら形骸化している。仲間内の序列形成では、外国人からも評価されない。井の中の蛙か。
日本人には人間教育の実を求める努力がない。だから、政府は高等教育にカネを出せない。




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眞の自由

2015-02-18 10:57:30 | 国際・政治
福沢諭吉の <学問のすすめ> には、次のような事が書いてある。

学問をするには分限を知ること肝要なり。人の天然生れ附は、繋がれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自由とのみ唱えて分限を知らざれば我儘放蕩に陥ること多し。即ちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずして我一身の自由を達することなり。自由と我儘の界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。譬えば自分の金銀を費やしてなすことなれば、仮令い酒色に耽り放蕩を尽すも自由自在なるべきに似たれども、決して然らず、一人の放蕩は諸人の手本となり遂に世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなすがゆえに、その費やすところの金銀はその人のものたりともその罪許すべからず。また自由独立のことは、人の一身に在るのみならず一国の上にもあることなり。(引用終り)

世界観がなければ、眞の自由は得られない。'自由' と '自由の履き違え' は区別できないからである。だから、身分だの、分限だのという言葉で人々の言動に枠をはめようとする。'武士とは何ぞや。農民とは何ぞや。商人とは何ぞや。職人とは何ぞや。' となる。発想は気分・雰囲気にも繋がっている。自分さえよければの考えになりやすい。そうしなければ、自分と他人の我儘放蕩同士がぶつかり合って、この世は不自由極まりないものになる。だから、この形式の発想は維持が難しい。

我々は、'どのような世界に住みたいか' を考える必要がある。世界の選択には自由がある。
言語に時制があれば、世界観の展開は可能になる。
過去の世界は、過去時制と過去完了時制で過不足なく表現できる。
現在の世界は、現在時制と現在完了時制で過不足なく表現できる。
未来の世界は、未来時制と未来完了時制で過不足なく表現できる。
これらの世界を自由な発想に基づいて語れば、相手は共感を示す場合もあれば、無視する場合もある。その判断には、分限も身分も関係しない。だから、我々は自由になれる。同志を得て、未来社会の建設に力を合わせることができる。内容は、グローバルにも、ユニバーサルも繋がっている。希望のある生活ができる。

日本語には、時制が無い。だから、脳裏に世界観を展開できない。そこで、'不自由を常と思えば不足なし' となる。
時制のある英語を習得して、英米人と自由に話ができるようにしよう。
現在の日本人は世界観を持っていない。無哲学・能天気の輩である。
知識ばかりを吸収して、頭デッカチとなっている。受験勉強の成果か。
相手の主張に対しては、'ああでもなければ、こうでもない' と力説し対抗する。
自分は、どうであるかを、説明しようとはしない。つかみどころのない人間である
この種の人間とは、実りある議論はできないのである。ここが重要なところである。
こうした人間を選別し、一定の距離を置くことも、むだに時間を費やさないために、必要なことである。この選別の習慣が身につけば、英米人と高尚な話もできる。

山本七平は、自著 <ある以上体験者の偏見> の中で、反省の押し売りに関する疑問を、下の段落のように述べています。
、、、、、私が常に不思議に思うことは、戦前の「恥を知れ、反省しろ」であれ、新井宝雄氏の「反省が見られない」であれ、本多勝一氏の「恥としなければならない」であれ、軍隊の「キサマラ、反省がタリン」であれ、「恥を知れ、処決せよ」であれ、たえずこの言葉を口にするこの人たち自身が「自らを律しそれを基準にして生きている主義」は、一体全体、何という主義だったのだろうかという疑問である。(引用終り)





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すべてを敵に

2015-02-07 09:40:17 | 国際・政治

>2015年2月3日、明石康・元国連事務次長(国際文化会館理事長)は日本記者クラブで「戦後70年」と題して記者会見し、「“祈るだけの平和”から“創る平和”に移行しつつあるが、経済や技術・人道協力によるODA(政府開発援助)中心の平和構築が重要だ」と指摘した。また、安倍政権が戦後70年を機に「安倍談話」を出すことを志向していることについて、あくまでも「村山談話」や「河野談話」を基盤とすべきであると強調。その上で、「中国、韓国だけでなく米国なども注視しているので、これらの国々を納得させられるような文言を慎重に選ぶべきで、旧連合国すべてを敵に回す愚を犯さないようにすべきだ」と言明した。

私は、明石氏の意見に賛成である。
我が国は恥の国。あくまでも自分の恥にこだわる。なにはともあれ、汚名をそそごうと懸命になる。
我が国は罪の国ではない。日本人に罪の意識はない。我が国に罪はない。愛国無罪。
たとえてみれば、死刑執行人のようなものである。人は死んでも、彼らは殺人罪に問われることはない。彼らには、殺意が無いからである。彼らは、頼まれ仕事をしていたのである。
日本人には意思がない。意思のない人々は、頼まれ仕事をしている。皆が人・国の役に立つ仕事をしている。悪気はない。だから、自分には責任が無い。自ら意思を表明して民を導く政治家がいない。先の大戦で、この国がひっくり返った時も、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。

我が国は、ドイツのような贖罪の国ではない。民は贖罪の宗教を必要としない。いかなる時にも深刻な反省には至らない。
根っから無心の日本人に罪の文化の習慣の真似事を強制したらどうなるであろうか。'電信柱の高いのも、郵便ポストの赤いのも、みんな私が悪いよ' と言うことになる。これは漫画である。自虐に関する漫画である。本人は苦しむが、意義はない。各民族文化の谷間で、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶことになる。私は貝になりたい。
こうしたメンタリティの違いが、意思のない人たちを知らず知らずのうちに旧連合国すべてを敵に回すことになる。自ら望むことなく、危機に陥る民族である。平和国家を自認する民が泣く。この道は、いつか来た道。ああ、そうだよ。我が国は、哀しからずや。これは深刻な国難で、過ちは繰り返しますから極めて危険である。はたして、我が国は国際社会の信頼される一員になれるのか。

脱亜の理由

2015-02-01 06:39:52 | 国際・政治
北東アジアのパクリ文化圏には、イミテイションに徹する香港人と、それを乗り越えようと励む日本人がいる。
現実を現実に再現すれば、それは模倣である。模倣は比較的容易ある。が、それだけ競争が過酷になる。
非現実の内容を現実に再現すれば、それは創造である。創造は難しいので、競争は激しくない。マイ・ペイスで仕事ができる。
特亜三国人 (日本人・韓国人・中国人) は、模倣が得意で、創造が苦手である。
創造は、人間だけが持つ能力である。人類の英知である。
特亜三国の言語には、時制が無い。特亜三国人の考えには、現実 (現在) があって非現実 (過去・現在・未来の別)が無い。
意思は、未来時制の文章内容である。意思のあるところに方法がある。
意思のある人には、加害者意識もある。加害者意識は、罪の意識である。深刻な反省が必要になる。
特亜三国人には、意思がない。罪の意識がない。深刻な反省がない。
自分自身も罪びとであることを考えれば、罪を犯した人を見ても執拗にそれを責め立てることは出来ないものである。聖書には、次のごとく書いてある。
「先生、この女は、姦淫の場で捕まえられました。モーゼは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」、、、、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」、、、、、これを聞くと、彼らは年寄りから始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、、、、(引用終り)
特亜三国人には、罪の意識が無い。だから、加害に便乗する。「やらなきゃ、損・損」ということである。罪びとを見て執拗に攻めたてる。こうした姿勢で、罪の意識のある西洋人と呼応しようとしている。そのうちに、罪を知らない人たちの化けの皮がはがれよう。深刻な反省に至らないことは、特亜三国は同程度でしょう。お互い様か。脱亜入欧が必要である。
米MIT (大学) の教授・ジョン・ダワーは以下のように述べています。
、、、、、よしんばこれ [東京裁判] が「代表的」指導者に戦争責任について説明責任を問うための発見学習的あるいはショウケース的裁判であると了解したとしても、ある種の集団、ある種の犯罪がそこから見逃されていることはいかにも顕著である。ひとびとにおそれられた憲兵隊は誰も起訴されなかった。超国家主義秘密結社の指導者も、侵略によって私腹を肥やし、「戦争への道」を拓くことに親しく関与してきた実業家も、起訴されていなかった。日本が植民地統治していた朝鮮人と台湾人を強制動員したことは「人道に対する罪」として追及されなかったし、何万人もの外国人の若い女性たちを狩りあつめて帝国軍人に性的サービスを提供する「慰安婦」として働かせたことも訴追されなかった。また、検察団を支配していたアメリカ自身が、残虐非道さにおいて疑問の余地のない罪を犯した特定の日本人集団を、秘密裏に、そっくり免責していた。満州の七三一部隊で、何千人という捕虜を実験台に使って生物兵器を開発していた将校や科学者たちである (研究成果をアメリカに教えることを交換条件に訴追を免れた)。中国における化学兵器使用の証拠についても、検察は真剣には追求しなかった。* (引用終り)
*増補版・敗北を抱きしめて 下 第二次大戦後の日本人 ジョン・ダワー 岩波書店 2004 p.261

自分の国は、自分自身で護れ。自分自身の力を示せ。
自国の安全のために、外国人が血を流す事を期待するな。
我利我利亡者 は、理不尽である。日本人は外国の安全のために血を流す用意はできているのか。
虎の威を借る狐に成るな。その根性が汚い。信なくば立たず。

仁王は仏法の守護神である。仁王立ちになって、その強力な力を示す。彼らは不法に対する怒りを示している。が、好戦ではない。
力は正義である。(Might is right.) 弱者の怒りは歌詠みになる。強者の怒りは抑止力になる。
守護神を持たずして法を説くものはむなしい。得意の歌詠みも、ごまめの歯ぎしりに終わるか。
平和はこの世の全てではない。だが、戦争はこの世から全てを奪いとる。だから、戦争を抑止する力は必要である。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり。
国民が誘拐される。国が身代金を払う。もっと誘拐される。という負の循環を断ち切る必要がある。誘拐ビジネスをなくせ。説教を垂れるか。力を示すか。気分・雰囲気を出すか。

特亜三国人の考えみには、世界観がない。だから、世の中というものは自分の利益、自分の属するグループの利益に限られることが多い。後は野と成れ、山と成れ。アイデアは、グローバルにも、ユニバーサルにもならない。
インド哲学には、前世・現世・来世という世界観がある。
だが、日本人には世界観が無い。我々が次に移行すべき世界の内容が無い。
未来社会の建設計画が無い。建設的な意見が出ない。
大同が無いので、小異で争う。小人の世界に生きている。
考えの内容は現実の事柄に限られる。真理 (非現実) に到達することはない。
我が国には、教育改革が必要である。時制を使った考え方を教育する必要がある。
さすれば、英米人と対等な議論ができる。ポチの世よ、さらばじゃ。





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