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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

'とらえどころ' とは、何か

2015-07-31 05:25:10 | 日記
意思は未来時制の文章内容であり、日本語には時制がない。だから、日本人には意思がない。
自由とは、意思の自由であり、責任とは意思を自由に働かして物事に対処する事である。
日本人には、意思がないから、自由にも責任にも関係がない。我が国は現代社会になれないのか。
自分が相手の意思を求めることもなく、相手から自分が意思を求められることもない。
意思は各人で違っているが、わが国には意思に関する個人主義がない。
意思のある所に方法があるが、無意思の社会であっては、人類に広く影響を及ぼす個人は育たない。
人間に'とらえどころ' がない。'とらえどころ' とは、意思の内容のことである。
日本語の学習ともに英語をも学び、国民が意思の内容を表現できるようになることが我が国の現代化につながると考えられます。

日本人には意思がないが恣意 (私意・わがまま・身勝手)がある。意思を許そうとおもえば、恣意を許すことになる。'自由のはき違え' が起こる。
恣意は、どこの国においても許されるものではない。我が国においては、恣意には '滅私奉公' で対処する。不自由を常と思えば不足なし。恣意の違いには意味がない。これは利己主義 (egotism) である。
このようなわけで、我が国においては個人の意思を示さない状態が民主的であると、歓迎されている。衆愚的か。
日本人の社会では、責任者を探すのに苦労する。個人の意思を認めないから、責任を持つ個人を指し示すことができないのである。冴えた社会には成らない。指導者を変えても、革新的には成らない。
国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。常に意思決定に難渋している。決断の遅れが深刻な問題を引き起こすことも多い。

カレル・ヴァン・ウォルフレンは、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。
国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。首都が国の経済、文化の中心だという意味では、日本は高度に中央集中型の国と言える。東京は、パリやロンドンに負けず劣らず、”すべてのものがある”大都市である。大企業は、中央官庁の役人から離れないよう、本社あるいは重要な支社を東京に構える。主要教育機関も、ここに集中している。予算陳情のためには、地方自治体も国の中央官僚に取り入らなければならない。東京以外には、重要な出版産業も娯楽産業もほとんど存在しない。ところが、この地理的中心地には、政治の中核がないのである。 どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)


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軟な読解・勝手な解釈

2015-07-28 12:56:01 | 国際・政治
マッカーサが国内に住んでいたころの我が国と、今の日本では国内情勢も違うし、国際情勢も違う。だから、憲法の内容も変えられて然るべきである。前文の哲学は変える必要がないかもしれないが、憲法の各条文は現実対応策であるから、現実が変われば、その対応策も変わって然るべきであろう。

そう考えると、今回は、'憲法という本を正さずして安保法制という末に走り、その場しのぎと偽善に陥る' ものであろう。
目の前の変化には強く囚われるが、その奥にある 'あるべき姿' には無頓着である。軽薄ということか。

相手の意見を勝手に解釈する癖がついていたのでは、国際政治においても、大きな間違いをしかねない。
しかも、それが我が方に有利な解釈であるとすると、思い違いにより国は大きな怪我をする。
我が国の首相には、世界史を書く力はない。だが、その歴史修正主義者には成れるのか。

我が国伝統の和歌・俳句は、単語の集まりである。文章にならないから意味がない。
一旦発せられた言葉は、相手にどのように受け取られても仕方がない、というのは歌詠みの言うことである。歌詠みは、これで満足しなくてはならない。
だがしかし、文章の解釈においては、イエスはノーではなく、合憲は違憲ではない。
解釈の仕方で、憲法の条文はどのようにでも読めるというのであれば、憲法の草案を練る努力に意味はない。
相手の発した単語と単語を勝手に結び付けて、勝手な解釈をし続ける悪弊により、我が国民は碌なことにはならない。

・>中国を完全に甘くみていたのである。
・>そして、イギリスやフランスが日本を支持してくれると思い込んでいたのだ。
・>ところが、その中国の利権を巡ってイギリスと対立関係となった。
・>イギリス、フランス、そしてアメリカ等が日本と険悪な状態になり、ついに孤立してしまった。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

生涯のつまずきを避けるためにも我々は発言を文章にして語ることが大切である。だが、日本語の場合は、時制がないので、英語のように異なる次元の文章を並置した上で比較して自らの結論に導くことはできない。だから、英米人のような大人の話はできない。そこで、以心伝心・不立文字となる。文章・考えの世界から逃げを打つのである。こうした精神状態では、国際社会に立つことはできない。彼らの言語では、考えは必ず文章になる。文章にならなければ、考えではない。

読解は文章に対して真摯に行うものである。単語に対する勝手な解釈と混同してはならない。


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ノータリン

2015-07-22 04:10:45 | 国際・政治
・>歴史を調べると、太平洋戦争を始めた人達の中に、日本が勝つと思っていた人はほとんどいなかった。
・>山本五十六元帥を始め幹部達は半年、長くても1年戦うのが限界だと考えていた。
・>そして半年や1年の戦争で勝てるとは誰も思っていなかった。

日本人には意思がない。意思を貫くことがない。流れに従う人ばかり。だから、時流に流される。
自分さえ善ければの思いで舞い上がる。'有るべき姿' との比較がない。唯我独尊体制である。これは国粋主義 (超国家主義) か。
力は正義である。(Might is right). もし力不足であれば、自ら不義を証明することになるので,
力の行使には細心の注意が必要である。


山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘している。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。



いくら理屈を言って聞かせても、信じられる事はない。その時になれば、また別の考え (?) が湧いてくるはずだから。
気分・雰囲気にとらわれて事を決める情緒的人間がいっぱいいる。
データ・ゼロでも決定できる。皆、仲良く死にましょう。皆でやれば、怖くない。
人生は、意気と度胸の問題か。勉強しても助からない。
だから、指導者の説得には応じられない。信なくば立たず。核心的な人間の問題である。
自ら望むことなく、危機に陥る民族か。ああ、むなしい。
温故知新も成り立たず、歴史の勉強は本当に難しい。これは非常に興味深い事実であるか。


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戦後70年談話

2015-07-19 10:13:42 | 国際・政治
・>一昨年末の安倍首相による靖国神社参拝については米政府も「失望」を表明し、アジアのみならずEU諸国やロシアまで批判的な態度表明を行い、日本は完全に国際社会で孤立しました。
・>首相談話の内容いかんでは、同じことが繰り返されるにちがいありません。それは、談話を出すのが、「ナショナリストとして知られ」、その発言によって「日本帝国の他のアジアの国々への侵略や虐待を否定する歴史修正主義的視点を持っている」ことが海外にまで広く知れ渡っている安倍首相だからです。

人は心でつかむもの。腹の探り合いに熱中していてはいけない。意思は心の中に住んでいる。恣意 (私意・わがまま・身勝手) は腹の底に溜まっている。そして、腹芸の原動力となる。恣意はどこの国でも容認されない。だから、我が国にも滅私奉公があった。
安倍首相は、世界の心をつかんでいるか。国際社会の中で、名誉ある地位を占めたいと思いつつ、自己慶賀に身を任せ、唯我独尊。人の心が離れてゆくことも一向に気にならない。哀しからずや。耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、恣意の実現に励めば、南の島に雪が降る。
日本の国粋主義 (超国家主義) は、全世界を再び敵に回して、この国をひっくり返すことになるのか。安らかに眠ってください、過ちは繰り返しますから。
日本人の向上心 (出世欲) は第二の天性か、それとも、見過ごすことのできない危険思想であるのか。


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哀しからずや

2015-07-18 03:24:20 | 国際・政治
・> 「、、、、、丸山は日本の天皇制や軍国主義など第2次世界戦直後、知識人があえて触れなかった部分を優れた洞察力で分析した学者だ。

丸山真男 (1914-1996)は日本の恥部に探りを入れたか。

・>彼は敗戦後、誰も責任を取らない日本の指導者と社会を痛烈に批判した。戦争のため大勢の人々が死亡し、社会・経済的にも大きな被害があったからだ。

'とかく、この世は無責任' ということか。意思のない日本人には、責任も有りませんからね。
個人の意思を認めない社会には、被害者意識を持つ者はいても、加害者意識 (罪の意識)を持つものはいない。

・>しかしどの知識人も天皇などの戦争責任者を非難しなかった。丸山は当時、日本のこうした状況を『無責任の体系』と規定した。『こういう文化を持つ国があり得るのか』と嘆いた。

意思のない人間の罪を問うことは難かしい。
人は死んでも、死刑執行人は、殺人罪に問われない。彼らには殺意がなかったからである。

・>こうした社会の雰囲気を正すため、丸山は『日本は天皇を求心点として軍国主義を通じて望ましくない方向に進み、これによってアジア諸国を願わない状況に陥らせた』と主張した」

天皇は、序列メンタリティの成果なのでしょうね。階称 (言葉遣い) を持つ言語 (日本語)の成果でしょうね。国際社会において、名誉ある地位を得るための励みの求心点は、天皇だったのでしょう。

序列メンタリティを抱えていては、日本人は国際人になれない。外国人は、永久に我々の外人にとどまる事になる。日本は外国を友達の国にできない。地球村の村長にもなれない。唯我独尊に満足して永久に孤高の国にとどまる。井の中の蛙を誇りとするか。哀しからずや。


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