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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

個人主義

2015-11-15 05:22:36 | 教育
不言実行とは、だまって、ただ実行すること。
有言実行とは、口に出したことは、何が何でも実行すること。
どちらも、他人とはかかわりなく、自分自身が行動を起こすこと。
自分さえ善ければとの考え方であろう。構想が知れていなければ他人は協力できない。
民主主義の時代には、他人の協力が欠かせない。他人を自分の友達に変えて新しい世界を作ろう。そこに人類の進歩が有る。

IT時代は、構想を広く他人に伝えることのできる時代である。広く伝える価値のある構想を作ろう。
無哲学・能天気でいては、構想などは生まれない。世界観 (非現実) が持てない。
暗記力はコンピュータに任せよう。がり勉は必要ない。
思考力を養おう。遠い未来の世界を自分自身で描いてみよう。我が国の教育機関を創造力を育成する場所に変えよう。

個人・個人で ‘あるべき姿’ の内容を明らかにしよう。’あるべき姿’ は大同であり、それを考えるのは哲学である。大同団結の可能性を探ろう。あるべき姿の提示がなければ、議員も離合集散を繰り返し反省するところがない。かくして協力による力の結集は得られない。
頭の中の内容は非現実、頭の外にある内容は現実である。
‘あるべき姿’ の内容は、非現実の内容である。非現実の内容に矛盾が無ければそれは立派な考えである。現実は小異となる。
矛盾が淘汰できなければ、それは空理空論であり、有言不実行になる。だから、矛盾淘汰のための教育が必要になる。矛盾のない内容には説得力がある。だから、教養のある人は指導力を発揮できる。末は博士か大臣か。
英米流の高等教育がこれに相当する。哲学博士 (Doctor of Philosophy: Ph. D.) が大量に育成される。
一人ひとりに哲学が必要である。個人の価値を高めよう。さすれば烏合の衆とはならない。




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未来に向かって

2015-11-08 20:36:18 | 教育


インド人の哲学には、前世・現世・来世の三世界がある。これらの世界の内容は、ヒンズー語の文法である時制 (過去時制・現在時制・未来時制) に基づいて組み立てられている。我々日本人は仏教徒であるが、三世界の内容については詳しくはないし、語ることも無い。日本語には時制が無いからである。
時制のある言語を使うと、考えが深くなる。つまり、考えの内容が豊富になるのである。英語にも時制があるので、インド人とは違った種類の三世界がある。

世界観対世界観の比較は、非現実の次元の内容の比較である。
各人の考えにより世界観の内容は違っている。だから、過去の世界の内容や未来の世界の内容などを知ることに興味がわく。その内容に矛盾があればそれを知らせ、無ければ、それは一個人の意見として尊重される。お互いの意見を尊重するためには、個人主義が必要である。各人に哲学は必要である。
日本人の考え方は、‘世の中は、、、、’ である。この比較は、現実の内容の比較である。現実の内容は、異口同音でなくてはならない。そうでなければ、事実誤認があることになり、事実関係調べになる。
我が国は、異口同音の発言は認められているが、個人的な発想が高く評価されることはない。
矛盾を含まない考えは、その内容が現実・非現実にかかわらず、正しい考えです。この認識が日本人には難しい。だから、哲学は日本人にとって難解な学問になっています。個人の内容が違うのは個人差で、その正しい考えは、その個人固有の所有物と考えられます。

世界がいくつもあれば、どの世界が良いかと考えることもできる。非現実の世界の内容は、人・人によって違う。だから、話しあう甲斐がある。向かう世界を大同として大切にして、小異に関する事柄をお互いに譲り合えば、未来社会の建設協力が成り立つ。
だが、無哲学・能天気であっては、相手の構想に見合う内容が提示できない。自分の話は自分の話、相手の話は相手の話、といった区別ができない。だから、ああいえは、こういうという形式で応答する。相手の内容に消去法を駆使して到達する結果は不毛な議論ということになる。自分に世界観が無くても議論する資格があると思い込むところに大きな間違いがある。考えのない人の議論は、聞いても仕方がない。

嘘も方便という言葉があるが、我が国では大同は方便として使われている。大同という言葉はあるが、もともと人々はそのような非現実の内容を持ち合わせていなかったのかもしれない。だから、他人の話に対して常に嘲笑的である。人々は真面目になれない。漫画大国になれる。
無哲学・能天気の状態では、’あるべき姿’ の内容が脳裏に宿らない。大同という言葉はあるが、大同団結を望んでいない。常に離合集散して悔いがない。
このような習性を持つ民族を大同団結させる方法は権威主義である。序列の権威を振りかざして人々を枠内に閉じ込める。不自由を常と思えば不足なし。
特亜三国 (日本・中国・韓国) の人々は一つの世界に行き着くことを切望していない。大同が無いので小異にこだわるしかなく、この精神状態が北東アジアの不安定要因を作りだしている。

日本語には、階称 (言葉遣い) がある。自分を基準にして、’上とみるか、下とみるか’ の判断により、同じ意味を区別して表現する。この語法は文法ではないけれども、序列社会の生活には欠かせないものになっている。だから、上下観念は日本人にとって強迫観念になっている。
‘上とみるか、下とみるか’ の判断により、人間が序列を作る。かくして、序列社会が出来上がると、序列の枠内においては、下の者ほど割が悪い待遇を受ける。辱めを受ける。だから下積みの状態を解消しようとして向上心がわく。出世欲が出る。国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。とはいえ、世界に強い影響力を持つ指導者を目指すというわけでもない。個人の能力ではなく、身分獲得を狙っているのであろう。

各国の過去には、それぞれの功績があり、汚点もある。所詮、人間のすることであるから、神の領域には達することはない。歴史認識の問題で、自己慶賀と自虐の間を行ったり来たりしている。その間に歴史修正という間違いを起こすかに見える。
各国の言語には長所もあり、短所もあるが、長所・短所を聞いて一喜一憂していては忙しくなるばかりである。
序列思考にとらわれていると碌なことは無い。感情に左右されていては、理性的な判断もおろそかになる。’下と見られた’ と直観して、激しい怒りを示すのは、’ひがみ’ というものである。ひがむ者は敬遠される。話ができない。ひがみが、話の腰を折るからである。

日本語思考の効果は素晴らしい。日本語思考により細工物の仕上がりが良くなる。我が国の製品は、世界の隅々にまで無言の説得力を持っている。日本人の今日があるのも、ひとえに日本語のおかげである。
我々は、さらに英語思考を加えれば、精神面でも世界の上に立つことができる。だから、我々日本人は、日本語と英語の両方を学んだほうが良い。

ブドウは放置しても葡萄酒になるという。ブドウに付着している酵母菌が糖分をアルコールに変えるからである。ところが、米は放置しても、日本酒にはならない。コウジカビの胞子を使って酵母菌が働けるように下ごしらえをしなければならない。
これと似たようなもので、英米人はそのまま成長しても英米流の高等教育を受けられるようになる。だから、がり勉は必要ない。だが、日本語脳の持ち主は、そうはならない。教育に余分な手を加えなくてはならない。かくして、その教育法が確立した暁には、世界一の名酒のような素晴らしい個人が輩出することになるにちがいない。






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勘違い・生涯のつまずき

2015-11-04 04:03:38 | 教育
英米人は、文章で考えを表す。だから、文章を正しく理解する必要がある。間違って把握したら読んだ人の責任になる。
日本では、文章は読んだ人のものである。文章はどのように読まれても仕方がないと考えられている。
言の葉 (バラバラな単語) から発想するのは、和歌の道。
日本人の発言は、和歌・俳句の鑑賞の仕方と同じである。和歌・俳句は単語の羅列であって、文章が無い。だから、意味が無い。読者は単語から自由に (勝手に) 連想する。かくして、気分・雰囲気に左右される人間が出来上がる。文章が無ければ、酔いしれへの歯止めはかからない。
この連想法を基にして相手に議論を仕掛ける。文章を把握しないのだから、意味も把握していない。無意味な発言を即吟のように繰りだしてくる。自分では雄弁であると思い込んでいるようであるが、相手に対する説得力はない。そこに大きな勘違いがある。結果は曲学阿世か、ひ弱な花か。孤軍奮闘への道か。
もとになる文章・意味を根拠にしていないので、実ある結論は得られない。このようなわけで日本人の議論は雲をつかむようなものになる。話せばわかるのか。話してもわからないのか。
日本語文法で動作する日本語脳では、議論は不可能である。
これを見越してか、‘議論をすれば、喧嘩になります’ という人もいる。
日本人は、喧嘩するために議論をするのか、議論のためには喧嘩をしなければならないのか。
欧米人は、文章から相手の意味をつかむ。単語を拾って、自分勝手にその意味を読みとることはしない。
意味のない単語の羅列から勝手に意味を引き出すことなど不可能である。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

司馬の言う ‘文章にして語れ’ は、’文章にして理解せよ’ という意味にもなりますね。語ることと聞くことは、 ‘言の葉の道’ の修業では無理なことかな。


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