20年間、大学教授をして教授会に出ていたが、普段は真剣な話は何もなかった。伝統保存会のようなものである。この世界に新しい秩序を求める発想法が無い。ただ、予算の分捕りの時にだけ、教授たちは雄弁になり緊張した。あるべき姿の話には、乗ってこなかった。ただ、ニコニコしてやり過ごすばかりで、居眠りをしている者もいる。この社会では、金は手段ではなく、目的そのものの様であった。金を取って来るのが、この世の実力者ということで、それができれば満足する。未来に賭ける希望がない。だから、退屈なのである。
やってみなければわからない。成ってみなければわからないことばかり。洞察力は働かない。事が起こってからでないと、判断できない。そうなって、初めて真実の歌を詠む。未来と過去の内容は、現実離れがしていて、信じることが難しく、想定外になるばかりである。日本語には時制が無いので、非現実の内容は文章にならない。非現実に関する発言には、意味もなければ矛盾もない。頭の中では考えにならないので、ただの妄想となる。
時制のない日本語では、次の世界への移行は想定外となっている。お変わりのないのが天下泰平の証で、この上なく喜ばしいことである。だが、目の前の世界だけでは、新世界は開けてこない。希望はないが閉塞感がある。
結局、我々は敵の言葉ではなく、友人の沈黙を覚えているものなのだ。沈黙 (silent)、微笑 (smile)、居眠り (sleep) の3Sではどうにもならない。
時制のある英語を使うと、移行すべき次の世界の内容を考える必要に迫られる。眞のリーダーとは、合意を探すものではなく、合意の形成者となるものでなくてはならない。その為には哲学が必要である。
平和国家を目指す我が国には、国際的合意をまとめ上げる可能性のある個人を育成することが必要である。
戦後の日本は自由な国になった。
自由とは、意思の自由のことである。
ところが、日本人には意思がない。日本人の社会は意思を認める事のない社会である。意思ある社会の習慣をそのまま猿まねすることは難しい。
意思は未来時制の文章内容で、日本語には時制が無く、日本人には意思がない。
意思が無ければ、折角の自由も享受できない。自由がなければ、不自由のままである。自由は絵に描いた餅で、日本人は優柔不断・意志薄弱に見える。どうかして、自分の意思を知らせる方法はないものか。その助けとなるものが、日本人のお得意の ‘以心伝心’ である。日本人は、構文を必要としないこのように便利で都合のよい方法は世界中どこにもないと思い込んでいる。はたして、それほど便利なものか。
意思の内容を言葉として表すことはない。相手に対して ’よきに計らえ’ である。考えの丸投げである。これにより、意思を言葉に表すことなく、こちらの思惑通りに自由が得られると良いのであるが。
相手の内容に、ただ黙って首を縦に振るだけでことが前に進む。それで、日本人は、提示された内容の吟味をもすることなく、まんまと相手にはめられる。
意思の内容を確かめる ‘おとり捜査’ は、日本人の大敵である。実に気味が悪く、恐ろしい。無意思の人間の意思の内容を詮索し、加害者意識 (罪の意識) のない人間の犯罪に捜査が及ぶ。
無心・純心な日本人に加害者意識の調査が行われる。あいまい・不正確の内容が時に加害者の命取りになることがある。この捜査は、親切・不親切が動機で行われるのではないのだ。以心伝心にも関係がない。人間としての必要な判断力が試されるのである。あるべき姿を主張できる人間が要求されている。この捜査に耐える判断力のある日本人が必要である。だから、我々日本人は、日本語と英語の両言語の習得に励まなくてはならない。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
.