>■いろいろな出会いの組み合わせが天才を生む
> ――外国ではリアリズムで語られているのですか。
> ある有名な文化人がゲイカップルに育てられた。 >お父さんが2人。米国でも収入の男女格差があるので、父―母より、父―父の世帯の方が所得が高くなり、有利だという議論があります。
そうですね。人にはいろいろな考えがある。可能性は常に複数ですからね。
>父―母がいて家族だというのがファンタジーだとしたら、ゲイカップルの方が経済的に実は有利だというのがリアリズムの議論です。
記憶力 (過去) と思考力 (未来) の違いが表れますね。
>日本で、そういう議論は一部ではあるのでしょうが、永田町や特に自民党では全く行われていないように思う。
政治に関する考えは、政治哲学として議論されますね。無哲学・能天気の国ではどうなっているのでしょうかね。
>その辺が時代に合わなくなっている気がします。
時代に合わせるためには、思考力・創造力が必要ですね。
考え (非現実) の内容は、時制のある文章内容になる。時制のある文章内容は、各々に独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) の内容により表現される。この内容は世界観 (world view) と呼ばれている。子供の頃は各人の世界観はまだ白紙の状態である。人生を経験することにより、各人は自分自身で世界観の内容を脳裏に作り上げている。自己の世界観 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、その人は批判精神 (critical thinking) の持ち主となる。日本語の文法には時制というものがないから、日本人には世界観がない。そして、批判精神の持つ主にもならない。だから、わが国のマスコミは、為政者の告げられる内容をそのまま垂れ流すことしかしない。その結果、わが国には有力紙が存在しない。
日本人の考えには、現実しかない。現実の内容は見ることができるから本当の事である。非現実 (考え) の内容は見ることができないから嘘である。だから、わが国においては、自己の考えを明らかにする人が少ない。誰しも ‘見て来たような嘘’ つきにはなりたくないからである。個人の意見が少なければ、社会が選ぶ選択肢も少ない。
>政権交代の可能性が常にあるという状況でなければ、政治家は堕落するし、油断する。
そうですね。政治家はお互いに切磋琢磨する必要がありますね。それにしても、批判精神の無い社会は常に穏やかですね。
>仲間内でいろいろやろうとしちゃうんじゃないですか。
恣意 (私意・我儘・身勝手) の人達は、常に内向き姿勢でいますね。人々は、井の中の蛙になり果てています。
>それでいいと思っている日本人は大丈夫なのかというのが実感です。
そうですね。日本人には恣意 (self-will) があって意思 (will) がない。意思は未来時制の文章内容ですが、日本語の文法には時制というものがないので、日本人には意思がない。恣意はバラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在し、文章にならないので意味がない。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
意思のあるところに方法 (仕方) がある。日本人には意思がなく仕方がないから無為無策でいる。だから、現状維持となる。日本人は、赤くもならなければ青くもならない。何事もお変わりのないことが良いことです。日本は、目新しい物を求める保守主義の国です。時代に遅れつつある先進国です。
我々には、意思と世界観が必要です。我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の重要性を理解する必要があります。英語と日本語を組み合わせて使って自己の世界観を示すことができれば、外国人との議論も可能になり信頼も得られます。意思を示せば当事者になることも可能です。未来社会の建設に指導的な立場に立つことも可能です。かくして、我々日本人は人類の進歩に貢献する道が開けます。
(略)
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