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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

茂木健一郎氏 3/3

2020-03-28 03:23:00 | 社会

>■いろいろな出会いの組み合わせが天才を生む
>  ――外国ではリアリズムで語られているのですか。
>  ある有名な文化人がゲイカップルに育てられた。 >お父さんが2人。米国でも収入の男女格差があるので、父―母より、父―父の世帯の方が所得が高くなり、有利だという議論があります。

そうですね。人にはいろいろな考えがある。可能性は常に複数ですからね。

>父―母がいて家族だというのがファンタジーだとしたら、ゲイカップルの方が経済的に実は有利だというのがリアリズムの議論です。

記憶力 (過去) と思考力 (未来) の違いが表れますね。

>日本で、そういう議論は一部ではあるのでしょうが、永田町や特に自民党では全く行われていないように思う。

政治に関する考えは、政治哲学として議論されますね。無哲学・能天気の国ではどうなっているのでしょうかね。

>その辺が時代に合わなくなっている気がします。

時代に合わせるためには、思考力・創造力が必要ですね。
考え (非現実) の内容は、時制のある文章内容になる。時制のある文章内容は、各々に独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) の内容により表現される。この内容は世界観 (world view) と呼ばれている。子供の頃は各人の世界観はまだ白紙の状態である。人生を経験することにより、各人は自分自身で世界観の内容を脳裏に作り上げている。自己の世界観 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、その人は批判精神 (critical thinking) の持ち主となる。日本語の文法には時制というものがないから、日本人には世界観がない。そして、批判精神の持つ主にもならない。だから、わが国のマスコミは、為政者の告げられる内容をそのまま垂れ流すことしかしない。その結果、わが国には有力紙が存在しない。
日本人の考えには、現実しかない。現実の内容は見ることができるから本当の事である。非現実 (考え) の内容は見ることができないから嘘である。だから、わが国においては、自己の考えを明らかにする人が少ない。誰しも ‘見て来たような嘘’ つきにはなりたくないからである。個人の意見が少なければ、社会が選ぶ選択肢も少ない。

>政権交代の可能性が常にあるという状況でなければ、政治家は堕落するし、油断する。

そうですね。政治家はお互いに切磋琢磨する必要がありますね。それにしても、批判精神の無い社会は常に穏やかですね。

>仲間内でいろいろやろうとしちゃうんじゃないですか。

恣意 (私意・我儘・身勝手) の人達は、常に内向き姿勢でいますね。人々は、井の中の蛙になり果てています。

>それでいいと思っている日本人は大丈夫なのかというのが実感です。

そうですね。日本人には恣意 (self-will) があって意思 (will) がない。意思は未来時制の文章内容ですが、日本語の文法には時制というものがないので、日本人には意思がない。恣意はバラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在し、文章にならないので意味がない。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
意思のあるところに方法 (仕方) がある。日本人には意思がなく仕方がないから無為無策でいる。だから、現状維持となる。日本人は、赤くもならなければ青くもならない。何事もお変わりのないことが良いことです。日本は、目新しい物を求める保守主義の国です。時代に遅れつつある先進国です。
我々には、意思と世界観が必要です。我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の重要性を理解する必要があります。英語と日本語を組み合わせて使って自己の世界観を示すことができれば、外国人との議論も可能になり信頼も得られます。意思を示せば当事者になることも可能です。未来社会の建設に指導的な立場に立つことも可能です。かくして、我々日本人は人類の進歩に貢献する道が開けます。

(略)


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茂木健一郎氏 2/3

2020-03-27 20:25:38 | 社会

>   ――英語、国数記述式の民間導入は頓挫しましたが、民間の「eポートフォリオ」導入が検討されています。高校生活全期間の活動を記録させ、入試の評価につなげるという構想です。 >  終わってますね。>eポートフォリオでボランティア活動などを点数化するなんてくだらない。 >eポートフォリオに書けるようなものは個性じゃない。

eポートフォリオは、受験生自身の考えの内容ではありませんね。

>標準化というものが根本的に違うんですよ。 >原則自由で標準化しないというのが多様性を担保するのには大事なことなのです。

そうですね。唯一の正解に合わせる判定方式が多様性の抽出にそぐわないですね。

>   ――若者と話す機会が多いようですね。
>  今は、子供から学ぶ時代ですね。>中高生としゃべっていると、アニメやゲームは彼らの方がはるかに進んでいるので、常識が通用しないんですよ。

そうでしょうね。中高生は伝統的な世俗の上下感 (序列感) とは無縁でしょうね。

>大人たちが持っている価値のヒエラルキーとは全く違うところで子供たちのリアリティーがある。>しかも、アニメとか漫画はグローバルにつながっているから、グローバルカルチャー。

アニメ・マンガは、グローバル (global: 全世界) につながるのが良いですね。

>日本は、アニメや漫画のコンテンツを作る力は、中国などに比べてまだまだ強い。

そうですね。お陰様で、わが国は漫画・アニメの大国になりました。

>子供たちの世代は日本も期待できるところがあると思う。

そうですね。漫画・アニメはあくまでもお笑いですからね。真面目な内容にはなりませんね。子供には哲学は難しすぎます。

>でも、大人がクールジャパンとか言い出すと、結局ムダ金を使って、台無しにしてしまう。

それは残念なことですね。大人は、相変わらずの無哲学・能天気ですからね。筋の通った考え方は難しいのでしょうね。

>   ――若者は大人をどう見ているのですか。
>  中央省庁がシュレッダーで公文書を破棄したと言っているような国です。

中央省庁の役人には、まともな価値観がないのでしょうね。無哲学・能天気であっては、政治哲学もない。政治音痴ばかりですかね。

>政治家など偉そうにして大人たちは威張っているけど、どうせ次の世代は自分たちの持ってるリアリティーが世界の中心になるということを知っている。

若者にはそれほどの自信のある筋書きが用意されているのでしょうかね。漫画・アニメの世界化では、真面目な提案はできませんね。

>無駄な軋轢を起こさないというのが若い世代の特徴である気がします。

ただ大人しいだけの人間では物にはなりませんね。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.  
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. だが、日本人には意思がない。
意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思 (will) がない。
仕方がないので、無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。だから、おとなしい。精神修養が必要だろうか。
‘やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

>そういう子供たちを拾えるような体制になっていたら、日本はもう少し発展する機会が増えるんじゃないかと思う。

そうですね。子供の才能を育てるのは難しいですから、すぐに ‘タラレバ’ の話になります。

>   ――“古い大人”は何も言わない方がいいですね。
>  日本の課題や、やるべきことをリアルに見る時代が来ていると思う。

現実直視が必要ですね。日本人は、現実直視よりも忖度 (推察) の方を好みます。忖度ならば、目を閉じていてもできます。

>明治維新はよかったと言っているフェーズは終わった感じがします。

そうですね。気分・雰囲気に酔っている時ではありませんね。

>リアリズムから見たら、日本の教育、高齢化、少子化対策は待ったなしです。

そうですね。マスコミは周知の知恵をかき集めて検討しその選択肢を社会に公表する必要がありますね。権威者の内容をただ垂れ流しにするのは良くない。

>少子化対策について、諸外国を見ると、古い家族制度にこだわっていると、子供は増えないというのがほぼエビデンスで示されている。 >一部の方が夫婦別姓に反対したり、従来からの家族観に固執して家族を限定的にとらえるのは、もはやファンタジーなんでしょう。

昔の内容は記憶力の活用による。未来の内容は思考力の活用による。しかし、思考停止の人達は記憶力しか利用できませんね。

>リアリズムで、いかにシングルマザーの人を支えるかとか、いろいろな家族形態を認めるか考えた方がいいですよ。

そうですね。それには、思考力・創造力が必要ですね。思考停止と記憶力では打開のめどは立ちませんね。


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茂木健一郎氏 1/3

2020-03-27 19:16:03 | 社会
> 茂木健一郎氏  知識や洞察力のない人による教育改革は悲劇
>■生ぬるく甘ったるい“個性重視”
>  ――大学入試改革の迷走をどう見ていますか。
>  今回の政府の入試改革案は、日本の将来を託す子供たちを育てるという意味においては、まったく話になりません。 >あんな小手先の改革で済むと思っている時点で、文科省には当事者能力がないんだなと強く感じました。

同感です。

>例えば、導入が見送られた記述式問題。>受験生は10枚、100枚とたっぷり記述し、採点する教師の側も自らの価値観が表に出る。>主観と主観のぶつかり合いが記述式です。

‘文は人なり’ ですね。George-Louis Buffon (1701-1788)

>入試改革では、ちょっと書かせて「記述式」だと称しているだけ。

これでは言い逃れ程度の記述式ですね。

>大学も選考に対する自信や眼力がないのでしょう。>とても根は深い。

そうですね。大学には受験性の個性を見抜く自信がないのでしょうね。

>   ――小手先の改革は安倍政権らしい。理念や哲学がない。
>  安倍首相の最大の特徴は縁故主義。 >これが最も残念なところです。

そうですね。 

>お仲間優先が強すぎて、日本国内のベスト・アンド・ブライテストを集めていない気がします。

そうですね。残念ですね。

>必ずしも安倍首相の思想に共感しない人や考え方が違う人も、オールジャパンやワンチームで教育改革をするという雰囲気があれば、世界的な水準と比べてもう少しマトモな教育改革ができているはず。

そうですね。そうなると良いですね。

>世界の教育についての知識や洞察力のない方々が政策を担っているのは、非常に悲劇的なことです。

わが国には専門家が見当たらないのでしょうかね。

>   ――世界の教育はどう違うのでしょう。
>  僕は象徴的に「ハーバード大学はFランクの大学だ」と言っています。

Fランクの大学ならわが国にも珍しくはないですね。

>偏差値で見れば、低い人でも入れるし、高いから必ず入れるわけでもない。 >この学生を入学させたらハーバードが発展するのかどうか、必死になって個性を見極める。 >そういう入試を実践しています。

それは良いことですね。

>   ――ハーバードはどういう学生が欲しいのですか。
>  選考プロセスが公開されていませんが、情報はある。 >例えば、理想的な志願者の一例として、ゴツゴツした路面で一輪車に乗る競技を自分で思いついて、小学校の時からずーっとその記録を取っている。>“ゴツゴツ一輪車乗り”の記録の履歴を示して、「年齢を重ねるに連れてこんなに伸びました」というリポートを書いてくるような学生をハーバード大学は欲しい。>自分で開発しちゃうような学生です。

それは実力のある学生ですね。

>だけど、次の年、ゴツゴツ一輪車乗りをやって合格するかというと、もう駄目なんだよね。

‘柳の下に何時も泥鰌は居らぬ’ ということですね。

>   ――とても難しい選考方法ですね。
>  日本は戦国時代、それをやっていた。 >織田、豊臣、徳川。 >誰についていくべきか。 >自分の出世どころか、一族郎党の命が決まってしまうわけですから、必死になって、個性を見極めていたのです。

考えの内容は人により様々ですからね。考えを尊重すれば個性のある個人の社会になりますね。  

>   ――安倍政権の教育改革も個性重視をうたっている。
>  日本でいう個性はほんとに生ぬるいというか、甘ったるいというか、人間の存在の幅が狭すぎる。 >狭い幅の中で、「あの子は思いやりがあって、やさしい子だ」「やる気があって目が輝いている」みたいなレベルで言っている。

それは気分・雰囲気の問題ですね。
フランク・ギブニー氏の著書 <人は城、人は石垣> には、以下のような指摘があります。

日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じこめられていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味をもつ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず理論的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行わせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には “to be” に当る適当な動詞がない。”being” とか“reality”のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。「概念」 (concept) でさえ人工的につくらねばならなかった。 [to be: 存在する] [being: 存在] [reality: 現実] 
(引用終り) 

>そんなもの何の役にも立たないですよね。

そうですね。受験生の考えの内容が問題ですね。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。思いやり・目の輝きでは考えの内容として評価できませんね。


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日本語事情

2020-03-26 14:48:57 | 社会
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. だが、日本人には、意思 (will) がない。
意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。仕方がないから我々日本人は無為無策でいる。だから、おとなしい。
 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく) 
我々のような優柔不断・意志薄弱の人間を動作の活発な人間に鍛えなおすにはどうしたらよいのであろうか。それは精神を鍛えればよいというのがこれまでの方法である。伝統的な武芸の鍛練を通して動作の活発な人間をつくることに力を入れる。しかし、このような方法で鍛えた人間は瞬発力はあるが、理性ある判断力を伴わないので危険極まりない。
 '敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇) 

意思はないが、日本人には恣意 (self-will) がある。そして、本音と建前がある。恣意は、’私意・我儘・身勝手’ であり、本音は ‘恣意’、建前は ‘口実・言い訳’ である。
意思は文章になるから、その内容は吟味は可能である。恣意は文章にならないバラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在するから、意味が無く矛盾もない。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」 

意思は頭の中にある。それは、見ることができない。意思は頭の中にたまる。その文章内容を議論することが可能である。意見交換もできる。論理がある。結論がでる。意思には疎通がある。
恣意は腹の中にある。それは、見ることができない。恣意は不定形の内容のままで腹にたまる。そのどろどろした内容を談合して (腹の) 探り合いをする。論理はない。腹をくくって決着する。恣意にも疎通がある。これは ‘阿吽の呼吸・つうかあの仲’ と呼ばれている。
文章内容には理解が対応している。意思疎通により意思決定 (理性判断) を行うことができる。意思決定に対して責任を負う人が存在する。自己の意思を表明すれば、当事者・関係者となる。表明しなければ、傍観者にとどまる。
この国がひっくり返った時にも責任者は出なかった。わが国は世界の中にあって、世界に属していない。
空気・雰囲気には忖度 (推察) が対応している。恣意疎通を生かして我々は恣意決定 (盲目の判断・どんぶり勘定) をする。恣意には責任を負う人はいない。
意思がない。だから、責任 (当事者能力) がない。社会には、ただ世俗的な序列順位だけが存在する。その順位に異常な関心が集まって、順位競争・入試地獄が出現する。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が疎かな人は、日常の日本語会話にも支障を起こすほどの重要なものである。
日本人の礼儀作法も序列作法になっているので、世俗の上下判断 (序列判断) に疎い者は礼儀正しい日本人にもなれない。日本人の世の中は、’序列なきところに礼儀なし’ である。
わが国では、‘下の者ほど割が悪い’ 仕来りが制度になっているので、人も神も特に序列判断に対しては神経質になっている。序列判断に疎い者に対しては、容赦なく人も神も祟る (仕返しをする) 。だから、世俗の序列判断は、日本人にとって大切である。
‘人を見損なってはいけない’ という想いが高じて強迫観念の域にまで達しているので、日本人は堅ぐるしい日常生活を送っている。
お陰様で序列の存在を知れば、一も二も無くそれは非常に価値ある存在だと思い込むようになっていた。戦前は、神武 (じんむ)・綏靖 (すいぜい)・安寧 (あんねい) ・懿徳 (いとく) ・・・・と学生は天皇名を暗記した。

英米人は、日本語を話す時でも意思を失うことは無い。閉塞感に苛まれることもない。英文で考えて日本文で表現する形式にすれば、意思・世界観の表現は我々日本人にも可能である。我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、時制の重要さを深く理解しなければならないでしょう。世界観と意思を明らかにする方法を獲得すれば、相手からの信用も得られます。さすれば、未来社会に対する建設計画にも国際的な協力が可能になる。かくして、我々日本人も国際社会の重要な役割を担う一員として人類の進歩に貢献できる。だから、語学の勉強は大切である。



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岡田淳三郎氏 2/2

2020-03-25 06:24:05 | 社会

(1/2の続き)
 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

>それは、一貫して現実を対象化してきた生物の摂理に反する狂った観念です。

そうですね。アニマルには現実だけしかありませんからね。
人間には言語がありますから、考え (非現実) の内容もありますね。ですから、人間の全ての能力が他のアニマルと同次元にはなりませんね。

> 新しい可能性の実現に向かうべき現代、常に架空世界に向かうその思考ベクトルは、役に立たないだけでなく、人々を思考停止状態に陥らせ、無能化させ続けています。

非現実 (考え) の内容を利用できないと、精神的な生活の向上は望めませんね。人間も思考停止の状態になってしまいますね。

> 今、求められるのは、現実を対象化した事実の認識。 >それをみんなで追求するのが探求科です。

現実に非現実 (考え) を組み合わせて理解することが必要ですね。これが我々の生活をさらに豊かにする方法 (仕方) でしょう。

> 3.学校の強制圧力と子供の拒絶反応の悪循環で、もはや監獄に近い
>  もはや役に立たなくなった勉強に対して、子供たちの肉体的な拒絶反応が急激に上昇してきたのは当然です。 

そうですね。お仕着せによる弊害ですね。

>しかし、もともと学校は徴兵制の一環として作られ、軍隊をモデルにしています。

そうですね。義務教育は ‘富国強兵’ 策の一環をなしていましたね。

>つまり、学校は「校則は絶対」「教師の命令は絶対」という強制圧力によって成り立っています。 

皇民化教育という洗脳教育ですね。暗記力を高め、思考力を無視しましたね。

>従って、子供たちの拒絶反応に対しても、教師たちは専ら強権を行使して宿題やテストをやらせるしかありません。

全てが上意下達でしたね。

>こうして、学校の強制圧力と子供の拒絶反応の悪循環で、もはや学校はどうにもならなくなっています。>しかも、この悪循環の中では、志のある教師から辞めてゆくので、教師の質も年々劣化しています。

愚民化教育の落ち行く先ですね。

>それに対して、まずは意欲と追求心を喚起し、その活力と追求力をもって成績を上げてゆくのが幼小科や探求科や本科です。

日本人には意思が必要ですね。暗記力に代わる思考力が必要ですね。

> 4.学校は現実から隔離された閉鎖空間
> 赤ん坊は好奇心と追求心の塊で、みんな天才です。 >例えば言葉も、周りと一体化したい一心でひたすら周りの真似をして吸収していきます。 > 次の10才までの子供の仕事は遊びです。 >実は、一昔前まで、子供の遊びは、ほとんどが大人の仕事の真似ごとでした。 >それは哺乳類の本能だからで、例えば子犬のじゃれ合いも、狩りの予行演習になっています。 >つまり、遊びは仕事に直結しており、遊びを通じて仕事に必要なすべての能力が形成されてゆきます。

そうですね。子供の ‘遊び’ は則ち ‘学び’ ですね。

>それに対して学校は、仕事をはじめとする現実の圧力から隔離された(生物にとって)極めて異常な空間です。

真の圧力ではなくて、造られた圧力ですね。

>これでは、仕事能力をはじめ、現実世界を生き抜いてゆくのに必要な能力が、ほとんど形成されません。 

そうですね。

> 生き抜いてゆく上で本当に必要な力を形成する場が、遊学舎、幼小科、探求科や仕事塾、そして究極の形が学校に代わる新しい学び舎“全日制の類学舎”です。

生きてゆくための力が形成されると良いですね。


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