>361386 「暴走する自由」が対立と憎悪と暴力を生み出していく ① >Bannister 20/10/30 PM09 >有ろうはずがない『個人の自由』や、取れるはずのない『自己責任』が、社会的な常識として共有されたことで、世の中は有り得ないくらいの異常行動で満たされ始めている。
哲学は非現実の内容であり、行動は現実の内容ですから、その整合性を求めることは難しいですね。
>リンクより >◆とてつもない暴力の時代の中で >最近、20年も 30年も前に読んだ本の一節などがふと頭をよぎることがあります。>今に始まったことではないとしても、21世紀もまた、とてつもない暴力の時代で、そして、「合理的な理由のない暴力」がとても多くなっています。
そうですね。‘理由なき反抗’ (Rebel Without a Cause) ですね。
>そのことについて、最近、30年近く前に読んだコリン・ウィルソンの『現代殺人百科』 (1983年)という書籍の前書きを思い出します。>「殺人の時代」と題された前書きは以下のように始まります。 >◆1970年代以降から始まった > こういう具体例がどうだということではなく、「それ以前にはなかった、動機も判然としない訳のわからない犯罪」というのは、ずっとあったものではなく、「 1970年頃に生まれた」ということで、その前書きをまずご紹介します。 >●コリン・ウィルソン『現代殺人百科』 前書き「殺人の時代」より >1960年に本書の前版『殺人百科』が出て以来、文明世界の暴力のパターンには目立った変化が見られる。>動機のない凶暴性を特徴とする犯罪がますます増加の傾向にある。>理解を越えた、背筋の寒くなるような変化である。
分別のない大人の出現ですね。
>1982年2月10日、一人の人物がシカゴの薬局に入ってきて、タイレノールという鎮痛剤のビンに青酸カリが入ったカプセルを混入し、どこかに消えた。>最初の犠牲者は 12歳の女の子だった。>数日のうちに死者は 7人になった。>それから一週間後、中年の男がコロラド州グランド・ジャンクションで目薬を買った。>その一滴を目に落として、彼は苦悶にのたうちまわった。>だれかが塩酸と中味をすりかえたのだ。>最初の事件から数週間後以内に、これをまねした事件が全米で百件以上も起きた。> 全米各地の治安保健当局者は、ハロウィーンで「お菓子をくれなければいたずらするぞ」の遊び (Trick or Treat と言いながら近隣の家を回ること)をする子供たちに、例年よりは声を大にして警告を与えた。>これまでの十年間にも心のおかしな人がいて、お菓子に毒を混ぜたり、りんごの中に針やカミソリの刃を差し込んだりして、事件が起きている。>なので、気をつけるようにと警告を出したのだ。> 痛ましいことに、この警告はまさに的中した。>危険な細工がほどこされたお菓子を口にして病院にかつぎこまれる子供は記録的な数にのぼった。
良い大人が、いたずらが過ぎますね。
>◆動機と犯罪の内容にまったく関係性がない殺人の増加 >そして、コリン・ウィルソンは、この著作を書いていた 1980年代頃からの犯罪の特徴として、「動機と犯罪の内容にまったく関係性がない」という事例があまりにも増えたことを長く説明します。 >しかし、今となれば、これは現在の私たちは、もう毎日のように見る事件のタイプでもあります。 >つまり、「家で夫婦喧嘩して、むしゃくしゃしていたので、道で知らない人を殴った」とか、「会社をクビになったから、ホームから知らない人を落とそうとした」とか、「親に怒られたから、街で知らない人に危害を加えた」などの報道は、もういくらでもあるような社会になっているため、私たちは、こういうタイプの犯罪を「当たり前のこと」として受け止めやすくなっていますが、「以前は、ほぼなかった」のです。 > 「家で夫婦喧嘩した」なら、妻なり夫なりが相手に対して何か危害等を与えるというのなら、その是非はともかく、道理としては真っ当であり、しかし、その人の夫婦喧嘩と「道で殴られた知らない人」の間には何の関係もありません。
そうですね。八つ当たりですね。うっぷん晴らしというのかもしれませんね。
.
|
>ルソーの時代には変革を求める強い必然性があり、したがってルソーの思想を認めるべきだとするなら、同じ根拠で今はカミュを認めなければならない。
そうですね。
>現代の教育制度に「倫理的責任」を教える権力があるかどうかは分からない。
罪の観念は個人個人で処理することになっているようですね。これは ‘信教の自由’ よるものですかね。
>しかし、社会の底辺にのさばっているこの頑迷な自由の哲学を否定する能力はあるはずだ。 >この態度に変革を迫ることが、われわれの社会の変革の鍵である。
そうですね。発想の転換が必要ですね。
>ここまでです。
>◆欺瞞観念に満ち溢れた社会 >このルソーやカミュのことについてはともかく、今、アメリカでもヨーロッパなどでも起きているさまざまな暴力の根源には、ここでコリン・ウィルソンが言っていることが内在しているということが、今の世の中で生きている中ではじめてわかります。
魔術的思考の流行ですね。狂ったサルの増殖のようなものですね。
>この「自由」という言葉は、ちょっと日本語では大仰で、これに対して何か述べる才覚は私にはないですが、ただ特に 21世紀くらいになってから、日本を含めて、どこの国でも言われるようになったのが、「格差」「平等」という言葉などで、最近のアメリカの多くの暴力などにも、こういう概念が根底にあると思いますが、どうも、この概念は「利用されている」ように感じるのです。 >人類文明が登場して以来、「すべての人が平等で、すべての人に格差がない」ときなど一度もありませんでした。
そうですね。’人間万事不平等’ ですね。’All men are created equal’. (全ての人は生まれながらにして平等だ) は哲学 (非現実) の内容であって、現状報告ではありませんね。非現実は何処まで行っても現実と同じにはなりませんね。非現実の内容は頭の中、現実の内容は頭の外にあって、両者の所在が違っている。
>それが、今になって、やたらと喧伝されるようになった。
我々は規格人間になるのでしょうかね。個人の自由の余地は考えられないのでしょうかね。極端な格差と極端な平等は是正の必要があるでしょうね。是正の為には中庸の徳が必要ですね。
>私自身もまた、ルソーの言う「人間は自由な人間として生まれている」のフレーズには、若い時からとても違和感を感じていました。>そして「自分は自由な人間としては生まれていない」から、いろいろと希求する。> 「自由の本質とは何か」を考える。
自由とは ‘意思の自由’ の事でしょうね。考えは人人により違っている。だから、お互いに相手とぶつかり合うことになりますね。そうしたら議論・対話が必要になりますね。その個人的な能力が問題になりますね。議論・対話の能力が十分でない人も暴発は許されませんね。その取り締まりが問題になりますね。 技術力の問題ですかね。
>ずっと考えてはいたけれど、全然勉強をしない人生でしたので、そのあたりがよくわからない。 >そうして、最近、ブログで書くようなこと、つまりシュタイナーの言う未来の人間とか、イエス・キリストの話とか、量子力学とかを少しずつ知る中で、 「自由の本質」 というものが何となく、ほんの少しだとしてもわかってきたような気がしないでもないです。>その観点から言えば、今の人間の状態では、「人間は絶対に自由にはなれない」と断言することができます。
すると、’不自由を常と思えば不足なし’ とうことになりますか。これでは、人類の進歩は望み薄ですね。そこで、今の人間の状態は改善しないといけないことになり、その方法を誰が見つけるかですね。
.
>◆因果関係存在しない行為 >まして、「道を歩いていた知らない人」に危害を加えたからといって、夫婦の間の関係が修復されるわけでもありません。 >他の例もすべて同じです。 >ホームから知らない人を落とそうとしても、その人がクビにされた会社に戻れるわけではないし、「それをやったところで、自分への具体的な良い見返りは何もないことが確定しているような犯罪」が、この数十年でとても増えたのです。 >合理的に考えれば、そんなことをしても仕方ない。
‘不自由を常と思えば不足なし’ の方針で自重すれば問題はないですね。
>この「〇〇だから△△をした」という動機の〇〇と、結果の△△の間にまったく関係性のない犯罪を起こす思想をコリン・ウィルソンは、「魔術的思考」と呼んでいます。>コリン・ウィルソンは、その源泉として、1762年にルソーが出版した『社会契約論』の中にある以下の文章に「すべての責任がある」という論旨になっています。> 「人間は自由な人間として生まれている。」> 私は何十年かぶりにこの言葉を思い出しました。
‘人間はリーズン (理性・理由・適当) のある人間として生まれている’ ではないですかね。自由にリーズンは必要ですね。そうでなければ自由そのものにも意味がない。
>361387 「暴走する自由」が対立と憎悪と暴力を生み出していく ② >Bannister 20/10/30 PM09
>リンクより
> コリン・ウィルソンのこの『現代殺人百科』の前書きは、ものすごく長いもので、前書きだけで一冊の書籍として完成するほどの長さがありますので、内容をうまく説明はできないのですが、彼は前書きを以下のように締めくくります。
>●コリン・ウィルソン『現代殺人百科』前書き「殺人の時代」より >自由は責任と規律がなくても存在できるという思想を広めたのはルソーだが、この問題の責任の大半はこのルソーにある。
犯罪・暴力の徹底追放を成し遂げるためには法と秩序 (law and order) が必要ですね。
>1951年、アルベール・カミュは著作『反抗的人間』で、サドからカール・マルクスやレーニンにいたるすべての反抗の哲学は、圧政と自由の破壊を招いたと強力な宣言を時代に投げつけた。>これは、左翼に怒りの渦を巻き起こした。
左翼には ‘圧政’ も ‘自由の破壊’ も気にならないのですかね。左翼になれば何でもできるという事か。自己中心的ではなかろうか。
>カミュの死後、彼の正しさは現実に証明されるところとなった。>自由の哲学は国際的テロリズムの正当化の根拠となった。
自由の哲学は、テロリストには都合の良い ‘お墨付き’ ですね。
>イタリアのテロリストは大学の教室に押し入って、教授の脚を銃で撃ち、この教授は基本的に非道徳的な社会に適合することを学生に吹聴した罪があるとうそぶいた。 >チャールズ・マンソンは、自分の追随者は「兄弟愛」から殺人をおかしたと法廷で広言した。 >これが自由の哲学の帰結である。 >自由の哲学が狂気に走った例である。
自由の哲学では、邪な自由に歯止めはかけられないのですね。アンリーズナブル (理不尽) の判定は存在しないのですね。ブレーキのない機関車ですね。この状態では大事故も避けられないですね。
>満ちてくる潮のように暴力が社会にのさばる。 >常に自由を云々してその正当化を求める。
‘自由も方便’ ということですね。
>この種の風潮を見るとき、間違っていたのはルソーで、正しいのはカミュだということを、われわれは考えずにはいられない。
そういう事になりますね。
.
> ソーシャル・ビジネスを志す人たちがふえてきたのも、そういうことだろう。 >自分のやりたいビジネスをする。 >それが社会を良くすることに役立っている。>そういうビジネスのかたちが、いまでは多くの場所で広がっている。
自分の扱っている商品が売れると、その利益の一部が貧しい人の所に届くといったようなシステムですね。
>■支え合える社会をつくろうという活動
> ところでこの共同体の精神と一体化するかたちで展開したのが、日本における大乗仏教だった。>大乗仏教は、自分が修行をし、悟りを開くことが、すべての人々の解放につながるという考え方を基礎にしている。
そうですね。
>自分だけが悟りを開き解放されて菩薩になっていくことを目指す小乗仏教を批判した大乗仏教は、自分の修行とすべての人々の解放が一体的なものであることを説こうとした。
小乗仏教には世界観があるのではないでしょうか。 大乗仏教には世界観がない。
> それは共同体の精神の調和したのである。
大乗仏教は輪廻からの苦しみを無視することに成功した。 それは、特亜三国の民衆に世界観がないからである。言語に文法上の時制がないからである。
>人々のために滅私奉公するわけでもない。>自分の自発的な行為が他者のためにもなることを人々は願いつづけた。
'為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり' 上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)
日本人には意思がない。受動ばかりで能動がないので、事は始まりませんね。
> 日本のボランティアの基盤には、こういう共同体の精神があるのだと思う。
これは、猿山のサルが自分の群れを守るのと同じですね。
>それは絶対神をもたない社会が生みだした精神でもあり、自律的な共同体がつくりだした精神でもあった。
サルにも神様は無いようですね。
> 森林ボランティアも同じなのだと思う。>それぞれは自分のやりたいことをしている。>ところが自分たちの活動が、森のためにも、さらには社会のためにも役立っていると感じている。>このふたつが矛盾なく調和しているからこそ、森林ボランティアの活動は終わることなく継続してきた。
‘めでたし、めでたし’ ですね。半ば本能的な活動ですね。
> 明治以降の日本は、国家のために生きることが人々のためにもなるという擬制を強制した。
そうですね。政府は日本人の序列メンタリティを利用した労働の奨励をましたね。自己の属する序列社会の繁栄は、自己そのものの繁栄とみなすということですね。
>その反動して、戦後の社会はひたすら自分の利益になる生き方を追求するようになった。
滅私奉公の後は、我利我利亡者の繁栄ですね。
>だがそのどちらにも問題があることが明らかになってきたのである。
そうですね。どちらも無哲学・能天気の禍によるものですね。どちらにも行き着く先に目的の場所がない。
>国家に滅私奉公するような生き方は自分を圧迫するだけでなく、人々をも圧迫する。
玉砕に続く玉砕の戦法では、戦争目的は達成されませんね。わが国の政治に責任のある指導者は不在でしたね。
>しかもその結末は戦争による社会の崩壊だった。
そうですね。この国がひっくり返った時にも責任者は出ませんでしたね。日本人には意思がいので責任感というものがない。とかくこの世は無責任。
>そしていま私たちは、戦後的、利己的な生き方がつくりだした社会の結末を処理しなければいけない時点に立たされている。
我利我利亡者ばかり世界は長続きしませんね。自業自得ですね。まいた種は刈り取らなくてはならない。
> いわば近代日本のふたつの失敗をへて、私たちは無意識のうちに、日本の共同体から生まれた基層的な精神を回復しはじめたのである。
基層的とはどういう意味ですかね。経験的なという意味ですかね。深刻な反省がないと歴史は繰り返しますね。
>それがときにボランティア的な活動として現れ、ときにソーシャル・ビジネスとして現れている。
日本人は寄付の嫌いな国民であると言われていますね。我々の遠い未来の行き着く先が我々自身に見えていないのではないでしょうか。
>さらにはコミュニティづくりとか、支え合える社会をつくろうとういうさまざまな活動を生みだしている。
日本人には世界観がない。我々の行き着く先が見えていない。だから、行き当たりばったりになりがちですね。
> そういう時代のなかでの森林ボランティアの活動。>今年はもう少しそのことを意識しながら歩んでいこうと思う。
人間はお互いに助け合って生きて行くものでしょうね。ご成功を祈ります。
.
>361370 『私たちは無意識のうちに、 日本の共同体から生まれた基層的な精神を回復しはじめた』
>山本紀克 ( 31 会社員 ) 20/10/30 AM00 【印刷用へ】
>内山節『私たちは無意識のうちに、 日本の共同体から生まれた基層的な精神を回復しはじめた』リンクより引用です。
>----------------------------------
>■自分のやりたいことが、みんなのためにもなる
> 森林ボランティアの活動は、日本の森に活力を取り戻す活動としてはじまった。
林業は採算に合わなくなりましたね。
>もちろん市民のできることには限界がある。>それでも可能なところから手入れをして森の活力を取り戻すだけでなく、私たちもまた森とともに生きる活力を取り戻していく。
ゆとりの生活ですね。
>そのためには安定した林業労働や経営ができる社会をつくりだすことも必要だったし、木材加工や建築の問題も含めて、山の木を循環的に利用していく社会をつくることも課題だった。 > (略)
> ところでボランティア的活動について考えてみると、世界的にはそれを神への奉仕としてとらえる傾向が強かった。
神様がボランティア的活動を望んでいるのですね。
>他者を助けることが神の意思にもかない、そういう活動のできることが、神に選ばれた人の証拠でもあるというとらえ方が、ボランティア活動を生みだしたひとつの基盤であった。
神様が一人なら、その意思も一つですね。
> ところがこの発想は、日本の大多数の人たちには通用しない。 >なぜなら伝統的な日本には絶対神は存在せず、唯一の神との関係で自己をとらえる精神は定着していないからである。
無哲学・能天気な人々には自己の ‘あるべき姿’ の世界は存在しませんね。自己のあるべき神も存在しませんね。
>だが日本の社会は、昔から、ボランティア社会としての一面をもっていた。
日本人には意思がない。日本人が行動を開始するのは、事の次第・成り行きによる。そこにはリーズン (理性・理由・適当) が存在しない。だから日本人のリーズナブルな答えは期待できない。説明責任が取れない。
>ごく当たり前のことのように、人々は助け合いながら暮らしていた。
そうですね。生物が群れをなして暮らすのと同じですね。
>とすると、この精神はどこから生まれていたのだろうか。> それは共同体がつくりだした精神だったといってもよい。
半ば生物の持っている本能的なものでしょうね。
>日本の共同体の構造は、中世期、つまり鎌倉時代から戦国時代にかけてと、近世期の江戸時代とでは大きく異なる。 >中世は農民が武装し農民武士団を形成した時代で、一族郎党が管理するかたちで農村は運営されていた。 >ところが江戸時代になると兵農分離がすすめられ、武士は城下町に移動する。
武士は町で藩士になったのですね。
>その結果武士のいない村、役所のない村が生まれ、村の運営は惣村自治に任されるようになった。
武士は村では郷士になりましたね。
>中世共同体もひとつの自律的共同体のかたちではあったが、江戸時代になるとそれとは違う自律的共同体のかたちがつくられたのである。 > こうして、村は自分たちでつくっていく共同体になった。
人別帳もできて村は序列社会の単位になりましたね。
>もちろん共同体の人々も、一人一人は自分のやりたいこともあるし、それぞれ行為がある。
しかし、’不自由を常と思えば不足なし’ ですね。
>その自分の行いが、共同体のみんなのためにもなることを、人々は願うようになった。
人の振り見て我がふり直せ。出る杭は打たれる。
>その精神はいまでも残っていて、だから私たちは自分の利益だけを考える人に出会うと親しみを感じないし、ときに軽蔑さえしている。
そうですね。金銭は手段にはなるが、目的にはならない。だから、守銭奴は尊敬が得られない。いつまでたっても目的達成には至らないからである。
> といってもそれは、みんなのために自分は我慢するとか、やりたいことを放棄するということではない。 >自分のやりたいことが、みんなのためにもなるということである。
建前 (言い訳・口実・言い逃れ) と本音 (私意・我儘・身勝手) の世の中ですね。
>そういう行為のあり方をみつけだすと、いまでも多くの人たちは精神的な安定感を獲得する。
二宮金次郎のような人のことですね。
.