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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

現実直視

2019-07-23 15:34:08 | 学問

>182290 『現実直視のスタンス』って…。 >Silentservice ( 38 会社員 ) 08/07/28 PM10 【印刷用へ】
>>認めるという事が生まれた時に認められないという事も生まれる。 不全は形を変えて存在し続ける。<<

そうですね。物事に関して肯定と否定がありますね。

>るいネットの本来の主旨に、いささか反する見識かもしれないのですが、私は敢えて投稿したくなりました。
>"固定された対象"…が現存する、という事は、それを既成事実として認識しているから、その事象が事実としての存在証明を確定させる…。

現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。唯一の正解がある。考えることは必要ない。これが現実直視であります。

>"現実"が、人々の『意識』を意味すると仮定するのであれば、 果たして『意識』に対する物質的な定義及び、それに基づいた観念は事実足りえるものでしょうか?…

非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話の内容を知るのには、文法に従って文章を理解しなければならない。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを示している。考えの内容は、人様々である。だから、正解は一つではない。幾らでもある。
矛盾を含んだ文章も、その矛盾を取り除けば、正しい考えとなる。だから、対話・議論が正しい考えを生み出す助けになります。
観念は、事実ではない。観念の内容は、頭の中にある。事実の内容は、頭の外にある。所在も違えば、内容も同じではない
現実 (事実) の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。唯一の正解がある。考えることは必要ない。

>必要以上に難しく考えることもないけれども、 『これまでの無数の常識や規範が、根本的に間違っている』という仮説に当て嵌めて現実を再定義するとなると、「見聞(=検分?!)してきた"事実"を鵜呑みにはできない」、という迷いが生じるのは、ごく自然なことな気がします。

仮説は、非現実 (考え) の内容である。考えの内容は、人様々であります。矛盾を含まない考えは、すべて正しい。だから、個人の考えを大切にする必要があります。

> 私個人は、そこの部分を「素人の創造」だったり、「活力」、「可能性」と認識しておるのですが。。。

現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。唯一の正解がある。考えることは必要ない。
見ることのできる内容は、全て ‘本当のこと’ である。見ることのできない内容は、’嘘’ である。これは、日本人 (現実主義者) の ‘嘘・本当’ の判定法であります。非現実の内容の存在を無視した場合の判定法になります。

> 「正しい」、「間違っている」を咄嗟に判断する前段階において、もっともっと掘り下げる(事実追求=探索)のスタンスが、それに相当するんではないのか?、と…。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを示している。考えの内容は、人様々である。だから、正解は一つではない。幾らでもある。個人の考えを大切にいたしましょう。
‘正しい・間違っている’ の判断は、観察する時の判定でしょうね。考察の第一歩は、現実の内容と非現実 (考え) の内容を分けて考えることから始まりますね。 

>…そういう認識って、変でしょうか?? > 皆さんは、どうお考えなのでしょうか? > 「子供じゃあるまいし…!」 > 「そんな事、常識でしょ?」 >そのようにご理解or判断されますでしょうか??

各人に哲学は、哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 無哲学・能天気ではいられませんね。

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二人の巨匠

2019-06-08 21:15:07 | 学問

>346593 東洋と西洋 ~二人の巨匠の会話~ >HAYABUSA ( 40代 ) 19/06/08 AM00 【印刷用へ】
>実現塾で西欧科学の過ちを学んだ。>一神教の絶対観念を根底にもつ科学は、認識という意味では偏りがある。>ものの見方=認識。西と東では、180度異なる。>その事例として、インドの思想家:タゴールと、西欧科学の象徴:アインシュタインの会話を思い出した。
>―――――――――――――――――――――――――――――――――――
>【タゴール】 >この世界は人間の世界です >世界についての科学理論も所詮は科学者の見方に過ぎません

そうですね。科学者がいなければ、その理論もない。

>【アインシュタイン】 >しかし真理は人間とは無関係に存在するものではないでしょうか? > 例えば私が見ていなくても月は確かにあるのです。

そうですね。月は現実であります。学者の理論とは無関係に存在します。

> 【タゴール】 >それはその通りです。>しかし月はあなたの意識になくても他の人間の意識にはあるのです。>人間の意識にしか月が存在しないことは同じです。

そうですね。人間の意識が万物の根源になりますね。

> 【アインシュタイン】 > 私は人間を超えた客観性が存在すると信じます。>ピタゴラスの定理は人間とは関係なく存在する真実です。

全ての考え (数式を含む) は、文章になる。文章にならないものは考えではない。言語 (文章) を使う動物は人間だけです。人間を超えた客観性は存在しないでしょう。

> 【タゴール】 >しかし科学は月も無数の原子の描く現象であることを証明したではありませんか。 >あの天体に光と闇の神秘を見るのか、それとも無数の原子を見るのか、 人間の意識が月だと感じなくなれば、それは月ではなくなるのです。

そうですね。この世界は、人間中心でできていますね。

>―――――――――――――――――――――――――――――――――――
>人間を超えたところに普遍的な真理が存在すると言うアインシュタイン。>事例としてピタゴラスの定理を出したが、タゴールは納得しない。>ピタゴラスの定理は、現実世界には存在しない。>数学の前提である「点」は目に見えるのに重さも面積も持たない=完全な理想状態として数学が組み立てられている。>つまり、完全理想状態を措定しうる人間のみが可能な概念がピタゴラスの定理であるのだから、人間がそうだと思わなくなれば、存在しないのと同じだ。>タゴールは「人間を超えたところに真理があると言いながら、あなたの思考は人間のみが可能な思考様式の枠から出ていません」と反論している。> 若い時分に読んだ時は全く意味が分からなかったが、少し分かった気がする。

それは、良かったですね。

> 参考 >リンク


自己規定

2019-05-04 15:15:05 | 学問

>西欧人は”絶対的自己規定”であり、対して、日本人は”対象依存型の自己規定”であるという、言語学者の鈴木孝夫氏の見解ですが、 「和を以って貴しと為す」という精神が、連綿として日本人の心理に作用しているのかも知れませんね。

英米人の場合は、哲学があるから ‘絶対的自己規定‘ になりますね。Everyone needs a philosophy. 自分の考えに忠実であれば良い。
日本人は、無哲学・能天気ですから、’対象依存型の自己規定’ になるのでしょう。依存する対象を探さなくてはなりません。 その時に「和を以って貴しと為す」という精神が必要になります。

>西欧人の「相手の主張や気持ちとは一応独立して自分は少なくともこう思うという自己主張」「強烈な自己主張を相手にぶつけて自分を分ってもらう」に対し、日本人の「他人が意見なり願望なりを言葉で明確に表明しないうちに、それを察知勘案して主張する」「自分を相手に同調させ、相手の気持ちになって」というところです。

そうですね。日本人は、自分に考えがないのですから、あとは気配りに専念することになりますね。自己実現の願望は、想定外になっていますね。

>一方で、日本でも我が強過ぎるという人もいるのでしょうが、一般的には、”ガンガン自説を通す”事に違和感を持つこと自体が、日本人に対象依存型自己規定という概念がある証拠とも言えないでしょうか? 

考えの内容は、各人各様ですからね。聞いてみなければ分かりませんね。個人に考えのあることは、当然のことですからね。

>絶対的自己規定を概念に持つ西欧人にとって、それは当たり前の事であって違和感はないと思われます(経験はないですけど)。

そうですね。彼らには、世界観がありますからね。自分がどのような世界に住みたいかは、考えて当然な事柄です。

>肝心の、国語(日本語)の構造に基づく概念(思考方法)がどのように形成されるのか、外国語との比較については、まだ考えが及んでおりません。

そうですね。国語と外国語との比較が必要ですね。

> 「あまりにも同質的な文化、民族、宗教が対象同化の心的構造を生んだ」という主張があるようですから、日本人は言葉の厳密な定義をせずとも分かり合えるが、混合(異質)された文化を持つ西欧人にとって、言葉の厳密な定義をもって共通認識をせねばならなかったとも思えます。

そうですね。我々日本人には、異文化を持つ人々との共通認識を持つことも必要ですね。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>論理的思考の差は、そこら辺にあるのかなとも思っております。

そうですね。いかなる場合にも文章にして語ることが大切ですね。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
矛盾を含んでいない文章は、全て正しい考えを表している。だから、正解は一つではない。幾らでもある。
矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り除けば正し考えを示すことになる。だから、対話・議論により正しい考えを得ることも可能である。対話・議論は正しい考えを得るための良策である。


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学ぶこと

2019-04-17 21:20:05 | 学問

>僕は学習にはそもそも二つの種類があるのだと思っていて、「学ぶ」と「勉強する」をここではあえて使い分けていきたいと思います。 >先に区分けを明確にするために、この2つの言葉の勝手な定義からしてみると、 > 学ぶこと = 自分が深掘りしたい問いについて、主体的に探求すること >勉強すること = すでに誰かが知っている正解について、早く理解すること。

そういうことでしょうね。同感です。

>私たちはつい「学習」という言葉が使われるとき、勉強のイメージがつき過ぎていて、つまらなそう、いっぱい暗記しなきゃ、間違うと恥をかく、といったシーンばかり思い出してしまうのではないでしょうか? 

学校で、恥をかくことも多かったですね。

>でもちょっと立ち止まってみると、小さい頃に「あれなーに?」「どうして海はしょっぱいの?」といった質問攻めをして親から「そんなことより静かにして」と言われたことが誰でも一度はあると思います。>人はそもそもとても好奇心の強い生き物なのだと。

子供の頃は、皆さん好奇心が強いですからね。

>このように、人がここまで発展してきたのはこの知的好奇心を元に「学習」しまくった結果なのだと思うと、何かを知りたい、学びたいという欲は、人の根幹なのだとも僕は思っています。

我々は、’考える人’ になる必要がありますね。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.

>人間の好奇心は、どうしてなくなるのか? >『モモ』や『ネバー・エンディング・ストーリー』を書いた作家、ミヒャエル・エンデの問いに「なぜ言葉を理解していない赤子が、言葉を覚えれるようになるのか?(そこに意味を見いだせるようになるのか)」というものがあるのですが、犬も赤ちゃんも、言葉が話せないという点では同じなのに、なぜ人間だけが言葉を、その奥にある意味を理解できるのかは本当に不思議です。

それは、不思議ですね。

>この違いは人間の「好奇心」が桁外れに強いことにあるのだと思うのです。

言語の発声は、のどの構造に大きく左右されるでしょうね。

>(犬もとても賢いと思いますよ!)ではなぜ僕らは大人になるにつれて、そんな好奇心をなくしてしまうのか? >それは「自分の問い(不思議に思うこと)について学ぶことよりも、他者の期待に応えるために、他人から迫られて勉強ばかりに時間を奪われてしまう」からだと思うのです。

そうでしょうね。

>「学習性無力感」という言葉があります。>例えば2m飛べるノミを高さ50cmの透明な箱の中にいれて、ずっと天井に頭を打ち続けると、箱から出した時に50cmしか飛べなくなるという実験がありますが、これはノミが「50cm以上飛ぶとよくないことが起こる、または自分は50cmしか飛べない」ということを学習した結果というのです。

そういうこともあるでしょうね。

>僕たちは大学まで含めると20年くらいの時間、ずっと「自分で問いを持つことは時間の無駄」であって「早く暗記して、なぜ勉強するのかの問いを持つよりも単語を一つでも覚えること」ばかり学習していきます。

そうですね。他者の要求に追われてばかりいましたね。

>自分で問いを探求するということに対して、僕らは無力感を覚え、無駄だという感覚ばかりを学習してきてしまっているのです。

それは、処世術に毒されているからでしょうね。

> 心を伴う知、知性 >現在AIの話などが盛んで「人工知能」という言葉があります。 >しかし人工知性とは言いません。 >知性と知能の違いはなんでしょう? > それは「知性」は心を伴う知であるのに対して、知能は心を伴わないあくまで機能でしかないということです。

そうかもしれませんね。知性は、個人的な価値観の問題ですね。

>エクセルの計算などは知能が進化していけばできるようになっていきます。>しかしながらあなたにとって価値ある人生とはなにか、といった問題については、知性を磨かないといけない。

そうですね。エクセルでは、哲学的な、しかも個人的な問題に答えを出すのは難しいでしょうね。

>自分の内側、自分の心がどう感じるかを理解するためにこそ、僕らは他者であったり外界と接点を持ち、そこから学習するのです。

そうですね。毎日が学習ですね。

>僕のおじいちゃんは仏師(仏像を彫る人)だったのですが、仏像を彫るという行為は、木から仏を取り出す行為だそうです。

それは、よく言われていることですね。

>僕は人も同じように、「自分のしたいこと」や「好きなこと」というのはほっといても内側から湧き出てくるというよりも、たくさんの社会や他者に触れて自身を削ってみて初めて内側に現れてくるものというイメージが強いのです。

そうでしょうね。

>学ぶということはまさに、自分の内側にいる自分を、自分で掘り出していく作業のように捉えています。>だからぜひ、まだ好きなことやしたいことがない人、おぼろげだという人、自分にとって豊かな人生とはないかを探求してみたい人は、学び続けてほしいと思っていますし、そういう人と話すことで僕自身ももっと学びたいといつも思っています。

そうですね。Education (教育) とは、’能力を導き出す’ ことでしょう。生涯教育ですね。


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ヘウレーカ

2019-04-17 15:15:55 | 学問

>「教育において伝えられるべき価値は何か」という最初の問題に話を戻すと、それはまさに「今自分が学習している内容や、学習している という行為それ自体が確かに貴いものだという 手ごたえ」であるべきだと思う。

それは、必要なことですね。

>言葉を換えれ ば、「本当に素晴らしい真理を知ったという喜び」「自ら真理に到達しようとしている充実感」こそ、学習者が手にすべき価値なのである。

そうですね。

>その点では、教授者は様々な知識の伝達者という役 目を超えて、この「喜び、興奮」の媒介者でな ければならない。

それは、日本人にとって難しいことですね。
現実の内容は、頭の外にある。見ることができる。見ればわかる。だから、考える必要はない。
ところが、非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。見ることができない。ただの話である。話の筋を理解するのには、その文章を理解しなくてはならない。それで、文法が必要になる。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。非現実 (考え) の内容は、時制 (tense) のある文章になる。ところが、日本語文法には、時制というものがない。だから、非現実 (考え) の内容を日本人は、文章として発表することができない。この状態は、とりもなおさず思考停止の状態である。このような事情により、日本人は、無哲学・能天気の状態に置かれていると考えることができる。だから、話による ‘喜び・興奮’ の媒介者になることは難しい。

>「創価教育学」を創始した牧口 常三郎先生はかつて「教育は知識の切り売りや 注入ではない。

そうですね。知識の ‘切り売り・注入’ は、思考を停止している人々の日常的な作業になっていますね。

>自分の力で学ぶことを会得させ ること、知識の宝庫を開く鍵を与えることだ。」と述べた。

子供の頃は、毎日が新発見ばかりでしたけれどもね。

>まさに「本質的議論」であると思う。

そうですね。日本語は、写生画の言葉である。見ることができる内容は、’本当’ のことである。見ることのできないものは、’嘘’ である。誰も ‘見て来たような嘘’ をつく人間にはなりたくない。だから、自分自身の非現実 (考え) を語ることはしない。現実離れのした話は、常に想定外になっている。だから、無哲学・能天気でいるより仕方がない。

>アルキメデスは当時の国王から、「王冠が純金製なのか銀が混ぜられているのか、壊さないで判定する方法を考えよ」と命じられたが、自分の体が浮かぶ風呂の中で浮力に関する「アルキメデスの原理」を発見し、見事にこの難題を解決して見せた。

彼は、幸運でしたね。

>この原理をふろの中で発見したとき、アルキメデスは「ヘウレーカ(見つけたぞ)!」と叫びながら裸で街中を走り回ったと伝えられている。>これはさすがに作り話のように思えるが、まさに人類の文化の推進力は、この「ヘウレーカ!」にある。

そうですね。

>「真理への好奇心」と「真理発見の感動」によって、人類は新しい理論や技術を生み出し発展してきたのである。

そうですね。日の下に新しきものなし。されど、人は自らの考えを改めることができる。だから、学問は、永遠に進歩する。

>学校でいろいろな教科を学習する児童や生徒 も、この「ヘウレーカ!」の主人公であってほ しい。>どんなに難しい理論を扱ったとしても、 この感動が伝わらなければ教育の価値は半減す る。

そうですね。詰め込み教育は良くないですね。

>自らを超える明日のニュートンの誕生を願 い、子どもたちに感動を伝えるために、自らも新しい感動を求めて真理の探究に励むことこそ、教師のあるべき姿である。>大学での自らの授業を振り返るとき、理想と現実の落差に暗澹とさせられるが、学問探求を目指して大学の門をくぐった学生たちの学習活動が「ヘウレーカ!」に満ちたものであることを期待し、自らも一層の努力を期したいと思う。

他力本願・神頼みですか。
日本語だけで囲まれていては、無哲学・能天気の世界を脱出できませんでしょう。我々日本人も、英語にある時制を使って、自らの非現実 (考え) の内容を文章にして語るべきですね。そうすれば、現在の詰め込み教育の地獄からの脱出して真理の探究が可能になります。


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