gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

日本語を普及させよう

2017-01-28 06:07:18 | 国際・政治
>開発途上国等には、経済発展・産業振興の担い手となる人材の育成を行うために、先進国の進んだ技能・技術・知識(以下「技能等」という。)を修得させようとするニーズがあります。
>我が国では、このニーズに応えるため、諸外国の青壮年労働者を一定期間産業界に受け入れて、産業上の技能等を修得してもらう「外国人技能実習制度」という仕組みがあります。
>この制度は、技能実習生へ技能等の移転を図り、その国の経済発展を担う人材育成を目的としたもので、我が国の国際協力・国際貢献の重要な一翼を担っています。

日本社会のユニークな価値観は日本語に由来している。せっかくの技能移転も ‘仏作って、魂入れず’ にならぬように気をつけなくてはならない。
芸は身を助く。日本語が世界に普及すれば、人類はさらに豊かになるだろう。教育分野での我が国の国際協力・国際貢献になる。
ユニークな価値観とは、以下の四つが考えられる。

1.団結性 相対敬語を使い他の序列を排除している。横の連絡が取れない縦社会を作っているので団結性が強い。日本語の社会でなければ、序列人間は存在しない。
2.信頼性 自己判断ができない。自分に意思がないので独自の方法が見つけられない。そういった意味での信頼性が高い。
3.仕事熱 目先・手先の仕事に精神を集中できる。哲学がないので、実学・実業に力が入る。空想・妄想も発展して、我が国は漫画・アニメの大国になった。
4.忠誠心 縦社会の序列差法は礼儀作法になっている。序列判断は、強迫観念になっているので上位に対する忠誠心は強い。

日本語の ‘かな・漢字’ 表記は音読が難しい。漢字は数が多く、語意が外来の横文字文化に対応していない。折角、海外から技術研修に来ても、語学の成果が上がらない。言語による資格検定が難しいので、我が国の基準は世界基準となりにくい。読み書きの不自由な人たちの文化は、書き残すことが出来ないので、継続・発展させる事が難しい。’今だけ、金だけ、自分だけ’ の暮らしで、はかない処世術になる。
音読できない言語となっていては、日本語は世界に普及しにくい。とはいえ、カナ文字使用もよくない。我々はカナ書きの外来語を多くして、外国通になったつもりでいるが、カナ文字は日本以外のどこの国でも通用しない。だから、国際協力・国際貢献の手段としては役に立たない。カナ文字に頼った国際協力・国際協調は孤立無援で労多くして益が少ない。袋小路の行き止まりである。
日本語をローマ字 (alphabet) 表記にして、非漢字圏の国々にも普及させ易くするとよい。さすれば、国際的な意見交換もずっと容易になる。外国人との話し合いが国際協力・国際協調の基礎である。日本語は、実用的な第二言語となり、内外の民の暮らしは豊かさを加速する。



.





闘争本能

2017-01-24 16:49:20 | 国際・政治

>■今まで日本人は、協調性を意識しすぎた

‘和をもって貴しとなす’ ということですか。

 >世界に目を転じると、宗教問題、歴史問題、領土問題、人種問題で、絶対に妥協できない対立が激しくぶつかり合っていて、血で血を洗うような事態が起きている。

そうですね。

 >これらのすべての問題は民族のアイデンティティに直結しているので、話し合いも成立しないし、譲り合いも成立しない。譲れば民族としての存続が不可能になるので、絶対に譲れないのである。

現実の内容は、小異である。現実の内容は頭の外にあるので、見ればわかる。’小異を捨てて、大同につく’ のが建設的な態度でありますが、結果はどうでしょうか。
大同の内容は、非現実である。非現実の内容は頭の中にあるので、見せることが出来ない。だが、話にはなる。話を聞いてもわかる場合もあるし、わからない場合もある。その話は現実離れがしていて、信じることが難しい。だから、我々には大同を示すことは容易でない。大同なくして小異を捨て去ることもできないので、小異の争いに明け暮れている。

 >折しも情報化時代に入っているので、こうした衝突は言論の場にも持ち込まれるわけで、だからこそ歴史プロパガンダが猛威を振るうようになっている。

商業主義の影響なのかな。議論をするためには、喧嘩が必要か。喧嘩をするためには、議論をしなければならないのか。

 >欧米とロシアのプロパガンダ合戦、欧米とイスラム国家のプロパガンダ合戦、グローバリストとナショナリストのプロパガンダ合戦、アメリカ国内でのリベラルと保守のプロパガンダ合戦は日々、深刻なものになっている。

同感です。意見の正解は一つではない。暗記ものの勉強では片付かない。自分自身の判断が必要ですね。

 >東アジアでも、中国・韓国・北朝鮮が日本に対して執拗かつ粘着的な捏造歴史プロパガンダ戦争を仕掛けており、日本人に対する誹謗中傷、批判、攻撃が恒常的に行われるようになっているのだ。

小異をことあげして、自国の利益を得ようとするのですね。

 >もう現代社会は「きれいごと」を言っているだけでは渡っていけない世の中になった。これから日本人も凄まじい言論対立に巻き込まれていく。

我々は、歌詠みではいられませんね。’きれいごと’ とは、空理空論のことですかね。

 >だからこそ、私たちは日本人としての主張を「押し通す」必要が生まれてきている。今までの理解・平和・協調から脱して、いよいよ闘争本能に目覚めなければならないのである。

自分に大同が無ければ実のある主張はできませんね。小異の主張と闘争本能だけでは、国際平和は保てないでしょう。

 >歴史問題は、何も言わないと相手の都合の良い主張が世界の歴史になる。領土問題は妥協していると次々と土地を奪われていくことになる。

各国が自国に都合の良い歴史ばかりを作っていては、北東アジアの不安定要因は増すばかりですね。膠着状態になっている。

>重要なところで妥協してしまうと、日本人の尊厳も領土もすべて奪われる。だから、民族の存続をかけて、きれいごとから去らなければならなくなっている。

特亜三国 (日本・韓国・中国) の民には、’あるべき姿’ の勉強が必要ですね。

 >今まで日本人は、協調性を意識しすぎた。

自分自身の ‘あるべき姿’ の内容を考えることなく、’協調か対立か’ のみを考えていたのでは、救いはありませんね。

 >批判することを恐れ、主張することを恐れ、復讐することを恐れ、バッシングされることを恐れ、修復不可能になることを恐れてきた。

もしもあなた批判することがあるならば、自由に批判して頂きましょう。もしもあなたに意見があるのなら、それを自由に主張して頂きましょう。それに対する復習・バッシングには十分注意しましょう。
大同を示さないのでは、小異を捨てる理由も見当たらず、国交の修復は不可能になりますね。小異を捨てて、大同に就く準備が必要ですね。そうすれば、未来社会の建設に各国の協力が得られます。
北東アジアの不安定要因は、人々が大同という未来社会 (非現実) の内容を真剣に考えることなく、目先手先の小異 (現実) にとらわれて闘争を繰り返していることにあるのでしょう。
‘我々はどこから来たか’、’我々は何者であるか’、’我々は何処に向かうか’ などの命題に答えを出すのは西洋の哲学です。我々、東洋人には、その習得が難しいのでしょうね。



.




松下さん

2017-01-19 05:09:55 | 国際・政治

>・・・・・、国の動きに、あまり力強いものがないし、政治もなんとなく頼りないということになるわな。

そうですね。金は目的に対する手段にしかならないでしょう。国民に確たる目的が無くては、余っている金は、景気回復の起爆剤にもなりえませんね。我々には未来社会の建設が必要でしょう。

>金は出すけど、自分の考えは示さんということでは、軽蔑されるだけや。

同感です。無哲学・能天気ではいられませんね。夢も希望もない ’瘋癲の寅’ にはなりたくないですね。

>これからの日本は、「風格ある国家」を目指さんといかんな。

気分・雰囲気の問題ですか。低俗のままでは風格は出ませんね。人間は、高尚でなくてはいけない。我々には、’あるべき姿’ の明示が必要でしょう。高尚な ’考える人’ になれると風格が出ますね。我々は、まず心を磨かなくてはいけないですね。それには、英米流の高等教育が必要でしょう。

>自分の国のことだけを考えるのではなく、世界のこと、国際社会全体のことも考え行動する。

そうですね。現在の日本人は、’今だけ、金だけ、自分だけ’ の処世術で生きていますね。低俗ですね。地球村に住んでいながら社会性に欠けていますね。我々は世界観 (world view) を持つ必要があります。現在は、釈迦如来の手のひらの上で得意になっている孫悟空のようなものです。世界が全然見えていない。

>企業も国民もまた、思いやりの心を世界に広げる。

同感です。企業も国民も聡明にならないといけませんね。人間には、思慮の深さが必要です。

>自分の言動に責任をもつ。

意思のあるところに方法はある。(Where there’s a will, there’s a way.) 方法があれば、責任が果たせます。
ところが、日本人には意思 (will) がないので方法もない。意思は未来時制の文章内容で、日本語文法には時制 (tense) がない。だから、日本人には意思がない。優柔不断・意志薄弱に見える。自分の言動に責任が持てない。

>そういう国民にならんといかんね。

そうですね。今は、’とかくこの世は無責任’ といったところですからね。国際社会から信頼が得られない。何を考えているのかわからない。考えていないのだから、方針を示せない。方針を示さない方が得策であると考えて、自分はその分賢いのだと考えて安心しないほうが良い。そうでなければ、相手の協力は得られない。

>まあ、国際社会から尊敬され、美しい国民だと言われるようにならんと。

気分・雰囲気の問題ですか。上辺だけでなく、やはり哲学が必要でしょう。相も変らぬ歌詠みではいられませんね。孤高の人にとどまるべきではありません。
国民に ‘あるべき姿’ を考える知力が必要ですね。それを聞けば、人は信頼できる。腹に表現できないどろどろとしたものを抱えているだけでは、相手の信頼はえられない。バラバラな単語は文章にして、明確な意味示すことが必要です。

>そのためにも、日本の国として、そういう方針をつくって、国の内外に、ハッキリと宣言して、それに基づいて、国として、国民として考え行動するようにせんとね。

同感です。国としての方針が必要ですね。未来社会の設計図のようなものが必要ですね。それをみんなで考える。その中で最良のものを我が国の方針に選んで、国の内外にハッキリと宣言する。まずは、国内に確たる構想を育てる個人主義の確立が必要ですね。それは教育の問題でしょう。
教育といえば、今は ‘よみ・かき・そろばん’ の時代を過ぎて、高等教育の時代です。明治は遠くなりにけり。




.







考える自由

2017-01-18 00:32:06 | 教育
>……….最近の若い社員は自分で考えない、主体性がないと批判されるし、たしかにそういう面もあろう。>しかし実際には、ほとんどの会社や組織で、それは歓迎されず、むしろ禁じられているのではないか。>学校と同様、発言は求められるが、そこで許容されるのは、正しい答え、よい答え、上司や会社の意向に沿う答えである。

同感です。上司や会社は、自分自身に都合の良い内容の発言を待っていますね。

>そこから外れることを言えば、怒られ、笑われ、諭され、無視される。

そうですね。他人から嘲笑されるような人間になってはいけない。

>そのように自由にものが言えないところに考える自由はない。>結局学校と同じく、仕事も与えられたことを決められたやり方で遂行するよう期待される。

不自由を常と思えば不足なし。

>時に創意工夫は必要だろうし、仕事によっては個々人の裁量が認められていることもある。>けれども、「なぜそうするのか」という質問や「こんな仕事をしたい」という希望は、なかなか受け入れられないだろう。

個人の内容は取り上げられませんね。希望は滅私奉公でなくてはいけないのでしょう。

>同様のことは高齢者になった後も続く。>生涯学習にせよ、養護施設での生活にせよ、高齢者は、自分でどうするかについて考える余地を与えられていない。>医療関係者や福祉関係者が彼らに必要なものを考えて提供する。

日本人には、自主・独立の気風に乏しいですね。

>しかし、高齢者自身の生き方が重要なら、当事者である彼ら自身が何をどうしたいのか発言をし、考える自由が与えられなければならず、また彼らはその自由を行使しなければならない。>そうでなければ、学校教育と同じく、自分で自分の人生の帰結に責任をとることなどできない。>人生の締めくくりの段階が、そんなことでいいのだろうか。

同感です。自己の意思を示せば当事者・関係者となる。意思を示さなければ、傍観者にとどまる。

>地域コミュニティでも同じことが繰り返されてきた。>地元住民が当事者として地域をどうするか考えなければならないはずなのに、それを国や自治体、もしくはどこかの企業が代わって考え、決めてきた。

同感です。国や自治体、企業は責任感なく決定する。

>何か問題が起きたら、住民は行政や企業を非難するが、彼らは責任をとらない。

意思を示せば責任がある。だが、日本人には意思がない。だから責任はない。この国がひっくり返った時にも、敗戦の責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。

>当たり前である。>それは彼らの人生ではないからだ。

人生は、処世術を使って護るもの。今だけ、金だけ、自分だけである。

>しかし当事者である住民は、自分たちで考えも決めもしなかったから、責任がとれない。>しかしその結果は引き受けるしかない。

一億総懺悔のようなものか。消極的な人生か。

>まさに学校教育と同じである。

すべては、受け身・消極である。意思が無ければ、能動・積極はない。

>私たちは、自分の生き方に関わることを誰かに委ねるべきではない。

そうですね。我が国は、自国の安全を他国に委ねるべきでない。と同じこと。

>また誰かに代わって考えて決めてあげることもやめなければならない。

そうですね。それは親が子供にすることですね。大人の甘えは許されません。

>人間は自ら考えて決めたことにしか責任はとれない。

意思の無いところに責任はない。

>私たちに必要なのは、考える自由である。

自由とは意思の自由です。日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容で、時制は英文法にはあるが、日本語文法にはない。だから、日本人には意思がない。

>そしてそのためには、何でも話していい場が、つねにではなくても、どこかで絶対に必要なのである。

言論の自由は確保されなくてはなりませんね。

>しかもそれが対話を通して行われれば、自由が自分勝手になることも、責任が個人で背負う重荷になることもない。

対話が談合にならなければよいですね。なーなー主義では対話ができない。我が国の言語教育の問題です。

>お互いの間で承認され、共に享受するものになるのである。

うまくゆくと良いですね。


.










知的退廃

2017-01-16 20:49:02 | 政治
>そもそもロックフェラー3世がダレス特使の文化問題顧問として日本に派遣されたのは、トルーマン大統領が1951年に 「心理戦略本部」(PSB:Psychological Strategy Board)を創設したことに由来しています。
>ですからロックフェラーの機密報告書「英語教育プログラム」も、日本にたいする心理戦すなわち「いかにして日本を『半永久的な米国依存の国』にするか」という戦略の一部として提案されたものでした。

日本は根っから甘えの国ですからね。米国依存はお似合いですね。

>松田武『戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー、半永久的依存の起源』(岩波書店)は、1951年1月に日本政府と対日講和条件を協議するために東京を訪問した時のダレス国務長官を次のように描写しています。
>「ダレスは公衆の面前では、日本のことを『戦勝国によって指図される国』ではなく『相談される当事国』と表現し、雅量のある調子で語った。しかし私的な場所では、解決すべき主たる重要な問題は『我々の好きな場所に我々の好きなだけの期間、我々の好きなだけの軍隊を駐留させる権利を手に入れることではないのかね』と側近に語った。…そして実際にアメリカ政府は、日本の領土内に合衆国の基地システムを保持することに成功した。」(126頁)

自己の意思を表明すれば、当事者・関係者となる。意思を表明しなければ、傍観者にとどまる。
日本人には、意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものがない。だから、日本人には意思がない。我が国は、世界の中にあって、世界に属していない。

>こうして日本は、沖縄の基地問題に象徴されるように、アメリカ兵が犯罪を犯しても、垂直離着陸機オスプレイが事故を起こしても、政府が独自に調査し処罰できない軍事的従属国になっています。そして軍事的に従属しているだけでなく文化的にも従属するようになり、「アメリカのものは優れているが日本のものは劣っている」と思考形態をいつのまにか身につけてしまいました。

日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。我が国は伝統的な上下思考の国ですね。自分の身体と子供は自分自身で護る。これは、アニマルの鉄則です。我々はアニマルに劣るのか。

>というよりも軍事的従属は、英語教育などを通じた文化工作の結果として生まれた文化的従属の結果でもありました。あるいは軍事的従属は文化的従属と手を携えながら進行したと言うべきでしょう。

人類の知的財産の大半は英語の文献として蓄えられています。この知的財産を我々日本人は自由に活用できるようにするのが最善の道でしょう。軍事的従属は、他力本願・神頼みです。文化的従属は、井の中の蛙の立場に起因するものです。

>その典型例がカタカナ語の氾濫です。明治の知識人は外来語を何とか日本語に移し替えようとして悪戦苦闘しながら新しい語彙・新しい日本語を創造する努力を積み重ねて来ましたが最近はそのような努力を放棄して、英語教師でさえ意味のとりづらい「コンプライアンス」などという語を、NHKでさえ平気で使うようになってきました。

‘compliance’ とすべきですね。カタカナ語はローマ字 (alphabet) で綴るべきです。そうでなければ、英語を知っているつもりになっていても原書が読めない。外国人にも、カタカナ語を英単語で書いて示せない。

>これは老人や子どもにとって生活上の障害になるだけでなく、明治の知識人が外国語と格闘するなかで日本語を磨き、それを土台にして創造力を鍛えてきた先達の遺産を放棄するという意味で、知的退廃につながっていきます。

二千年前の漢字を使えば、その数は限られ、意味も限られてくる。我が国に押し寄せる非漢字圏の言語を漢字で処理することはできませんね。漢字は本来、中国人の考えを表すために造られたものです。外国人の考えを表すために造られたものではない。

>日本のノーベル賞受賞者の多さも、このような先達の知的努力が生み出したものの成果だとも考えられるからです。

日本のノーベル賞受賞者も英語のおかげで受賞にこぎつけたのでしょうね。

>このような知的努力を放棄しているかぎり、小学校から英語を導入しても、そのような世代からはノーベル賞受賞者は決して生まれないでしょう。

日本語圏から日本のノーベル賞受賞者が出るのではなくて、英語圏から日本のノーベル賞受賞者が出ているのでしょう。

>それどころか、日本の進路を大きく左右しかねないTPP(環太平洋経済連携協定)という協定文書は、正式な交換文書であるにもかかわらず、政府はその日本語版を要求しなかったばかりか、全文の翻訳すらもおこなおうとしませんでした。

これは政府の怠慢によるものですか。

>こうして、国会議員は内容もよく分からないままTPPへの賛成を強いられることになりました。

国会議員もよくTPPの勉強しなくてはなりませんね。

>カナダが、英語国であるにもかかわらず、ケベック州の公用語が仏語であるという理由だけで、協定文書の仏語版をも要求したのと、なんという大きな違いでしょう。

我が国は、英語に弱い国ですから、英語版が入手できると国会議員も助かりますね。

>これはまさに知的退廃の極みです。これでどうして国益を守ることができるのでしょうか。これでどうして安倍首相の言う「美しい国」を築くことができるのでしょうか。

貴方は、知的退廃から逃れる術を何かお持ちですか。



.