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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

日本語の脳

2017-10-31 01:52:15 | 日本語脳


> (略)
>角田教授の発見では、虫の音だけでなく、そのほかの動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎまで、日本人は言語脳で聞いているという。これまた山や川や海まで、ありとあらゆる自然物に神が宿り、人間はその一員に過ぎないという日本古来の自然観に合致している。> (略)>いずれにしろ、自然音を言語脳で受けとめるという日本人の生理的特徴と、擬声語・擬音語が高度に発達したという日本語の言語学的特徴と、さらに自然物にはすべて神が宿っているという日本的自然観との3点セットが、見事に我々の中に揃っているのである。

日本人の自然観がうまく説明できていますね。

> (略)
>■違うがゆえに独創的なものが生まれる>「違うがゆえに独創的なものが生まれる」とは、独創的な中間子理論でノーベル賞を受賞した湯川博士の言葉だけに重みがある。日本語の脳の違いは人類の多様性増大に貢献しているわけで、「虫の音に耳を傾ける文化」などは人類全体の文化をより豊かにする独創的なものと言える。

まったく同感いたします。我が民族は、本当に文化人の感じが致しますね。

>こうした「生きとし生けるもの」の「声」に耳を傾けるという自然に対する敬虔な姿勢は、今後「宇宙船地球号」の中ですべての生命と共生していくために貴重な示唆を与えうる。

しかしながら、日本人の自然に対する敬虔な姿勢にも、危険な面がありますよ。
単語は文章に構成されて、はじめて意味を持ちます。
単語だけでは意味がありません。私が ’セミ’ と言えば、相手は、’それがどうした’ ということになります。ですから、説明には文章が必要になります。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、バラバラな単語でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
生涯のつまずきを避けるためにも我々は発言を文章にして語ることが大切であります。だが、日本語の場合は、時制がないので、英語のように異なる次元の文章を並置した上で比較して自らの結論に導くことはできません。ですから、英米人のような大人の話はできません。そこで、以心伝心・不立文字となります。こうした精神状態では、国際社会に立つことはできません。彼らの言語では、考えは必ず文章になります。文章にならなければ、考えではないと信じられています。

ですから、ばらばらな単語には意味もなければ矛盾も有りません。そして、バラバラな単語は他民族には意味が無いと考えられているのでしょう。意味を求める左脳では処理できません。
我が国では、目上の者が単語 (小言・片言・独り言) を発すれば、下の者は忖度 (推察) により勝手な解釈をします。こうした行為が習慣となっていますので、当然のように解釈されています。ですから、我が国の上位の者の発する声は、虫の声と同様に責任がありません。このような言語環境にありますので、無謀な行為の責任を問われたときには責任の所在も分からず、本当に困るのであります。ですから、私は、カイになりたいと思うことがあるのです。この国がひっくり返った時にも、責任者は出てこなかった。とかく、この世は無責任。このような世界から脱出することも、我々には考える必要があるでしょう。

> 我々が受け継いだこの「日本語の脳」の違いを意識的に極め、その独創性をよりよく発揮していくことは、我々日本人の全世界に対する責務とも言えるだろう。

そうですね。我が民族の良い面を伸ばし、悪い面を無くさなくてはなりませんね。我々が日本語と英語の双方を学ぶことが、全世界のためにもなることと思いますよ。我々は、’日本語の脳’ に関して有頂天になったり、国粋主義になったりすることはできないでしょうね。



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角田博士 (右) と友人





日米の教育

2017-10-30 01:46:18 | 教育

>アウトプット方法の違い
>まず大きな違いが「アウトプット方法」です。日本の教育では、物事の事象や現象の名前、順序など、覚えたものをそのままアウトプットをする機会が多いように感じます。

そうですね。日本の教育は、暗記力の勝負ですね。

>それに対してアメリカの教育では、明確な答えを知る前に自分で考えたものをアウトプットすることが多いのです。>言い方を変えると、覚えたり習ったりする前にまずは「どうなっていると思うか」が問われ、それ以前の知識や自分の想像を使って答えるような課題が出されることが多いのです。

そうですね。考えの過程が重要視しされていますね。

>このような教育を受ける日本人は、覚えたものをそのままこなす作業が得意になるように思います。

同感です。

>伝統工芸や、職人技は日本のお家芸でもあり、世界に自慢できるものが多くあります。>古くから現代に技術がそのまま受け継がれてきているのは「日本人の真面目さ」と「インプットしたものを自分の中で捻じ曲げずにそのままにアウトプットする」という日本の教育の強みが作ったものではないでしょうか?

私もそう思います。

>反対に、アメリカの教育からもたらされるものは「創造性の高さ」なのではと感じます。

そうですね。非現実の内容を現実の内容に変換すれば、それは創造したことになります。

>AppleのiPhoneといったデバイス、Facebookといったサービスなど、何もないところから世界が驚く新たなものを作り出し、シリコンバレーでは今も次世代を担おうと開発者たちが切磋琢磨しています。>それらはインプットに頼らずに何か知らないものを考えるという教育がもたらしている産物かもしれませんね。

そうですね。非現実の内容は脳裏に存在します。現実の内容は頭の外に存在します。両者は所在が違いますので、同じになりません。

>プロセスが重要?
>私自身が最も大きな違いとして感じているのは、日本ではプロセスがあまり重視されないのに対し、アメリカではプロセスが評価に対して大きな影響力を持っているという点です。

そうですね。考えの過程が重要ですね。考える人になる事ですね。

>例えば大学受験では、アメリカの場合高校生活での授業全ての成績が評価対象になるので、途中で大きなミスをしてしまうと、いい大学へ進学ができなくなってしまいます。>逆に、常に努力さえしていれば有名な大学への進学はそれほど難しくはありません。

試験官が家庭にやってきて、一日中生活状態を見て帰っていったと話した受験生が居ました。

>日本の場合は、大学へ提出する成績は1年分だけでいい場合が多く、入学試験でいい点を取れば取り返しがきくということも少なくありません。>その一方で、大学受験当日に体調を崩し、本来の実力が発揮できずに学力に見合う大学へ入れなかったということも起こります。

我が国では、何事も一発勝負ですね。

>私がアメリカの教育がプロセス重視であるということを感じた大きな理由は他にもあります。>アメリカで授業を受けている際に、明らかに間違った答えを言う生徒がいました。

間違いは、誰にでもありますね。

>私が高校までで受けていた日本教育の場合、きっと「それは違う、こう解くんだ」と、正しい方法や答えがすぐに教えられるでしょう。>しかしアメリカでは、その答えがどうやって導かれたのかをその生徒が論じる機会が与えられ、教授がしっかりとそのプロセスを理解してから答えを教えたり、ときには「その考え方は面白い!」という教授の同調が得られ、そこから話が広がることもあります。

論理は、日本人には難しすぎるのでしょう。やはり、我が国では正解の暗記力の勝負ですね。

>アメリカの会社や起業家たちの創造性はそういったところから生まれているのかもしれません。

そうですね。
現実の内容を現実に再現すれば、それは模倣になります。
非現実の内容を現実に実現すれば、それは創造したことになります。
特亜三国 (日本・韓国・中国) の民は、模倣が得意で、創造が苦手です。
模倣の競争は参入が比較的容易ですが、過当競争になり生活が過酷なもになりがちです。創造の競争は個性的であり、参入者が少なく、楽しみがあります。

>日本の決まった答えを重視するような教育方法では、決められたことをやりきるのが得意な人材が育つように感じます。>これは仕事においても強く感じられるものではないでしょうか?

そうですね。同感です。我が国では、’決まった’ が大切で、’決める’ のは難しいようです。受動ばかりで、能動が苦手です。

>高級店でなくても、日本であればある程度どこのお店に行っても素晴らしい対応を受けることができるのは、決まったことをしっかりと実行するような教育スタイルで培われた勤勉性や真面目さが出ているのだろうと感じます。

日本人は、目先・手先の事柄に精神を集中できますからね。

>今回は2つの大きな違いを紹介してみましたが、皆さんはどう思いますか?

まったく同感です。
 
>何においても必ず利点、難点の両方が存在するので、一概にどちらがいいとは言えないのかもしれませんね。

我々日本人は、日本語と英語の両方を学ぶと良いですね。さすれば、両者の考え方の利点を身に着けることが出来て、鬼に金棒の民族になります。

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中村修二氏

2017-10-28 00:57:02 | 教育
>日本でも米国でも、小学生までは違いがない。

人間ですから、違いは無いでしょうね。医療においても、人種別治療法といったものは存在しません。

>しかし、中学生、高校生になったら違いが生まれる。

それは、日本と米国では使用言語が違いますからね。言語は、人間が考える時の道具です。道具が違うと、結果も違ってきます。

>日本でも米国でも、小学生までは違いがない。

そうですね。人間ですから、違いは無いでしょうね。医療においても、人種別治療法といったものは存在しません。

>しかし、中学生、高校生になったら違いが生まれる。

それも本当ですね。それは、日本と米国では使用言語が違いますからね。言語は、人間が考える時の道具です。道具が違うと、結果も違ってきます。

>米国の場合、中学生になっても、高校生になっても、小学生と同じような好奇心をもって大きくなるが、日本の場合、そのような好奇心はない。

そうですね。礼儀作法など、日本では決まりきったことを習うのが大変なのです。現実に囚われて、非現実 (考え) にまで力が及びません。ですから、’考える人’ にはなれません。

>米国ではサイエンスの雑誌などが学生に売れるが、日本では売れない。

同感です。サイエンスは、日本人には難しすぎますね。サイエンスは哲学 (非現実) ですから。サイエンスの手法を習得すれば、哲学博士 (Doctor of Philosophy: Ph. D.) にもなる事が出来るのですがね。

>日本の場合、サイエンスに対する好奇心より、東大に入ることを目的にするような学生が生まれてしまうからだ。

序列判断は、日本人にとって分かりやすくて大切な内容ですからね。日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上とみるか・下とみるか’ の判断は日本語会話には欠かせません。日本人の礼儀作法も、序列作法になっています。上下判断を誤れば、礼儀正しい日本人にはなれません。人を見損なってはいけない。序列なきところに礼儀なし。こうした想いが日本人の強迫観念になっています。してみれば、やはり東大に入学するのがよいということになります。

>その結果、大学生になると、日米の研究に対するやる気が全然違う。

日本人は哲学に向いていません。それで、無哲学・能天気になっているのです。哲学は、ただ非常に難しい学問であると考えられています。そのような学問が英米人の教養として大学で教えられているとも考えられていません。非現実 (考え) の内容を語る学問が哲学であるとも考えていません。日本人は日本語を頼りにしていて、その日本語は現実描写のための言語だからであります。実況放送・現状報告の内容以外を語ることは、嘘をつく事であると信じています。この原則は、’話に現 (うつつ) を抜かしてはいけない’ と言い表されています。
日本語文法には時制 (tense) というものが無いので、非現実の内容を文章化できません。日本人の世界はあくまでも現実一つであり、過去・現在・未来の三世界は、頭の中に文章として留めおくことが出来ません。現実のみを語る人は浅薄であり、非現実の内容を参照しながら現実の対応策を語る人は、思慮の深い人になります。
それと、もう一つ大切なことがあります。それは、’意思のある所に方法がある’ ということです。(Where there’s a will, there’s a way.)
日本人には、意思 (will) がありません。意思は未来時制の文章内容であり、日本語文法には時制というものがありません。ですから、日本人には意思がありません。優柔不断・意志薄弱に見えます。このことが、日米のやる気の差となって現れます。日本人には理性的な能動がなくて、受動かばかりがあります。従順な人間であると考えられます。ですから、日本人は消極的です。自分の想いに反して、やる気がない人間と見られています。
この難局を乗り切る方法は、我々日本人が日本語と共に英語をも習得することにあります。さすれば、時制ある考え方も習得出来て、我々日本人はアメリカ人のポチではなくなります。


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投票率

2017-10-27 11:00:14 | 教育
>「18歳選挙権」が導入され、2度目の全国規模の国政選挙となる衆院選が10月22日に投開票される。>初回、2016年の参院選では、盛んな呼びかけにもかかわらず18歳と19歳の合計投票率は46.78%と低水準だった。>一方、スウェーデンの国政選挙(2014年)の30歳未満の若年層の投票率は81.3%。同じ年の日本の衆院選の若年層投票率は32.6%と大きな差がある。>なぜこのような差があるのだろうか?

民族性に差があるからでしょう。

>スウェーデンの若者の高い投票率を引き出している教育に着目する、明治大学の鈴木教授のインタービュー記事(リンク)よると、次のような大きな違いがあるという。
>【日本の場合】
>18歳で選挙権が付与されることになったが、投票に行く、行かないの前にそもそも政党のことを知らない。

各人に主張が無ければ、政党も政党名も必要ないでしょうね。

>なぜなら、教育で教えていないから。例えば「右」とか「左」って何?っていうことさえ。教育ではタブーとなっている。

各党の主張が理解できなければ、’右’ も ‘左’ もないでしょうね。

>現実ではなく、一般的な制度しか教えない。

教えは現実離れしているのでしょうね。

>【スウェーデンの場合】
>高校に各政党の若者組織の関係者がやってくる授業もある。>若者目線で「自分たちの政党はこういうことを言っている」というのを解説する。

政党の責任者は、自己の主張を明らかにすべきですね。

>基本的に政党が学校に来ることを悪いことだとは考えていない。

この国には何でもあるが、ただ夢と希望がありません。政治家は子供に夢と希望を与えることができます。

>幼稚園から既に「社会に物申す」教育が始まっていて、それも、全て民主主義の練習であるという枠組みの中でやらせている。

各人は、現実と自分の考え (非現実) の差を明らかにすべきですね。各人の考えの内容を比べて、民主主義で決着を図るべきでしょう。民主主義の練習は大切です。

>どうも日本の学校は、子供たちをなるべく政治から遠ざけ、政治への関心が薄く、政治のことを考えない人間の育成目指しているようだ。

政治は、未来志向でないといけませんね。政治家は、未来の内容を語ることを必要とします。しかしながら、日本語文法には時制というものが無いから、未来の内容は定まりません。また、語ることもできませんね。過去・現在・未来の世界観が無ければ、未来社会の内容も想定外となり、未来社会の建設にも人々の関心が薄く、政治の事を考えない人間が多くなります。

>これはでいつまでたっても政治が変わらないのは当然。

現在にとどまっていては、政治は変わりませんね。お変わりないのは、天下泰平のしるしという従来の発想法では政治は機能しませんね。

>政治を変えるには、まず学校制度から変える必要があるようだ。

学校制度というよりも、日本語脳の問題ではないでしょうか。この問題を解決することは、本当に難しいようです。

ノルウェイのヨースタイン・ゴルデルは、14歳以上の大人のために哲学入門書 <ソフィーの世界>* を著しました。
この本を例にとれば、現実の世界の少女・ヒルデと非現実の世界の少女・ソフィーは鏡像になっているのです。
だから、非現実の世界で考えをまとめることが出来れば、現実の世界でもその方針に沿って我々は行動することが可能になる。
非現実の世界の考えは、現実の生活の指針として役に立ちますね。
日本人の架空観念が現実の世界で役に立たないのは、おそらく頭の中で鏡像の関係が保たれていないからでしょう。非現実のための構文がなければ、文章は成り立たず、矛盾も排除できません。現在時制があれば、必ずその過去時制と未来時制を考えることのできるという言語脳が必要なのでしょう。
日本語には時制がないから、現実 (現在構文) と非現実 (未来構文) の内容を並置して頭の中に保存することが難しいです。この状態では、未来は開けませんね。それが大きな問題です。
*Jostein Gaarder, Sophie’s World. Berkley 1996 (訳本あり)


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義務教育

2017-10-27 01:27:41 | 教育
>義務教育を受けなければ人は成長できないというのは、単なる1つの意見でしかありません。>政府の学校教育など受けなくとも、人は学び成長できる生き物なのです。

そういうことも、考えられますね。

>親の不安に付け込んでいるだけ

そうとばかりは言えないようですよ。社会全体の知的水準を上げることになっているでしょう。

>義務教育が無かった時代というのは、民間の教育組織などが市民の教育を請け負っていたものです。

そうですね。しかし、無学の人も多かったのではありませんか。

>そして、それと同時に過去の日本では政府の学校教育など存在しなかった頃は地域が一体となって子供を育て教育するという意識がとても強かったのです。

それには、個人差・地域差というものがありますでしょう。

>教員免許を持った公務員と呼ばれる教師ではなく、商人や農家などの社会的に意義を持った職業の人々が、地域の子供に読み書きなどを教えるのが普通でした。

私の住んでいるところは農村ですが、明治初期生まれの女子はほとんど門毎無学でした。明治後期生まれの女子も就学期間が三年程度で、漢字が苦手でありました。

>冷静に考えてみて欲しいのですが、学校の教師たちは教科書に書かれたことを黒板に書き写し、子供に覚えなさいと命じているだけです。

そういう見方もあるでしょうね。

>別に、これはある程度読み書きができる大人などであれば教員免許を持っていない人でも出来ることが分かるはずです。

それは、そうでしょうね。

>それどころか子供でさえも学ぶ意欲があれば教科書などを独習すれば事足りてしまうでしょう。

それにも個人差があるでしょうね。

>こういうことを書くと>「それならば集団生活はどうやって身に着けさせるんだ?」

そうですね。同年代の人々との付き合いは、大切ですね。大統領・皇族の子供でも、学校教育は受けさせますね。寄宿舎生活も良いですね。

>「一人で好きな事だけをさせていれば我がままな奴になる」

若者には、個性を伸ばす環境が必要でしょう。

>「社会性が身につかないだろう」

同年代の人たちとの対話が特に必要ですね。

>「上下関係が無いから礼儀の無い人間が育つ」・・・などの意見が出てくるはずですが、それならば家以外の場所で他者とふれ合い周囲の人間のことを考える機会を与えればいいだけです。>別にそれは義務教育の中だけでしかできないことなどではありません。

そうですね。上下関係は、丁稚奉公でも鍛えることが出来ますね。

>例えばですが、図書館など公共空間を利用する際に館内では静かにすることや、迷惑にならないように飲食を控えることなど他者を尊重することも学べるでしょう。

特別な宗教教育を受けなくても、人は神社・仏閣などでは静かにしていますね。これは、気分・雰囲気による効果でしょうか。

>そのほかにも、習い事などを身に着けさせるなどすれば指導者などへの敬意を学ぶということだって別にできるはずです。

あなたのご意見は、我が国の義務教育制度を国民制度皆保険制度でなくて、自由診療にする様なものですね。

>学校など行かなくても、真剣に試行錯誤すれば子供が日々成長するということは難しくもなんともないということが簡単に理解できるでしょう。

‘親から学ばぬものは、自己の経験から学ぶ’ といったようなものですね。これには、良い場合とそうでない場合とがあるでしょう。

>結局のところ、政府の学校が無ければ読み書きも計算もできない人間になるんだよという不安を学校関係者があおっているだけなのです。

能力の問題というよりも、縦社会の序列競争が気にかかっているのではありませんか。

>そして、家庭の親たちがその不安に負けて義務教育だからと言いながら子供を政府の学校に差し出しているだけなのではないでしょうか。

義務教育であっても私立の学校なら、問題がないということですか。

>人は本来、誰かに強制されなくとも学ぶ力も意欲も備えているのです。

そうですね。人間は知識欲を持っていますね。子供の書店でのタダ読みを見ればわかります。

>歴史上、義務教育などまともに受けていなくても偉大な功績を上げた人々は多数存在するのです。

おっしゃる通りですね。でも、そうでない人も大勢いますね。

>あなたが親であるならば、まずご自身の子供を信じるということを学びましょう。

自分の子供を信じたら、どうなるのでしょうか。義務教育が要らなくなるのでしょうか。