>本能や共認機能(自我を含む)が生み出す、言葉以前の意識のこと。例えば、共認動物に固有の規範も言葉以前の不文律であり、本能(=秩序化された体系)の代替機能として存在している(=潜在的に意識されている)。
その潜在的意識は、恣意 (私意・我がまま・身勝手) のことでしょう。
自由とは、自由意思の主張でしょう。もし意思が存在しなければ自由の価値も半減しますね。
‘意思の自由’ を ‘恣意の自由’ と取り違えたら、それこそ、’自由のはき違え’ になるでしょう。そしたら、’不自由を常と思えば不足なし’ の方針が正しいことになります。
>潜在思念の豊かさは、本能・共認(自我)機能の充足体験度に規定されるが、他方では事実に反する誤った観念の支配によって、逆に潜在思念は貧しくもなる。
観念・哲学を事実の内容であるとすれば、それは誤りになるでしょう。観念・哲学の内容は頭の中にあるが、事実の内容は頭の外にある。
哲学を組み立てるには、非事実の内容が必要である。文法に時制があると、過去の世界の内容は、過去時制の文章内容として表現される。現在・未来の世界についても、それぞれの対応する時制の文章内容として語られることになります。仏教にたとえてみれば、前世・現世・来世の三世界のようなもので、すべては非現実の世界です。
‘人は、万事不平等である’ (A) は、日本人も理解できる。それは、事実だからである。
だが、’人は、生まれながらにして平等に作られている’ (B) は、日本人には難しい。内容が哲学的であり、非事実だからである。それは、’あるべき姿’ ということができる。
日本人の判断は ‘嘘・本当’ しかない。文章内容が事実であれば ‘本当’、そうでなければ ‘嘘’ である。日本語には、時制が無いから、実況放送・現状報告のための言語ようになっている。非現実の内容は、日本人の頭では常に想定外になっている。
英米の高等教育の内容は、哲学 (非現実) の習得にあるから、その内容を和訳したら全部が真っ赤な嘘になる。
その嘘を事実として強弁するのが曲学阿世の学士たちである。それがもとで失脚もする。日本の大学の卒業生は自分の考えに自信がない。外国人を説得する力が無い。哲学は大同となりうる内容であり、各々の小異を捨てさせる理由になりうるものであるが、日本人には大同が語れない。哲学が無ければ雄弁も無い。
英米人の場合は、例文 (A) と例文 (B) を並べて論ずる。だから話が高尚になる。お涙頂戴で訴えるのでもなく、。他力本願・神頼みでもない。持論を説くことができるのである。現状の貧富の差を指摘して、その差を縮める必要性を説くようなものである。彼らは、ここで指導性を発揮する。
彼らには恣意ではなくて、意思がある。意思は未来時制の文章内容で、英語にはあるが日本語にはない。それで、英米人には意思があるが、日本人にはない。英米人は決意するが、日本人は優柔不断・意志薄弱である。
>現代は、本能・共認機能と直結していない単なる暗記知識としての観念がはびこり、本能・共認機能の過半が抑制or封鎖されている人が増加中。
我が国の大学生は、意味のないことを覚えて ‘頭でっかち’ になる。非現実の内容は、英語脳においては現実とは別次元のところに存在して、決して頭の中で混乱を起こすことはない。哲学は日本語脳内においては形成されず、その想いは雑念になり常時払拭されている。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは、考えではない。
日本人は、現実の内容のみを文章にする。英米人は、現実も非現実も文章にするが、頭の中の混乱はない。
現実の内容を現実において再現すれば、それは模倣である。サルでもできる猿まねである。
非現実の内容を現実おいて実現すれば、それは創造である。人間固有の創造力を発揮したことになる。
特亜三国人 (日本人・韓国人・中国人) は、模倣が得意で、創造が苦手である。
>意識の統合力や照準力は、第一義的には本能・共認機能が生み出す力であるが、事実の認識は意識の統合力や照準力やスピード力を飛躍的に上昇させることができる。
動物は、反射的に行動することができる。精神 (注意力) の集中は抜群である。日本人の修業目的のようなものか。
>逆に、事実に反する観念や単なる知識としての観念に支配されて本能・共認機能が抑圧されている人々は、統合力も照準力もスピード力も極めて貧弱なものとなる。
現実の内容しか認めようとしない日本人は、現実肯定主義者となっている。
‘そんなことを言っても駄目だぞ。現実はそうなっていない’ と現実肯定主義者は哲学に反発する。
彼らは、非現実の内容を文章にすることができない。子どものようなものである。日本人は、’嘘・本当の世界’ に生涯住んでいる。無邪気に跳ね回ることができるのか。
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その潜在的意識は、恣意 (私意・我がまま・身勝手) のことでしょう。
自由とは、自由意思の主張でしょう。もし意思が存在しなければ自由の価値も半減しますね。
‘意思の自由’ を ‘恣意の自由’ と取り違えたら、それこそ、’自由のはき違え’ になるでしょう。そしたら、’不自由を常と思えば不足なし’ の方針が正しいことになります。
>潜在思念の豊かさは、本能・共認(自我)機能の充足体験度に規定されるが、他方では事実に反する誤った観念の支配によって、逆に潜在思念は貧しくもなる。
観念・哲学を事実の内容であるとすれば、それは誤りになるでしょう。観念・哲学の内容は頭の中にあるが、事実の内容は頭の外にある。
哲学を組み立てるには、非事実の内容が必要である。文法に時制があると、過去の世界の内容は、過去時制の文章内容として表現される。現在・未来の世界についても、それぞれの対応する時制の文章内容として語られることになります。仏教にたとえてみれば、前世・現世・来世の三世界のようなもので、すべては非現実の世界です。
‘人は、万事不平等である’ (A) は、日本人も理解できる。それは、事実だからである。
だが、’人は、生まれながらにして平等に作られている’ (B) は、日本人には難しい。内容が哲学的であり、非事実だからである。それは、’あるべき姿’ ということができる。
日本人の判断は ‘嘘・本当’ しかない。文章内容が事実であれば ‘本当’、そうでなければ ‘嘘’ である。日本語には、時制が無いから、実況放送・現状報告のための言語ようになっている。非現実の内容は、日本人の頭では常に想定外になっている。
英米の高等教育の内容は、哲学 (非現実) の習得にあるから、その内容を和訳したら全部が真っ赤な嘘になる。
その嘘を事実として強弁するのが曲学阿世の学士たちである。それがもとで失脚もする。日本の大学の卒業生は自分の考えに自信がない。外国人を説得する力が無い。哲学は大同となりうる内容であり、各々の小異を捨てさせる理由になりうるものであるが、日本人には大同が語れない。哲学が無ければ雄弁も無い。
英米人の場合は、例文 (A) と例文 (B) を並べて論ずる。だから話が高尚になる。お涙頂戴で訴えるのでもなく、。他力本願・神頼みでもない。持論を説くことができるのである。現状の貧富の差を指摘して、その差を縮める必要性を説くようなものである。彼らは、ここで指導性を発揮する。
彼らには恣意ではなくて、意思がある。意思は未来時制の文章内容で、英語にはあるが日本語にはない。それで、英米人には意思があるが、日本人にはない。英米人は決意するが、日本人は優柔不断・意志薄弱である。
>現代は、本能・共認機能と直結していない単なる暗記知識としての観念がはびこり、本能・共認機能の過半が抑制or封鎖されている人が増加中。
我が国の大学生は、意味のないことを覚えて ‘頭でっかち’ になる。非現実の内容は、英語脳においては現実とは別次元のところに存在して、決して頭の中で混乱を起こすことはない。哲学は日本語脳内においては形成されず、その想いは雑念になり常時払拭されている。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは、考えではない。
日本人は、現実の内容のみを文章にする。英米人は、現実も非現実も文章にするが、頭の中の混乱はない。
現実の内容を現実において再現すれば、それは模倣である。サルでもできる猿まねである。
非現実の内容を現実おいて実現すれば、それは創造である。人間固有の創造力を発揮したことになる。
特亜三国人 (日本人・韓国人・中国人) は、模倣が得意で、創造が苦手である。
>意識の統合力や照準力は、第一義的には本能・共認機能が生み出す力であるが、事実の認識は意識の統合力や照準力やスピード力を飛躍的に上昇させることができる。
動物は、反射的に行動することができる。精神 (注意力) の集中は抜群である。日本人の修業目的のようなものか。
>逆に、事実に反する観念や単なる知識としての観念に支配されて本能・共認機能が抑圧されている人々は、統合力も照準力もスピード力も極めて貧弱なものとなる。
現実の内容しか認めようとしない日本人は、現実肯定主義者となっている。
‘そんなことを言っても駄目だぞ。現実はそうなっていない’ と現実肯定主義者は哲学に反発する。
彼らは、非現実の内容を文章にすることができない。子どものようなものである。日本人は、’嘘・本当の世界’ に生涯住んでいる。無邪気に跳ね回ることができるのか。
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