gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

平和 

2020-12-31 02:34:14 | 文化

 

>363115          キライなことば――「平和」という生簀  >匿名希望        20/12/31 AM00

>リンク より引用

>「平和」は、明治新政府がラテン語のPax(英語のPeace)の対訳に適当な日本語として採用した、古くからある漢語「和平(平らげて和やかにする)」を倒置し「平らげられて和やかな状態」という意味を持たせた造語である。

 

そうですね。中国人は漢字を作るのが上手である。日本人はそれを組み合わせて造語を作るのが上手である。  

 

>世界史でPax Romanaを「ローマの平和」と習うが、ちゃんと書けば「ローマ帝政の支配にもとづく平和」であり、冷戦期のPax Americanaなどは「アメリカの覇権(脅威)による平和」だ。 >ならば「平和」には必ず支配者が要るということになる。  

 

そうですね。誰かが支配者になる必要がありますね。自分たちが支配者になる必要がありますね。   

 

>これで「平和」が急に嫌なことばに見えてくるのは筆者だけではないはずだ。 >耳障りな「支配」ということばを「統治」「制御」「執政」「管理」などと言い換えたところで何も変わりはしない。 >平和を保つには支配者が必要である。  

 

そうですね。   

 

>しかし支配される側の人間は支配者を選べないのである。 >歪みの根はこれなり。 

 

我々は参政権を得る必要がありますね。代表制の民主主義ですね。    

 

>「平和」にあたる語句を日本の祖先が話した「やまとことば」のなかに見出す。 >同意とは言い難いが「やす」がそれを包括するだろう。 

 

日本人には意思がない。だから、同意は難しい。   

 

>休む、癒す、治す、などの動詞の原型が「やす」である。 >漢字をあてると、安、泰、康、保、易、寧、靖、恭、などがある。 >それぞれ少しずつ違いをもつが大意はおなじくして「争いや病や波風のないさま」である。 

 

弱肉強食 (The right of the strongest) は自然の掟ですね。   

 

>「やす」は、天と人と地の間で保たれる均衡とでもいうべき崇高な言葉で、戦火で焼き尽くし軍靴で平らげた「平和」とはそもそも格が違う。  

 

力は正義ですね。Might is right.   

 

>話を平和ボケに戻す。 >まず「平和」にたいする幻想を捨てなければならない。 >戦争よりはマシだがそれ程きれいなものではない。 

 

一億総玉砕よりはマシですね。 だが、我々は政治音痴ではいられませんね。  

 

>平和を誰がどう設計したか見極めないうちは真に良い国は築けないのだ。  

 

そうですね。政治哲学の探求が必要ですね。  

日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。 (ウスビ・サコ)     

 

>そとの海で生きる術など知る必要もない、飼い主のくれる餌をほおばり、外敵の存在もしらない、まな板の上でさばかれていてもまだ気がつかない、生簀の魚のような生きざまを平和ボケという。   

 

そうですね。日本人には世界観がない。

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' 対 '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。       

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。   

 

>魚ならず人であれば若いうちにもっと外を見て歩くべきだ。   

 

そうですね。井の中の蛙ではいられませんね。そのうちに茹で蛙になります。   

 

>テレビを消して、新聞や雑誌も捨ててはどうか。 >遊びのための小遣いを旅にあててはどうか。  

 

可愛い子には旅をさせよ’ ですね。

 

>そしてその目で確かめて欲しい。 

 

そうですね。見ればわかる。Seeing is believing.      

 

 

.

 

 

 


戦争ができない 2/2  

2020-12-30 15:59:52 | 文化

 

(1/2より) 

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する以下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない。

 

>●山本七平著『ある異常体験者の偏見』より

>軍隊語とは、単なる言いまわしや表現の問題ではなく、主語や時制が明確でない日本語では、軍隊の運営も戦争もできないが故に特別に造られた言葉であって、この言葉(軍隊語)を正しく分析すれば、それだけで戦争というものの実体がつかめるのではないかと思われる言葉である。>従って語系が違うと考えた方がよいかも知れない。

 

語系が違うので、わが国は高文脈文化 (high-context cultures) の国になり、西欧は低文脈文化 (low-context cultures) の国になっているのでしょうね。  

 [高文脈文化と低文脈文化の比較の例]

《高文脈文化》の特徴:  言葉以外に状況や文脈も情報を伝達する。重要な情報でも言葉に表現されないことがある。/ 曖昧な言語 / 一般的な共通認識に基づく / 双方の合意に基づいた契約でも状況によって柔軟に変更される。/ 感情的に意思決定される/沈黙は不快ではない /

《低文脈文化》の特徴: 伝達される情報は言葉の中で全て提示される。/ 正確性が必要とされる言語  / 言語に基づく / 双方の合意に基づいた契約の変更は容易ではない。/ 論理的に意思決定される / 沈黙はコミュニケーションの途絶として不快 /

出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』 

 

>「大阪弁では喧嘩はできない」などといわれるが、もっともっと徹底した意味で「日本語では戦争はできない」のである。 >私自身はこのことを非常に誇りに思っている。

 

私自身の体験からすると関西弁で話す方が関東弁よりも気が楽ですね。でも、相手に平和を説得する知力も無いようですね。   

 

>たとえば普通の日本語の「お待ちしております」では戦争はできない。>そこで軍隊語では「小官当地ニテ貴官ノ来訪ヲ待ツ」という言い方になるわけであって、この語順が何語に一番近いかは説明するまでもあるまい。(略) 

 

低文脈文化の言語の威力ですね。世界を動かす力を感じます。      

 

>今でも日本語と軍隊語の差はほぼ正確に指摘できると思う。>私はいつもこの二つの言葉を比較して、「なるほど、戦争とはこういう言葉を使わないと出来ないものか!そして、こういう言葉を使うことは、戦争を指向する証拠のわけか!」と思っていた。 

 

現在の自衛隊語は戦争を指向するようになっていますかね。   

 

>◆欧米の言語は軍隊語の文法

>言葉そのものから体系的に組みかえて行かない限り戦争はできないのだから軍隊語は「戦争語」だといっていい。  

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)  

 

>なお、ほとんどの欧米の言語は、軍隊語の文法です。

 

そうですね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

>リンクより

 

 

 

.

 

 

 


戦争ができない 1/2  

2020-12-30 15:36:38 | 文化

 

>363028          日本語は「戦争ができない」言語である >匿名希望       20/12/28 AM01

>◆日本語では戦争ができない

>そういえば、メルマガを始めたばかりの頃で、ほぼ 2年前ですが、《この宇宙は「言葉によって作られる」その仕組み。そして、日本語では戦争ができないということ 2018/11/16》というタイトルのメルマガを発行したことがありました。 >そこで、作家の山本七平さんが、戦争に赴いていた時のことなどを記した著作『ある異常体験者の偏見』(1974年)リンクから、「日本語は戦争ができない言語」だと述べていたことを書きました。 

 

日本人は日本語を使って大きな戦争をしたのではありませんか。その時は日本語に何か良い工夫を施したのでしょうね。  

 

>◆主語がない日本語

>この意味は、日本語は一般的に、主語や時系列や目的語さえも曖昧なことが普通である言葉ですが、そういう言葉では「戦争」はできないのです。 

 

自衛隊の言葉はどうなっているのでしょうかね。  

 

>「誰が 何日何時何分に どこの場所に 何をするために 何々を行う」ということを常に言うようなタイプの言語でなければ、その言葉のままでは戦争はできないのです。>たとえば、英語で「主語がない」ということはありませんが、日本語の場合、主語がないのが普通です。 

 

日本語はなれ合うための言葉ですからね。日本人同士は ‘阿吽の呼吸’、 ‘つうかあの仲’ です。気心の知れた友達同士の交際範囲は狭いですね。政治もできない。だから政治音痴になっている。     

 

>買い物に行くときに、家族に「私は買い物に行こうとしているところだ」というのは変です。 

 

日本人には意志 (will) というものがありませんね。   

 

>「買い物行ってくる」という主語と助詞と進行形のない言い回しが日本語の基本です。 

 

日本語は、実況放送・現状報告の為の言葉ですね。

フランク・ギブニー氏 (Frank Gibney) は、自著 <人は城、人は石垣> (Japan The Fragile Superpower) の中で、日本語と英語の違いについて、次のように述べています。

日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じ込められていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味を持つ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず論理的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行なわせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には ”to beにあたる適当な動詞がない。“beingとか “realityのような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。(引用終り)

 

>◆「軍隊語」の必要性

>ところが、ここまで抽象的な言語だと、近代的な戦争を行うことができないのです。  

 

非アリストテレス的文法では、抽象語の内容も定義できないですね。ですから、発言が哲学にはならず、出鱈目になる。   

司馬遼太郎は<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」 

 

>そのために、日本軍は「軍隊語」という、戦争に特化した言葉を作ったわけです。>つまり、「日本語という言語そのものが平和を表現している、世界で唯一に近い特殊な言語」なのです。 

 

日本語は曖昧な言葉ですから大勢の人が組織的な行動をすることができないのですね。戦争もできなければ平和運動も難しいでしょうね。      

 日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。 (ウスビ・サコ)     

 

>その山本七平さんの著作の部分を抜粋して、今回は締めさせていただきたいと思います。 >私自身は、大げさに聞こえるかもしれないですが、「日本語」という存在そのものが、この世界の最後の良心を示す存在だと思っています。  

 

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。無責任の世の中は良心的ではありませんね。 (2/2へ続く)  

 

 

 

.

 

 


齋藤孝氏 4/4 

2020-12-30 02:32:30 | 文化

 

(3/4より)

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)    

 

>自分で考える、自分なりの表現をするというのは、社会に出たときに生かしていける頭のよさ、「生きる力」につながるものです。 >きみたちに身につけてほしいのは、そういう学力であり、頭のよさです。』

 

わが国の根本的な病因は、’人手不足はあっても、頭脳不足の話は聞かれない’ ということです。  真の個人が育たない風土にあります。   

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)   

 

>従来の学校の勉強やテストでは、覚えたことを「正確に再現できる能力」や「記憶力」を問われることがほとんどだった。 >だがしかし、今後は、それは、ほとんどスマホでできてしまう。 >スマホで、録音したり、録画したり、写真に撮ったりして、それを後から再現すればいいだけだからだ。 >おまけに、スマホで検索すればほとんどの情報は瞬時に手に入る。 >だからこそ、これから必要とされるのは、「発想力」「問いを立てる力」「創造力」「プレゼン力」「アントレプレナーシップ(起業家精神)」等々だ。

 

非現実 (考え) の内容を現実の世界で実現すれば、それは創造力を発揮したことになる。

現実の内容を現実に再現すれば、それは模倣をしたことになる。

特亜三国 (日本・中国・韓国) の人は模倣が得意で、創造が苦手である。

模倣は容易であるため競争には参入者が多く、とかく過酷なものになりやすい。他人に煩わされることのないで我が道を行く創造の世界を樹立しよう。   

 

>そして、最も大事なことが「学び続ける力」。   

 

そうですね。継続は力なり。Persistence pays off. 

 

>本当の意味での「頭のよさ」を身につけたい。

 

私は無知であることを知っている。 (ソクラテス)   I know that I know nothing. 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)  

 

>**********************************************  

 

 

.

 

 

 


齋藤孝氏 3/4  

2020-12-30 02:07:49 | 文化

 

>一方、学校の勉強がきらいで成績もよくなかったけれど、大人になってから社会で大活躍したり、大成功したりしている人も、世の中にはたくさんいます。 >大人になっていきなり才能が開花したのでしょうか。 >いいえ、おそらくそういう人は、子ども時代から、テストの点数とか学校の成績とかでは測れない種類の頭のよさをもっていたんです。 

 

学校は序列作りの為のデータさえ集めれば、それで目的は達成されるのです。どんなにつまらない競争でも順位が得られれば、それで目的は達成されたことになります。その努力の結果がわが国の教育の低迷となって表れています。  

 

>新しいものを生み出す発想力とか、人を喜ばせたりやる気にさせたりするすぐれたコミュニケーション力とか、そういうものは学校のテストではわかりません。 >こういう人たちの発揮する頭のよさというのは、言ってみれば「社会のなかで、いかによく生きるか」というものなんです。 >勉強ができる、成績がいいということは、ある一面ではたしかに「頭がいい」のです。>だけど、きみたちが思っているほど絶対的なものじゃないんです。

 

絶対的な人間の序列などできませんね。   

‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)        

 

(略) 

>齋藤孝氏は「新しい学校教育」についてこう述べている。 >『学校教育においても、学力指導のポイントが変わってきています。 >これまでの学力は、「知識をつけ、それを覚え、その知識に基づいた問題に答えられる」力を重視したものでした。 >しかし、「思考力・判断力・表現力」や個々の「学習意欲」を伸ばしていくことを重視する方向へと、シフトしてきたんです。 >自分で考えて、自分の意見をちゃんともって人と対話できること。 >問題を発見して、自分で探求して、自分で研究してみる姿勢をもつこと。 >主体的・対話的で深い学び。>これがキャッチフレーズです。

 

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' 対 '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。       

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。

 

>それに伴い、学力を測る基準も、変わってきています。 >知識が身についているかというのは、ペーパーテストでわかりやすいものです。 >しかし、「自分で考える」ことが軸になっている「新しい学力」は、従来のようなペーパーテストで測るのはむずかしいんですね。

>それで、小論文を書くとか、自己PR文を書くとか、面接試験をするとか、そういうところで見る試験がどんどん増えているのです。 (4/4へ続く)   

 

 

 

.