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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

濱口和久氏  

2022-01-31 16:28:33 | 文化

 

 

>zakzak  >日本の危機 「緊急事態」を想定していない日本国憲法 特措法を制定して乗り切ろうとする「泥縄式の発想」 国民の生命と生活を守る体制整備を  [濱口和久]  > 2022/01/31 06:30

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>戦後の日本人は、「最悪の事態」を考えることを放棄してきたと言っても過言ではない。 >別の言い方をすれば「『最悪の事態』拒否症」とも言えるだろう。

 

そうですね。最悪の事態を考えることは日本人にとって縁起でもないことですね。だから、拒否症になっている。       

 

>そのため、日本では「最悪の事態」が起きたときに、「平時」から「緊急時」へスムーズな切り替えができる体制を整備せずに放置してきた。  

 

そうですね。平時は現実の内容ですが、緊急時は非現実 (考え) の内容ですからね。非現実の内容を考えることに日本人にとって言語的に難しいことですね。       

 

>その結果、新型コロナウイルス感染症対策では諸外国に比べて大きな後れを取った。

 

そうですね。日本人の脳裏には平時はあるが、緊急時の内容は想定外になっていますね。      

 

>「平時」の象徴が、1947年5月3日に施行されてから一度も改正されたことのない日本国憲法だろう。>日本国憲法は「緊急時」が起こることを想定していない珍しい憲法である。

 

そうですね。日本人の頭の中はお花畑になっているからでしょう。日本人の国民性は、日本語の言語特性と考えることもできますね。   

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。    

 

>日本側の憲法問題調査会が、GHQ(連合国軍総司令部)に提出した当初の試案では、国会閉会中に緊急事態が起きた場合に備え、大日本帝国憲法下の「緊急勅令や緊急財政処分など」に代わる新たな緊急事態条項が盛り込まれていた。

>ところが、GHQは日本国憲法に緊急事態条項の明記を認めず、緊急事態が起きた場合には、「内閣のエマージェンシー・パワーで対応すればいい」と考えていた。>その後、両者が協議を重ねた結果、衆院解散時の緊急事態に備えて、「参議院の緊急集会」のみが盛り込まれた。>だが、「参議院の緊急集会」さえもが開催できないほどの、国難的事態が起きない保証はどこにもない。   

 

そうですね。治に居て乱を忘れずの心構えが大切ですね。GHQの考えはGHQの考え、日本人の考えは日本人の考えである。日本人の考えはGHQがいなくなってから法文化すればよいですね。         

 

>「憲法にわざわざ明記しなくても、法律の運用で緊急事態に対応すればいい」とする意見もある。 >これこそが、特措法を制定して乗り切ろうとする、従来の「泥縄式の発想」であり、「後追い主義」の最たるものだ。 >危機管理の体制としては最も悪いパターンである。

 

そうですね。慌てふためいてことを処理すると碌なことはありませんね。これは浅はかな人のすることですね.

泥縄式の発想法も、後追い主義も、現実を見てからでないと発想できませんね。これが日本人の発想法の欠点ですね。  

政治には時代の先取り (未来の内容) が必要ですね。後追いばかりではわが国は政治音痴になります。          

 

>国難はいつ訪れるか分からない。>ほとんどの国の憲法に緊急事態条項が明記されていることを考えれば、日本国憲法に緊急事態条項が明記されていないことの方が異常な状態なのだ。

 

そうですね。日本人には現実しかありませんからね。非現実 (考え) の内容を練る作業が等閑視されていますね。結果としての行き当たりばったりの態度は、日本人の国民性を良く表していますね。       

 

>昨年6月、感染症と自然災害に強い社会を目指す「ニューレジリエンスフォーラム」が設立された。 >当フォーラムは、国民の生命と生活を守るため、「緊急時」についての関係法規の見直し、「平時」から「緊急時」へのルールの切り替え要件の整備を掲げる。>それらの根拠規定としての「日本国憲法への緊急事態条項明記」に向けて、医療界、経済界、防災関係、自治体関係をはじめとする、多くの人々と力を合わせて幅広い国民運動を推進する団体である。   

 

国民運動は希望の持てる大切な運動の第一歩ですね。   

 

>同年9月には、加藤勝信官房長官(当時)に「『緊急時』の医療提供体制と法制度の整備を」というテーマで、第1次提言書を手交した。 >今年の春までに第2次提言を取りまとめて、政府に提言する予定である。 >筆者も事務局長として当フォーラムの活動に参画している。 

 

これは我が国の政治の進歩の兆しですね。   

 

>日本は今後間違いなく、国難的事態に立ち向かわなければならないときが必ず来る。>場当たり的な対応では国民の生命と生活を守ることはできない。

 

そうですね。我が国民は旅行傷害保険の約款の内容のような周到な配慮の内容を備えることが必要ですね。旅行中の障害 (非常時) はいつ起こるかわからない。だから、我々は日ごろから障害に対する備えをおろそかにすることはできませんね。         

 

>「備えあれば憂いなし」の体制を早急に整備すべきである。 

 

そうですね。我が国の文化をもう一度根底から見直してみる必要がありますね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。 

 

>=おわり

>■濱口和久(はまぐち・かずひさ) 1968年、熊本県生まれ。

>防衛大学校材料物性工学卒、日本大学大学院総合社会情報研究科修了。

>防衛庁陸上自衛隊、栃木市首席政策監などを経て、現在は拓殖大学大学院特任教授、同大学防災教育研究センター長、ニューレジリエンスフォーラム事務局長などを務める。

>著書・共著に『戦国の城と59人の姫たち』(並木書房)、『日本版 民間防衛』(青林堂)など。   

 

 

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白井聰氏  

2022-01-24 23:32:22 | 文化

 

>『国体論 菊と星条旗』 著・白井聡  >書評・テレビ評201855  >FacebookTwitterHatenaLine共有  https://www.chosyu-journal.jp/review/7943     

> 最近、北朝鮮と韓国の南北首脳会談がおこなわれ、65年間休戦状態であった朝鮮戦争を終結させ、朝鮮半島の非核化と平和体制実現に向けて進むことで合意した。 >この東アジアにおける戦後史を画する動きは、日本人にとっても、かつての大戦と戦後をどのようにとらえ、どのような未来を切り開いていくかを突きつけている。 >京都精華大学専任講師の著者 [白井聰] が4月に著した本書は、その意味で示唆に富んでいる。 > 本書は明治維新以降の日本の「国体」、つまり権力構造を概観している。  

 

序列国家の権力構造ですね。  

 

>注目すべきは1945年の敗戦によってそれがどのような根本的変化を遂げたかを明らかにしていることだ。 >根本的変化とは、天皇のかわりにアメリカが権力を握ったことであり、民主化だけをやったと見せかけて、天皇制というピラミッドは残したままその頂点にアメリカが鎮座したことである。

 

そうですね。日本人の序列メンタリティ (考え方) はおいそれとは変わりませんからね。   

 

> 戦前の「国体」は、「万世一系」の天皇を頂点にいただく専制君主制国家であった。 >天皇制政府はアジアに対する侵略戦争から対米戦争へと突き進み、日本人320万人、中国やアジアの人民1900万人という膨大な犠牲者を出したあげくに破滅した。 >そして1945年8月、天皇制政府は「国体(天皇の国家統治の大権)護持」を唯一の条件として敗戦を受け入れた。 >1946年に新憲法の審議をおこなった帝国議会でも、当時の首相・吉田茂は、新憲法によって国体は「毫も変更せられない」と主張した。

 

そうですね。わが国の国体は日本人の頭脳により守られていますからね。   

 

> しかし、1950年のサンフランシスコ講和条約の締結、それによる「日本の主権の回復」「国際社会への復帰」は、ファシズムの温床となった軍国主義の除去と体制の民主化、つまり国体が根本的に変更されたと認められることで可能になった。>これに「国体は毫も変更せられない」と宣言した同一人物が調印した。

 

これは日本人のなぞなぞですね。日本人は思考停止に陥っていますからね。矛盾は頓着しないですね。       

 

> ここには重大な欺瞞があった。>新憲法で「主権者が天皇から国民に移動した」とされたが、実際には占領下での主権は移動しようにも日本側にはなく、アメリカが握っていた。>主権は天皇からマッカーサーに移動したのである。

 

そうですね。日本人には意思がないから主権が誰の手にあろうと頓着しませんね。        

 

>それは、戦後日本の武装解除を決定した権力と同じ権力が、1950年の朝鮮戦争にさいして、一切の民主主義的プロセス抜きで一片のポツダム政令によって、再軍備(自衛隊の前身である警察予備隊の創設)を命令したことにもあらわれている。

 

 ‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’  (ウスビ・サコ)   

 

>そして、サンフランシスコ講和条約は、同時に結ばれた日米安保条約とワンセットであった。 >安保条約でアメリカが要求したのは「我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」であった。 > 著者によれば、戦前戦中の保守支配層は、かつてみずから主導して「鬼畜」と呼んだ相手に膝を屈し、とり入ることで復権の機会をつかみ、それとひきかえに自発的に主権を放棄した。

 

そうですね。主権は日本人に相応しくないからでしょうね。   

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)   

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。   

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味というものがない。行為・言動の本人にその説明責任はとれない。恣意の人間は指導者になっても権力は持たせられない。人人はできるだけ権力の少ない指導者を望んでいる。すると、指導者は床の間の置物のようなものになる。彼の唯一の業績は '任期中に何もしなかった' ことであると任期終了時にいわれている。  

 

>革新陣営はアメリカの民主化を支持することで補完的な役割を果たした。この国家主権の構造は占領終結で終わらず、日米安保体制として現在まで続いている。 >それを象徴するのが、1959年に最高裁判決が出た砂川事件である。 > 一審では「日米安保条約は憲法違反である」とする伊達判決が出た。 >これに飛び上がったのがアメリカで、当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世は伊達判決を無効化するよう、外相・藤山愛一郎や最高裁長官・田中耕太郎に圧力をかけた。 >最高裁は「米軍の駐留は憲法の趣旨に反しない」「日米安保条約のように高度な政治性を持つ条約については、違憲かどうかを司法が判断することはできない」との判決を下した。 >この判決は、駐日米大使から指示と誘導を受けながら書かれたという事実がある。 >この判決で、日本の法秩序において、日米安保条約が日本国憲法に優越する構造が確定された。

 

国際法は国内法に優先しますね。    

 

>対米従属とアジアでの孤立意図した米国   > 本書では、この対米従属構造が、90年代以降のグローバリズムの下で異様なる国益の売り飛ばしになっていったことを追っている。>1989年に日米構造協議が始まり、それは後に日米包括経済協議と名を変え、年次改革要望書となり、日米経済調和対話となり、TPPとなった。  

 

米国はTPPに参加しませんでしたね。何が不満でしたかね。       

 

>これらすべては、アメリカのグローバル企業が日本市場に参入する道筋をつくるもので、日本の国民生活の安定や安全に寄与するための規制や制度すべてが、たとえば国民皆保険制度や食料自給までが、「非関税障壁」として攻撃の対象になる。> そして、「戦後の国体」の末期である現在、戦後日本の平和主義は「積極的平和主義」に転化し、それはアメリカの軍事戦略との一体化を意味し、実質的には自衛隊が米軍の完全な補助戦力となり、さらには日本全土がアメリカの弾除けと化している。>著者はそこに、かつての敗戦と同じ破滅の道を見ている。

 

そうですね。日本人は自己の抑制に終始しますね。    

 

> また、著者によれば、この対米従属構造の下でつくられるイデオロギーは、欧米に対する劣等感や崇拝意識と、アジア諸民族に対するレイシズム(人種差別意識)である。

 

そうですね。日本人は何処までも序列的ですね。     

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。      

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。    

我が民族の序列メンタリティは国がひっくり返った後にも変わりませんでしたね。新憲法の前文には、 ‘・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。’ と高らかに宣言しています。地位とは国際社会の序列順位の事で、国際問題に関する問答には関心を持たずにひたすら順位の向上を待ち続ける奇異な民族の代表として存在します。序列メンタリティが邪魔になって問答ができないのか、問答ができないために序列メンタリティから離れられないのか。英語の習得力が不十分なためか。     

 

>サンフランシスコ講和条約と日米安保条約をとりまとめたジョン・フォスター・ダレス(元米国務長官)は、日本人のこの2つのイデオロギーをうまく利用すれば、「日本人はアメリカに従属する一方、アジアで孤立し続けるだろう」と見通していたという。> 戦後、アメリカが日本に持ち込んだイデオロギーは、自由でも民主主義でもなかった。  

 

自由とは意思の自由の事ですね。ところが日本人には意思がない。だから、自由にも意味がない。不自由を常と思えば不足なしという事か。   

自己の意思表示をする人は、当事者・関係者となる。意思表示をしない人は傍観者にとどまる。日本人には意思がないから常に傍観者になっている。わが国は世界の中にあって、世界に属していない。日本人には、民主政治と衆愚政治の区別もつかない。      

 

>さらにいうなら、日本を出撃基地にした朝鮮戦争やベトナム戦争をはじめとして、アメリカが「アジア人同士を戦わせる」という戦略の下で戦後、何をやってきたかということである。>また、無謀な戦争を引き起こし日本を破滅に導いた日本の戦争犯罪者たちも、国内外の人民にはかりしれない犠牲を強いたその責任に頬被りして、戦後は中国・朝鮮やアジア人民への反感を煽り立ててきた。  

 

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

>戦争が生み出す悲劇を二度とくり返さないために、戦争犯罪者を処罰し、現在その方向に進む者を許さず、アジア諸国との平和と友好、平等互恵の経済関係を発展させてこそ、誇り高い民族の伝統を子どもたちに受け継がせることができるというものだ。    

 

‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’  (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて ()) 

 

> 今や資本主義の総本山アメリカの衰退はあらわとなり、パクス・アメリカーナ(アメリカの下での平和)は終焉を迎えている。 >朝鮮半島は平和へと向かい、中国が「一帯一路」構想の下で創設したAIIB(アジアインフラ投資銀行)にアメリカの同盟国が次次に参加を決めている。  

 

中国・ロシア・北朝鮮の権威主義国に移住を希望する外国人はいないでしょうね。根本的に人間性に欠けた体質の国家であるからでしょう。こうした国々にわが国は組すべきではありませんね。      .

 

>世界情勢が大きく変化するなかで、アジア諸国との平和、友好を進めることが日本の国益にかなう道である。

 

中国は中原 (ちゅうげん) に鹿を逐 () う伝統的な覇者の国である。だから、覇者の物語 '三国志' は、中国人の愛読書となっている。覇者は周辺諸国に覇権を打ち立てようとして傍若無人のふるまいをし、多大な迷惑をかけている。これは皇帝の時代も国家主席の時代も漢民族のメンタリティが同じであるから変わらない。漢民族は、自分たちの考えを示すために漢字を作った。しかし、彼らは外国人の考えを示すための漢字は作らなかった。だから、外国人に対して自己の内容を発信はできるが、外国人からの内容を受信することは難しい。独断専行に陥りやすい。印欧語族のインド哲学を経文 (漢文) に表すことが至難の業であることがわかる。漢文の書物をいくら読んでも外国人の考えは出てこない。だから、中華思想を堅持し自己中心的にならざるを得ない。周辺諸国を中国化することに専心してやまない。中国人が外国人の影響を受けて発想の転換 (paradigm shift) をすることは期待薄である。

 

中華 (ちゅうか)  [外国との交渉が少なかった時代に] 自国を、世界の中心にある、一番優れた国とみなしたこと。[狭義では、漢民族のそれを指し、またその呼称としても用いられる]    東夷 (とうい)  [東方の野蛮人の意] 昔、中国から見た東方諸国の称。[広義では朝鮮・沖縄を含み、狭義では日本を指した]     南蛮 (なんばん)  [南方の野蛮人の意] 昔、中国で、インドシナなど南海地方の諸民族の称。 西戎 (せいじゅう)  [西方の野蛮人の意] 昔、中国で、チベット族やトルコ族など西方の異民族の称。北てき (ほくてき)  [北方の野蛮人の意] 昔、中国で、匈奴 (きょうど)・韃靼 (だったん) などの遊牧民族の称。

 

>そのためにも戦後の対米従属構造を根本的に改め、民族の主権をとり戻すという課題が、われわれに突きつけられている。

 

我々日本人の従属的な態度は改める必要がありますね。    

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。  

 

>(浩)

> (集英社新書、348ページ、定価940円+税)     

 

 

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辻野晃一郎氏  

2022-01-24 14:05:23 | 文化

>374230        思考が浅く行動が遅いのんきな日本人、グーグルで感じた日本企業の課題  >柿添孝太 ( 23 会社員 )        22/01/23 PM10 【印刷用へ】

>以下、引用   元グーグル日本法人 代表取締役社長 ・現アレックス 代表取締役社長 CEO ・辻野 晃一郎氏

[1984年に慶応義塾大学大学院工学研究科を修了し、ソニーに入社。1988年にカリフォルニア工科大学大学院電気工学科を修了。VAIO、デジタル TV、ホームビデオ、パーソナルオーディオ等の事業責任者やカンパニープレジデントを歴任した後、20063月にソニーを退社。翌年、グーグルに入社し、グーグル日本法人代表取締役社長を務める。20104月にグーグルを退社し、アレックスを創業。現在、同社代表取締役社長兼CEOを務める。] ・中略

>リンク https://www.sbbit.jp/article/cont1/36466

>日本人が無宗教なのにいろんな宗教のイベントを積極的に取り入れる風潮、不思議に感じませんか? >これは八百の神に通じる考えで、弱点にも、世界を引っ張て行く強力な武器にもなりうるようです。

 

その可能性は、まだはっきりしませんね。   

 

>辻野氏:「あなたは何のために生まれてきましたか?」とか、「あなたが生まれてきた使命は何ですか?」という根源的な問いに確信を持って答えられる人はほぼいないでしょう。 >よほどの天分に恵まれた人以外は、あるいはそういう人でも、自分がなぜこの世に生まれて来たのか、本当のところは誰もわかりません。 >人生とは、もだえ苦しみながらその答えを探し続ける旅なのかもしれません。 

 

そうでしょうね。それは人間の宿命でしょうね。    

 

>  しかし、今はこれまで以上にそういうことを真剣に追及する生き方が問われているように思います。 >上司や組織に命令されるがまま、思考停止したその日暮らしの生き方をしているとすぐに人工知能に取って変わられてしまうでしょう。 

 

そうですね。日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようです。 

 

>資本主義や自由主義の下、経済や金融の世界は飛躍的に発展しましたが、物欲や金銭欲などがすべてに優先されるような世の中になって格差も拡大し分断も進んでいます。 >我々にとって真の幸福とは何なのでしょう。 

 

それは哲学的な命題ですね。    

 

>  人工知能の急速な発達や、ゲノム編集などの医療技術の革新によって、人類はついに神の領域に踏み込み始めたと言ます。>GAFAの今後や日本の行く末を考えるときに、テクノロジーの急激な進歩が人類にもたらすものについて、生命や宇宙の起源とか、人口爆発や環境破壊など地球が抱える諸問題などと関連付けた大きなスケールで深く洞察する力が求められています。 

 

我々日本人は、無哲学・能天気ではいられませんね。    

 

>実学だけが暴走するのを防ぐためは宗教や哲学などの役割も見直されねばなりません。

 

そうですね。現実 (事実) は見ればわかる。現実の正解は一つしかない。非現実 (考え) の内容はみることができない。だが文になる。文にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  そうでなければ我々は、つかみどころのない人間になる。   

大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。見栄と外聞の為に貴重な時間と金の浪費がやまらない。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。 

 

>  私は宗教の専門家ではありませんが、我々日本人の宗教観を考えるに、歴史的にはキリシタン迫害や廃仏毀釈(きしゃく)などの過去はあるものの、八百万(やおよろず)の神という表現に象徴されるように多様性への寛容度が高いと感じます。 >クリスマスを祝ったと思ったら寺に行って除夜の鐘を聞き、年が明けると神社に参拝するなどの行動パターンは、日本人の受容性や順応性の高さを表していると思います。  

 

日本人の行為には形式 (儀式) があって、内容 (教義) がない。    

 

>しかし裏を返せば、節操のなさや思考が浅いという見方もできるかもしれません。  

 

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)   

 

>「平和ボケ」という言葉もよく使われます。   

 

日本人は無哲学・能天気である。頭の中はお花畑になっている。      

 

>  ハーバード大学の国際政治学者サミュエル・ハンティントンは、1996年にベストセラーとなった著書『文明の衝突』の中で世界の文明を7つに分けました。 >その中で、他に帰属しない独特の文明を持つ国として日本を位置付けています。   

 

かつて日本人は危険な超国家主義でしたね。        

 

>  日本や日本人だけを特別視しすぎることには問題がありますが、他国にはできない日本や日本人ならではの世界への役割は何か、ということを意識することは決して悪いことではありません。 >それはまさに我々の使命を見つけ出し自信や誇りと共にそれを遂行しようというエネルギーにつながります。     

 

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)  

 

>単に欧米型をまねたりシリコンバレー流をコピーしたりすることが我々のやることではありません。 >  グーグルは米国発の多国籍企業として、世界をつくり変える、未来をつくるということをスピーディーにやり続けている企業です。 >一方、日本に生まれ育った私たちが、日本の強みや役割をしっかりと意識しながら、グーグルや欧米とはまた別のやり方で世界に貢献する意欲を持ち、その意欲を具体的な行動と結果につなげていくことを世界は歓迎するでしょう。  

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。     

 

 

 

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秋山進氏  

2022-01-22 17:14:14 | 文化

 

>日本人に見る「法意識」の独自性、なぜ権利の主張や訴訟に消極的なのか > 秋山進 2022/01/21 06:00   

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>「コンプライアンスだの、ハラスメントだの、困ったものだ。 >それに引き換え昔は良かった……とすら、迂闊には言えない時代になってしまった」と、ある年配の偉い人が嘆いておられた。

 

外来語の日本語が増えてきましたね。年寄りは時代の進歩に追いつけないでしょうね。   

 

>欧米では法という規範に基づいた契約が絶対視され、個人や企業の権利意識が強いとされる。  

 

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)  

 

>それに対して、日本は周囲との調和を乱すようなあからさまな権利意識の発露は抑圧されがちで、権利意識が薄く、本音と建前を使い分けながら、事を荒立てず、どちらの顔も立てるように、話し合いで両者の合意点を探るのが日本流だ、となんとなく感じることはあるだろう。   

 

本音は恣意 (私意・我儘・身勝手) ですね。建前は言い訳・口実・言い逃れですかね。日本人は無哲学・能天気ですからね。自己主張はできないですね。      

 

>また、昨今のSDGsやカーボンニュートラル推進の急展開に、「ルール遵守とはいえ、そもそも自分たちの有利なようにルールを決めている」という不公平感に釈然としない思いを抱く人も多いに違いない。>一体日本人の法に対する意識は変わったのであろうか。  

 

日本人の場合、法は信ずるに足らずでしょうね。    

 

>それとも、表面的に変わったように見えても、中身はもとのままなのだろうか。 >この問題を考えるため、今回は『日本人の法意識』(川島武宜著)を採り上げる。 >なぜ日本人は法に関わりたくないのか    

> ほとんどの日本人にとって、法は身近なものではなく、できれば関わりたくないものだ。 >それには理由がある。 > 日本の六法(憲法、民法、商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法)の原典は、明治22年から31年の間、わずか10年たらずのうちに完成した。 >これらは、日本の従来の伝統とは断絶した内容を主にフランスとドイツから学んで(と言えば聞こえはいいが、ほとんどそのまま「拝借」して)起草したものである。 >先進資本主義国家の法典にならって作られた明治の近代法典と、当時の日本人の実生活とのあいだには、大きなずれがあったのだ。   

 

そうですね。武士が背広を着たようなものでしょうね。     

 

>「明治憲法下の法典編集事業は、まず第一次には、安政の開国条約において日本が列強に対して承認した屈辱的な治外法権の制度を撤廃することを、列強に承認させるための政治上の手段であった」(川島武宜の『日本人の法意識』より)

 

治外法権の存在は序列国家の屈辱ですね。   

 

>日本の法はそもそも厳密な運用を想定していない  > 明治時代、西洋に追いつけ追い越せと必死になっていた頃、外国人に対して裁判する権利がない(治外法権)という安政の不平等条約を改正することは、日本人と日本政府にとって悲願であった。 >裁判権の自主性を回復するには、裁判制度および裁判の基準となる法律を整備する必要があったのだ。 >そこで、急ごしらえで作ったのが、これらの法典である。 >法典は、“立派なもの”であることが重要なのであって、内容が実情にあっているかどうか(使えるか)は二の次であった。

 

そうですね。実情は東は東、西は西ですからね。   

 

> しかしながら、実際に導入してしまえば、法典は社会の規範として機能し始める(「作ったものの、使っていません」ということでは列強から一人前の国として認めてもらえない)。 >そこで、実態とは大きなギャップがあり、額面通りに運用できない法はそれとして、予め現実の事態に妥協することが想定されていたのである。 

 

日本人はいつも融通を利かせますね。理詰めの議論は嫌いですからね。       

 

>「道徳や法の当為と、人間の精神や社会生活の現実とのあいだには、絶対的対立者のあいだの緊張関係はなく、本来的に両者の間の妥協が予定されている。>したがって現実への妥協は、「なしくずし」に、大した抵抗なしに行われる。 

 

嘘も方便ですからね。日本人の文化には形式があって、内容がない。 いつも、いかにも・・・・らしいで終わっている。意義が無く、つかみどころがない。哲学 (考え) がない。        

 

>そうして、そのような現実との妥協への型態こそが、「融通性のある」態度として高く評価されるのである」(川島武宜の『日本人の法意識』)  

 

うやむやは話のわかる人ということの証拠ですかね。     

 

> 法の定める「建前」と、実際に行われている「本音」の間を上手に取り持ち、厳密には法的に問題のある行為であっても、形式、体裁、大義名分などを巧みに整えて正当化する「融通性のある行為」こそが求められたのである。

 

伝統ある勧進帳の繰り返しですね。   

 

> このような歴史的背景のもとに、日本人は法と向き合ってきたのである。 >下手に法に近づくと火傷をしかねないのだから、融通性のある者以外は法に近寄りたがらないのも仕方がない。 >日本人は本当に権利意識が薄いのか  > 著者は、日本人ならではの法意識として「権利」について興味深い指摘を行っている。 >「日本人には「権利」の観念が欠けている」(川島武宜の『日本人の法意識』) > 日本においては、社会集団を作る際に、その成員である個人が組織に対して恭順を示すことが前提となる。    

 

‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’  (ウスビ・サコ)  

 

>逆に組織の個人に対する態度は、家父長的な立場であり、個人を庇護し、(状況に鑑みて)その要求をある程度認めようとする立場をとる。  

 

それは家畜・社畜の飼育法と同じですね。   

 

>わかりやすく言えば、親分子分の関係である。   

 

そうですね。日本人の人間関係はやくざ風ですね。    

 

>たとえば、有給休暇の取得は従業員の権利だから当たり前のこととして行使するというのではなく、周囲の人の状況も見計らったうえで会社から休暇を“取らせていただく”といった形態になるのである。  

 

日本人は常に日和見主義ですね。

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)     

 

>「人が自分の権利を擁護することは、西洋では正しいこととして是認されるのに、日本では、自己中心主義的な・平和を乱す・不当に政治権力の救済を求める・行為として非難されるのである」(川島武宜の『日本人の法意識』)

 

何時もの通り西洋の正しいは、わが国の不当になるのでしょうね。   

 

> ヨーロッパにおいては、「法」と「権利」は同じことば(ドイツ語でRecht, フランス語でDroitなど)で表現されてきた。 >法は判断基準を意味すると同時に権力行使のプロセスを意味し、権利はその結果として保証されている利益のことなのである。 >すなわち法と権利は同一のものを別の側面から言い換えたにすぎない。 >当然、権利は擁護されるし、行使する者は否定されることはない。 >一方日本では、権利の行使や主張は組織からの温情を自分だけ過剰に取り付けようとする、勝手な行為として見られるのである。 > ただ、本当に日本人に権利意識がなかったのかについては異論もある。 >本書同様に名著として知られる『日本人の法観念』(大木雅夫著)には、歴史的に日本人にも権利意識は存在したが、明治以降の労働関係調整法や借地借家調停法などによって、民衆の権利意識が委縮させられたのではないかと書かれている。>私には、いずれの主張が正しいかを判断する能力はないが、日本においては権利の行使や主張に積極的な人があまり好まれない組織がいまだに多いということは、ほぼ間違いない事実であると思う。  

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようです。 

 

>薄い契約書と分厚い契約書、どちらが合理的なのか  > 本書には日本人の契約意識についても述べられている。 >読者の会社では、契約書はどのくらい分厚いだろうか。 >平成の初期くらいまで、一般的には薄かった。 >必要最低限のことだけが記載され、何か起こったら互いに協力して「話し合い」で解決する、と最後の条項に書いてあり、またそれが契約を貫く基本的なスタンスであった。 > しかしながら、企業のグローバル化に伴って欧米企業と仕事をすることが増えると、日本企業同士の契約書もどんどん厚くなってきた。>何かをやる前に、「こんなことが起こったらこちらはどうする」「あなたはこうする」などと細かく取り決めをして、契約書に書き込むのである。

 

そうですね。想定外の少ない社会になりましたね。我々のような法律に直接関係のない者にも、海外旅行傷害保険の約款を手にしたときにはその実感がありますね。もしもの場合の事が小さな文字で分厚い小冊子の中にぎっしりと示されていますから。    

 

>合弁企業を作ろうとする際に解消についてまで取り決めるのだから、当初はびっくりした人も多かったに違いない。 >実際、将来何が起こるかは事前にはわからない。 >何かが起こった後に情報を精査して、互いに一番良い結果を求めて話し合えば良い結論が出ると考えるほうが、合理的だとも言える。  

 

飛行機が墜落事故を起こした場合、事後に精査して良い結論を求めるというだけでは未来の事故は防げませんね。

あらゆる墜落事故の可能性を想定して、それに対処する方策をあらかじめ用意しておくのが整備の賢明なやり方ですね。   

 

>「契約上の義務をそのように確定的・固定的なものにすると『融通性がなくなって』不安だ、と主張されたのである。

>すなわち、契約内容の不確定性は、西洋の人には不安感を与えるのに対し、日本の人には安定感を与えているのである」(川島武宜の『日本人の法意識』)

 

未来の世界の内容を知ることは西洋人に安心感・安定感を与えますね。彼らは未来時制の文章を理解できますからね。日本人は未来 (非現実) の世界の内容は考えられないから、現実の世界にある事柄だけに考えを絞って結論を出したいのですね。    

 

> 素性がよくわかっている相手と繰り返し事業を行ってきた日本企業にとっては、無茶な主張をすることは相手にとっても良くない結果をもたらす(次からの仕事がなくなる、業界での評判が悪くなるなど)ことから、権利の主張はおのずから合理的な範囲内にとどまるはずだと考えられ、実際にそうであった。  

 

そうですね。それは馴れ合いというものですね。なれ合わなければ納得も無い。なれ合いは考えのない人の拠り所とするところですね。日本人にとってはどこの馬の骨ともわからない人たちの価値はない。          

 

> 一方、新しい取引先や提携先などとも果敢にビジネスを行う外国企業にとっては、取引を成立させるうえでのリスクヘッジとして、契約内容を事前に確定的、固定的にすることが選ばれたのである。 >その意味では、契約書は相手のタイプによって使い分ければよいと考えられるのだが、一般的に契約書はどんどん厚くなっている。  

 

大は小を兼ねる。あらゆる可能性を想定できる人は、思慮の深い人ですね。文中に示していない内容は契約にもなりませんね。これはドイツ語などの低文脈文化の言語の特徴ですね。      

 

>信頼できない相手が増えて来たのか、法務部門や弁護士の仕事の確保のためか、リスクの限定をしておくほうが資本家から信頼されるということか。> いずれにせよ、ビジネス社会においては、事前に取り決めを行い最大の損失額などを確定しておくことは、すでに一種の文法になったといえる。  

 

そうですね。未来に見通しのきく便利な世界になりつつありますね。来るべき未来の世界が豊かになる可能性も出てきましたね。    

 

>「欧米並み」の訴訟社会は到来したか   > 本書では、最後に将来の日本社会の法意識についての予測が書かれている。 >「要するに、人々は、より強く権利を意識し、これを強く主張するようになるであろう。 

 

求めよ、さらば与えられんですね。Ask, and it will be given to you. 西洋人の考え方がわが国に浸透しますかね。           

 

>そうして、その手段として、より頻繁に、訴訟=裁判という制度を利用するようになるであろう。>人々は個人と個人の関係のみならず、個人と政府との関係をも、法的な――法という規準にしたがって判断される明確且つ固定的な――関係として意識するようになるだろう。 

 

そうですね。それはあるべき姿ですね。   

 

>それらのことの結果、法や裁判所は人々の生活にとって、より重要なものとなり、それに対応して、裁判官の社会的地位(その名望)も上昇するであろう」(川島武宜の『日本人の法意識』)。 > 1967年刊行の本書では、社会が近代化すると、個人はもっと権利を主張し、訴訟も増えることになると予測されていた。 >ところが実際には、訴訟件数はそれほど増えていないのである。  

 

そうでしょうね。法律の文面だけでは人々の政治に対する理解度は進みませんね。それは日本語という言語の素性に関係がありますね。    

 

>社会的に話題になる派手な訴訟はあっても、人々が問題解決のために、訴訟という手段を頻繁に選ぶという社会にはまったくなってはいない。 >裁判官の社会的地位や名望が上がったなどということも、一度も聞いたことはない。 >変化といえば、せいぜい弁護士がテレビでタレントのような活躍をするようになったことくらいであろうか。  

 

法律の変化は上辺だけの変化ですね。だから変化は日本人の心の底にまでは達していませんね。 

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)            

 

>「訴訟は、いわゆる「黒白を明らかにする」ことによって、この友好的な「協同体」的な関係の基礎を破壊する。 

 

相撲取りの社会の黒白のようには行かないものですかね。    

 

>だから、伝統的な法意識にとっては、訴訟を起こすということは、相手方に対する公然たる挑戦であり、喧嘩を吹っかけることを意味するのである」(川島武宜の『日本人の法意識』)   

 

日本人が議論をすれば喧嘩になります。いや喧嘩をする為には、まず議論を始めなければならないということなのかな。あるべき姿を持たない人間同士の議論は我利追及以外には目的がない。     

 

> 協同体的関係を破壊するよりは、「丸く納める」ことのほうが望ましいといまだに多くの人が考えているのである。

 

そうですね。あるべき姿 を持たない人たちの共同体は、時限爆弾の上に建てられた集会所のようなものですね。自分たちの身を守るために皆が静かにしているしかない。       

 

>訴訟という方法が選ばれるのは、相手との関係が悪くなろうと、何がなんでも戦わなければならないような状況に追い込まれたときだけである。  

 

あるべき姿を求めるという社会共通の意識がない。人々の意識は常に伸るか反るかの緊張でしかない。知的なものが欠けている。   

 

>このことは、人によっては権利意識が発達せず、社会が未熟だと考えるかもしれないが、人によっては、訴訟の少ない社会は良いに決まっていると素直に考えるだろう。  

 

そうですね。それは無哲学・能天気の証拠でしょうね。 

現実 (事実) は見ればわかる。現実の正解は一つしかない。非現実 (考え) の内容は見ることができない。だが文になる。文にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  そうでなければ我々は、つかみどころのない人間になる。   

大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。    

 

> ここまで『日本人の法意識』をもとに、法と社会実態のずれの問題、権利意識の問題、契約の問題、訴訟の問題について触れてきた。 >ここからは現在の日本の状況について、少し考えてみよう。 > まず、法と社会実態のずれの問題について。 >昨今、急速にずれが少なくなりつつあるように思われる。 >組織にあっては、転職者(入りも出も)が増え、SNSなども発達したことから、違法状況にあるとの情報は容易に外部に流出するようになった。 > また、マスコミ報道においても、どのくらい深刻な違法行為であるかがあまり考慮されることなく、単に「違法!違法!」と騒ぎ立てるので、重要性はさほどない事象であっても違法状態を放置しておくことは組織の大きなリスクになってしまっている。 >このようなことから、法と実態のずれは急速に解消されてきているといえるだろう。 > 人々の権利意識については、以前よりも権利を主張する人が増え、普通のことになってきたがゆえに、権利を行使することのハードルが下がってきた。 >その背景には、組織自体が家父長的立場を放棄し、社員との関係を仕事と報酬の契約的関係に変えてきたことがある。   

 

そうですね。日本人も西洋風になってきたということですね。   

 

>日本人が本来持っている 均衡や調和を大事にする考え方   > ただし一方で、会社の中核として認識される人にまで、そのような権利の適用が良しとされるかどうかは正直わからない。 >周囲の状況に鑑み、遠慮がちに権利を行使するという行動文法を取るのが目下は最も危険が少ないだろう。 >その意味では、権利はいまだに権利たり得ていない状況と言ってよいかもしれない。 

 

そうですね。    

 

> 契約については、事前に内容を確定させることが文法になった。>ただしこの文法は、いわゆる大手企業同士の関係に限られおり、日本全体の行動文法になっているわけではない。

 

過去・現在・未来の三界の内容を語るのは印欧語族の文法を理解している人たちでしょうね。日本語のみを使う人は時制のある文が考えられないので現実 (事実) の内容のみを語るでしょうね。   

 

>また、会社で契約を結ぶときは分厚い契約書に目を光らせるものの、こと私的な問題になったら、薄い1枚の契約書で良しとするビジネスパーソンも多いだろう。 >契約が人の行動を拘束するという意識もまだまだ薄い。

 

そうですね。契約の内容は考え (哲学) です。日本人は現実 (事実) に拘束されていても、考え (非現実) の内容に拘束されるつもりはない。   

 

> 最後の訴訟については、日本が訴訟社会になろうとする気配はまったく感じられない。 >弁護士を増やしたものの、訴訟が増えず、食えない弁護士を多くつくり出してしまっている。

 

そうですね。弁護士に関する需要に見合った供給がなされていませんね。     

 

>基本的に、日本人は喧嘩が嫌いだし、それが自分の利益の確定(権利)のためだと聞くと素直には肯定できなくなる。

 

出る杭は打たれるという事になるのか。    

 

>「権利が脅かされるときには、何人たりとも権利のための闘争をする義務がある」(イェーリング著『権利のための闘争』)を普遍的真理として承認してきた欧米社会とは、決定的に異なる価値観なのである。 > 日本人の法意識は、確かに変わりつつあるが、それはかなり限定的ともいえる。    

 

そうですね。及ばざるは過ぎたるに勝れりと考えてのことか。   

 

>SDGsなどという言葉が流行る1000年以上も前から、権利の主張と訴訟によるのではなく、和解や譲り合いや慈悲によって全体の均衡や調和を大事にするという、儒教的、仏教的な考え方が日本人の中に根付いており、それは今なお日本人にとって重要な価値観である。 > もちろん、改善の余地は多分にあるものの、感染症や地球環境問題などへの対応が迫られるこれからの世界においては、調和を重視し譲り合いを厭わない日本人特有の価値観は、世界的に見てとても重要な意思決定基準になるかもしれないとも思われる。

 

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)    

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知り合いに ‘○○健’ という名の人がいる。人々は彼のことを ‘ケンちゃん’ とか ‘タケちゃん’ と呼ぶ。そこで私が彼に ‘本当はどっちですか’ と聞いてみた。すると、彼はまたどちらでも良いのですよ’ と言う。’戸籍には何と書いてあるのですか’ とまた私が尋ねると ‘戸籍にはフリガナが無いのでどう読んで良いのですよ’ と答が返ってきた。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。  

 

>(プリンシプル・コンサルティング・グループ株式会社 代表取締役 秋山 進、構成/ライター 奥田由意)  

 

 

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番付の格差  

2022-01-21 10:01:55 | 文化

 

>ベテラン記者コラム  >元大関朝乃山はいかに…力士の心境を一転させる番付の格差 > 2022/01/20 17:00

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>大相撲初場所が、大きな混乱もなく終盤を迎えた。 >初日(9日)直前の6日には東京都内でも雪が降り、平成30年1月の大雪以来、4年ぶりに東京23区に大雪警報が出され、10センチも積もった。 >「雪の朝 二の字二の字の 下駄(げた)のあと」 >江戸時代の女流歌人、田捨女(でんすてじょ)が6歳のときに詠んだ俳句といわれている。 >大相撲のしきたりでは序ノ口、序二段までの力士のはき物は真冬でも素足に下駄または草履(ぞうり)しか許されない。

 

素足では冷えますね。それは身分差別ですね。   

 

>三段目になると素足にエナメルの雪駄(せった)が許される。>いまの時代、厳冬下に下駄で雪を踏みしめて歩く姿は、貴重な光景といえるだろう。

 

さすがは国技の担い手ですね。封建時代の名残ですかね。    

 

>序二段までは夏は木綿の浴衣、冬はウールの単衣の着物のみ。>コートや手袋、マフラー、足袋もつけることはできない。 

 

規定がずいぶん細かいですね。   

 

>三段目になると羽織は許される。 >幕下になるとコートもマフラーも可とされ、黒色に限られた足袋がはけるようになる。 >衣類ひとつとっても、ことほど左様に番付社会の格差を厳然と突きつけられる。

 

序列社会における序列人間の生活様式ですね。下の者ほど割が悪くできている。       

 

>この初場所では元大関朝乃山が幕内から東十両4枚目に転落した。 >日本相撲協会の新型コロナウイルス対策ガイドラインに違反し、外出禁止期間中にキャバクラ通いを繰り返していたことが発覚。 >昨年7月の名古屋場所から6場所出場停止処分を受けた。  

 

厳しい処遇ですね。    

 

>大関経験者としては昭和以降では大受、雅山、把瑠都、照ノ富士、琴奨菊に続き、6人目の十両転落となった。>処分は初場所で4場所目。 >3月の春場所では幕下への転落は確実で、本場所に復帰する7月の名古屋場所は、三段目中位からの出直しとなる見込みだ。 >大関の厚遇を失い、十両以上の関取の象徴「大銀杏(おおいちょう)」も結えなくなり、給与が支給されない立場へ。 >環境は激変する。

 

そうですね。意義のある激変ですかね。   

 

>三役も経験し、大関候補として幕内上位に定着していた元大関琴風(現尾車親方)は平幕だった昭和53年九州場所中に左膝のじん帯を断裂して途中休場。 >翌年1月の初場所中にも同部のけがを再発させて再び途中休場。 >以後2場所連続全休で、西幕下30枚目まで転落した経験を持つ。 >負傷による転落だったため、所属部屋では幕下以下の力士に命じられる雑用を免じる声があったなか、「立場は立場。番付というものがある」と筋を通し、他の力士と同じく十両に復帰するまで掃除や雑用を黙々とこなしたという。 

 

番付万能の社会ですね。土俵の上だけの世界ではないのですね。   

 

>のちに大関の座をつかみ取った同親方は「けがをして地位を失ってからは、勝ち負けを突き抜け、相撲を取ることそのものに意義を感じられるようになった」とよく口にする。 >朝乃山の心根もきっと大きくかわることだろう。 >冬来たりなば、春遠からじ。 >腐ってはならない。 >(奥村展也)

 

日本の文化には形があって内容がない。だから、序列作法が相撲の内容であると勘違いする。相撲を取ることそのものに意義を感じてルールを改訂し競技に励めば、相撲は晴れて国際的なスポーツになるでしょう。ぜひ関係者のご理解を願いたい。   

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。      

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。権威の前にあまりにも盲目で弱かった。欺かれるほど知性の働きが弱く、強圧に対して反発または抗争するだけの気力がない。騙された時には、’ 私は相手を信じた’ と自己の正当化をして終わることになっている。   

日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。    

我が民族の序列メンタリティは国がひっくり返った後にも変わりませんでしたね。新憲法の前文には、 ‘・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。’ と高らかに宣言しています。地位とは国際社会の序列順位の事で、国際問題に関する問答には関心を持たずにひたすら順位の向上を待ち続ける奇異な民族の代表として存在します。序列メンタリティが邪魔になって問答ができないのか、問答ができないために序列メンタリティから離れられないのか。英語の習得力が不十分なためか。   

 

 

 

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