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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

津田大照氏 1/2

2019-12-21 21:19:57 | 教育

>352037 勉強しても報われない。日本の若者の大学院進学率が低下した理由
>津田大照 ( 42 現場監理 ) 19/12/19 AM10
>このまま行けば、日本の国際競争力低下に歯止めをかけることはますます困難になるかもしれません。

そうでしょうね。わが国は、伝統的な低学歴の国ですからね。
>東大教授らの調査により、日本の修士・博士号取得者数が減少していることが明らかになりました。

無哲学・能天気の国であるから、修士・博士号の魅力はありませんね。

>なぜ我が国では、世界的な流れに逆行するこのような状況が進みつつあるのでしょうか。

わが国の人は、思考停止を続けているからでしょう。

>健康社会学者の河合薫さんは今回、メルマガ『デキる男は尻がイイ-河合薫の『社会の窓』』で、その原因を世界の常識とは乖離した日本企業が続ける「超ガラパゴス採用」にあるとしています。

我が国では人手不足は叫ばれても、頭脳不足に陥ったことはありません。

>〇「低学歴化」が止まらまい日本の闇
>  日本の「低学歴化」が止まりません。

そうでしょうね。日本人は無哲学・能天気ですからね。事あるごとに ‘わが国は学歴社会である’ 事が強調されてきています。

>  世界の先進国では過去10年間「修士・博士号」の取得者数が加速しているのに、日本は1割以上減少していることがわかりました(東京大学渡辺安虎教授らの分析による)。

まさに逆コースですね。

>  特に米国と中国では博士号取得者が2割超増加し、修士号でも同様の傾向があるなど、進学意欲が高まっています。
>一方、日本では16%も減少。

外国では、高等教育機関で学ぶ内容がある。だが、日本にはそれがない。高等教育で学ぶことは、自己の哲学を組み立てることです。

>東大の修士課程では留学生が半数以上を占めるなど、日本人の「大学院進学意欲」が乏しいこともわかりました。>「大学進学率」は一貫して増えているにも、関わらずです。

高度な学問は資力・知力共に無哲学・能天気な国民には無理なのでしょうね。

>  その背景にあるのが、企業が求める「人材の質の違い」です。

そうですね。日本の企業の求める質は知的な内容ではないですね。

>世界は専門性を活かした高学歴社会に突入し、博士号や修士号を持っていないと入社できない企業が増えています。

それは当然のことですね。知的能力は宝ですから。

>ところが、日本では専門性よりコミュニケーション能力。

日本語にはコミュニケーション能力に関する深刻な欠陥がありますからね。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>大学の成績より人柄を重視。

日本人には哲学がない。だから哲学に関する成績は重視されませんね。高等教育はないのも同然になっています。
非現実 (考え) の内容は哲学になる。考えの内容は、時制のある文章になる。時制のある文章は、各々独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を示している。非現実の世界は、初めは白紙の状態である。年を取るごとにその白紙状態が誰にも気になって、自分自身でその空白を埋めていくようになる。これが、個人の世界観というものである。その内容は、何処までも展開が可能である。
歴史に関する考えは歴史哲学になる。政治に関するものは政治哲学、宗教に関するものは宗教哲学になる。科学は科学哲学、人生は人生哲学などなど。哲学は西洋人の学問である。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
矛盾を含まない全ての文章は、正しい考えを示している。考えの内容は人様々であるから、正解は一つではない。幾らでもある。
矛盾を含む文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。そのためには、対話・議論が役に立つ。だから、対話・議論を盛んにすると良い考えが沢山出来る。

>おまけに、入社後の給料の差が極めて小さいのです。>  例えば米国では、修士の平均年収は学部卒の1.4倍、博士では1.68倍であるの対し、日本では修士・博士共に学部卒の1.25倍です。>学部卒の平均年収は418万円なので、博士号を取得していても525万円しか稼げないかっこうです(日経新聞「博士」生かせぬ日本企業より)。

わが国は、博士冷遇の国ですね。知的な内容には価値を認めない国柄を反映しているのでしょうね。


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激励文

2019-09-01 23:11:09 | 教育

>大学経営に乗り出した日本電産会長永守氏が、2019年春の入学式で新入生に向けた激励文を紹介したい。 > (参照:NEWSPICKS)MAGAZIN)
> 今の大学は、役に立たない人間ばかり出している

それは、言い過ぎではありませんか。大学は、職業学校ではないのですから、職業人として役立たないこともありますね。

> どんな一流の卒業生であろうが、二流卒であろうが、三流大卒であろうが入社しても全然役に立たなかった。> 期待する人材が全く出てこない。

それは、そうでしょうね。期待する人材は、頭の中にある。現実は、頭の外にある。両者は所在が違うから、内容も同じにはならない。

> 今の大学は、社会にとって「役立たずの人間」ばかり出しているという強い怒りを持っていた。

‘木に縁りて魚を求む’ が如しですか。

>なので自分で大学を作った。

まず、‘隗より始めよ’ ですか。

> 今の大学は、偏差値とブランド主義に固まってしまった。

そうですね。わが国は、序列主義の国ですからね。世俗的な序列順位を基準にとって眺めるより他に仕方がないですね。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。’上とみるか・下と見るか’ の世俗的な上下判断なくしては、日常会話も満足には話せない状況にあります。
そのうえ、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、世俗的な上下判断なくしては礼儀正しい日本人になることもできません。人を見損なってはいけないという想いが強迫観念の域にまで達していて、肩の凝る生活を強いられています。

>幼いころから塾に通い、家庭教師を付けて「何はともあれ偏差値の高いところに行きたい」「ブランドがある、誰もが知っている大学に行きたい」そういう時代はすでに終わり、実力社会になってきている。

そうですね。’塾・家庭教師・偏差値・大学’ は、単なる処世術に過ぎないですからね。人生の目的は、我々個人の哲学の中にある。各人に哲学が必要である。Everyone needs a philosophy.

> 多くの起業家は今の大学教育に大変失望している。

そうでしょうね。それは、大学が職業学校でないからでしょう。

>我々起業家は、世の中に必要なものを研究、開発し「売れるもの」しか作らない。 > 変なものを作っても、誰も買ってくれない。

そうですね。起業家は、大衆への迎合は欠かせませんね。

> 偏差値の高い大学、有名なブランド大学を出た人が社会でトップに立っているならば、大学教育には関与しなかった。> 偏差値と仕事ができるかどうかはまったく関係ない。

そうですね。偏差値とブランド大学は、日本人が人間序列を為の単なる道具立てに過ぎないものですからね。

> 偏差値、ブランド主義、クソくらえ > この大学は、ノーベル賞を受賞する大学ではない。

そうですか。ぜひ、無哲学・能天気にならない人間を卒業させてらいたいものですね。

> 「偏差値ランキング」で京都大学を抜くことは出来ないが、「世界の大学ランキング」では抜く可能性がある

国際的に評価される大学にしていただきたいですね。

>京都大学の総長には「大ボラもええとこやないか」と言われるが、じゃあ、46年前に自宅で3人で作った会社が、なぜ今世界一になっているんですかと。>それも中途半端な商材ではなく、世界の大企業と戦って、勝ってきた >今や、日本電産は日立やパナソニックより企業価値は上。 

それは、あなたの商才が抜群であったからですね。

>だから、明るい未来を見て欲しい。

それは、‘上とみるか・下と見るか’ の判断に基づく結果ですね。

>過去の暗い高校時代とかは全部、忘れろ。

序列社会においては、序列順位が心の明暗を分けますからね。非建設的な序列競争を廃止すべきですね。

> 明るい未来を見て、お互いに力を合わせて成功に自分の人生を導こうじゃないか、というふうに考えて欲しい。

そうですね。成功は、既成の序列判断によりもたらされるものではないですね。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。非現実 (考え) の内容は、時制のある文章内容により表現される。時制のある文章は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を表すことができる。初めのうちは、どの世界も白紙の状態にあるが、その白紙状態は誰にとっても気になるところである。そこで、各人はその内容を少しずつ埋めて行く。これが各人の世界感と呼ばれるものである。その内容は、何処までも展開が可能である。自己の世界観を基準にとって現実の内容を批判すれば、その人は批判精神を表したことになる。現実を改革する内容を提案したことになる。
英語には、時制があって、英米人には、世界観がある。世界観を基準にして批判精神を示す。かくして、現実改革の足掛かりを得る。日本語には、時制がなく、日本人には、世界観がない。そして、批判精神がないから、時流に流されている。空気に酔う。信頼されない。‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)
我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを十分に深く理解しなくてはならない。さすれば、日本語を話す時にも日本語特有の閉塞感を味わうことなく、自己の意思と世界観を示すことが可能になります。国際的に協力者を得て未来社会の建設に貢献することが可能になり、人類の進歩に大きく貢献できます。


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永守重信会長

2019-08-29 00:51:22 | 教育

>※※※以下、引用※※※
>「2030年までに京大抜く」京都先端科学大学の理事長 >  京都先端科学大学理事長で、日本電産の永守重信会長(74)が23日、京都市内であった全国高等学校PTA連合会の京都大会で講演をした。>同社を一代で世界最大手のモーターメーカーに育てた経験から「先生の授業ノートが30年前。そんな基礎知識をスマホ時代に教えてどうするのか」と教育の現状を批判。

学生自身に考えさせるのが教育ですね。

>世界大学ランキングで2025年までに「関関同立」を、30年に京大を抜くとも宣言した。

大学同士が切磋琢磨することは良いことですね。

>講演内容は次の通り。
>  今の日本の教育は間違っている。 >偏差値とブランド主義が日本の高等教育をひずませている。

そうですね。序列社会の弊害ですね。

>  企業はお客さんが買ってくれる商品を作り出して、売らないといけない。 >しかし今の大学は、英語は話せない、専門はできない、礼儀作法はできない。 >そんなのをどんどん出してくるんです。

企業に適した人間は、企業家が良く知っているはずですね。何も大学に適した人材を期待する事はないでしょう。

>  採用する側もブランドでとるしかない。

それは、盲目の判断になりますね。

>ところが今の一流大学の半分以下は普通の生徒。>昔なら受かっていないような子ですわ。>しかし今は、一流の予備校でテクニックを覚えて暗記をすれば受かる。>そんなのが半分ぐらいおるわけです。

受験テクニックは、一種の処世術 (現実) ですからね。何も学問 (非現実) と関係するわけではないでしょう。

>  京都先端科学大の理事長になって教育現場を詳しく見ました。>ああ、こういう教育をしているのかと。 >他の大学もたくさん見に行って授業も見せてもらった。>まあ、みんなよく似たものです。>後ろでスマートフォンを持って遊んでいる。>寝ている。>授業中に帽子をかぶっている。>何しにきとんねんと。

そうですね。受講態度は、見ればわかりますね。

>  しかし、もっと悪いのは先生。>生徒が寝ていても、帽子をかぶっていても、スマホで遊んでいても、私語をしとっても注意一つしない。

困ったものですね。礼儀正しい日本人は、何処へやら。

(略)
>某一流大学の授業なんて、何を言っているのかわからない。 >僕の専門分野を聞きに行っているのにですよ。 >僕がわからないのに学生にわかるはずがない。

永守理事長も、全知全能ではないのでしょう。

>先生のノートを見たら30年ぐらい前のノートを見てやっているんです。>  大学進学率が5%とか10%のときはそれでもよかった。 >しかし今はそうではない。>なのに教育は30年前50年前の教育をやっている。

学問は、商品開発とは同じにはならないでしょう。

>大学は基礎研究、基礎の知識を教えるんだと言う。

そうですね。大学は、基礎研究ですね。商品開発 (応用研究) ではないですね。

>でもそんなのはスマホで調べたら全部わかります。>そんなことを教えて、社会に出してどうするんですか。

スマホでわかることを、わざわざ大学で研究することもないでしょう。そんなことが、成り立つはずもない。教授は、即刻廃業ですね。

>  教育は教えるだけではなくて、人間を育てるということなんです。

そうですね。’考える人’ を育てることですね。

>  しかし、これでは受け入れ側の企業は一から全部教えないといけない。

企業に必要なことは、企業が教えると良いでしょう。

>京大や東大を出たといっても英語を話せない。

英語が話せないのは、困ったものですね。対話・議論が出来ないのでは、知識人としては成り立ちませんね。

>経済学部を出ても、決算を組めるのかといったらできない。>専門用語もわからない。>名刺の出し方もわからない。

細かいことはともかくとして、各人が大学で個性を伸ばすことが必要ですね。

>  京都先端科学大は、2025年までには関関同立を抜く。>これはおそらく前倒しです。>そして2030年に京大を抜く。>偏差値ランキングではなくて、世界大学ランキングで抜きます。

そうですね。世界大学ランキングが大切ですね。

>そう言うと笑われますけどね。>いいんです。>笑ってもらったほうが成功します。>1973年に従業員3人で自宅でつくった会社が、46年間で14万人の世界ナンバーワンの会社になったんですから。

それは、大成功ですね。

>  偏差値とブランド主義を打破する。

そうですね。完全打破ですね。偏差値とブランド主義は、序列思考の成れの果てですね。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断ができなければ、日本語の日常会話にも差し支える状態になっている。また、日本人の礼儀作法は、序列作法になっている。だから、世俗的上下判断ができなければ、礼儀正しい日本人にもなれない。序列なきところに、礼儀なし。外国に出かけたら、そういう状態になる。
‘人を見損なってはいけない’ という想いが強迫観念の域に達していて、日本人は気疲れのする生活を送っている。だから、序列の存在を確認すると、一途に価値のあるものと思い込む。そして、ものの真価を考える習慣を失っている。これが、日本人の陋習である。巧言令色鮮し仁 (こうげん れいしょく すくなしじん: 巧みな言葉を用い、表情をとりつくろって人の気にいられようとする者には、仁の心が欠けている。: 論語 学而)

>大学の目標もはっきりしている。>偏差値をあげて上にあがるんじゃないですよ。

そうですね。序列思考の次元の問題ではないですね。

>本当に役に立つ人たちをつくりあげるということです。

そうですね。個性を伸ばすことが大切ですね。

>※※※引用、以上※※※


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大学教育 1/2

2019-08-16 20:07:29 | 教育
   
>秋田稔行 ( 38 会社員 ) 17/11/11 PM00 【印刷用へ】
>内田樹 ~大学教育は生き延びられるのか?(リンク)より引用
> __________________________________
>そんなことをしているんですから、日本の大学に未来がないのは当然なんです。

日本人には、ただ眼前の内容だけがある。過去 (幻) の内容も無ければ、未来 (夢) の内容もない。
日本人には、ただ現実の内容だけがある。夢も幻も非現実の内容であるから、日本人には存在しない。だから、日本人は、’話にうつつ (現) を抜かしてはいけない’ と教えられています。

>多様なできごとが無秩序に生起している場所でのみ、それらのうちで最も「生き延びる」確率の高いものが際立ってくる。
                                                                                それは、適者生存 (the survival of the fittest) ですね。

>「ランダムさのないところに新たなものは生じない」(Without the random, there can be no new thing)。>これは『精神と自然』の中のグレゴリー・ベイトソンの言葉です。

非現実 (考え) の内容も、人により様々ですからね。考えの正解は、一つではない。幾らでもある。

>日本の大学教育はまさにその逆の方向に向かって進んでいる。>でも、すべてが規格化され、単一の「ものさし」で比較考量され、格付けされるところからは、いかなる新しいものも生まれません。

そうですね。日本人には、非現実 (考え) の内容が想定外になっていますからね。こうした現実が全ての人間の活動を逆の方向に向かわせる原動力になっています。
意思は、未来時制の文章内容です。日本語文法には、時制 (tense) というものがありません。ですから、日本語の脳裏には、未来時制は存在しません。それで、日本人には、意思がありません。優柔不断・意志薄弱に見えます。無為無策でいる人を活発化するために、作法というものを教えます。個々の自己判断は必要なく、ただ決められたとおりに行動することにより、万事滞りなく儀式は終了いたします。これは、日常お馴染みの ‘思考停止と暗記物’ の勉強のようなものになります。

> 教育の目的というのは、一言にして尽くせば、どうやって若い同胞たちの成熟を支援するか、それだけです。

そうですね。無哲学・能天気のままでは、精神的に成熟した人間とは考えられませんね。
現実の内容は、頭の外に存在する。それは、見ることができる。見ればわかる。考える必要はない。答えは一つである。楽ちんである。日本人には、現実の内容しかない。大学生は、退屈男・退屈女となる。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)

>格付けとは何の関係もない。

そうですね。世俗の格付けは、害毒の根源でしかありません。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的判断が適切でないと、日本語の日常会話も満足に話せなくなります。そのうえ、日本人の礼儀作法も序列作法になっているので、世俗的な上下判断が適切でないと、礼儀正しい日本人にもなれません。人を見損なってはいけないという想いが強迫観念の域にまで達していて、日本人は始終緊張しています。ですから、我々は、人間の格付けに関する事柄は片時も忘れることができません。

>精密な格付けをすれば、若い人たちがどんどん知性的・感性的に成熟するというエビデンスがあるというのなら、大学からイノベーティヴな発見が次々世界に向けて発信されているというエビデンスがあるというのなら、格付けしたって結構です。>でも、そんなエビデンスはどこにもありません。

そうですね。エビデンスより大切なものが、我々の心には焼き付いています。

>あるのは、大学が評価や査定や格付けにかまけてきた間に日本の大学の学術的発信力は先進国最低レベルに低下したという冷厳な事実だけです。

そうですね。冷厳な事実も何のその。’心ここにあらざれば、視れども見えず、、、’ ですね。 (大学第三章)


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道徳

2019-05-22 13:48:33 | 教育

> 学校の授業で道徳という時間がありますが、いじめ対策や児童生徒の非行の防止において効果など期待できるはずがありません。>いじめや校内暴力などを発生させない事前防止が授業の目的なのでしょうが、そんなことが不可能なのは毎年のいじめの認知件数などを見れば明らかです。> 全ては政府の自己満足であり、単なる偽善行為に過ぎません。

それは、残念なことですね。

> 授業内容で道徳を教えればいじめなどは無くなるというのは、現場の当事者の苦しみを理解していないから出てくる上から目線の発想なのです。> 問題の根源を勘違いしている政府

勘違いがあれば、それは正さないといけませんね。現在の状態は、正しい策が見つからない時の窮余の策でしょうね。

>いじめ自殺などが度々問題になったことで児童生徒らの「道徳教育」の必要性が高まりましたが、授業での道徳教育などたかが知れているのです。> 善良な市民を育てるための授業という名目ですが、それならば道徳教育の目的とは一体なんでしょうか?

正解が明らかにされると良いですね。

>・・・恐らく子供達の心を学校のカリキュラムによって変化させて、全員を道徳心に満ちた天使のような人間にすることでしょう。
(略)
> 人間というのは公式通りに動く生き物ではありません。

無いない尽くしですね。

>善良な家庭で育ち、倫理観の高い子供であっても様々な要因が重なり何かの拍子に犯罪に走ってしまうこともあります。> 人間には自由意志があり、けっして方程式などのように決まったことだけに従う機械ではありません。> 道徳の授業を学校で増やしたから、子供はみんな善人になるのでしょうか? >・・・なるわけがありません。>学校に通っている児童生徒らを単なる機械の部品とみなしているからこその傲慢な姿勢だと言えます。> 道徳や修身などが存在したところで、他者を尊重しようとする意思の無い人間の心を入れ替えることなど誰にもできないのです。

いよいよ ‘無いない尽くし’ ですね。
日本人には、自分自身の考えというものがない。だから、考えは人それぞれであるという考えも存在しない。為政者は、空白になっている考えの部分を万人共通の内容で埋め合わせようと考えている。その努力が道徳や修身の詰め込み教育になっているのでしょう。道徳・修身をことさら話さなくても、罪の無い社会になれば、人々は幸福な生活を送ることができます。

> 子供に限らず、大人と呼ばれる学校の教師によるいじめなども珍しくもなんともないのが学校という場所です。> 道徳などの教育を受けて教師と呼ばれる指導者になった人間が、肉体的・精神的ないやがらせを行うという実態を私自身も経験上よく知っています。> 結局のところは「授業で道徳を教えたからとりあえず大丈夫だろう」などという政府の自己満足でしかありません。

そうですね。政府の努力の方向に間違いがあるのでしょうね。

> 学校という閉鎖的な空間に大量の人間を無作為に押し込めているという状態こそが、様々な問題を引き起こしているという現実に気付いてください。

そうですね。現実に気づいて、それにどう対処するかの問題ですね。
閉鎖的な空間と牢名主の出現のようなものですかね。我々の歴史の中には、そうした成り行きもあるでしょうね。
しかし、我々日本人の場合は、この社会問題が日本語という言語に深く関係していると私は思いますね。
日本人には、意思がない。そして、序列意識がある。
意思のある人は、加害者意識を持つ。加害者意識は、罪の意識になるほど成長することもある。だから、社会的に罪にストップがかかる。陪審員は、罪の有無を問われる。意思がなければ、罪悪感もない。それで、日本人には罪の意識がない。仏教・神道では、罪のない世界を求めていない。反省も、’過ちは繰り返しはせぬから’ という歌詠みの程度になる。これでは、犯罪にストップがかからない。無意志の人には、罪を抑制する内面の力がない。だから、道徳の徳目を教えて、外面から抑えることになる。これが、政府の方針でもある。
その上に、日本人は序列争いに執念を燃やす。’お山の大将、俺一人’ になりたいのである。序列社会における出世欲は必然である。社会的に序列はハッキリとしていても、意思がないから責任感は存在しない。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。これが、根本の問題でしょうね。


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