>352037 勉強しても報われない。日本の若者の大学院進学率が低下した理由
>津田大照 ( 42 現場監理 ) 19/12/19 AM10
>このまま行けば、日本の国際競争力低下に歯止めをかけることはますます困難になるかもしれません。
そうでしょうね。わが国は、伝統的な低学歴の国ですからね。
>東大教授らの調査により、日本の修士・博士号取得者数が減少していることが明らかになりました。
無哲学・能天気の国であるから、修士・博士号の魅力はありませんね。
>なぜ我が国では、世界的な流れに逆行するこのような状況が進みつつあるのでしょうか。
わが国の人は、思考停止を続けているからでしょう。
>健康社会学者の河合薫さんは今回、メルマガ『デキる男は尻がイイ-河合薫の『社会の窓』』で、その原因を世界の常識とは乖離した日本企業が続ける「超ガラパゴス採用」にあるとしています。
我が国では人手不足は叫ばれても、頭脳不足に陥ったことはありません。
>〇「低学歴化」が止まらまい日本の闇
> 日本の「低学歴化」が止まりません。
そうでしょうね。日本人は無哲学・能天気ですからね。事あるごとに ‘わが国は学歴社会である’ 事が強調されてきています。
> 世界の先進国では過去10年間「修士・博士号」の取得者数が加速しているのに、日本は1割以上減少していることがわかりました(東京大学渡辺安虎教授らの分析による)。
まさに逆コースですね。
> 特に米国と中国では博士号取得者が2割超増加し、修士号でも同様の傾向があるなど、進学意欲が高まっています。
>一方、日本では16%も減少。
外国では、高等教育機関で学ぶ内容がある。だが、日本にはそれがない。高等教育で学ぶことは、自己の哲学を組み立てることです。
>東大の修士課程では留学生が半数以上を占めるなど、日本人の「大学院進学意欲」が乏しいこともわかりました。>「大学進学率」は一貫して増えているにも、関わらずです。
高度な学問は資力・知力共に無哲学・能天気な国民には無理なのでしょうね。
> その背景にあるのが、企業が求める「人材の質の違い」です。
そうですね。日本の企業の求める質は知的な内容ではないですね。
>世界は専門性を活かした高学歴社会に突入し、博士号や修士号を持っていないと入社できない企業が増えています。
それは当然のことですね。知的能力は宝ですから。
>ところが、日本では専門性よりコミュニケーション能力。
日本語にはコミュニケーション能力に関する深刻な欠陥がありますからね。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
>大学の成績より人柄を重視。
日本人には哲学がない。だから哲学に関する成績は重視されませんね。高等教育はないのも同然になっています。
非現実 (考え) の内容は哲学になる。考えの内容は、時制のある文章になる。時制のある文章は、各々独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を示している。非現実の世界は、初めは白紙の状態である。年を取るごとにその白紙状態が誰にも気になって、自分自身でその空白を埋めていくようになる。これが、個人の世界観というものである。その内容は、何処までも展開が可能である。
歴史に関する考えは歴史哲学になる。政治に関するものは政治哲学、宗教に関するものは宗教哲学になる。科学は科学哲学、人生は人生哲学などなど。哲学は西洋人の学問である。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
矛盾を含まない全ての文章は、正しい考えを示している。考えの内容は人様々であるから、正解は一つではない。幾らでもある。
矛盾を含む文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。そのためには、対話・議論が役に立つ。だから、対話・議論を盛んにすると良い考えが沢山出来る。
>おまけに、入社後の給料の差が極めて小さいのです。> 例えば米国では、修士の平均年収は学部卒の1.4倍、博士では1.68倍であるの対し、日本では修士・博士共に学部卒の1.25倍です。>学部卒の平均年収は418万円なので、博士号を取得していても525万円しか稼げないかっこうです(日経新聞「博士」生かせぬ日本企業より)。
わが国は、博士冷遇の国ですね。知的な内容には価値を認めない国柄を反映しているのでしょうね。
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