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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

利益還元

2016-01-31 01:08:32 | ローマ字表記
>経済協力開発機構(OECD)は加盟国の教育状況の調査結果「図表でみる教育2013年版」を発表した。2010年の日本の国内総生産(GDP)に占める教育機関への公的支出の割合は前年と同じ3.6%で、加盟国で比較可能な30カ国中最下位だった。最下位は4年連続。日本では高等教育機関の授業料が高いにもかかわらず、奨学金を受けている学生が少ないことも指摘しており、OECDは「高等教育を受ける人が増えれば社会への利益還元も大きい。公的な経済支援を充実させていくことが重要」としている。(引用終り)

すべての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
現実に関する内容は、日本語の文章になる。非現実に関する内容は、ならない。
非現実の内容が文章にならないのは、日本語に時制 (tense) がないからである。英語ならなる。
我々仏教徒に親しみのある前世・現世・来世の言葉も、ヒンズー語の時制による考え方に由来している。インド人は、これら非現実の三世界の内容を、頭の中で独立に限りなく展開できる。(余談)
文章ができれば意味もある。意味が通らなければ矛盾も指摘できる。かくして正しい考えが得られる。
現実であれ、非現実であれ、矛盾のない文章は正しい考えを示している。
非現実の内容を現実に変えれば、創造したことになる。現実の内容を現実に再現すれば、模倣したことになる。
現実に関する学問は実学 (技術) になる。非現実に関する学問は哲学になる。
実学は中等教育で行われ、哲学は高等教育で行われる。
日本人には実学があって、哲学が無い。日本は技術立国となり、英米は哲学博士 (Doctor of Philosophy: Ph. D.) の生産国になった。
日本は海外からの技術研修生に人気がある。一方、英米の大学は世界中からエリート学生を集めている。エリートには教養教育が必要である。政治家たちの国際会議は、英米の大学の同窓会のようなものになるであろう。我が国に、その同窓生は存在するか。
我が国の高等教育は、十分に役立っていない。中等教育の技術力で成り立っている。だから、我が国の教育機関への公的支出の割合も最下位になっている。高等教育が本来の機能を発揮すれば、大同よりも小異をこととする我が国民の政治音痴も解消する。

無哲学・能天気を排して ‘あるべき姿’ を考える。’あるべき姿’ の内容は非現実である。小異は現実、大同は非現実である。小異を捨てて、大同につく。だから、大同の内容を提唱する個人が必要である。他人の考えをまとめて落としどころを見つけるのではなく、自己の意見で他者を集約できる冴えた人物が必要である。大同団結して大きな力を発揮する。さすれば、未来社会の建設も加速する。大同もなく離合集散を繰り返す近視眼の国会議員も国会から消えてなくなる。
高等教育機関で哲学を可能にするためには、英語を知らなければならない。だから我々は、日本語とともに英語の学習にも力を入れなくてはならない。



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太平の眠り

2016-01-28 10:18:48 | 沈黙 

20年間、大学教授をして教授会に出ていたが、普段は真剣な話は何もなかった。伝統保存会のようなものである。この世界に新しい秩序を求める発想法が無い。ただ、予算の分捕りの時にだけ、教授たちは雄弁になり緊張した。あるべき姿の話には、乗ってこなかった。ただ、ニコニコしてやり過ごすばかりで、居眠りをしている者もいる。この社会では、金は手段ではなく、目的そのものの様であった。金を取って来るのが、この世の実力者ということで、それができれば満足する。未来に賭ける希望がない。だから、退屈なのである。

やってみなければわからない。成ってみなければわからないことばかり。洞察力は働かない。事が起こってからでないと、判断できない。そうなって、初めて真実の歌を詠む。未来と過去の内容は、現実離れがしていて、信じることが難しく、想定外になるばかりである。日本語には時制が無いので、非現実の内容は文章にならない。非現実に関する発言には、意味もなければ矛盾もない。頭の中では考えにならないので、ただの妄想となる。
時制のない日本語では、次の世界への移行は想定外となっている。お変わりのないのが天下泰平の証で、この上なく喜ばしいことである。だが、目の前の世界だけでは、新世界は開けてこない。希望はないが閉塞感がある。

結局、我々は敵の言葉ではなく、友人の沈黙を覚えているものなのだ。沈黙 (silent)、微笑 (smile)、居眠り (sleep) の3Sではどうにもならない。
時制のある英語を使うと、移行すべき次の世界の内容を考える必要に迫られる。眞のリーダーとは、合意を探すものではなく、合意の形成者となるものでなくてはならない。その為には哲学が必要である。
平和国家を目指す我が国には、国際的合意をまとめ上げる可能性のある個人を育成することが必要である。

戦後の日本は自由な国になった。
自由とは、意思の自由のことである。
ところが、日本人には意思がない。日本人の社会は意思を認める事のない社会である。意思ある社会の習慣をそのまま猿まねすることは難しい。

意思は未来時制の文章内容で、日本語には時制が無く、日本人には意思がない。
意思が無ければ、折角の自由も享受できない。自由がなければ、不自由のままである。自由は絵に描いた餅で、日本人は優柔不断・意志薄弱に見える。どうかして、自分の意思を知らせる方法はないものか。その助けとなるものが、日本人のお得意の ‘以心伝心’ である。日本人は、構文を必要としないこのように便利で都合のよい方法は世界中どこにもないと思い込んでいる。はたして、それほど便利なものか。

意思の内容を言葉として表すことはない。相手に対して ’よきに計らえ’ である。考えの丸投げである。これにより、意思を言葉に表すことなく、こちらの思惑通りに自由が得られると良いのであるが。
相手の内容に、ただ黙って首を縦に振るだけでことが前に進む。それで、日本人は、提示された内容の吟味をもすることなく、まんまと相手にはめられる。
意思の内容を確かめる ‘おとり捜査’ は、日本人の大敵である。実に気味が悪く、恐ろしい。無意思の人間の意思の内容を詮索し、加害者意識 (罪の意識) のない人間の犯罪に捜査が及ぶ。

無心・純心な日本人に加害者意識の調査が行われる。あいまい・不正確の内容が時に加害者の命取りになることがある。この捜査は、親切・不親切が動機で行われるのではないのだ。以心伝心にも関係がない。人間としての必要な判断力が試されるのである。あるべき姿を主張できる人間が要求されている。この捜査に耐える判断力のある日本人が必要である。だから、我々日本人は、日本語と英語の両言語の習得に励まなくてはならない。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」



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さらなる開国

2016-01-06 22:41:17 | 教育
非現実の話を個人の考えとして理解できる人は、教養のある人である。
非現実の話を事実・現実の話として固く信じる人は、原理主義の人である。
非現実の話を ‘現実離れがしている’ として信じられないでいる人は、暗愚の人なのかもしれない。

内容が非現実であっても、矛盾を含まない話は、正しい考えである。
矛盾のある考えは、全て間違いであるが、矛盾のない考えは全て正しい。
だから、全ての人の考えが間違っていることもあるし、全ての人がそれぞれに正しいこともある。
正解を暗記するガリ勉ばかりしていると、創造力の競争に負ける。

非現実の内容を現実の内容に変換して実現させることができれば、それは創造である。
現実の内容を現実の内容として再現させると、それは模倣をしたことになる。
特亜三国人は、創造力に乏しく、模倣力に秀でている。かくして、北東アジアにパクリ文化圏を形成している。
特亜三国は漢字文化圏である。漢字は、漢人の考えを伝達するために開発された。だから、非漢字圏の人々の考えを表してはいない。
新しい考えは、ガリ勉の国からは発信されない。新しい考えは漢字文化圏の外からやってくる。

非漢字圏の人たちとの日本語学習には、ローマ字の方が格段と役に立つ。ローマ字表記により、すぐに日本語を覚えられる。漢字表記は、むしろその障害になっている。非漢字圏の高等教育を受けた人でも、漢字に出会うと、途端に日本語学習がとん挫する。
技術は国際基準であっても、漢字の習得が足かせになって我が国の資格試験に合格できない。だから、我が国の基準を我が物となし、それを海外の基準とする外国人が増えない。漢字表記は孤立主義の砦を形成し、多文化共生の促進を妨げる。かような非鎖国障壁のために、国内に住む非漢字圏の人々に学習能力の育成を妨げ、生涯にわたる待遇の格差をもたらしているといえよう。外国人も頑張れば達成できるという希望ある社会の仕組みを、我が国は築ぎ上げなくてはならない。

言語の表記が不自由な人は、その社会の責任ある地位にはつけない。国際化時代の世の中にあって、我が国の漢字表記が在留外国人の能力育成を妨げ、経済格差を固定化させる原因になっている。人手不足の解消という、その場限りの対策として人間の教育が使われてはならない。貧困が貧困を呼ぶ負の連鎖が移民の子孫による社会不安を引き起こすことは、西洋の社会を見ればわかる。とはいえ、移民を拒否する国家にはなるべきでない。国際社会の責任ある一員と成るためには、未来の備えを充実させた聡明な国家にならなくてはならない。暴動を ‘文化的背景の違い’ などと、単純な言い訳で済ますわけにはいかない。

漢字を使用しても、北東アジアの不安定要因を取り除くことはこれからも容易でないようである。それは、小異をすてて、大同につくことが難しいからである。言語に時制が無く、脳裏に世界観が無いので、三国は大同の内容に強い期待を寄せることができない。無哲学・能天気の人々は、今後も小異によるいざこざを続けてゆくことであろう。
その間に非漢字圏の諸国との間でローマ字表記の日本語を使って意思疎通を盛んにすることが望ましい。
非漢字圏の諸国が日本に近づいてくるのを待つのではなく、我が国から積極的に諸国に打って出て確たる意思を示す時であると考える。優柔不断・意志薄弱であってはいけない。

IT時代を迎えて、カナ書き外来語がますます増えている。カナ書き英語では、国際郵便もあて先に届かない。文書作成機にローマ字入力を使う日本人も多い。ここで、カナ漢字変換をかけなければ、入力された日本語はそのままローマ字表記にとどまる。外来語をローマ字表記の日本文中で原語綴りにより示すことになれば、我が国民の英米文化にたいする親しみも増す。英語の辞書も引ける。世界地図の索引も引ける。だから、我々はさらに英語圏にも近づくことができる。



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