> つまり、インターネットが登場したことで、むしろ私たちは「孤立化・分散化」する恐れがある、ということです。
なれ合い・談合はやりにくくなりましたね。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
> 民主主義は、自分とは違う立場の人がいる、自分とは違う政治的態度の人がいる、ということを認識し、受け入れることで初めて成立します。
そうですね。各人に哲学は必要です。Everyone needs a philosophy. その内容は相手に尋ねてみなければ分からない。ですから、対話・議論が重要になります。
>もし、インターネットの登場によって、自分と同じような人だけでどんどん凝り固まって孤立化していくような社会が生まれることになれば、それは間違いなく民主主義の危機を招くことになります。
そうですね。なれ合いに対する危険の察知と予防対策が必要ですね。
> インターネットは民主主義を強固にすると能天気に考えている人が多いようですが、インターネットという新しいテクノロジーが、オールドタイプの行動様式と結び付けば、それはむしろ民主主義の根底を危うくするものです。
そういう事になりますね。
> 残念ながら、これはすでにアメリカ・ヨーロッパ・日本において顕著に進行している事態ですが、もしこのようなトレンドがこのまま進むことになれば、私たちはインターネット登場以前よりもはるかに「隔絶した世界」を生きることになります。
そうですね。我々は無哲学・能天気で肩を寄せ合って暮らす日本人の習慣からますます離れてゆきますね。
> しかし、現在の世界はますます価値観が多様化しており、また多くの人が生涯にさまざまな組織やコミュニティと関わって生きていかねばならなくなっています。
価値観の多様化に対応するためには我々日本人は語学の能力を延ばす必要がありますね。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、言語における時制の大切さを深く理解する必要があるのではないでしょうか。
我々日本人が時制の使い方を習得すれば、自分自身の世界観 (world view) を展開して公表も可能になります。さらに自己の意思 (will) の表明も可能になり、国際的な活動の当事者としての活躍も可能になります。
さまざまな組織やコミュニティと関わるためには語学の能力が欠かせません。
> このような時代にあって、自分と価値観のフィットする「わかりあえる者」たちだけでコミュニケーションをループさせ、その外側にいる人々を「わからない」と切り捨てることは、私たちの人生から豊かな「学びの契機」を奪い去ることになります。
そうですね。‘話せばわかる’ ということですね。’切り捨て御免’ は受け入れられませんね。
> 私たちには短兵急に「わかる」ことを求めるのではなく、逆に排他的に「わからない」と切り捨てるわけでもなく、じっくりと他者の声に耳を傾け、共感するというニュータイプの行動様式が求められています。
そうですね。安請け合いと切り捨ては不誠実そのものですね。我々は ‘考える人’ (the thinking man) にならなくてはならないのでしょうね。これはニュータイプの行動様式なのかな。
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